ハンナ・アーレント(Hannah Arendt/1906-1975年)とは、ドイツ出身のユダヤ人哲学者、思想家で、アメリカ亡命後にナチスドイツ・全体主義体制を研究して発表した複数の著作が世界的名著となった人物です。
『全体主義の起源』『人間の条件』『革命について』『エルサレムのアイヒマン』などが代表作で、そのどれもが大きな議論を巻き起こした名著です。
彼女の強靭で主体的な思想は、今でも学ぶ価値があります。哲学、思想、政治学に興味がある方はぜひ学んでいただきたいです。
この記事では、
- ハンナ・アーレントの人物、業績、思想の特徴
- 代表的著作の要点
について解説します。
関心のあるところから読んでみてください。
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1章:ハンナ・アーレントとは
アーレントはユダヤ人としてのバックグラウンドから、ナチス・全体主義の研究を主に行いました。
ただし、アーレントは単にナチスを批判するにとどまらず、その背景にある哲学的伝統の問題や、ホロコーストにいたるナチスに協力したユダヤ人の存在も指摘しています。被害者(ユダヤ)と加害者(ナチス)を二項対立的に論じたり、一方的にナチスに問題のすべての要因をぶつけるようなことはしなかったのです。
1章では、まずはアーレントがどのような人物であったのか、という伝記的情報と業績、一貫している思想の特徴について説明します。
代表的な著作の詳しい紹介は2章で行います。
このサイトでは複数の文献を参照して、記事を執筆しています。参照・引用箇所は注1ここに参照情報を入れますを入れていますので、クリックして参考にしてください。
1-1:アーレントの伝記的情報
ハンナ・アーレントはドイツ系ユダヤ人として、ハノーファー(北ドイツの主要都市)の郊外に、電気工事の会社員の父パウルと母マルタの間に生まれます。アーレントは、子供のころから古典に造詣が深い父と教育熱心な母から教育を受け、早熟だったようです。
1-1-1:哲学者との出会いと学び
1924年、18歳のときにドイツ・マールブルクにあるマールブルク大学に進学し哲学を本格的に学びました。哲学に没頭したのは、20世紀を代表する哲学者であるマルティン・ハイデガー(Martin Heidegger/1889-1976年)と出会ったからです2伝記的情報について、森分大輔『ハンナ・アーレント』(ちくま新書)を主に参照しています。。
さらにその後、一時期エトムント・フッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl/1859-1938年)のもとでも哲学を学び、その後ハイデルベルク大学ではカール・ヤスパース(Karl Theodor Jaspers/1883-1969年)のもとでも学びました。
フッサールもヤスパースも19世紀、20世紀の現象学の代表的哲学者です。哲学者として超エリート教育を受けたと言えるでしょう。
当然のことですが、アーレントはまったくのゼロから自らの哲学を構築したのではなく、彼ら現象学の哲学者から強く影響を受け、その上で研究したのです。
1-1-2:ナチズム勃興後
1933年1月、ヒトラーがドイツ国首相に任命され、憲法を停止し、敵対勢力を粛正し、独裁体制を築きました。そしてドイツ国内ではユダヤ人が迫害されるようになります。
アーレントは迫害が強まる中で亡命者の援助等を行い、身の危険が生じたことから自身もフランスに亡命しました(1933年)。1940年には活動家ハインリッヒ・フルッヒャーと結婚しています。
1940年にはフランスがドイツに降伏したため、アーレントは1941年にアメリカへ亡命します。その後アメリカで研究者として大学等に勤務し、第二次世界大戦後に全体主義を分析した著作を発表していきました。
1-1-3:アーレントの代表的著作
アーレントが発表した代表的な著作は以下の通りです。
- 1929年『アウグスティヌスの愛の概念』博士論文
- 1951年『全体主義の起源』
- 1957年『ラーエル・ファルンハーゲン』執筆は1938年
- 1958年『人間の条件』
- 1963年『革命について』
- 1963年『エルサレムのアイヒマン』
特に『全体主義の起源』『人間の条件』『エルサレムのアイヒマン』は全体主義研究と関連して非常に有名な著作ですので、2章で詳しく解説します。
1-2:アーレントの思想の特徴
さて、アーレントは多数の論文や著作を発表してきましたので、幅広いことを論じていますが、一貫する思想の特徴があります。
それは、周囲の環境や批判、伝統などに流されず、毅然として自分の哲学を主張する強い姿勢です。論者によっては、アーレントのこの思考のことを「手すりなき思考」と言うことがあります。
何かに依存することなく哲学するということです。
また、彼女の哲学の特徴の一つに「経験」の重視もあります。
後に詳しく説明するように、彼女は伝統的な哲学の観念を重視する姿勢が、全体主義のようなイデオロギーが社会を支配する前提を作ったのだと考えました。
そこで、伝統的な哲学から離れ、自らの現実感覚・経験から世の中を把握することをとても重視したのです。
これからアーレントの代表的著作から彼女の哲学を解説しますので、まずはここまでを整理します。
- アーレントナチスドイツを逃れ、アメリカに亡命し全体主義の研究を行った
- アーレントの哲学の特徴は、経験の重視、伝統や周囲の環境に流されない強い姿勢
2章:アーレントの代表的著作
それではこれから、アーレントの代表的な著作の中から彼女が主張しようとしたことを解説します。この記事では、『全体主義の起源』『人間の条件』『エルサレムのアイヒマン』の3冊を取り上げます。
2-1:『全体主義の起源』
アーレントの代表作の一つが、1951年に発表された『全体主義の起源』です3下記の記述は、アーレント『全体主義の起源(新版)』(みすず書房)を参考にしています。。
『全体主義の起源』はドイツ時代から開始したナチス全体主義の調査、研究の集大成であり、3部作の大著です。
ナチスドイツは、150万人とも600万人ともいわれるユダヤ人を大虐殺(ホロコースト)しましたが、なぜそれほどの過激なことを行うことができたのか、それを解明しようとしたのがこの本です。
先に説明すると、
全体主義とは、個人の利益より全体の利益を優先し、個人が全体のために従属しなければならないとする思想のことです。
全体主義は、現代社会で一般的な民主主義とは大きく異なり、強い権力が国家を支配し全体(国家)のために国民が動員される体制です。
アーレントによると、ナチス・全体主義は以下の要素から生まれたものです。
- アトム化
- 反ユダヤ主義
- 帝国主義
要点を説明します。
2-1-1:アトム化
アーレントは、全体主義がはびこる社会を作ったのが「アトム化」という現象であることを指摘しています。
アトム化とは、近代化の進展によって所属するコミュニティ・属性を失った人々(大衆)が生まれ、社会の中で原子のようにバラバラな存在になってしまったことを言います。
アトム化が進んだ社会では、社会不安(不況など)が増大すると、よりどころを持たない個々人は強い権力を求めます。
実際、第一次世界大戦後のドイツでは、「国土の明け渡し」「多額の賠償金」「世界恐慌によってあふれかえる失業者」などの多くの問題を抱えていました。そんな不安な状況で、世界を一貫した物語で説明し、明快なイデオロギーを持ったナチスが登場したのです。
結論を先取りすれば、ナチスが提示したのは「ユダヤ人が世界経済を支配しているため、ユダヤ人を絶滅させることが、ドイツの状況を打ち破る唯一の方法なのだ」という陰謀論です。
2-1-2:反ユダヤ主義
こうした陰謀論が生まれたのは、ドイツが国民国家を形成する過程で、「反ユダヤ主義」という思想を利用したからです。
反ユダヤ主義とは、ユダヤ人を異分子として排除して排斥しようとする思想のことです。
ドイツは歴史的に、モザイク的な領邦国家であり統一意識があまりありませんでした。しかし、ドイツも近代国家を作らなければ他国に支配されてしまうため、国民国家として統一する必要がありました。
そこで、「私たち○○人」という強い「われわれ意識」を作る必要があり、そのために国内に多数存在し、しかもドイツ人ではないユダヤ人を異分子として認識するようになったのです。
つまりは、「私たちは○○人」「あいつらは○○人じゃない」とユダヤ人を差別することで、ドイツ人としての結束力を高めようとしたわけです。
2-1-3:帝国主義
さらに、ドイツでは20世紀、帝国主義が強まります。
帝国主義とは、富を求めて他国を侵略し、植民地化していく思想のことです。
帝国主義が生まれると他国の侵略を正当化するために、「ドイツが人種的に優れており、他国は人種的に劣っている」という優生思想が生まれました。
この人種主義や優生思想が、侵略した先にいるユダヤ人に向いて、「人種的に劣っているユダヤ人を支配しよう」「ユダヤ人を追い出そう」という思想に繋がったのです。
このように、アトム化し不安定になった社会で、反ユダヤ主義、帝国主義が蔓延した結果、全体主義がはびこりユダヤ人の大虐殺に繋がったのだ、というのが『全体主義の起源』におけるアーレントの主張です。
イデオロギーの面から全体主義、ナチス、ホロコーストについて説明したのが特徴です。
本の中ではもっと詳しく深い議論がなされていますので、ぜひ実際に『全体主義の起源』を読んで理解してください。
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また、以下の記事では全体主義についてより詳しく解説しています。
2-2:『人間の条件』
さて、『全体主義の起源』でアーレントは全体主義が登場し、悲劇を生んだ原因を分析しています4下記の記述は、アーレント『人間の条件』(ちくま文庫)を参考にしています。。
そして、全体主義は20世紀初頭に例外的に起こった現象ではなく、これからの時代にも登場する恐れがあるものだと主張しました。
では、私たちは悲劇を繰り返さないために、どうしたら良いのでしょうか?
こうしたより実践的な問いに対して答えようとしたのが、1958年に出版された『人間の条件』です。
『人間の条件』の結論を言えば、
- 観念的な実践を重視し、現実的・日常的な実践を軽視する哲学の伝統が、人々がイデオロギーに流されて自分の頭で考えなくなる状況を作り出した
- よって、現実の生活の中で多様な個性の人々と出会い、自分の人格をむき出しにするような「活動」という実践を、積極的に行っていくことが大事
ということになります。これから説明します。
2-2-1:哲学の伝統:世界疎外
まず、アーレントが『人間の条件』で指摘したのは、全体主義がはびこる隙を作ってしまった哲学の伝統です。
アーレント曰く、プラトン以来の哲学の伝統の中では、「観照的生活」を「活動的生活」よりも重視してきました。
- 観照的生活…抽象的世界での実践を重視する生活
- 活動的生活…現実世界での日常的な活動を主とする生活
観照的生活、つまり観念的なものを重視する生活というのは、現実の生活で感じる実感や自らの経験よりも、頭の中で思い描いた観念、論理を重視するということです。
そうしたことを習慣化してきた人間は、他人を支配するために作られた全体主義という観念的なストーリーに感化されてしまう、自ら考えることを放棄してしまうとアーレントは指摘しています。
こうした、観念の世界に閉じこもることをアーレントは「世界疎外」とも言っています。
2-2-2:労働・仕事・活動
アーレントは、「活動的実践」には「労働」「仕事」「活動」の3つがあると分類しました。
- 労働…生存のための消費財の調達や生産行為のこと
- 仕事…何らかの目的を達成するために行われる行為のこと
- 活動…人間の自発性に基づく他者との関係性を築く行為
この中でアーレントが重視したのは「活動」です。
まず、「活動」を重視してこなかった過去の哲学者、思想家の態度をアーレントは批判します。
たとえば、ジョン・ロックは「労働」から人間の社会を説明しようとしました(労働価値説)。
しかし、アーレントによれば、
- 人間の生活には私的領域と公的領域があり、古代社会では奴隷や家人が労働をしたことで、労働から解放された家長が公的領域での実践を行うことができた
- ロックの労働価値説に基づけば、家長は私的領域から出ることができず、公的領域の実践ができない
- その結果、多様な他者と出会い公共的な討論を行う機会を失う
と批判しています。
このように、アーレントは公的領域において、人々が多様な個性をむき出しにして関係性を作る実践を重視しました。
そのような社会に多様な価値観を持つ人々が存在し(複数性)、単一の価値観で社会を統一しようとせず(全体主義の否定)、現実感に基づいた関係性を作ること。これがアーレントが考えた全体主義への対抗手段です。
具体的には、マルクス批判など他にもさまざまな論点がありますので、ぜひ読んでみてください。
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『人間の条件』について、以下の記事でも詳しく解説しています。
2-3:『エルサレムのアイヒマン』
ここまで紹介した『全体主義の起源』や『人間の条件』は哲学的な議論に重点が置かれていました。
それに対して『エルサレムのアイヒマン』(1963)は、裁判の傍聴記録として書かれたものであるため、事実に即していて哲学的な言及が少ないのが特徴です5下記の記述は、『エルサレムのアイヒマン(新版)』(みすず書房)を参考にしています。。
とはいえ、これは単なる傍聴記録にとどまるものではなく、アイヒマンの裁判を通じてホロコーストに至った経緯も詳しく論じられています。アーレントの著作の中でもっとも激しい論争を巻き起こしたものです。
2-3-1:アイヒマンについて
アドルフ・アイヒマンは、ホロコーストを指揮する立場におり1960年に捕まるまで逃亡していた人物です。1961年からイスラエルで裁判が行われ、アーレントはその裁判を傍聴しにいったのです。
結論から言えば、アイヒマンは大犯罪を犯すような巨悪的な人物ではなく、自身の出世という世俗的なことにしか興味がない官僚的な人物でした。
では、なぜそんな人物が数百万人もの虐殺を指揮できたのか?アーレントは下記のように説明します。
- アイヒマンの言動が常に同じことの繰り返しであり、話す能力、ひいては思考能力や思考しようとする意思自体が欠けている
- ユダヤ人をガス室に送っているという現実から目を背けたまま、命令に忠実に行動し続けた
- アイヒマンは上層部に従っただけであり、当時のドイツでは虐殺が合法であったのだから、アイヒマンはまったく罪悪感を感じていなかった
さらに、このような「世界疎外」に至ったのはアイヒマンだけではありません。
2-3-2:ドイツ国内の無関心
アーレントによると、ナチス支配下のドイツでは、多くの人々がユダヤ人の虐殺を知りながら現実から目を背け、保身に走り、上層部の命令に従うだけとなっていました。
さらに、ユダヤ人の中にも「ユダヤゲットー警察」「ユダヤ人評議会」らの自治的組織がナチスに協力的になっていました。彼ら自身がナチスへの抵抗よりも自己保身に走り、自分の身内や優れた人物を選別し、それ以外のユダヤ人を「移送」していたのです。
このようにホロコーストの関係者は、それぞれが自分で思考し抵抗することなく、上層部や社会の大きな流れに身を任せてしまい、それが虐殺を止められなかったとアーレントは指摘しています。
『エルサレムのアイヒマン』について詳しくは以下の記事で解説しています。
『エルサレムのアイヒマン』を発表後、アーレントは厳しく批判され多くの論争が行われました。しかし、ユダヤ人を一面的に擁護することなく、事実を追求しようとした姿勢が強く出ている名著ですので、ぜひ読んでみてください。
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3章:ハンナ・アーレントのおすすめ解説本・映画
アーレントの思想、哲学について理解を深められたでしょうか。
アーレントの議論は非常に多岐に渡り、またそれぞれが難解でさまざまな解釈があります。この記事で紹介したのはその中のほんの一部に過ぎませんので、実際に本を手に取って読んでみてください。
これから紹介するような解説本もありますので、入門書としてそれらを参考に読んでみるのも勉強になるはずです。
森分大輔『ハンナ・アーレント-屹立する思考の全貌-』(ちくま新書)
アーレントの思想の特徴や代表的著作について、分かりやすく解説された本です。このサイトでも『全体主義の起源』や『人間の条件』について解説していますが、この本ではそれ以外の著作についても紹介されています。
アーレントの入門書として初心者に向いています。
仲正昌樹『悪と全体主義-ハンナ・アーレントから考える』(NHK出版新書)
『全体主義の起源』を中心にアーレントの思想を詳しく論じている本です。著名な哲学者による解説ですので、とても分かりやすく勉強になります。
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映画「ハンナ・アーレント」
2013年に公開されたアーレントの映画です。アーレントの人物像や哲学した時代背景についてよく理解できると思います。もちろん映画としてもとてもいい映画です。ぜひ観てみてください。
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アーレントに関わる映画として、アイヒマンを追った「アイヒマンを追え!ナチスが最も畏れた男」があります。
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まとめ
この記事の内容をまとめます。
- アーレントは当時を代表する哲学者からの指導を受け、ナチス台頭後にアメリカに亡命し研究活動を行った
- アーレントは、ナチス・全体主義、ホロコーストを中心的なテーマとして論じたが、一方的な批判にとどまらず、全体主義が生まれた背景にある哲学の思考様式や、当時の社会を支配した無関心を指摘、批判した
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