アイデンティティ・ポリティクス(identity politics)とは、アイデンティティを土台にした集団が、その集団を構成する個人のアイデンティティに関して社会的承認を求める運動です1太田好信「政治的アイデンティティとは何か――パワーの視点からアイデンティティを分析する批判理論に向けて」『政治的アイデンティティの人類学』(昭和堂)。
たとえば、人種、エスニシティ、ジェンダーといった特定のアイデンティティのもとに集結した個人がアイデンティティの社会的承認を求める運動はアイデンティティ・ポリティクスといわれます。
とは言え、アイデンティティ・ポリティクスの定義だけでは、この政治運動への批判や今後の展開に関して説明が不足しています。
そこでこの記事では、
- アイデンティティ・ポリティクスの意味
- アイデンティティ・ポリティクスの問題
- アイデンティティ・ポリティクスの今後の展開
をそれぞれ解説してきます。
興味関心のある箇所からで構いませんので、ぜひ読んでみてください。
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1章:アイデンティティ・ポリティクスとはなにか?
1章では、太田好信「政治的アイデンティティとは何か――パワーの視点からアイデンティティを分析する批判理論に向けて」『政治的アイデンティティの人類学』を中心に、アイデンティティ・ポリティクスを概説します。
詳しい議論は、原著を参照ください。
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1-1: アイデンティティ・ポリティクスの意味
まず、冒頭の定義を繰り返しますが、アイデンティティ・ポリティクスとは、
アイデンティティを土台にした集団が、その集団を構成する個人のアイデンティティに関して社会的承認を求める運動
です。
人種、ジェンダー、エスニシティを土台とした政治的な運動をイメージしていただけると理解しやすいと思います。また特徴として特定のアイデンティティを土台とするため、アイデンティティ・ポリティクスは排他的と批判されます2沖縄人を土台にした運動は、沖縄人しか参加できないこと。
アイデンティティ・ポリティクスを説明する上で欠かせないのは、冷戦構造崩壊後の世界を語るキーワードがイデオロギー対立や階級闘争からエスニシティやアイデンティティへと変化しました。(→この点に関しては、フランス・フクヤマの『歴史の終わり』が詳しいです)
このように、世界を語るキーワードの変化に関しては、さまざまな意見があります。
- 否定派・・・これまでの国家秩序のなかで制度化されていた人間の原初的な特性がそれぞれ個別に主張し始めたカオス状態
- 肯定派・・・アイデンティティのほうが階級よりも、パワーをめぐる抗争に有効な土台を提供する
大まかに分けるとこのようになります。しかし世界を語るキーワードの変化をどう捉えようとも、1990年代以降のグローバル規模での政治変化はアイデンティティが政治化したこと、といえます。
では一体、なぜアイデンティティが台頭したのでしょうか?それは人種、エスニシティ、ジェンダーが人間の原初的特性だから集団化したのではなく、そうやって集団化するほうが社会に異議申し立てする上で有効である状況が多くなったからです。
1-1-1: アイデンティティとは?
そもそもの疑問から始めましょう。アイデンティティ(identity)とはなんでしょうか?アイデンティティとは、自己同一性です。つまり「自分は一体何者か?」という疑問への解答です。
多くの場合、アイデンティティは「生得的要因」と「社会的獲得要因」から対抗的に構成されます。私の例で考えてみましょう。「私とは一体何者なのか?」と疑問に対して、次のように解答することができます。
- 生得的要因・・・私は男性。それは女性という対抗的な存在を前提
- 社会的獲得要因・・・私は日本語話者で、東京都民(ここでも対抗的な存在を前提)
重要な点は、私たちが「自分は誰だか」を規定する要因は状況によって異なることです。あるアイデンティティが他のあるアイデンティティより意味をもつ状況があるということです。
1-1-2: ポリティクスとは?
そして、ポリティクス(政治)とは、次のことといえます。
- 統治・政府に関わること
- 国家による資源の配分に関わること
- 政治空間の編成に関わること
特に重要なのは政治がパワー(権力)に関わる現象であることです。政治とはパワー関係をめぐる抗争で、国会での議論ではないということです。
しかし、この定義はきわめて限定的です。たとえば、この定義には夫婦関係や雇用関係といったパワー関係が入らないからです。アイデンティティ・ポリティクスを語るとき、政治とは一旦限定的な範囲を指すと考えてください。
1-2: アイデンティティ・ポリティクスの事例
さて、実際のアイデンティティ・ポリティクスの事例をみていきましょう。
1-2-1: アメリカにおけるアイデンティティ・ポリティクスの事例
アメリカでは1960年代に多くの社会運動が起きました。その際、人びとの集団化の基礎となったのはアイデンティティでした。たとえば、1960年代以降の社会運動では、以下のよにアイデンティティが強調されました。
- 人種アイデンティティ・・・ブラック・パワー運動(黒人運動)やレッド・パワー運動(先住民運動)
- エスニックアイデンティティ・・・チカーノ運動(メキシコ系アメリカ人の運動)
アメリカにおける1960年代の社会運動は、アイデンティティ・ポリティクスの先駆けだったといえるでしょう。
1-2-2: 日本におけるアイデンティティ・ポリティクス
当然、日本にもアイデンティティ・ポリティクスはあります。
- ゲイやレズビアンといった性的マイノリティが社会承認を目指す運動
- 琉球やアイヌ民族といった民族的アイデンティティをもとにした運動
- 障がい者というアイデンティティを土台にした運動
このように、私たちが自分を規定するアイデンティティをもとに集団化した政治運動がアイデンティティ・ポリティクスです。
1-3: アイデンティティ・ポリティクスの問題
ところで、アイデンティティ・ポリティクスは多くの批判にさらされています。実際のところ「アイデンティティ・ポリティクス」という言葉は、ある政治運動を批判するためだけに使われます3「おまえは共産主義者だ!」と言われるのと変わらない。
「アイデンティティ・ポリティクス」が自称ではなく、他者を批判するために機能するのはなぜでしょうか?
1-3-1: アイデンティティ・ポリティクスに対する左右両派からの批判
それに関しては「左翼と右翼がアイデンティティをどう捉えてえているのか?」を注意して考えると、わかりやすいです。
- 左翼・・・階級という概念とは異なり、アイデンティティは連帯ではなく分断をうむ。つまり、民主化を進める上で障害になる
- 右翼・・・さまざまな集団がアイデンティティに拘るとき、(国民)国家は分断される
このように、左右両派はそれぞれ異なった理由で、アイデンティティ・ポリティクスを批判をしているとわかると思います。
つまり、アイデンティティを強調した政治運動は民主化や国家の障害になる、と考えられています。
1-3-2: アイデンティティ・ポリティクスに対する本質主義という批判
そして、アイデンティティ・ポリティクスはしばしば本質主義だという非難を受けます。
「アイデンティティ・ポリティクスが本質主義的である」とは、集団化がある特定のアイデンティティのもとにされるため、そのアイデンティティを共有しない人は排除されることを意味します。たしかに、ある特定のアイデンティティから自他を区別する集団は排他的といえるでしょう4黒人ではないと黒人の運動に参加できないということ。
そして、アイデンティティ・ポリティクスの本質主義的な側面は理論的に劣っていると考えられています。たとえば、ポスト構造主義的な考え方では、アイデンティティを次のように捉えています。
- 「流動性」や「異種混淆性」で構成される文化は明確な境界をもたず、常に構築され続ける
- その結果、アイデンティティは固定化されることなく、流動的である
このようにみると、政治的な左右両派から理論的な立場まで、アイデンティティ・ポリティクスは批判の対象となっていることがわかります。
- アイデンティティ・ポリティクスとは、アイデンティティを土台にした集団が、その集団を構成する個人のアイデンティティに関して社会的承認を求める運動
- アイデンティティ・ポリティクス誕生の背景は人種、エスニシティ、ジェンダーが人間の原初的特性だから集団化したのではなく、そうやって集団化するほうが社会に異議申し立て上で有効である状況が多くなったから
- 政治的な左右両派から理論的な立場まで、アイデンティティ・ポリティクスを批判の対象をする
2章:アイデンティティ・ポリティクスの今後の展開
アイデンティティ・ポリティクスに関する学術的な議論を紹介してきます。その点を理解するために、まずこの政治運動が批判される前提を解説します。その後、アイデンティティ・ポリティクスの展望を紹介します。
これから紹介する議論では「民主主義」や「ナショナリズム」に関する最低限の知識が必要です。それの概念に関しては次の記事を参照ください。
2-1: アイデンティティ・ポリティクスとリベラル民主制の前提
アイデンティティ・ポリティクスが批判される根底には、リベラル民主制の前提があります。
リベラル民主制の前提とは、
- 公共圏への参加条件は平等で抽象化された個人=「負荷なき自己」
- つまり、アイデンティティは私的領域に押し込むべきもの
といったものです。
たとえば、ロールズやハバーマスといった社会科学や政治哲学における学者は、「負荷なき自己」を想定して議論をします。公的領域と私的領域をわけることで議論を始めるのです。
言い換えると、文化は原初的アイデンティティであるため公共圏にはなじまない、と考えられています。
しかし、この議論はそうあるべきなのでしょうか?繰り返しますが、リベラル民主制では階級、エスニシティ、人種、ジェンダーなどの差異を私的領域に収めることで、公共圏への参加が認められます。
しかしながら、平等な存在として公共圏への参加が約束されるとき、次のような問題点が浮上します。
- 階級、エスニシティ、人種、ジェンダーなどの差異に起因する不利益やパワー関係について議論をおこなうことができなくなる
- するといつまで経っても、アイデンティティと政治の関係が議論できない
つまり、アイデンティティが公的領域で無視できない声を主張をするとき、ロールズやハバーマスといった社会科学や政治哲学の想定を越える必要があるのです。
政治哲学を知るために必要な議論は、次の記事から知ることができます。
2-2: アイデンティティ・ポリティクスの今後の展開
アイデンティティ・ポリティクスは国家を分断しかねない運動として、頻繁に批判の対象と解説しました。ではアイデンティティ・ポリティクスではない政治はなんでしょうか?アイデンティティ・ポリティクスではない運動は、労働階級運動としばしば言われます。
両者を比較してみましょう。
特徴/運動 | 労働階級運動 | アイデンティティ・ポリティクス |
集団化の理由 | 共通の経済的利益を達成するために集結する集団 | 個人のアイデンティティに関して社会的承認を求めるために集結する集団 |
運動の種類 | 階級 | 人種、エスニシティ、ジェンダー等々 |
このように比較すると、階級は経済的利益のために集団化するため、アイデンティティを越えた連帯がしやすいようにみえます。
しかし実際には経済的利益のために集団化した農民運動が、先住民運動に変化するという事例がいくつもあります。運動を理論的に区別していたら、説明不可能な事例です。
■ すべてはアイデンティティ・ポリティクス
発想を変えてみてください。歴史上にアイデンティティ・ポリティクスではなかった政治運動はあったのか?と5太田好信「政治的アイデンティティとは何か――パワーの視点からアイデンティティを分析する批判理論に向けて」『政治的アイデンティティの人類学』。
そのように考えると、アイデンティティ・ポリティクスには、以下のような運動が含まれます。
- 労働階級の形成はイギリスの無産階級の参政権を求める運動の結果
- 奴隷解放運動も黒人の市民権を求めた闘いの結果
- 公民権運動や女性参政権
このように、「アイデンティティ・ポリティクス」を批判の言葉ではなく、公正な社会をつくる社会運動として真面目に議論するべき必要があるのかもしれません。
- リベラル民主制の前提を批判的に再考する必要がある
- すべての政治運動は、アイデンティティ・ポリティクス
- 公正な社会をつくる社会運動としてアイデンティティ・ポリティクスを真面目に議論するべき
3章:アイデンティティ・ポリティクスの学習リスト
どうでしょう?アイデンティティ・ポリティクスとはなにか?を理解することはできましたか?ナショナリズムの勃興、国際紛争、民主主義の危機に直面する今日、アイデンティティ・ポリティクスは重要なキーワードです。
これから紹介する学習リストから、アイデンティティ・ポリティクスに関する理解をぜひ深めてください。
太田好信(編)『政治的アイデンティティの人類学』 (昭和堂)
アイデンティティと政治の関係を議論した書物。この記事の多くは、この本を参照しています。アイデンティティ・ポリティクスを真面目に学びたい方にオススメ。
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ジェイムズ・クリフォード “Taking Identity Politics Seriously: the Contradictory, Stony Ground…” (2000), in Without Guarantees: Essays in Honour of Stuart Hall, eds. Paul Gilroy, Lawrence Grossberg, and Angela McRobbie. London: Verso Press, 94-112.
ジェイムズ・クリフォードはアイデンティティ・ポリティクスを支持する数少ない学者の一人です。
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まとめ
いかがでしたか?この記事の内容をまとめます。
- アイデンティティ・ポリティクスとは、アイデンティティを土台にした集団が、その集団を構成する個人のアイデンティティに関して社会的承認を求める運動
- リベラル民主制の前提を批判的に再考する必要がある
- 公正な社会をつくる社会運動としてアイデンティティ・ポリティクスを真面目に議論するべき
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