オーストラリアが多文化主義へと大きく舵をとる以前、白豪主義は支配的な思想であり政策でした。日系人も排除されていたことを考えると、日本社会と無関係の出来事ではありません。
そこで、この記事では、
- 白豪主義の意味
- 白豪主義の政策とその内容
- 白豪主義と多文化主義の関係
をそれぞれ解説します。
関心のある箇所から読み進めてください。
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1章:白豪主義とは
まず、1章では白豪主義を「意味」「歴史」「政策」から概観します。多文化主義への移行に関心のある方は、2章から読み進めてください。
このサイトでは複数の文献を参照して、記事を執筆しています。参照・引用箇所は注1ここに参照情報を入れますを入れていますので、クリックして参考にしてください。
1-1: 白豪主義の意味
冒頭の説明を確認しますが、白豪主義とは、
オーストラリアにおける白人至上主義とその政策
を指します。
より簡単いえば、「白人国家」としてオーストラリアを建設するために、有色人種を排除する政策を採用することを意味します。
事実、当時の政治家たちは単一民族(白人)のみで構成される国家を建設するためには、アジア系移民などの非白人を閉め出す必要があると声高らかに語っていました。
差別的な移民政策の観点からいえば、オーストラリア連邦が誕生した1901年に成立した「連邦移住制限法」から1973年の「移民法改正」まで白豪主義的政策が続きました。
狭義に「白豪主義」といった場合、上述した期間を指す場合が多いです。
しかし、この記事では植民地オーストラリア時代から実践された差別的移民政策を、当時の思想とともに解説していきます。
1-2: 白豪主義の歴史
簡単にいえば、植民地オーストラリアにおける差別的な政策は「季節労働者」と「ゴールドラッシュによる金鉱堀り」に対して実施されました。それぞれの概要は以下のとおりです。
季節労働者に関して
- 植民地オーストラリア(ニューサウスウェールズ)への囚人輸送が廃止された1840年前後から、インド人や中国人が安価な労働者としてオーストラリアに導入され始めた
- これらの労働者はプランテーション、鉱山開発、鉄道建設のために導入される
- 原則して、イギリス帝国臣民であったこれらの人々は人種や宗教によって制限されることなく、帝国内を自由に移動することができた
ゴールドラッシュに関して
- 1851年にニューサウスウェールズとビクトリアで金が発見されると、中国の広東地域を中心に大勢の中国人が金鉱地域に移住した
- 多くの白人オーストラリア人は、主に経済的な理由からこれらの移民に対して不満を募らせて、暴力や窃盗を繰り返していく
- 主要なターゲットは中国人で、反中国人運動が植民地各地で発生した
これらの結果、植民地政府は中国人の移住を制限するに至ります。当時のオーストラリアは、独立前のアメリカ合衆国のように、複数の植民地に分かれており、統一した行政区分がありませんでした。
そのため、植民地各地で法律が誕生しましたが、どれも移民を制限するものでした。
- 1855年ビクトリア植民地…中国人の入国に対して、1人当たり10ポンドの「上陸税」または「人頭税」を導入して移住を制限
- 1857年南オーストラリア植民地…金鉱のない南部の植民地でも、中国人の流入を阻むために中国人移住を制限
- 1861年ニューサウスウェールズ植民地…中国人移住制限法
- 1877年クイーンズランド植民地…中国人移住制限法
- 1886年西オーストラリア植民地…中国人移住制限法
- 1896年ニューサウスウェールズ植民地…有色人種の制限と規制に関する法案の提出
国際学研究の遠山が指摘するように、移住制限の対象は中国人から有色人種一般へと次第に拡大されました2遠山 2003「白豪主義から多文化主義へ」『追手門経済論集』 38(1), 1-18, 追手門学院大学経済学会。
最終的には日本人(主に真珠貝ダイバー)やプランテーション労働をしていた南太平洋島人も含むようになり、白豪主義がオーストラリア連邦形成以前の共通政策となっていったのです。
移民を排除するには、白人の優越を支える独自の理論が必要です。オーストラリアでは社会進化論や人種の優越論がその理由として語られていました。
1-3: 白豪主義の政策
さて、1901年にオーストラリアの各植民地が統合されて、オーストラリア連邦という国家が誕生します。国家の誕生と同時に、白豪主義的政策は国是となり、1970年代まで維持されることになります。
ここではいくつかの白豪主義的な政策を紹介していきます。
1-3-1: 移民制限法(1901)
もっと有名なのは、1901年に制定された「移民制限法」です。この法律では、
- 移住を希望とするものに書き取りテストを実施する
- テストでは審査官が指定したヨーロッパ言語で、50単語から成る文章の書き取りをする
- 受験者が理解できないであろう言語が、作為的に選ばれたため、連邦政府が望まない移民を自由に排除することはできた
というものです。
この法律の結果、アジア系などの有色人種は業者や学生などの短期滞在者を除いて排除されることになりました。
1-3-2: 代表的な政策
藤川(編)の『オーストラリアの歴史』(有斐閣)では、次のような政策が紹介されています3藤川(編)の『オーストラリアの歴史』117頁。
- 1901年太平洋諸島労働者法…メラネシア人の新規雇用の禁止
- 1901年郵便および電信法…白人労働者のみが郵便物の配達をできる
- 1903年帰化法…アジア人の帰化や年金申請を否定する
どの政策も白豪主義を理念としており、閉め出されたアジア人にとってはとても抑圧的なものばかりです。
藤川は自身の著書である『人種差別の世界史』で、白豪主義は「啓蒙主義」「自由主義(=ミルの思想)」によって推進されたと指摘しています。
それぞれの思想については以下の記事を参照ください。
1-3-3: 対先住民政策
これまで解説した内容が外国人を対象とした「外的な白豪主義」であれば、先住アボリジニを対象とした「内的な白豪主義」も存在しました。
たとえば、アボリジニに対して次のような政策がおこなわれました。
- 保護政策…「混血」と「純血」のアボリジニを分離して、混血のアボリジニを白人社会に吸収し、先住民を生物学的に抹消しようとする
- 同化政策…アボリジニの子どもを親から拉致まがいで引き離し、寄宿舎で「文明」的な教育を叩き込む
そもそも、疫病や虐殺などによるアボリジニの人口減は、絶滅政策ともいえるものでした。この黒い歴史は、オーストラリア社会に現代でも重くのしかかっています(→アボリジニに関してより詳しくはこちら)。
いったん、これまでの内容をまとめます。
- オーストラリアにおける白人至上主義とその政策を意味する
- 国家の誕生と同時に、白豪主義的政策は国是となり、1970年代まで維持される
- もっとも有名な政策として、1901年に制定された「移民制限法」がある
2章:白豪主義から多文化主義へ
さて、第二次世界大戦後の大量移民政策を契機に、オーストラリア社会は白豪主義から多文化主義へと次第に移行していきます。詳しく解説していきます。
そもそも、多文化主義とは何だ?と思う方は、次の記事を参照ください。
2-1: 多文化社会への移行
歴史的にオーストラリアは上述したような多文化が存在した社会でしたが、より注目をあつめたのは第二次世界大戦後の大量の移民による多文化社会化です。
主に、以下のような要因から大量の移民がオーストラリアに流入しました。
- 第二次世界大戦で大量の戦死者や負傷者が発生し、経済回復のための人手が足りないという事態になる
- 人口の自然増には大きな期待ができない社会的状況であった
- 白豪主義を貫くオーストラリア政府は、ヨーロッパ系移住者のみに渡航費の援助をおこなった
- 当初はイギリス移民を求めたがそれだけでは数が不足していたため、社会主義革命や戦災から逃れる北欧や東欧の人々を大量に受け入れた
- 1960年代からは政情が不安定であった中東からの移民・難民を安価な労働者として受け入れ始める41962年と68年にイギリスが英連邦国からの移住を制限したことも背景にある
このように大量の移民を受け入れた結果、オーストラリア社会の人口構成は多様化していきました。この変化には、白豪主義の維持より経済成長が優先されたことが背景にあることがわかると思います。
2-2: 白豪主義の撤廃
実は白豪主義への修正は、経済復興がされた1950年代後半からおこなわれていました。村山は『オーストラリアの歴史』(有斐閣)で次のような白豪主義の修正をあげています。
- 1956年・・・アジア人も国籍取得が可能になる
- 1958年・・・ヨーロッパ言語での書き取りテストが撤廃される
- 1960年代・・・専門能力をもったアジア人の移住が許可される
- 1966年・・・アジア人は市民権取得に15年の在住条件があったが(ヨーロッパ系は当初から5年のみ)、5年へと変更される
- 1967年・・・トルコからの組織的移住が認められる
これらの修正を経て、1972年に政権についたウィットラム労働党は多文化主義へと移行する決定的な法律を制定します。
- 1973年・・・移民法改正(人種や地域による移民への差別を撤廃)
- 1975年・・・人種差別禁止法の制定(人種差別の禁止)
これらの法律が制定されたことによって、白豪主義は撤廃されたことになります。その後は多文化主義への反発といった出来事を経由しながらも、オーストラリアは多文化主義的な政策を維持しています。
多文化主義への反発は、しばしば「新白豪主義」といわれます。再度、「白人国家」としてオーストラリアを規定する試みは、右派や保守派からの反撃でした。
たとえば、青山の『アボリジニで読むオーストラリア』(明石書店)ではその点を解説しています。
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2-3: 多文化主義の問題
最後に、多文化主義が提示する問題に触れておきましょう。数ある問題がありますが、多文化社会が想定する「エスニック・コミュニティ」は重要かもしれません。
そもそも、「コミュニティ」は集団の結束したアイデンティティを連想させる用語ですが、それだけを想定していると間違う場合があります。
たとえば、アジア系や黒人のコミュニティにおいて、
- 起源的な文化は彼らの自己定義にとって重要な要素である一方で、主流社会からの影響を抜きにコミュニティを考えることはできない
- そういった意味で、「コミュニティ」という用語から移民の宗教的・文化的なアイデンティティが不変の伝統に閉じ込められていると考えることは危険である
場合があります。
個別の事例が多くあるため、多文化社会においてコミュニティのあり方を一般化するはとても困難です。
しかし、少なくとも、古びたコミュニティの概念から多文化社会におけるコミュニティを想定することは間違いかもしれません。
多文化主義の問題に関して詳しくは、スチュワート・ホールの論集である『Essential Essays, Volume 2ーIdentity and Diaspora』にある「The Multicultural Question」がおすすめです。
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- 第二次世界大戦後の大量の移民によるオーストラリアの多文化社会化が、白豪主義の撤廃への背景にあった
- つまり、オーストラリア社会では白豪主義の維持より経済成長が優先された
- 多文化主義はさまざまな問題を抱えながら、現在でも維持されている
3章:アボリジニの言語を学ぶためのおすすめ本
白豪主義の概観をつかむことはできましたか?
白豪主義はオーストラリアの歴史を学ぶ上で欠かせない思想および政策です。以下の書物を参考にしながら理解を深めていってください。
藤川降男(編)『オーストラリアの歴史』(有斐閣)
オーストラリア史が簡潔にまとめられた書物です。白豪主義をまとめた章もいくつかあり、とても参考になります。
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藤川降男『人種差別の世界史』(刀水書房)
世界のさまざまな地域における人種差別がわかりやすく紹介されています。藤川自身がオーストラリア社会を研究するため、白豪主義に関する議論も多いです。
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遠山嘉博 2003「白豪主義から多文化主義へ」『追手門経済論集』 38(1), 1-18, 追手門学院大学経済学会
こちらは白豪主義に関する論文です。この論文では白豪主義から多文化主義への移行がクロニクルに議論されています。ぜひ読んでみてください。
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まとめ
最後にこの記事の内容をまとめます。
- オーストラリアにおける白人至上主義とその政策を意味する
- 国家の誕生と同時に、白豪主義的政策は国是となり、1970年代まで維持される
- 第二次世界大戦後の大量の移民によるオーストラリアの多文化社会化が、白豪主義の撤廃への背景にあった
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