政治思想・政治哲学

【田辺元とは】思想の特徴から代表的な著作までわかりやすく解説

田辺元とは

田辺元とは、西田幾多郎に次ぐ京都学派総帥の二代目で、絶対弁証法という独特の弁証法を唱えて、国家、宗教、死を思索した哲学者です。

東洋と西洋の哲学をかけ合わせて雄大な哲学を構想しようとした京都学派の創始者・西田幾多郎の跡をついだ田辺元を本記事では解説します。

具体的に、この記事は、

  • 田辺の伝記的情報
  • 田辺の思想の特徴
  • 田辺の代表的論文・著作の概要(「社会存在の論理」、『懺悔道としての哲学』、「メメント・モリ」)

をそれぞれ解説していきます。

好きな箇所から読み進めてください。

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1章:田辺元とは

1章では田辺の「伝記的情報」と「思想の特徴」を紹介します。

このサイトでは複数の文献を参照して、記事を執筆しています。参照・引用箇所は注1ここに参照情報を入れますを入れていますので、クリックして参考にしてください。

1-1:田辺元の伝記的情報

田辺は1885年、代々佐賀藩の儒学者を務めた家に生まれ、家父・新之助、母・エイの長男として、東京の神田猿楽町に生を受けました。

  • 1901年には、城北中学を抜群の成績で卒業し、第一高等学校理科に入学する
  • 1904年、東京帝国大学理科大学数学科に入学するものの、翌年、文科大学哲学に転科する(その理由は、数学への自信の喪失と哲学への興味の目覚めであった)
  • 1908年、大学を優秀な成績で卒業し、同大学院に進む
  • 1912年、27歳で大学院を退学し、翌年東北帝国大学理学部講師に就任した

1919年には京都学派の創始者である西田の招きにより、京都帝国大学文学部助教授に就任します。1922年にヨーロッパに留学へと向かい、ドイツでフッサールとハイデッガーと交わり、ハイデッガーとは終生交友を続けることになります。

そして、田辺が42歳となった1927年、ついに京都帝国大学文学部教授に就任し、翌年に西田が定年退官すると、哲学科の主任教授となります。しかし、この辺りから田辺は西田の哲学から離反し始め、ヘーゲルの弁証法を独自の弁証法へと彫琢していきます。

1-1-1:種の論理・懺悔道・死の哲学

こうして、1930年代には田辺哲学の一つの到達点とも言える「種の論理」が姿を表し始めました。

  • 戦争が激化する最中、1942年からは海軍と秘密の会合を重ねて政治へと関与していき、帝国大学への学生に戦争への協力を「歴史的現実」という講演において説くに至った
  • 西田と田辺の弟子である京都学派の高山岩男、西谷啓治、高坂正顕、鈴木成高も自身の哲学を用いて戦争へと協力していった
  • 戦後にこの戦争協力は大きな批判を浴びることになった

戦後は戦争に協力してしまった後悔から、「懺悔道」という哲学を展開し始めます。

当初、「懺悔道」は田辺のこれまでの立場であった「種の論理」と関係性をもっていましたが、徐々に民族や国家といった議論は後景に退いていき、その代わりに宗教的な共同体が議論の主題となっていきます。

1951年に妻のちよが亡くなると、田辺の思索は「死」を中心とするものとなっていきます。ここにおいて、田辺はハイデッガーとの対決姿勢を前面に押し出していきます。

ハイデッガーの哲学は生の哲学に過ぎないが、自身の哲学は死の哲学であると田辺は主張しました。(※詳しい話は後で触れます)

そして、「種の論理」「懺悔道」「死の哲学」へと立場を変転させてきた田辺は1961年に亡くなります。享年77歳でした。墓銘には「私の希求するところは真実の外にはない」という田辺の言葉が刻まれています2田中久分『日本の哲学をよむ』(ちくま学芸文庫)78-81頁



1-2:田辺元の思想の特徴

田辺の哲学の特徴は「弁証法の徹底」「行為の哲学」の二つです。それぞれ説明します。

田辺はヘーゲルの弁証法を、保守主義の論理として批判します。そもそも、ヘーゲルの弁証法は以下のような意味です。

ヘーゲルの弁証法

  • テーゼとそれに反するアンチテーゼとが組み合わさって、より高次のジンテーゼになるという運動を意味している
  • たとえば、「うどん」というテーゼと「カレー」というアンチテーゼとが組み合わさって「カレーうどん」という高次のジンテーゼになる

しかし、ヘーゲルはこの弁証法の終着点を定めていました。

つまり、「カレーうどん」というジンテーゼは、その次の瞬間には単なるテーゼとなって別のアンチテーゼと組み合わされねばならないはずなのに、「カレーうどん」が最高の状態であるとヘーゲルは結論づけてしまったのです。

ヘーゲルは弁証法の最終地点を「絶対知」と呼びました。

テーゼ→アンチテーゼ→ジンテーゼ(テーゼ)→アンチテーゼ→ジンテーゼ(テーゼ)→アンチテーゼ……という無限の運動ではなく、テーゼ→アンチテーゼ→ジンテーゼという一回限りの運動でヘーゲルは満足してしまったのです。

これを田辺は批判して弁証法は無限に動き続けなければならないと考えました。そのために、終着点を田辺は空っぽにして、弁証法の運動を無限に続けさせようとしました。田辺は「絶対無」という概念で、このことを説明しようとします。

田辺の議論において「絶対無」は二つの意味を示しています。

  1. ヘーゲルのような絶対知が存在しない、つまり終着点が無であること
  2. 終着点が無であるがゆえに、われわれは事前の計画なしに、つまり「無」に突き動かされてテーゼをアンチテーゼに媒介しなければならないこと

後者のポイントが田辺の哲学の特徴の二つ目の要素となります。つまり、終着点が無であるということは、最終的な結論が無のままで、なにか行為しなければならないことを意味しているのです。

事前の計画に則って行為することは停滞を招き寄せます。というのも、一旦計画が完了すれば運動が停止してしまうからです。それを防ぐには最終的な帰着点が無のままで、事前の計画が無のままで、無に突き動かされて何か行為することが必要となります。

田辺は先の見えないまま暗中模索の中を、何に突き動かされているのかもはっきりしないまま突き進んで行為し続けることをわれわれに求めるわけです。

しかし、田辺は行為の行く先を完全に示さなかったわけではありません。その辺りの議論については2章で見ていきます。

ちなみに、田辺や京都学派については『日本の哲学をよむ』(ちくま学芸文庫)が良書です。初学者は、まずこの書物から取り組むべきです。

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1章のまとめ
  • 田辺元とは、西田幾多郎に次ぐ京都学派総帥の二代目で、絶対弁証法という独特の弁証法を唱えて、国家、宗教、死を思索した哲学者である
  • 田辺の哲学の特徴は「弁証法の徹底」と「行為の哲学」の二つである

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2章:田辺元の代表的著作

それではこれから、「社会存在の論理」『懺悔道としての哲学』「メメント・モリ」を取り上げます。

2-1:「社会存在の論理」

田辺はヘーゲルの弁証法を改造して、絶対弁証法を創始するに至りました。その特徴は前節で確認したように、絶対無に支えられた無限の行為の強調にありました。

1930年代、田辺はこの絶対弁証法を社会理論に応用し始め、その成果は「種の論理」として結実することになります。本節では、その構想がまとまった形で現れた「社会存在の論理」を中心に解説します3田辺元『種の論理――田辺元哲学選I 』(岩波文庫)

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田辺は個でもなく類でもなく、その両者の中間を意味する「種」が重要だと考えました。田辺によれば、今までの社会理論は、以下のようなものでした。

たとえば、個人の契約に社会秩序の由来を見出す社会契約論や、個人の性向から社会の集団的性格を見ようとする社会学などに代表されるように、個人と類(全体)とがそのまま繋がっているかのように考えるものが多数であった

こうした社会理論は「種」、つまり民族の重要性を無視しており、種を考慮した哲学が求められていると主張しました。

しかし、田辺は「種」を重視することを求めたとしても、それは「種」を絶対視することを意味しません。「種」から分離しようとする「個」の重要性も指摘します。田辺によれば、自身が所属する民族からの抑圧を跳ね返す個人によって歴史は進歩していくのです。

そして、田辺はこうした議論に国家を登場させます。田辺によれば、国家は種的国家にも類的国家にもなりうる存在です。

  • 種的国家・・・個人の創造力を完全に抑圧する民族と同化してしまった国家
  • 類的国家・・・個人の創造力を活かしつつ、個人に相対立しうる民族をも活かす国家

田辺は類を意味する人類は種たる民族なしでは考えることが出来ないと主張します。人類というものは見えず、民族を通してしか人類というのは現れないのです。

個人は自身が所属する民族を通じてしか人類を考えるしかありません。なぜなら、自身が生まれ落ちた民族を無視できる個人は存在しないからです。

そして、田辺はここでも絶対無を登場させます。絶対無は無限の行為の強調を意味していました。田辺は種から離れようとする個人に絶対無の現れを見ます。

  • 個人は無限の行為によって種から離れ、国家を種的国家から類的国家にまで引き上げるという重要な役割を与えられた
  • 偏狭な民族は創造的な個人によって人類的な立場にまで引き上げられる
  • こうした議論は自国の利益や自国民しか考えないナショナリスティックな国家を批判する意味合いをもっていた
  • 個人の創造力を抑圧することは許されず、それを活かすことが国家には求められるからである

しかし、田辺の議論は戦争の進展に伴って急展開を見せ始めます。田辺の議論において、いつのまにか国家が絶対無の現れと見られるようになります。田辺の議論の焦点は確かに種にありましたが、その一方で個の役割は最大限評価されていました。

しかし、戦争はもはや民族からの個人の離反を許してはくれませんでした。民族(種)を否定する個人の存在を許せば戦争に敗北し、その結果、個人の存立基盤たる民族(種)も滅んでしまい、それと同時に個人も滅んでしまいます。

田辺はそのことを恐れ、いつの間にか国家を絶対視するようになっていったのです。種的国家から類的国家への変革を求めていた「種の論理」は、戦争を通じて国家を擁護する論理に変容してしまったのです。

戦後、田辺はこのことを深く後悔し、「懺悔道」という哲学を構想するようになります。それは、絶対無をさらに突き詰めることによって達成されるのですが、そのことについては以下で見ていきます。



2-2:『懺悔道としての哲学』

田辺は戦後、自身の哲学を「懺悔道」と規定するようになります。田辺によれば「懺悔」によってわれわれは自力の立場を脱して他力の立場に移ることができます。

田辺は今までの自分の議論が自力の立場であったと指摘し、他力に移ることを要求します。一度自身の全てを否定し捨てることによって、逆に新たな行為に促されると田辺は考えたのです4田辺元『懺悔道としての哲学――田辺元哲学選II』(岩波文庫)

  • つまり、空っぽになることによって、われわれは絶対無に突き動かされる
  • そのとき、われわれは自分自身に促されて何かを為すわけではなく、何か別のものに促されて何かを為す
  • 自己中心的な考えは一度脱色されて、自分自身に非ざる何かによって自分はもう一度復活する

こうした懺悔の典型例を田辺は仏教の一派である浄土教に見出します。田辺は『大無量寿経』の中で親鸞が立てた48の誓願のうち、第19願、第20願、第18願に着目します。

  • 第19願・・・念仏に加えてさまざまな功徳を積んで自力で極楽往生しようとする自力の立場を表す
  • 第20願・・・念仏の修業によって他力によって往生しようとしている。とはいえ、念仏を称えることは仏の救済に頼るという意味で他力を前提にしているが、念仏という自力の行為によって救われようとするという意味で自力の要素も含まれている
  • 第18願・・・すべて阿弥陀仏の力によって念仏を称えようとする立場で、絶対他力を表している

つまり、第19願→第20願→第18願は、自力から他力への徹底、いいかえれば「懺悔」の徹底を表しているわけです。

しかし、田辺の面白いところは、他力を説きながらも自力の要素を切り捨てるわけではないということです。つまり、第18願の絶対他力を前提としながらも、第19願の自力の立場も田辺は重視するのです。

言い換えれば、阿弥陀仏からの救いをただただ期待する第18願と同時に、この世で寺を建てたり衆生へ教育したりといった功徳を積む第19願も田辺は重視するのです。

このように、他力は他人任せを意味するわけではなく、自力も伴っているのです。阿弥陀仏に救われた自己は、次は他の一般の人々も救わねばならないのです。

  • われわれは自身を否定することで、つまり無に徹することで絶対無に触れ、そしてそのことによって阿弥陀仏に救われる
  • 自力の立場では救われない
  • 何もかも捨てたその先に、つまり他力を徹底することによって、われわれは救われる
  • しかし、救われたわれわれは他力の立場に留まるわけにはいかない
  • 阿弥陀仏の救いを世に広めるために自力の行為が求められる

こうして、田辺の議論は宗教的な色彩を帯びていきます。つまり、「種の論理」では民族という共同体が議論の焦点であったのが、『懺悔道としての哲学』では宗教的な共同体が議論の焦点となるに至るのです。

田辺はそのあと、社会的な実践活動の要素が仏教よりも強いキリスト教なども議論に取り込みながら宗教的な共同体についての思索を深めていきます。そして、以上の田辺哲学の総決算が以下で説明する「死の哲学」となります。



2-3:「メメント・モリ」

田辺は宗教的な共同体の議論を深化させつつ、ハイデッガーとの対決の姿勢を鮮明にし始めます。田辺はハイデッガーの哲学は「生の存在学」に過ぎないと主張します。

よく知られているように、ハイデッガーは人間を「死への存在」と規定して、そこから自身の議論を組み立てていました。

しかし、田辺によれば、ハイデッガーの哲学は死を突き詰めて考えられていません。

  • ハイデッガーの哲学は生者の立場から死を見ているに過ぎない、と田辺は主張する
  • つまり、生を自覚するためのキッカケとしてしか死が捉えられていない
  • それに対して、田辺は死の中に飛び込み、死を実際に体験することを求める「死の哲学」を構想する5田辺元『死の哲学――田辺元哲学選IV』(岩波文庫)

つまり、先に検討した懺悔を徹底することで、われわれは自分を殺して死に近づくことが出来るのです。自己を放棄することによって、死を体験しつつ、もう一度われわれは復活することが出来るはずなのです。

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そして田辺はこの自己犠牲によって、われわれは死者とも出会うことになると主張します。

先に検討した『懺悔道の哲学』では、自己犠牲の果てに出会うのは阿弥陀仏でしたが、ここでは先に死んでいった死者たちが表れるのです。こうした死者との交流を田辺は「実存協同」と呼びました。

そして、ここで重要なのは宗教的な共同体が、ついに死者をも含んださらに広範なものに変貌しているということです。今までの議論をまとめるならば、田辺の議論の焦点は、民族を超え、宗教共同体を超え、ついに死者をも含んだより広範な共同体へと移り変わったのです。

しかし、田辺の哲学の特徴であった「絶対無」と「行為の哲学」とは最後まで生き残り続けました。われわれは無限の行為を続けなければならないのです。ただ、その行為の参照軸は田辺においては変転しました。

  • 「種の論理」においては国家が行為の参照軸
  • 「懺悔道」においては阿弥陀仏が行為の参照軸
  • 「死の哲学」においては死者が行為の参照軸

この推移を、田辺の理論的後退だと見る論者もいますが、しかし、民族や国家といった政治的共同体が議論から脱落していったとしても、宗教的共同体という別の共同体を田辺が構想したのは確かでしょう。

2章のまとめ
  • 田辺は個でもなく類でもなく、その両者の中間を意味する「種」が重要と考えた
  • 「種の論理」では民族という共同体が議論の焦点であったのが、『懺悔道としての哲学』では宗教的な共同体が議論の焦点となるに至る
  • 田辺の議論の焦点は、民族を超え、宗教共同体を超え、ついに死者をも含んだより広範な共同体へと移り変わった

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3章:田辺元を学ぶための本

田辺元の議論について理解することはできたでしょうか?もっと深く学びたい場合は、以下の本を読んでみてください。

おすすめ書籍

田辺元『種の論理――田辺元哲学選I』(岩波文庫)

「種の論理」を展開した田辺の論文を集めた文庫。元京都大学教授の藤田正勝による解説も要を得ていておすすめです。しかし、田辺の戦争協力の一つの記録とも呼べる「国家的存在の論理」や「歴史的現実」などが収録されておらず、その意味で田辺の「種の論理」を網羅していない点に注意が必要です。

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佐藤優『学生を戦地へ送るには―田辺元「悪魔の京大講義」を読む―』(新潮社)

京大生に戦地で死ぬことを求めた講義『歴史的現実』を解説した著書。佐藤優の舌鋒は鋭く、田辺の論理の飛躍を突いていく。いささかジャーナリスティックな物言いが散見されるものの、田辺の論理が持つ悪魔性を露呈させる大変良い本です。上記の岩波文庫の解説を執筆した藤田の微温的な田辺像と対照させながら読まれることをおすすめします。

田中久分『日本の哲学をよむ』(ちくま学芸文庫)

京都学派全体について解説した良書。どの章も歯切れがよく、京都学派の哲学を知るためには最良の書の一つです。田辺の章も大変わかりやすく、まずこの本を読んでから京都学派に取り組まれることをおすすめします。

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まとめ

最後にこの記事の内容をまとめます。

この記事のまとめ
  • 田辺元とは、西田幾多郎に次ぐ京都学派総帥の二代目で、絶対弁証法という独特の弁証法を唱えて、国家、宗教、死を思索した哲学者である
  • 田辺の哲学の特徴は「弁証法の徹底」と「行為の哲学」の二つである
  • 田辺の議論の焦点は、民族を超え、宗教共同体を超え、ついに死者をも含んだより広範な共同体へと移り変わった

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