政治史

【自由民権運動とは】背景・影響・板垣退助の役割をわかりやすく解説

自由民権運動とは
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自由民権運動とは、明治初頭から1890年に帝国議会が開設される頃まで、日本各地で盛り上がりを見せた政治運動を指します。

この運動は近代日本における民主的な政治運動の出発点として、さまざまな観点から研究が進められています。自由民権運動が残した遺産を考える上でも、運動に対する理解が必要です。

そこで、この記事では、

  • 自由民権運動が行われた背景
  • 自由民権運動の具体的な展開

をそれぞれ解説します。

好きな箇所から読み進めてください。

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1章:自由民権運動とは何か

最初に自由民権運動の定義と、運動と関連した出来事について紹介します。

このサイトでは複数の文献を参照して、記事を執筆しています。参照・引用箇所は注1ここに参照情報を入れますを入れていますので、クリックして参考にしてください。

1-1:自由民権運動の概要

全国歴史教育研究協議会編『日本史用語集』を見てみると、自由民権運動の項目には次のように記されています2全国歴史教育研究協議会編『日本史用語集』(山川出版)242頁

明治前期の1870年~80年代、政府に対し民主的改革を要求した政治運動。天賦人権思想をもとに自由民権論が叫ばれ、〔自由〕民権派は藩閥専制打破・国会開設などを要求。政府の弾圧・懐柔と内部の分裂により、大同団結運動を最後に衰退した。

ここに記されているように、自由民権運動は藩閥政府の打破と国会開設を要求した、明治初頭の政治運動です。民権運動は繰り返し政府によって弾圧されましたが、最終的に政府も国会開設を約束し、1890年に最初の国会が開かれることとなりま した。

一方で弾圧を受けた民権派の一部が急進化し、各地で「激化事件」と呼ばれる騒擾事件が発生します。これが運動の衰退や分裂を招き、国会開設後、自由民権運動という枠組みでの活動は行われなくなっていきました。

しかし自由民権運動の影響力は、その後も姿を変えながら残り続けたことが指摘されています。その後の歴史とのつながりを意識することが、自由民権運動をより深く理解するためのポイントとなります。



1-2:自由民権運動が行われた背景

ここでは自由民権運動が行われた背景を理解する上で重要となる、3つのポイントを紹介します。

1-2-1: 藩閥に対する批判

自由民権運動において指導的役割を果たした人たちの中には、板垣退助大隈重信のように、元々は政府内で要職に就いていた人物も含まれます。

詳しくは後述するように、彼らは政争に敗れて政府を去った後、政府を攻撃する手段として自由民権運動を展開していきました。彼らは「藩閥」が政府を牛耳っていると批判し、その弊害を打破するために議会制の導入を唱えたのです。

当時、さまざまな人々が政府の政策に反感を抱いていました。これらの人々は板垣らの主張に賛同し、次々と自由民権運動に加わっていきました。

1-2-2: 政府の政策への反発

多くの人々が政府に反感を抱いた要因として、政府が行った近代化政策の影響が挙げられます。たとえば、次のような事例があります。

  • 1876年に廃刀令や秩禄処分が実施された結果、帯刀が禁じられただけでなく、家禄の給付が取りやめになった
  • その結果、それまで元武士(士族)が持っていた特権が廃止された
  • 一連の政策に不満を抱いた士族たちは西日本各地で士族反乱を起こし、自由民権運動に参加して政府を攻撃するようになった

士族以外の事例も多くあります。たとえば、1872年に学制を定めて義務教育制が定められたほか、1873年に出された地租改正条例や徴兵令によって、税制や徴兵制が確立されました。

しかしこれらの諸制度の負担は重く、各地で「新政反対一揆」とよばれる反発が生じています。とくに地租負担への反発は強く、1876年には大規模な地租改正反対一揆が茨城や三重などで発生しました。その結果、政府は地租を引き下げざるを得なくなったほどです。

地租改正反対一揆の後も、地租の軽減を求める声は残り続けました。そして自分たちの声を政治に反映させるため、農民たちも議会開設を求めるようになっていったのです。

1-2-3: 欧米からの思想流入

このような人々の活動を後押しする役割を果たしたのが、同時期に欧米から流入した新思想です。

1866年に福沢諭吉が『西洋事情』を刊行したのを皮切りに、欧米視察や留学から帰国した人々が盛んに西洋の文明や思想が伝えていきました。その結果、「Liberty」や「freedom」にあたる「自由」や、人権(human rights)を意味する「民権」という言葉が広まっていくこととなります。

これらの日本に持ち込まれた思想の中でも、とくに自由民権運動に大きな影響を与えたものが「天賦人権論」です。

天賦人権論は、ロックやルソーが提唱した「自然権思想(natural right)」の訳語で、人間は生まれながらに自由かつ平等であり、生まれ持っての権利(自然権)を有すると唱えました。

当初日本では、天賦人権論は封建制を批判する論理として受け入れられました。しかし板垣らが藩閥政府への批判を開始すると、天賦人権論は藩閥政府を批判する論理に転じ、自由民権運動を後押しする役割を果たすようになったのです。

1章のまとめ
  • 自由民権運動とは、明治初頭から1890年に帝国議会が開設される頃まで、日本各地で盛り上がりを見せた政治運動を指す
  • 自由民権運動がおこなわれる背景には、「藩閥に対する批判」「近代化政策への反発」「西洋思想の流入」がある

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2章:自由民権運動の展開から影響まで

さて、2章では自由民権運動の具体的な動きを紹介し、その結果や影響を解説します。

2-1:自由民権運動のはじまり

自由民権運動が始まる直接のきっかけとなったのが、1873年に発生した「明治六年の政変」です。

明治六年の政変とは、朝鮮への対応をめぐって政府内部が「征韓派」と「内治派」に分裂し、対立に敗れた征韓派の西郷隆盛、江藤新平、板垣退助などが政府を下野した出来事です。

その後、政府を下野した人々は、さまざまな手段で政府に対抗するようになりました。

たとえば、江藤や西郷は士族反乱の指導者となり、佐賀の乱や西南戦争をひき起こしています。一方で、板垣退助は1874年に「愛国公党」を結成した後、政府に「民撰議院設立建白書」を提出し、異なった方法で政府に対抗しようとしていました。

民撰議院設立建白書の中で、板垣は、

臣等伏して方今〔ほうこん〕政権の帰する所を察するに、上帝室に在らず、下人民に在らず、しかして独り有司に帰す

と述べ、政府が「有司(=藩閥)」の独裁状態にあることを批判しています3出典:『日新真事誌』1874年1月18日 (注.適宜句読点を補い、字体を現用のものに改めた)

そして、以下のような主張をします4出典:同上 (注.適宜句読点を補い、字体を現用のものに改めた)

切に謂う、今日天下を維持振起するの道、ただ民撰議院を立て、しかして天下の公議を張るにあるのみ〔中略〕

つまり、その弊害を取り除いて「天下を維持振起」するための手段として、撰議院」を設立して人々の声を政治に反映することを主張したのです。

建白書は『日新真事誌』に掲載され、これをきっかけに議会を開くべきか否か論争が生じました。すると各地の士族たちも板垣に賛同し、政府を激しく批判する新聞を創刊したほか、結社を結成して政治運動を展開するようになります。

こうした動きを受けて、1875年2月に板垣は全国の結社を取りまとめる愛国社を創設しています。このように板垣の動きは大きな反響を呼び、自由民権運動が始まるきっかけとなりました。

※なお補足すると、士族反乱と自由民権運動は完全に別個の運動ではありません。江藤新平は佐賀の乱を起こした一方で、民撰議院設立建白書の作成にも参加しています。一方で結社の中にも、西南戦争と呼応して挙兵を計画したものがありました。このように初期の自由民権運動と士族反乱は、極めて近しい関係にあったと考えられています。



2-2:「士族民権」から「豪農民権」へ

ここまで見てきたように、初期の自由民権運動は士族が主体となって行われました。

自由民権運動の盛り上がりを受けて、1875年2月に政府の中心人物だった大久保利通は、台湾出兵に反対して辞職した木戸孝允や板垣を招き、大阪会議を開いています。その席上で大久保は、2人の復職を条件に、立憲政体を目指すことを約束しました。

その結果、1875年4月に「漸次立憲政体樹立の詔(※)」が出され、政府も立憲政体樹立に向けて動き出すこととなります。
※漸次立憲政体樹立の詔とは、簡単に言えば、少しずつ時間をかけて憲法と議会を作っていきましょう、という約束のことです。

一方で、政府は讒謗律(ざんぼうりつ)や新聞紙条例を制定し、政府を批判する言論を厳しく弾圧しました。板垣が政府に復帰した影響もあり、自由民権運動は一時活動を停滞させることとなりました。

その後、1877年2月に西郷隆盛を中心に鹿児島県の不平士族たちが、政府に対して最大規模の士族反乱を起こしました。今日、「西南戦争」と呼ばれるものです。

  • 西郷の下には九州各地の不平士族などが集まり、その人数は4万人近くに達した
  • 西郷軍と政府軍の激戦は半年以上続いたが、各地で政府軍は西郷軍を打ち破り、戦況は政府軍に有利な形で進んでいった。
  • そして同年9月、鹿児島県の城山で西郷が自決たことで、西南戦争は終結した

西南戦争が行われている中、西郷たちが不利になった頃から自由民権運動は再び盛り上がりを見せていきます。西郷隆盛ですら政府に敵わなかったことから、武力で政府に対抗することは困難で、政府と戦うには言論の力が必要であることが明らかとなったためです。

1877年6月、高知県の政治結社立志社が、建白書を提出して国会開設や立憲政体の樹立を要求したことを皮切りに、1878年には大阪で解散状態にあった愛国社の再興大会を開催するなど、再び積極的な活動を見せるようになりました。

さらにこの頃から、士族に加えて全国の豪農たちも運動に加わるようになっていきます。その主要な要因として、漸次立憲政体樹立の詔の影響が挙げられます。

具体的には、

  • 漸次立憲政体樹立の詔に基づいて「地方三新法」が制定されたことで、豪農たちは地方自治に参画するようになった
  • これをきっかけに豪農たちは政治への参加意欲を高め、地租軽減など自身の要求を国政に反映するため、国会開設を要求するようになっていったため

です。

こうして豪農たちも積極的に自由民権運動に参加するようになり、運動の主要な担い手として成長していきました。このことから、初期の民権運動を「士族民権」と呼ぶのに対し、1870年代後半以降の民権運動は「豪農民権」と呼ばれています。



2-3:各地で作られる私擬憲法

その後、愛国社は国会開設を目指す全国組織として、1880年3月に国会期成同盟を結成しています。同年11月に開催された第2回大会において、翌年開催される第3回大会では各結社が憲法草案を持ち寄り、それを審議することが決議されました。

これをきっかけに、各地で私擬憲法と呼ばれる独自の憲法試案が作成されるようになりました。史料が散逸してしまったため総作成数は判然としませんが、2020年までに100点超の私擬憲法が確認されています。

たとえば、植木枝盛が起草した「日本国国憲按」は人権を重視した次の内容で知られています。

  • 法の下の平等や思想・言論・集会・結社の自由などを定めた
  • 抵抗権や革命権のように、政府の不当な圧力に対抗して新政権を樹立する権利を盛り込む

さらに植木のような思想家だけでなく、在野の無名の人々も憲法を作るために積極的に活動していました。

中でも1968年に東京都五日市町(当時)で発見された「日本帝国憲法(五日市憲法)」は、小学校教員を中心に地域の住民たちの討論を通じて作成された憲法草案として有名です。※五日市憲法は全5篇、204条(205条説もあり)から成り立っています。

歴史学者の新井勝紘や憲法学者の稲田正次によれば、1879年に発表されていた「嚶鳴社憲法草案」を下敷きに、『東京日日新聞』で連載されていた福地源一郎の「国憲意見」や、イタリア、ポルトガル、イスパニア、スイス、オーストリア、プロシャ、オランダ、デンマークなどの憲法を参考に、独自の条文を盛り込んで作成されました。

五日市憲法の特徴として、国民の権利保障や行政府に対する立法府の優位性、国民の権利を保障する司法権の規定を重視していることが挙げられます。

そのなか中でも、

四五 日本国民は各自の権利自由を達すべし、他より妨害すべからず。かつ国法之を保障すべし

四七 およそ日本国民は、族籍位階の別を問わず法律上の前に対しては、平等の権利たるべし

四九 およそ日本国に在居する人民は、内外国人を論ぜず、その身体、生命、財産、名誉を保固す

といった条文は日本国憲法に先駆けて基本的人権の保障を謳っており、当時の人々の高い権利意識や人権への深い理解を裏付ける史料として、今日でも高く評価されています5初出 : 千葉卓三郎起草『日本帝国憲法(五日市憲法)』 引用元 : 新井勝紘『五日市憲法』(岩波書店)200頁 (注.適宜句読点を補い、字体を現用のものに改めた)

このように各地で私擬憲法が作られていた頃、1881年に発覚した「北海道開拓使官有物払い下げ事件(※)」をきっかけに、政府に対する激しい批判がわき起こりました。
※開拓使が北海道に建てた工場施設を、開拓使長官の黒田清隆が、政商五代友厚に安く譲った汚職事件

政府は世論と同調して首脳部を攻撃した大隈重信を罷免する一方で、世論の反発を抑えるために「国会開設の詔」を発し、1890年に国会を開設することを宣言しています。

この一連の動き(明治十四年の政変)を受けて、1881年に開催された国会期成同盟の第3回大会は、私擬憲法の審議を取りやめて政党結成を準備することとなります。そのため私擬憲法は宙に浮いた形となり、その存在は戦後に再評価されるまで、歴史に埋もれることとなりました。



2-4:政党の結成と激化事件

1881年10月、国会期成同盟は第3回大会の決議に基づき、再び政府を下野した板垣を総理(党首)とする自由党を結成しました。自由党は日本史上最初の政党で、主に愛国社系列の結社や地方の豪農層を支持基盤に、フランス流の自由主義を掲げて活動しました。

一方、明治十四年の政変で政府を去った大隈やその支持者たちも、1882年4月に立憲改進党を結成しています。彼らは都市部の実業家や知識人を支持基盤に、自由党式の急進的な改革を批判して漸進的立憲主義を標榜し、イギリス流の立憲君主制の実現を目指しました。

このような動きに対して、政府は新聞紙条例や1880年に公布された集会条例を改正し、政党の活動を厳しく取り締まっています。

さらにこの頃には、

  • 西南戦争の戦費調達をきっかけとするインフレを解消するため、大蔵卿の松方正義による緊縮財政・デフレ政策(松方デフレ)が始まった
  • 政策の影響で米や繭の価格が下落したことに加え、朝鮮半島情勢の緊迫に伴い軍備拡張のために増税が実施されたため、急速に農村の経済状況は悪化していった

という時代背景があります。

このような状況下、政府の弾圧や重税に対する反発から「激化事件」と呼ばれる出来事が頻発します。

代表的な事件を紹介すると、1882年に福島県令の三島通庸と自由党が激しく対立し、自由党幹部の河野広中らが内乱をくわだてたとして逮捕される「福島事件」が生じました。ちなみにその後三島は栃木県令に転じますが、ここでも急進的な自由党員が三島暗殺を謀った「加波山事件」が発生しています。

これらの事件に示されるように、農村と関わりの深い自由党員の中から、急進化して武力闘争路線に転じる者が生じました。

党員の統率が困難になったため、1884年に板垣は自由党の解党を宣言しています。同じころ立憲改進党も組織運営をめぐって大隈が離党したため、事実上の解散状態となってしまいました。

その後、いくつかの代表的な活動が起きます。たとえば、「秩父事件」です。

  • 埼玉県の秩父で元自由党員らが借金難に陥った農民たちと困民党を結成し、借金返済の延期や税金の引き下げを求めて武装蜂起したもの
  • 困民党軍は最大で約1万人まで勢力を増し、各地で高利貸や警察、郡役所などを襲撃しました
  • 最後には軍隊によって鎮圧された

このように松方デフレを背景に自由民権運動は急進化し、各地で激化事件が発生しました。そして政府による弾圧や指導者層が運動から距離を取った影響もあり、民権運動は衰退することとなりました。

一方で戦後になると、激化事件を再評価する動きも生じています。たとえば、歴史学者の井上幸治は『秩父事件 自由民権期の農民蜂起』(中央公論新社)の中で、秩父事件を「自由民権運動の最後にして最高の形態」と高く評価しています。



2-5:その後の自由民権運動

その後、国会開設が近づく中で、1887年に自由民権運動の再結集を図った高知の後藤象二郎が「大同団結」を唱えました。これは、旧自由党員と立憲改進党員は小異を捨て大同につき、団結して国会開設に備えようと呼びかけたものです。

同じ頃、国内では1886年に発生したノルマントン号事件の影響で、政府の条約改正方針に批判が集まっていました。そこで古くから自由民権運動に参加していた片岡健吉は、地租軽減や言論・集会の自由に加えて、外交の挽回を要求する建白書を提出しました。

するとこれをきっかけに「三大事件建白運動」が生じ、後藤たちが推進した「大同団結運動」とあわせて、再び自由民権運動が盛り上がりを見せるようになります。

これに対して政府は保安条例を定め、運動の中心となった在京の民権派を東京から追放しました。しかしその後も運動は地方で継続し、1890年の第一回衆議院議員総選挙を迎えることとなります。

大まかにいえば、その後展開を以下ようにいえます。

  • 選挙の結果、旧自由党系各派が結集した立憲自由党は130名、立憲改進党は41名が当選し、議席の過半数を獲得する
  • そして自由党と改進党は連携して、議会で政府と対立するようになった
  • こうして政府との対決の場が議会に移る中、運動の主体が政党に変化したことで、自由民権運動は終わりを迎えた



2-6:自由民権運動が残したもの

一方で、自由民権運動の遺産は断絶することなく地域に根付き、さまざまな政治運動の素地になったという指摘もされています。

たとえば、上述した五日市憲法を生み出した五日市では、大正デモクラシー期や敗戦後にも活発な民衆運動が行われました。このことについて、上述の新井勝紘は次のようにまとめています6前掲『五日市憲法』182~183頁

鈴木文治が、1912年(大正1年)に労働団体の友愛会を結成し、労働者の地位向上に向けて動き出した。〔中略〕1915年(大正4年)には、青年団の青年たちが五日市に「友愛会五日市分会」(のちに秋川分会)を設置する。同年、五日市を訪問した鈴木〔注.文治〕会長は、この地域の人々が「進取的気象に富んで」いることや、有力者たちが「公共の事には率先して尽力」していることから、「この小天地に、何かしら精神的な香ひ、潤ひ」があると語っている。

〔中略〕

また、1945年(昭和20年)の敗戦から数年間、全国各地で「戦後地域文化運動」が一気に花開いた時代がある。〔中略、五日市では〕6つの文化団体が結成され、経済学、文学、美術などをはじめ、青年を中心に五日市夏季大学の開催にいち早く動き出している。

〔中略〕

1947年(昭和22年)には、〔中略〕「五日市新政会」が設立された。〔中略〕周辺の他地域からは「他に見られない力強さ」と「一人一人の底力」や「たのもしさ」があると評価された。

〔中略〕

急ごしらえの底の浅いグループではない力が、この地域にはあるということだろう。五日市という場に蓄積されてきた民権意識や文化の厚みが伏流となっていることを、私は初めて意識することができた。

新井が指摘するように、自由民権運動は1890年代に一旦終えんを迎えたものの、その影響力は「伏流水」となって水面下に残り続け、戦後の民衆運動にまでつながった可能性が示唆されています。

このことから、自由民権運動は今日に至る政治運動の基盤を築いた、日本史上の一大転機であったと考えられているのです。

日本のその後の政治・政治史について、以下の関連記事もぜひ御覧ください。

2章のまとめ
  • 板垣退助は「民撰議院」を設立して人々の声を政治に反映することを主張した
  • 西南戦争では武力で政府に対抗することは困難で、政府と戦うには言論の力が必要であることが明らかとなった
  • 2020年までに100点超の私擬憲法が確認されている
  • 自由民権運動は1890年代に一旦終えんを迎えたものの、戦後の民衆運動にまでつながった可能性がある

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3章:自由民権運動について学べるおすすめ本

自由民権運動に関して理解を深めることはできましたか?ここでは、さらに勉強をするためのオススメ本を紹介します。

おすすめ書籍

オススメ度★★★ 新井勝紘『五日市憲法』(岩波書店)

本文中でも取り上げた一冊です。研究者としての歩みを振り返りつつ、五日市憲法を生み出した地域と人々の実像に迫ります。

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オススメ度★★★ 松沢裕作『自由民権運動 -<デモクラシー>の夢と挫折』(岩波書店)

新書サイズで自由民権運動の全体像をまとめた作品です。日本の民主化は戦争を契機に進展した、という視点を提示し、社会構造の変化を軸に民権運動を捉えています。

オススメ度★★★ 色川大吉『明治精神史』(岩波書店)

自由民権運動を扱った古典的名著です。原著は1960年代に刊行されており、民権運動に参加した民衆のエネルギーは伏流水となって現代につながっていると唱え、当時の学生運動にも大きな影響を与えました。

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まとめ

最後にこの記事の内容をまとめます。

この記事のまとめ
  • 自由民権運動とは、明治初頭から1890年に帝国議会が開設される頃まで、日本各地で盛り上がりを見せた政治運動を指す
  • 板垣退助は「民撰議院」を設立して人々の声を政治に反映することを主張した
  • 自由民権運動は1890年代に一旦終えんを迎えたものの、戦後の民衆運動にまでつながった可能性がある

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