政治史

【長州征討とは】第一次・第二次長州征討の要点をわかりやすく解説

長州征討とは

長州征討とは、朝敵(朝廷の敵)として認識された長州毛利家(長州藩)を軍事制圧するための出来事です。

長州処分執行の失敗と長州征討による幕府軍の敗北は、朝廷・幕府権威の失墜と国内の政治的無秩序化の進行につながっていきます。そのため、日本史の大きな転換点の一つとしてしっかり理解する必要があります。

この記事では、

  • 長州征討の背景・要点
  • 長州征討の学術的な議論

などをそれぞれ解説していきます。

好きな箇所から読み進めてください。

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1章:長州征討とは

1章では、長州征討を概説します。長州征討の学術的な議論に関心のある方は、2章から読んでみてください。

このサイトでは複数の文献を参照して、記事を執筆しています。参照・引用箇所は注1ここに参照情報を入れますを入れていますので、クリックして参考にしてください。

1-1:長州征討の要点・背景

幕府や朝廷、諸藩を巻き込んだ長州征討は、2度行われました。それを「第一次長州征討」「第二次長州征討」と呼びます。

第一次長州征討は、

禁門の変で朝敵とされた長州藩を軍事制圧するために、幕府・諸藩が出兵を行なった出来事

を指します。

実際の戦闘はなく、軍事的圧力に長州藩が屈したことで終了しました。このとき、幕府軍と長州軍の間を積極的に仲介し、終戦に結び付けた人物として西郷隆盛がいます。

第二次長州征討は、

幕府が提示した罰則案(領地の削減など)を受諾しない長州藩に対して行われた戦闘

を指します。

実際の戦闘では、幕府軍の敗退が続き、長州軍優位のまま終戦になります。現在では学術用語として「長州戦争」「幕長戦争」と呼称することもあります。

この2度の長州征討は、当時の国内政治における中心的課題と言え、「朝敵」となった長州藩を如何に処置するかということで幕府や薩摩藩などの多くの勢力の駆け引きが繰り広げられました。



1-2:第一次長州征討とは

文久3年(1863)8月18日、長州藩とその同心勢力は京都を追放されました。この八月十八日政変は、孝明天皇の心は攘夷2外国人を排斥する、通商条約を破棄する、外国と戦争を行なう、など多様な意味が含まれているにあるとし、それを名目に過激な行動をしていた長州藩を中心とする勢力を追放した出来事です。

孝明天皇は確かに攘夷思想の人物ですが、外国と戦争になることは承知しておらず、天皇の発意から薩摩藩や会津藩が協力して長州藩勢力の追放を実行したのでした。

八月十八日政変後の京都では、長州藩に対する処分をどうするのか話し合いになっています。文久4年(元治元年/1864)1月には、孝明天皇から将軍徳川家茂に対して長州藩を罰するように記した宸翰(天皇の書簡)が渡されています。

一方で、長州藩では、次のような動きが展開されました。

  • 名誉回復のために世子(藩主の跡継ぎ)である毛利定広が兵を率いて上京する計画が立てられた
  • 反対する者(たとえば、木戸孝允)もいたが、毛利定広の率兵上京が決定された
  • 先発隊として福原越後・来島又兵衛・久坂玄瑞らが上京し、京都に滞在している諸藩主などに自分たちの立場を仲介してくれるように働きかけた
  • 他にも、天龍寺を占拠するなど軍事的にも圧力をかけて自分たちの名誉回復のために行動した

これに対して、幕府から協力・出兵を求められた薩摩藩は、一旦は協力を拒みます。この頃に西郷隆盛が大久保利通に宛てて出した書簡には、以下のように記されています3「元治元年6月25日付大久保利通宛て西郷隆盛書簡」(大川信義編『大西郷全集 第一巻』大西郷全集刊行会、大正15年、381~385頁)

  1. 「此度の戦争は全長会の私闘に御座候」・・・今回の戦争は全く長州藩と会津藩の私闘であること
  2. 「無名の軍を動候場合に無之」・・・そのため、無名の軍勢を薩摩藩では動かしている場合ではないこと
  3. 「誠に御遺策の通、禁闕御守護一筋に相守候」・・・前薩摩藩主島津斉彬の遺言(御遺策)のとおりに禁裏御所を守ることだけに専念すべきこと
  4. 「いづれの筋長州より若や朝廷に奉対御怨申上候様の儀も御座候はゞ其節は不戦して相済申間敷と相決し罷在申候」・・・長州藩が朝廷を怨むようなことがあれば薩摩藩としても戦わなければならないこと

つまり、薩摩藩としては朝廷からの要請があれば、戦闘に参加するという姿勢でした。朝廷を何よりも重んじるという政治姿勢は、幕末をみていくうえで重要な視点であり、何を争点にするにしても、必ず朝廷・天皇の周りで政局は動いていくことになります。

突き詰めれば、長州藩も天皇の攘夷思想を重んじた結果、反対に京都を追放されてしまう結果になったということです。長州藩が京都に迫り、布陣していくなかで、一橋慶喜などが退去勧告を行います。

しかし、長州藩は以下のような行動をとりました。

  • 禁裏御所に対して進撃することで要求を通す作戦を決定する
  • 元治元年7月19日、禁門の変が勃発し、激しい戦闘の末に長州藩は敗退する
  • さらに、長州藩が禁裏御所に砲撃したことで「朝敵」となってしまい、征討の対象になってしまう

禁門の変終結の直後に、朝廷は長州征討を発令し、最終的に元尾張藩主徳川慶勝が征長総督として全軍の指揮を執ることになりました。また、参加する35藩の攻撃部署も決定していました。

禁門の変で敗退した長州藩では、対応策が考えられていました。岩国藩主吉川経幹は、責任者である3人の家老の処分を行うことで征討軍に恭順の姿勢を示す考えを長州藩主毛利敬親に伝えています。

また、同時期には四カ国(イギリス・アメリカ・フランス・オランダ)の連合艦隊が前年に砲撃された報復のために下関を砲撃する事件も重なり、長州藩にとって内憂外患が一気に迫った状況でした。長州藩は、八方塞がりの状況に、欧米列強との和議と征討軍への謝罪・恭順を行なうことを決定します4三宅紹宣『幕長戦争』(吉川弘文館、2013年)9~18頁

征討軍側も戦争を行なうことに積極的ではありませんでした。そのため、征討軍は岩国藩と交渉を行い、3人の家老の処罰と恭順姿勢を示す嘆願書(反省文)の提出を約束させています。

そして、征討軍の参謀を務めていた西郷隆盛が岩国を訪れ、直々に交渉を行い、長州藩側が責任者として3人の家老の首を渡したことで「第一次長州征討」は攻撃延期となり、年末には撤兵令が出されて征討軍は正式に解体しました。



1-3:第二次長州征討とは

「第一次長州征討」で長州藩は征討軍に戦わずして屈服しましたが、実は藩内では内戦状態になっていました。征討軍に謝罪・恭順の姿勢をとる藩政府に対して反旗を翻したのは、高杉晋作でした。

  • 高杉の挙兵に対して敗退を重ねた藩政府は、当時の中心人物であった椋梨藤太の逃亡などにより瓦解し、人事も刷新されることになった
  • こうして、「武備恭順」5武力を備えつつ恭順姿勢をとること、つまり幕府に対して「いい顔」をしながら実力を蓄えるという意味という方針を採用した長州藩は、木戸孝允・広沢真臣・前原一誠・大村益次郎などの人物が中心となり、長州藩の立て直しを目指すことになる

こうした長州藩の武装強化の動きに対して、幕府は再び長州征討を志向するようになります。

その一方で、「薩長同盟」の動きが出てきます。筑前藩や土佐浪士(土方久元・中岡慎太郎)が薩摩藩と長州藩の和解を模索するようになり、やがて薩摩藩の方からも動きが出てきます。

坂本龍馬は最初に薩摩藩士と共に行動し、やがて長州藩士や太宰府に滞在していた三条実美ら(八月十八日政変で京都を脱走した公家たち)と接触するなど、中立的立場で万遍なく行動して薩長和解に向けて動いていました。

慶応元年(1865)9月8日、長州藩主父子から薩摩藩主父子へこれまでの名誉回復のために力を尽くしてもらったことに対する感謝状が送られることで、和解が成立しました6高橋秀直「第五章 薩長同盟の成立」『幕末維新の政治と天皇』(吉川弘文館)266~299頁

この点に関しては、高橋秀直「第五章 薩長同盟の成立」『幕末維新の政治と天皇』(吉川弘文館)が詳しいです。→詳しくはこちら

1-3-1:薩長同盟の締結

同時期に、一橋慶喜や会津藩・桑名藩から再び長州征討が提起され、勅命(天皇の命令)で実行されることを主張します。それでも、ひとまずは処分内容(10万石減封・藩主父子の蟄居、など)を長州藩に提示することが決定されるに至ります。この処分内容を長州藩が受け入れれば、「第二次長州征討」は幻の計画となるはずでした。

しかし、長州藩は処分内容の受け入れを断固拒否します。

  • 密かに上京していた木戸孝允は薩摩藩の西郷隆盛が一旦処分内容を受け入れるように勧告したが、それを拒否している
  • 長州藩の強硬態度とその立場を理解した薩摩藩は、坂本龍馬を証人として、戦争が発生した場合には長州征討を主張している一橋慶喜・会津藩・桑名藩の打倒などを約束する7青山忠正「島津家盟約と西南諸大名家」『明治維新と国家形成』(吉川弘文館、2000年)191~226頁

ここで、いわゆる「薩長同盟」が締結されました。

幕府から長州藩へ処分内容の伝達は広島・国泰寺にて行われました。前述したように、長州藩は拒否します。長州藩では、やむを得ず幕府と戦うことになったのだと「天下」に示す必要があるとし、幕府軍から戦闘を仕掛けてきたことを強調していくことになります8「慶応2年6月6日付山県有朋宛て木戸孝允書簡」(日本史籍協会編『木戸孝允文書 二』1930年)196~199頁

つまり、幕府軍と戦闘する長州藩が世間から好意的に捉えられるようにイメージ戦略をしっかりと行なっていたということです。そして、慶応2年(1866)6月7日、上関・周防大島に幕府軍艦が攻撃を開始したことで開戦となります9三宅紹宣『幕長戦争』(吉川弘文館、2013年)61~62頁

  • 長州軍が圧倒的優位に立ち、幕府軍は長州藩領へ進出することが全くできなかった
  • この間に、幕府内部でも将軍徳川家茂が急死し、徳川宗家当主・征夷大将軍が空位となる事態になるなどの混乱が続いた

一橋慶喜は、徳川家茂の代行として出陣を決意しますが、九州の小倉城が陥落したことで、戦況不利を悟って休戦を主張します。孝明天皇は慶喜の変転に不満でしたが、長州征討を休戦するように命令を出します。

9月2日、広島にて幕府側は勝海舟が代表者として長州藩と休戦協定を成立させます。こうして、「第二次長州征討」は結果的に失敗となり、幕府の求心力も堕ちることとなりました。朝廷が正式に長州征討を中止したのは、翌年(慶応3年)の1月22日のことでした。

1章のまとめ
  • 長州征討とは、朝敵(朝廷の敵)として認識された長州毛利家(長州藩)を軍事制圧するための出来事である
  • 第一次長州征討は、禁門の変で朝敵とされた長州藩を軍事制圧するために、幕府・諸藩が出兵を行なった出来事を指す
  • 第二次長州征討は、幕府が提示した罰則案(領地の削減など)を受諾しない長州藩に対して行われた戦闘を指す

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2章:長州征討に関する学術的議論

さて、2章では長州征討に関する学術的な議論を紹介していきます。

2-1:長州征討の歴史的意義

長州征討は、長州藩をめぐる政治課題であると共にさまざまな意義があると考えられています。

たとえば、久住真也の『長州戦争と徳川将軍―幕末期畿内の政治空間』(岩田書院、2005年)において、長州処分執行の失敗と長州征討による幕府軍の敗北は、朝廷・幕府権威の失墜と国内の政治的無秩序化の進行を意味したと指摘されています。

さらに、「将軍畿内滞在態勢」という視点から長州征討を捉えることを提起しています。つまり、将軍が畿内に滞在することで朝廷と協調し、長州征討という大事業を行なったことを指摘しています。

そして、将軍徳川家茂死去の後に徳川宗家・征夷大将軍を継承した徳川慶喜は、それまでの将軍が江戸を政権基盤とするのに対して京都を政権基盤としており、慶喜政権の特殊性にまで注目する見解を示しています10久住真也『長州戦争と徳川将軍―幕末期畿内の政治空間』(岩田書院、2005年)337~348頁。長州征討は、当時の日本政治の最重要課題であったと言えます。



2-2:長州征討の実像

三宅紹宣氏の『幕長戦争』では、実際に戦闘が繰り広げられた「幕長戦争」の実像について、いくつかの指摘がされています。

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まず、これまでの「幕長戦争」像は西洋式兵器をそろえていた長州藩が旧式兵器のまま戦った幕府軍に圧勝したという通説が一般的でした。

しかし、幕府直轄軍や紀州軍の兵器は長州藩のものと互角レベルのものであり、海軍力は幕府が最新鋭の大型軍艦を保持していたため、実は長州藩を圧倒していたと指摘しています。

さらに、長州軍が圧勝した要因は、戦法・兵站の点にあり、戦法としては散兵戦術という西洋式の戦法を熟知していたことを勝因に挙げています11三宅紹宣『幕長戦争』(吉川弘文館、2013年)270頁

2章のまとめ
  • 「将軍畿内滞在態勢」という視点から長州征討を捉えることが可能である
  • 長州軍が圧勝した要因は、戦法・兵站の点にあり、戦法としては散兵戦術という西洋式の戦法を熟知していたことに起因する

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3章:長州征討について学べるおすすめ本

長州征討を理解することはできましたか?最後に、あなたの学びを深めるためのおすすめ書物を紹介します。

おすすめ書籍

三宅紹宣『幕長戦争』(吉川弘文館)

長州征討に関する決定版と言えばこの一冊をおすすめします。禁門の変から話が始まり、幕長戦争(第二次長州征討)での戦況も詳しく解説されています。

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佐々木克『幕末史』(筑摩書房)

幕末維新史を通史的に理解したいならばこの一冊をおすすめします。長州征討は勿論、幕末氏のターニングポイントが万遍なく解説されています。

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家近良樹『江戸幕府崩壊 孝明天皇と「一会桑」』(講談社)

幕末史を変わった視点から理解したいならばこの一冊をおすすめします。長州征討を推進した孝明天皇や一橋慶喜・会津藩・桑名藩の視点から幕末史を解説しています。薩摩藩・長州藩など従来のオーソドックスな視点とは違った歴史像が見えてくると思います。

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まとめ

最後にこの記事の内容をまとめます。

この記事のまとめ
  • 長州征討とは、朝敵(朝廷の敵)として認識された長州毛利家(長州藩)を軍事制圧するための出来事である
  • 第一次長州征討は、禁門の変で朝敵とされた長州藩を軍事制圧するために、幕府・諸藩が出兵を行なった出来事を指す
  • 第二次長州征討は、幕府が提示した罰則案(領地の削減など)を受諾しない長州藩に対して行われた戦闘を指す

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