オランダ東インド会社(Dutch East India Company)とは、17世紀初頭に設立された、アジアを拠点とする貿易会社です。世界初の株式会社と言われており、ヨーロッパへの香辛料貿易をほぼ独占し、莫大な力を持ちました。
オランダ東インド会社の活動は東南アジア諸国の植民活動にも及び、やがて本国政府の管理下におさまらないほどの力を持つようになりました。
そのためオランダ東インド会社について知ることは、世界史、政治史の教養としてとても重要です。
そこで、この記事では、
- オランダ東インド会社設立の時代的背景
- オランダ東インド会社の概要・特徴
- オランダ東インド会社の発足から解体までの歴史
をそれぞれ解説していきます。
関心のある所からお読みください。
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1章:オランダ東インド会社とは
1章ではオランダ東インド会社を「時代背景」「概要」「特徴」から概説します。より具体的な歴史に関心のある場合は、2章から読み進めてください。
このサイトでは複数の文献を参照して、記事を執筆しています。参照・引用箇所は注1ここに参照情報を入れますを入れていますので、クリックして参考にしてください。
1-1:当時のオランダと世界の情勢
まず、オランダ東インド会社が設立された当時の時代的な背景を紹介します。
15世紀は、ポルトガルとスペインの海外進出を皮切りに「大航海時代」が始まります。その大まかな過程は以下のとおりです。
- 当時のヨーロッパでは豊かな食文化が華開き「香辛料」の需要が増していた。香辛料の原産地は、インドを中心としたアジアの国々。
- それまで、ヨーロッパからアジアへの貿易路はオスマン帝国(現在のアフリカ北部・トルコ周辺に位置した)を通過する陸路が主流だった。
- しかし、オスマン帝国は多額の関税をかけ、ヨーロッパの貿易商達の負担となった。そのため、アジアへの新たな貿易路として「海路」の開拓にヨーロッパ各国が乗り出した。
こうして、大航海時代が幕を開けました。
その際、オランダに先駆けて、アジアに到達したのはポルトガルとスペインです。当初、スペインはポルトガルを支配下に収めて、アジア貿易の覇権を握ります。しかし、この勢いは長く続きませんでした。
端的にいえば、スペインの勢いを食い止めたのはオランダです。当時、オランダはスペインの支配下にあり、スペインによる宗教弾圧と重税に人々は苦しんでいました。これに耐えられなくなったオランダの人々は「オランダ独立戦争」を起こします。
そして、オランダ独立戦争の結果、スペインは敗北し衰退していきます。ここで、スペインに代わって、アジア貿易に乗り出したのがオランダとイギリスでした。その際、アジア貿易を担うために設立されたのがオランダ東インド会社だったのです。
1-2:オランダ東インド会社の規模・拠点・貿易品種など
オランダ東インド会社設立の背景を踏まえて、オランダ東インド会社の概要に触れていきます。
1-2-1:規模
まず、主な貿易範囲は、現在のインドネシア周辺のエリアでした。特に、スマトラ島、ジャワ島、ボルネオ島南部、モルッカ諸島を植民地として支配下に収めます。
いずれも主要な香辛料の原産地だったため、香辛料貿易はオランダにほぼ独占されることとなります。
また、貿易範囲を東南アジアから中国、台湾、日本へと広げていきます。後に説明するように、ヨーロッパ諸国の中で唯一、鎖国中の日本で貿易を認められていたのがオランダ東インド会社でした。
1-2-2:主な拠点
次に、主な拠点として、以下の地域が存在しました。
- バタヴィア(現在のジャカルタ)・・・オランダの前に拠点を置いていたイギリスを追い払い設立。東南アジアでの香辛料貿易の拠点となった
- アユタヤ(現在のタイ)・・・バタヴィアに続き、設立。日本への輸出品であった蘇芳や鹿皮の産地となった
- セイロン島(現在のスリランカ)・・・オランダの前に拠点を置いていたポルトガルを追い払い、設立。シナモンの原産地であり重要な拠点であったため、140年間にわたり植民地下におかれた
- 台湾・・・明(中国)との貿易の拠点として設立。台湾は約40年間にわたり植民地であった。その拠点に建設されたのがゼーランディア城である
- 出島・・・鎖国中の日本との貿易の拠点として商館が設立されたのが長崎の出島。日本は他の拠点のように、植民地化されなかった。出島の外に出ることは許されておらず、自由貿易は江戸幕府に制限されていた
- ケープタウン(現在のアフリカ)・・・オランダとバタヴィアの中継地点として設立。補給地として重宝される。原住民を奴隷とし、農場の経営が行われた
1-2-3:主な貿易品種
そして、オランダ東インド会社が扱った貿易品種としては、以下のものがあります。
- 香辛料(東南アジア原産)→ヨーロッパに輸出(胡椒・ナツメグ・シナモン・メースなど)
- 陶磁器(明産・日本産)→ヨーロッパに輸出(景徳鎮の陶磁器・有田焼など)
- 生糸(明産)→日本に輸出
- 銀、銅(日本産)→ヨーロッパに輸出
1-3:オランダ東インド会社の特徴
では一体、オランダ東インド会社はどのような特徴をもった会社だったのでしょか?ここでは大きく「世界初の株式会社」「多様な権限」「日本との貿易」の3点から紹介してきます。
1-3-1: 世界初の株式会社
冒頭で触れたように、オランダ東インド会社は世界初の株式会社と言われています。
具体的に、その理由は、
- 事業の継続が前提とされていたため
- 出資者の責任が有限であったため
- 株式の譲渡が自由であったため
です。それぞれ解説していきます。
まず、①の「事業の継続が前提とされていたこと」について。たとえば、先に設立された「イギリス東インド会社」は航海ごとに、会社が設立されていました。つまり、航海が終われば会社は解散されており、会社への出資は航海ごとに行われていたのです。
それに対してオランダ東インド会社は、継続的な企業活動が前提とされていました。そのため、現在の株式会社のように、長期的に継続される事業に出資がされたのです2中篠秀治「「組合型」企業としてのオランダ東インド会社ー大塚久雄『株式会社発生史論』の再検討(3)ー」(『中京経営研究』第26巻)38ー39頁を参照。(※詳しい設立のながれについては、第2章をご覧ください)
次に、②の「出資者の責任が有限であった」点に関してです。これは、仮にビジネスが失敗し大きな損失が発生したとしても、出資者は責任をとらなくても良いということを意味します。
つまり、仮に出資した会社が倒産したとしても、出資した額を失うだけで済むということです。これを「有限責任」といいます3八重森力「オランダ東インド会社の会計処理とその経営:近世日本、中世イタリアとの比較から」(『山梨学院大学現代ビジネス研究』第10号)80頁を参照。そして、出資が有限責任であったため株主が出資しやすくなり、それによりオランダ東インド会社の活躍が後押しされることになったのです。
(※オランダ東インド会社創業時には約1450人の株主が出資していたと考えられています4奥隅栄喜「株式会社の期限としてのオランダ東インド会社ー株式会社の本質を求めてー」(『明大商學論叢』第73巻)9ー10頁を参照。)
そして、③の「株式の譲渡が自由であったこと」とあるように、オランダ東インド会社の株式の譲渡は自由とされていました。現在においても、株式譲渡は原則自由とされており、現在の株式会社の形態と重なります。
1-3-2: 多様な権限
オランダ東インド会社は、単なる貿易会社ではなかったと考えられています。それは、オランダ東インド会社が与えられていた権限が多岐に渡るためです。
たとえば、オランダ東インド会社には東南アジアにおける植民行為、条約の締結権、裁判権、貨幣の鋳造権などが認められていました。
そして、事実、バタヴィアの都市建設にまで着手をしています。その概要は以下の通りです5松田浩子「オランダ東インド会社によるバタヴィアの水路網と空間形成」(『日本建築学会計画系論文集』第78巻第685号707ー712頁を参照。
- オランダ東インド会社の艦隊を率いたヤン・P.クーン指揮の下、バタヴィアの都市建設が進められた
- 彼は先住民の暮らしていた街であるジャカルタを破壊し、その上にバタヴィアの都市が建設した
- 建設されたバタヴィアは、舟運や防衛、貯水、利水、排水用の水路を重視した都市となった(その時形成された都市が現在のジャカルタの原型となる)
1-3-3: 日本との貿易
そもそも、オランダと日本の関係は、1600年にオランダの商船リーフデ号が日本に漂着したことから始まります。
リーフデ号の人々は、江戸幕府の外交官として重宝されました。その後、徳川家康がオランダ東インド会社に日本との貿易の許可を与えて、オランダ東インド会社と日本の貿易が始まりました。
当初、平戸(現在の長崎県に位置する)に専用の商館が設置されて、そこで取引が行われていました。しかし、徳川家康の死後「鎖国」が始まります。そして、ヨーロッパ諸国と日本の貿易は禁止されてしまいました。
しかし、オランダだけは貿易を引き続き許されていました。それは「島原の乱」鎮圧の援助として、幕府に武器の提供を行ったためです。自由な貿易は「出島」内に限定されたものの、ヨーロッパ諸国で唯一、日本との貿易を独占するに至ったのでした。
一旦、これまでの内容をまとめます。
- オランダ東インド会社とは、17世紀初頭に設立された、アジアを拠点とする貿易会社である
- オランダ東インド会社には「世界初の株式会社」「多様な権限」「日本との貿易」という特徴がある
2章:オランダ東インド会社設立から解散までの経緯
さて、2章ではオランダ東インド会社の設立から解散までの具体的な出来事を解説します。
2-1:設立
オランダ東インド会社設立の契機となったのは、上述したオランダ独立戦争です。これは、スペインによる宗教弾圧と重税に耐えかねたオランダの人々が起こした戦争です。
独立を果たしたオランダに待っていたのは、以下のような展開でした。
- 戦争に敗れたスペインは、オランダ商船の貿易を妨害し始めた
- その結果、オランダ商船はポルトガルへの入港を禁止され、東南アジア産の香辛料を仕入れることができなくなってしまう
- すると、今度はオランダの商人が香辛料を仕入れるために、自ら東南アジアへ船を乗り出していった
- こうして、オランダ商人の東南アジア進出が活発化し、香辛料の仕入れは活発になった
しかし、その後、香辛料の価格割れという問題が発生します。その結果、貿易会社が相次いで設立され、香辛料の仕入れ競争とヨーロッパでの販売競争が激化します。そのような状況を打開するため、それぞれの会社が一つに統合されることになります。
1602年、こうして設立されたのがオランダ東インド会社でした。その特徴は以下のとおりです。
- 複数の貿易会社が統合して設立されたオランダ東インド会社には、本社がなかった
- オランダ国内に支社が6つ設立され、そこを拠点に活動を始めた
- 経営の舵を握ったのは「17人会」。大口の出資者からなる組織
- 17人会には東南アジアにおける植民行為、条約の締結権、裁判権、貨幣の鋳造権などの権限が与えられていた
その後、植民行為を続けて、ジャワ島に「バタヴィア」(現在のジャカルタ)を建設したことは上述の通りです。こうして、バタヴィアを拠点として東南アジア貿易を発展させていくのでした。
2-2:発展
バタヴィア建設以降、オランダ東インド会社はナツメグとメースの原産地であるモルッカ諸島を植民し、香辛料貿易を独占に乗り出します。そこに現れたのが、香辛料貿易で利益を得ようとしたイギリス商人でした。
そして、オランダ東インド会社とイギリス商人が衝突し、イギリス商人が殺害される事件(「アンボイナ事件」)が発生しました。この事件をきっかけに、以下のような出来事が展開されていきます。
- イギリス商人はモルッカ諸島から追い出される
- ジャワ島の地元勢力であった「マタラム王国」「バンテン王国」を属国化する
- オランダ東インド会社は現在のインドネシア周辺のエリアをほとんど占領し、「オランダ領東インド」が誕生した
- いずれも、香辛料の原産地であるため、香辛料貿易で優位に立つこととなる
他にも、セイロン島では現地の勢力である「キャンディ王国」と組み、オランダより先に拠点を置いていたポルトガルを追い出そうと試みます。その際、キャンディ王国にはポルトガル駆逐後のキャンディ王国の自治を約束していましたが、その約束を守られることはありませんでした。
なぜなら、セイロン島はシナモンの原産地であったため、その後も重要な拠点と考えられたためです。
その一方で、オランダ東インド会社は台湾やセイロン島(スリランカ)にも勢力を広げていきます。
かねてより明(中国)の支配を狙っていたオランダ東インド会社は、明への襲撃を続けますが失敗します。そうして進出したのが台湾でした。その後、台湾の南部を約40年間にわたり支配し、その拠点に「ゼーランディア城」を建設します。
しかし、中国本土から台湾に進行してきた「鄭成功」の活躍(「ゼーランディア城包囲戦」)により、オランダ東インド会社は駆逐されてしまいました。
2-3:解散
オランダ東インド会社の繁栄も、18世紀から以下の理由で陰りを見せます。
イギリスとフランスの脅威・・・イギリスの植民地拡大に伴う、東南アジアにおけるオランダの覇権は衰退
香辛料の需要の低下・・・17世期後半から、ヨーロッパではイギリス東インド会社が仕入れる茶、インド産の綿織物の需要が高まり、オランダ産の香辛料の需要は下がった6香辛料の代わりに藍やコーヒーの輸出を行いますが、イギリス東インド会社に勝ることはかないませんでした。
以上の2点の理由から、1799年、オランダ東インド会社は解散を迎えたのでした。
3章:オランダ東インド会社に関するおすすめ本
オランダ東インド会社について理解することはできたでしょうか?
最後に、さらに理解が深まる書籍を紹介します。ぜひ、学びを深めてください。どの書籍も、歴史が詳しくない方でも読みやすい一冊です。
永積昭『オランダ東インド会社』(講談社学術文庫)
入門書にオススメです。オランダ東インド会社の設立から解散までを詳しく学ぶことができます。オランダ東インド会社の盛衰を感じることができるはずです。
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桜田美津夫『物語オランダの歴史 大航海時代から「寛容」国家の現代まで』(中央公論新社)
オランダ東インド会社の背景で何が起きていたのか?オランダ東インド会社の動きだけでなく、本国オランダの動きを学ぶことができます。
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オススメ度★★ 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』(講談社学術文庫)
オランダ東インド会社だけでなく、イギリス東インド会社、フランス東インド会社についても学ぶことができます。どのような時代だったのかをイメージしやすくなるはずです。
一部の書籍は「耳で読む」こともできます。通勤・通学中の時間も勉強に使えるようになるため、おすすめです。
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まとめ
最後にこの記事の内容をまとめます。
- オランダ東インド会社とは、17世紀初頭に設立された、アジアを拠点とする貿易会社である
- オランダ東インド会社には「世界初の株式会社」「多様な権限」「日本との貿易」という特徴がある
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