名誉革命(Glorious Revolution)とは、イングランド王ジェームズ2世の専制政治に反発した議会が、オランダ総督ウィレムと手を組みジェームズを倒し、新体制を築き、立憲君主制を成立させた革命のことです。
名誉革命は世界史上のいち出来事ではありますが、その後の政治の仕組みに大きな影響を与えました。
細かい出来事を覚える必要はありませんが、大まかな要点を知っておくことはとても大事です。
そこでこの記事では、
- 名誉革命の意義や清教徒革命との違いなど
- 名誉革命の歴史
について詳しく解説します。
関心のあるところから読んでみてください。
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1章:名誉革命とは
先に結論を言うと、名誉革命は、
- 議会制民主主義や政党政治など、現代に繋がる政治制度を発展させるきっかけになった
- 王権を制限し立憲君主制を成立させた
という政治史上とても重要な出来事でした。
大きな流れを言うと、
クロムウェルの独裁の終了→王政復古→ジェームズの独裁→名誉革命
というように起きた革命です。
1章では、まずは名誉革命のポイントに絞って解説します。詳しい歴史を知りたい場合は2章から読んでください。
このサイトでは複数の文献を参照して、記事を執筆しています。参照・引用箇所は注1ここに参照情報を入れますを入れていますので、クリックして参考にしてください。
清教徒革命(ピューリタン革命)について以下の記事で解説していますので、ぜひ合わせて参照してください。
1-1:名誉革命は何が「名誉」なのか
まず、名誉革命という言葉について「なぜ『名誉』なの?」と思われているかもしれませんが、これは「血を流さない革命だったから」というのが答えです。
革命とは既存の政治体制を壊すものなので、一般的には暴力を行使して死傷者が出るものです。しかし、名誉革命では直接的に暴力を行使することなく革命を実現することができたため、それが「名誉」なのだということです。
こうした由来から「無血革命」とも言われています。
ただし、名誉革命では血が流れなかったとは言え、革命の翌年には多くの血が流れています。亡命したジェームズ2世がルイ14世と組んで、アイルランドで王位を奪還しようと試みていたからです。
革命でイングランド君主となったウィリアム3世とメアリ2世は、アイルランドに進軍し、フランス・アイルランド軍を打ち破り、アイルランドではカトリックが弾圧されました。
1-2:名誉革命と清教徒革命の違い
名誉革命と清教徒革命(ピューリタン革命)の特徴をまとめると以下のようになります。
清教徒革命 | 名誉革命 | |
時代 | 1642-1649年 | 1688-1689年 |
原因 | チャールズ1世の専制政治、非イングランド国教会の教徒の弾圧、スコットランド、アイルランドへの弾圧 | ジェームズ2世による専制政治や親カトリック政策 |
革命の主体 | チャールズ1世率いる国王軍との争いに対し、議会の独立派を主導したクロムウェル | 議会の一部とオランダ総督ウィレム(後のウィリアム3世) |
意義 | 絶対王政を倒し共和政を樹立した | ジェームズの王政を倒し、ウィリアムの統治下で立憲君主制や言論の自由が保障された |
詳しくは2章の解説の中で説明していきますので、まずはここでは簡単に頭に入れておいてください。
1-3:名誉革命の要約
歴史上の出来事を知る上では、まずはその出来事の全体像を頭に入れることが大事です。いきなり細かい点から理解しようとすると、全体像が分からず混乱してしまうからです。
そこで、名誉革命について要点をまとめます。
- クロムウェルの死後、チャールズ1世の子チャールズ2世と議会によって王政復古が成され、三位一体(国王、貴族院、庶民院)の体制が作られた
- 新しい議会(騎士議会)は、王権を制限する決議を行った
- チャールズ2世はカトリックに改宗しており、この点で議会と対立したが、議会はイングランド国教会の体制を強め、結果的にカトリック教徒であったチャールズ2世の弟ジェームズが役職を失う
- ジェームズは王位継承権1位だったため、王位継承問題で議会がホイッグ(王位継承に寛容)とトーリ(王位継承に反対)に分裂したが、結果的に王位は認められる
- ジェームズは王位を継承したが、専制政治を行ったため、オランダ総督ウィレムと議会の一部が手を組んで進軍し、ジェームズ2世は国外逃亡、ウィレムがウィリアム3世として妻メアリ2世と共同統治を開始(名誉革命)
- 名誉革命によって、王権の制限や言論の自由が決議され、外交上は「勢力均衡」の概念が採用された
- その後、メアリ2世の妹アンによってイングランドとスコットランドが合併され、グレートブリテン(イギリス)が誕生
名誉革命のポイントが理解できたでしょうか?
2章では名誉革命の歴史を説明しますので、まずはここまでをまとめます。
- 名誉革命とは、ジェームズの王政を倒してウィリアムの王政を打ち立て、立憲君主制を成立させるきっかけになった革命
- 名誉革命は、直接的に血を流さなかったことから「名誉」な革命と言われる
- 名誉革命は、議院内閣制や政党政治など現代に繋がる政治制度を発展させるきっかけになった
2章:名誉革命の歴史
歴史を理解する上では、まずは全体像を知ることが大事です。そこでこれから、名誉革命の歴史について、要点に絞って解説していきます。
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2-1:王政復古
クロムウェルが死去し息子のリチャードが護国卿の立場を辞したため、護国卿体制はあっけなく終わりました。
そこで新たな統治機構が再編される動きが起こり、
- クロムウェルによって解散されていた残部議会が復活
- 長期議会も再開
- さらに仮議会が招集され、「貴族院」「庶民院」の二院制も復活
といったことが次々に起こりました2君塚直隆『物語イギリスの歴史』(下)23-24頁。
こうした政治状況の中、亡命していたチャールズ1世の息子であるチャールズ(Charles II/1630-1685年)が王政復古のために行動します。
- 清教徒革命の関係者への大赦
- 革命中に所有者が移転した土地を承認
- 信仰の自由の宣言
- 軍隊の未払い給与の補償
こうしたチャールズの動向を踏まえて、仮議会は、
- 統治の形態を「国王」「貴族院」「庶民院」の三位一体に戻すことを決議
- チャールズを国王として承認する
といったことを行い、スコットランド、アイルランドもこのイングランド議会の決定に追従しました。
こうして王政復古が成し遂げられ、チャールズ1世の息子がチャールズ2世として統治を行うようになり、イングランドは再び王政に戻りました。
2-2:騎士議会による王権の制限
王政復古後の「貴族院」「庶民院」の議会のことを、「騎士議会」と言います。
騎士議会が行ったのは、国教会の復権と国王の権力の制限です。
【騎士議会による政策】
- 清教徒革命(ピューリタン革命)によって崩れたイングランド国教会の体制を再建
→その反動でカトリックや非イングランド協会のプロテスタントが迫害の対象になった - クロムウェルの専制を裏付ける力になった軍隊を縮小
- 国王による封建的課税や、議会の同意なき課税を禁止
チャールズ2世は議会に対して穏健だったため、権力を制限するような政策が行われても大きな対立を生むことはありませんでした。
しかし一方で、チャールズ2世は宗教面での問題を持っており、それが次の政治問題となっていきます。
2-3:チャールズ2世の宗教問題と王位継承問題
チャールズ2世は、亡命中にフランス君主であるルイ14世との間で、とある約束をしていました。
それが、イングランドをカトリックの国家にするということです。その見返りに、チャールズ2世はルイ14世から裏金をもらっていました。さらに、チャールズ2世自身もカトリックに改宗していました3君塚、前掲書27頁。
これが、宗教問題と王位継承問題を発生させることになります。
「チャールズ2世がカトリックに改宗したことが何で問題になるの?」と思われる場合もあるかもしれませんが、この問題を理解するためにはイングランド国教会とローマカトリック教会の関係を知っておく必要があります。
もともと、ヨーロッパはローマカトリック教会の宗教的権威と体制によって支配されていましたが、その支配を崩し『聖書』に正しいキリスト教を復活させようとしたのが、「宗教改革」です。
その宗教改革で生まれたのが、「プロテスタント」や「イングランド国教会」なのです。
そのため、イングランドではイングランド国教会はカトリックの影響力が再び強まることに対して反発心があり、君主が改宗することなど大きな問題になるのです。
宗教改革やプロテスタントの思想について、詳しくは以下の記事で解説しています。
2-3-1:宗教問題
チャールズ2世は、イングランドをカトリック化するというルイ14世との約束があったため、ひそかにそのために行動をしようとします。
そのために、まずは「信仰自由宣言(1672年)」を発しました。
つまり、「イングランド国教会に限らず他の宗派を信仰してもいいよ。もちろんカトリックを信仰してもいいよ。」ということです。議会は、この宣言でカトリックの影響力が強まることを危惧して、以下のようにルールを強めました。
- 宗教問題は議会制定法によってのみ決定できることを採択
- イングランドでは、要職に就く場合はイングランド国教会の儀礼を行うことを義務付ける「審査法」を制定
こうして、イングランドではカトリックを信仰する人が要職に就くことができなくなったのです。
こうして、イングランド国内におけるイングランド国教会の支配を強めようとしたのです。
2-3-2:王位継承問題
しかし、「審査法」ができて、カトリックを信仰する人が要職に就けなくなったことで、新たな問題が生まれました。
「審査法」ができたことで、チャールズ2世の弟であるヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世/James II of England)が職を失うことになったのです。ジェームズがカトリックを信仰していたためです。
「なぜ国王でもないジェームズが宗教問題に関わるの?」と思われるかもしれませんが、ジェームズが王位継承権の第一位だったのです。
イングランド国教会を重視する流れがある中で、カトリックを信仰するジェームズを国王にすることが認められるのか。
これが王位継承問題で、議会を二分する激しい議論が行われました。議会では、以下のように勢力が分かれました。
【ホイッグとトーリに分かれた議論】
- ホイッグ…シャフツベリ伯爵が率いる党派で、議会を重視しイングランド国教会以外の宗派に対しても寛容な姿勢を取った
- トーリ…国王の権力とイングランド国教会の役割を重視した
結論としては、現王であるチャールズ2世の積極的な立ち回りもあり、ジェームズの継承権は認められることになりました。
しかし、これがその後名誉革命に繋がる問題を生むことにもなりました。
ホイッグ党とトーリ党に分かれた議会は、その後イギリスの伝統的な議会制民主主義や政党政治という政治の基本を作り、世界のモデルになっていきました。
それぞれ詳しくは以下の記事をご覧ください。
2-3-3:ホイッグ党とジョンロック
トーリ党とホイッグ党が王位継承問題について対立したと説明しましたが、この対立に哲学者ジョン・ロック(John Locke)が関わっていたことも知られています。
ホイッグ党のシャフツベリは哲学者ジョン・ロックと親交があり、ロックはシャフツベリのブレーンとして活動していた時期があるのです。
トーリ党再度はロバート・フィルマーの『家父長論』を自分たちの立場の理論的根拠としていたため、それに対してロックは『統治二論』で対抗しました。
ロックの思想について詳しくは以下の記事をご覧ください。
2-4:ジェームズ2世の専制政治
ジェームズ2世は、穏健だったチャールズ2世とは異なり専制政治を行いました。
2-4-1:常備軍維持・カトリック重視の政治
ジェームズ2世は例えば、
- カトリック王であるジェームズ2世に反発した、チャールズ2世の私生児モンマス侯爵が反乱した際、進軍し、鎮圧した後も常備軍を維持した
- 王位継承後に要職の就く人々を粛正し、カトリック教徒に要職を継がせた
- 信仰自由宣言を発し、カトリックを重視、イングランド国教会の体制を弱める姿勢を持った
などの政治を行いました。
2-4-2:ウィレムと議会の結託による名誉革命
こうしたジェームズ2世の政治は、もちろん国内からの反発を招きました。
そこで、議会の有力者とオランダ総督ウィレム(後のウィリアム3世/William III)が結託し、議会がイングランド軍をコントロールし、ウィレムがオランダ軍を率いてイングランドに進軍し、ジェームズを国外に追い出しました。
こうして議会はジェームズ2世の逃亡によって王位が空座になったことを宣言し、革命が実現したのです。
その後、仮議会が開かれてウィレムがウィリアム3世として妻のメアリ2世とともにイングランドを統治することになり、名誉革命が完了しました。つまり、ジェームズ2世の統治からウィリアムとメアリの統治に転換したことが名誉革命です。
2-4-3:名誉革命の意義
ある程度政治に詳しい人なら、「名誉革命って本当に『革命』って言えるの?」と思われるかもしれません。
なぜなら、「革命」とは政体の変化を伴うものだからです。
たとえば、王政から共和政に変化した清教徒革命(ピューリタン革命)はまさしく革命です。しかし、名誉革命は君主が入れ替わっただけなので、確かに革命と言えるのか疑問を残します。
しかし、名誉革命は単に君主が入れ替わっただけにとどまらないため、確かに革命としての意義を持つ出来事でもあったのです。
名誉革命には、大きく以下の3つの歴史的意義があります。
【名誉革命の意義】
- ウィリアム3世とメアリ2世の戴冠式において宣言された宣誓文で、王が継承してきた「祖法」が、国王だけの法ではなく議会と国王の法であると宣言された
- 「権利章典」で、議会の許可がない課税や、議会の許可がない常備軍の維持が禁止され、言論の自由が保障された
- 弱小国イングランドに強国オランダから君主が来たことで、主体的な外交が可能になり、「勢力均衡(バランスオブパワー)」という外交原理を導入した4君塚、前掲書35-36頁
革命=政体の変化として考えると革命であったのか疑問を持つかもしれませんが、実態をよく見ると革命できな出来事であったことが分かると思います。
2-5:グレートブリテンの誕生
その後、ウィリアム3世は9年戦争やスペイン王位継承戦争などに参戦し、イングランドは勢力範囲を広げることができました。
しかし、ウィリアム3世は王位を継承できる子供がいませんでした。
そこで、まず王位継承法を制定してカトリック教徒は王位を継承できないことを決めた上で、
- ウィリアム3世の後は、メアリの妹アンが王位を継承する
- アンの後は、ジェームズ1世の長女エリザベスの娘であるゾフィーが継承する
ということを決めました。
しかし、これに対してジェームズ2世の子であるジェームズを王にしよう、という動きもスコットランドで現れます。
そこで、アン(Anne Stuart)が即位してからはゾフィー(Sophie von der Pfalz)が安定した統治をできるようにイングランドとスコットランドの合併を進めました。
こうして1707年に生まれたのがグレートブリテン連合王国(イギリス)が誕生したのです。
アンはイングランドの最後の君主であり、同時にグレートブリテンの最初の君主となりました。また、ゾフィーはアンが崩御する前に逝去していたため、君主になることはありませんでした。
名誉革命の内容をまとめます。
- ジェームズ2世の専制に対し、イングランド議会とオランダ総督ウィレムが手を組んでジェームズ2世を倒し、ウィレムがウィリアム3世として妻メアリ2世と君主になったのが名誉革命
- 名誉革命によって、国王の権力は制限され、政治における議会の役割は不可欠になり、言論の自由が認められた
- 名誉革命後、メアリ2世の妹アンによってイングランドとスコットランドが合併され、グレートブリテン(イギリス)が誕生
3章:名誉革命の学び方とおすすめ本
名誉革命について理解を深めることはできましたか?
歴史上の出来事は細かく見ていくときりがありません。そのためこの記事ではできるだけ簡潔に要点に絞って記述しましたが、より詳しく知りたい場合は必ず書籍にあたることをおすすめします。
そこで最後に名誉革命について学べるオススメ書籍を紹介します。
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近代のイギリスの歴史が詳しく書かれた、イギリスの中学校の教科書を翻訳したものです。非常に面白いのでぜひ通読することをおすすめします。
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君塚直隆『物語イギリスの歴史』(上・下)(中公新書)
イギリスの歴史を講義調で解説しているものです。名誉革命について書かれているのは「下」ですが、その前の歴史から知っておかなければイギリスの王朝の役割や王権が制限されていくプロセスが理解しづらいです。上下合わせて読むことをおすすめします。
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まとめ
この記事の内容をまとめます。
- 名誉革命とは、ジェームズ2世の専制政治に反発した議会とオランダ総督ウィレムが手を組み、ジェームズを倒して新しい体制を作った革命
- 名誉革命は、議院内閣制、政党政治、立憲君主制を発展させるきかっけを作った
- 名誉革命は、革命では直接血を流さなかったことから、無血革命とも言われる
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