陰陽道とは、占い・天文・時・暦の編纂を担当する機関である陰陽寮で教えられていた天文・暦道の一つです。元々は古代中国で誕生した自然哲学や陰陽五行思想を起源としています。
日本に伝播した後は独自の発展を遂げ、呪術や占術の色合いが強いものとなっています。
この記事では、この陰陽道を、
- 陰陽道の概要と思想
- 陰陽道の歴史
- 陰陽道と密教・道教
から解説をしていきます。
興味のある方はお好きなところから読み進めてください。
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1章:陰陽道とは
まず、冒頭でも簡単に説明をしましたが、
陰陽道とは古代中国で成立した陰陽五行説を基盤とした天文道・占術
を指します。
日本で独自の発展を遂げた自然科学・天文・暦・呪術を体系化したものであり、単なる学問に留まらず政治に取り入られることも多々ありました。
日本中世以降は公的に衰退したものの、冠婚葬祭を執り行う際の吉凶、方角、相性や、加持祈祷等に大きく影響しました。現代でも名残りとして、結婚・葬式などの日選びや、建築の方忌 、星占いなどに反映されています。
1-1:陰陽道の思想・特徴
では、陰陽道はどの様にして日本に伝わり、発展していったのでしょうか?
1-1-1:陰陽道の起源について
そもそも、陰陽道の起源は古代中国にあった「陰陽思想」と「五行思想」(陰陽五行思想とも)とされています。
「陰陽思想」と「五行思想」は、厳密に言うとそれぞれ別個の思想であり、陰陽思想が先に成立したと考えられています。そのすぐ後に五行思想が起こり、比較的早い段階で両者が結合しました。
■ 陰陽思想
陰陽説を唱えた人物は、春秋戦国時代の鄒衍とされています。彼は陰陽家と呼ばれる諸子百家の内の一人でした。陰陽説を最初に説いた人物と考えられがちですが、実は鄒衍が最初に説いたという訳ではありません。
実際には、陰陽思想は様々な思想家の中で徐々に形成されていった理論ではないかと考えられています。その理論を体系づけていった思想家が陰陽家だったという訳です。
そして、陰陽説の特徴は以下のようにまとめることができます。
- この世の万物は全て「陰」と「陽」の二つの「気」から構成されると考えられている
- 「気」とはガス状であり、万物の元となる微粒子の様なもの
- 空気中に漂う「気」は人の体内にも取り入れられるため、世の中の全ての物や生き物、事象に関しても「気」が作用していると考えられた
「気」は元来一つとされましたが、相反する現象(水は冷たく、火は熱い等)を説明できません。そのため、万物は同じ一気から構成されているのではなく、二気(陰気・陽気)で万物が構成されるという陰陽説が展開されるようになったのです。
■ 五行思想
五行思想とは、
陰陽思想で述べた「気」を「木」・「火」・「土」・「金」・「水」の五つに分類し、その五つの気の働きによって万物が生じると考える説のこと
です。
五行説では五気の循環によって物質や物事は変化していくと考えられており、循環の順序として「相克説」と「相生説」の二種類の考え方が存在しています。
相生説・・・五行が影響し合って互いを生み出す関係性を指す。たとえば、木は燃えることによって、火を生み出します。火は木を燃やして土を生む。土は中で金を生み、金は結露して水を生みます。そして、水は木を育む
相克説・・・五行が互いに交代する関係性にあるという考え方。木は土に根をはり侵食する。金は斧などの道具に加工されると木を切り倒す。火は金を溶かし、水は火を消す。その水は土に吸収されてななる
このように、五行は互いに生み出しあい、打ち消し合う性質を持つと考えられました。
1-1-2:陰陽道の概要
そして、日本における陰陽道は、
道教の方術に由来する方違、物忌、反閇などの呪術や、泰山府君祭などの道教的な神への祭祀、加えて土地の吉凶に関する風水や、医術の一種であった呪禁道も取り入れ発展いった
という歴史があります。
また、日本の神道とも影響を受けながら独自の発展を遂げました。これに加えて8世紀末頃には密教の呪法や、新しく伝わった占星術の影響を受けています。
古代中国での陰陽五行説は、占術・呪術の他にも、自然科学や哲学、医学などの諸分野に渡って、基本的な理論として用いられてきました。
しかし、中国から陰陽道が伝わった際の日本では、それらの諸科学が未発達であった点、そして陰陽五行説を伝えた人物が僧侶であったり、同時期に道教も伝播したため、科学というよりは宗教的、呪術的な側面が色濃く現れるようになりました。
1-2:有名な陰陽師
陰陽師とは、古代日本の律令体制下の中で、中務省の陰陽寮に属した官職を指します。陰陽道によって占いを行ったり、土地の様相からくる吉凶など見定める官吏として配置されました。
中世・近世になると、私的祈祷や占術を行う人を指し、官吏としての色合いは薄れていきました。中には神職のようなポジションの人も存在していたようです。
ここでは、著名な陰陽師についてご紹介をしていきます。
1-2-1: 観勒
観勒は厳密に言うと陰陽師ではなく、朝鮮半島の百済国から帰国した留学僧です。陰陽五行思想を基盤として書かれた遁甲方術である『摩登伽経』を伝え、34名の弟子に講義しました。
暦法や天文、遁甲方術(占星術)を伝え渡り、彼が教えた元嘉暦(太陰太陽暦)は聖徳太子によって官暦として正式に採用されました。
彼は決して陰陽師ではありませんでしたが、陰陽師の先駆け的存在でした。飛鳥寺、親百済派であった蘇我氏由来の法興寺・元興寺に居を構え、639年(舒明天皇11年)に百済大寺を開きました。
1-2-2: 僧旻
観勒と同様に、僧旻も百済からの帰来人でした。正式な法名は僧日文であり、縦書きにすると「僧旻」とも読め、それが定着して「そうあん」となりました。
僧旻は、
- 小野妹子の第一回遣隋使に同行し、24年間もの長期で隋に留学、仏教・儒教・陰陽五行思想・天文などを広く学ぶ
- 後に犬上御田鍬の第一回遣唐使にと一緒に帰国しました。天文に精通し、639年(舒明天皇11年)の彗星出現については、飢饉の前触れであると主張した
- 大化の改新の際には、国策により「十師」の一人として高僧の認定を受け、649年(大化5年)には八省百官の制を創案するなど活躍した
人物です。
その後も、白戸国司から白い雉が献上された時には、珍鳥出現の祥瑞を中国漢代の緯書の語句と中国の史書に見られる先例を根拠に「帝徳が天に感応して現われた祥瑞であるから天下に大赦するべきである」と主張しました。
1-2-3: 安倍晴明
安倍晴明とは、
遣唐使に参加し、城刑山で伯道上人に学び、日本に帰国すると秘伝秘術化した独特の陰陽道を構築した
人物です。
『簠簋内伝金烏玉兎集』を著したとも言われていますが、真偽は不明です。伯道上人に教えを受けた際に授けられたものであるとする説もあります。現時点で安倍晴明の著作として確認されているのは、『占事略决』のみとなっています。
陰陽道の中で最も難しい天文道に精通しており、藤原道長などに重用されて影響力を持ちました。天文博士を勤めた後には播磨守などの官職に就き、最終的には「従四位下」まで昇進しました。
五芒星(晴明桔梗・晴明紋)という呪符を使い、「青龍」「勾陣」「六合」「朱雀」「騰蛇」「天乙貴人」「天后」「大陰」「玄武」「大裳」「白虎」「天空」の式神十二神将を自由に駆使したとされています。
その能力と影響力から『大鏡』『宇治拾遺物語』など様々な書物で取り上げられ、近年でも小説や映画などに登場しています。
1-2-4: 蘆屋道満
蘆屋道満は
平安中期の人で、官人ではない陰陽師です。播磨国(現在の兵庫県)の出身で、呪術に長けいた
人物です。
ドーマン(九字を表す縦4本・横5本の格子模様)の呪符を好んだとも言われています。
蘆谷道満は藤原道長の政敵で左大臣の藤原顕光に藤原道長への呪祖を命じられ、これが安倍晴明とライバル関係となりました。
歌舞伎の演目『芦屋道満大内鑑』などで、よく安部晴明と呪術の戦いを繰り広げますが、蘆屋道満は悪役として登場することが殆どです。
- 陰陽道とは、占い・天文・時・暦の編纂を担当する機関である陰陽寮で教えられていた天文・暦道の一つである
- 陰陽道の起源は古代中国にあった「陰陽思想」と「五行思想」にある
- 陰陽師とは古代日本の律令体制下の中で、中務省の陰陽寮に属した官職であった。中世・近世になると、私的祈祷や占術を行う人を指すようになる
2章:陰陽道の展開の歴史
1章では陰陽道を概観しましたので、2章では陰陽道が展開される歴史を詳しく解説していきます。
2-1:中国における成立
まず、先に述べた通り中国においては、陰陽道という形で成立はせず、陰陽五行思想として発展を遂げました。陰陽五行思想については、成立時期が正確には分かっていません。
ただ、中国の春秋戦国時代の鄒衍(紀元前305年~紀元前240年)によって、陰陽説が唱えられて、間もなく五行説も生まれたと考えられており、両者はほどなくして結びついたと考えられていることから、中国における陰陽五行思想の成立は紀元前3世紀頃とみて大過なさそうです。
その後の展開としては、陰陽五行思想が前漢の儒学者である董仲舒によって、「天人相関説」「災異説」に発展して展開されたことが有名です。
- 天人相関説・・・天の動きと人の所為が互いに関係し合っているという思想
- 災異説・・・天が何らかの形(自然現象や超常現象)で人に対して意思を示すという考え
これによって、人の行動に対して、天が何らかの意思を示すという考え方が流行し、最終的には人の行為に対して、天が予言や予兆を示すという讖緯思想へと繋がっていきます。
2-2:日本への伝来・展開
そして、日本への伝播は西暦6世紀頃と考えられています。
具体的に、以下の事柄から6世紀頃と推測されています。
- 『日本書紀』継体天皇7年(513)の条に、百済から五行博士が送られたとの記録がある
- 儒教の聖典である五経の中には『易経』が含まれており、『易経』の基本理論の中に陰陽思想があるため、このタイミングで陰陽道が日本伝来したと考えられる
その後は、暦博士、易博士などの専門家や、渡来僧などが、天文・占術・遁甲(占星)・相地・暦法などの陰陽道と深く関係する書籍とともに陰陽道を伝えていったとされています。
また、これらの書物や陰陽五行思想がまとまって伝播される前から、日本には朝鮮半島経由で散発的に陰陽五行の思想が伝えられていたという見方もあります。
2-3:近世・近代・現代の陰陽道
陰陽道は武家が大きな力を持ち始め、実力主義の戦国乱世の時代(15世紀~16世紀)になると、儀礼的祭祀を司る陰陽師の力は急速に衰えていきます。政治への影響力を急速に失っていく一方で、陰陽師は民間信仰の一つとして民衆に受容されていきます。
幕藩体制が確立すると、江戸幕府は陰陽師を統制する動きを見せ始めます。
たとえば、
- 陰陽師の大家である土御門家幸徳井家(と賀茂氏の分家)を再興させ、諸国に散在する陰陽師を統括させた
- 17世紀末になると、土御門家は民間の陰陽師に免状を与える権利を得、全国の陰陽道の支配する体制を確立した
という事態が起きます。
江戸時代の陰陽道はすでに政治への影響力を失っていましたが、暦や方角の吉凶を占う民間信仰として広く定着しました。
明治維新後の1870年(明治3年)に至ると、新政府は「天社禁止令」を発布し、陰陽道を迷信として廃止させました。民間で細々と命脈を保つことはできましたが、この禁止令によって公的に陰陽師を名乗ることができなくなります。
しかし、現代でも陰陽道の思想などは、お正月など日本の年中行事に取り込まれ、暦や方角の吉凶を占う風水など一般民衆の日常生活と深く関わり続けています。
- 中国における陰陽五行思想の成立は紀元前3世紀頃と考えられている
- 日本への伝播は西暦6世紀頃と推測される
- 陰陽師は政治への影響力を急速に失っていき、民間信仰の一つとして民衆に受容されていく
3章:陰陽道について学べるおすすめ本
陰陽道について理解を深めることはできたでしょうか。
これから紹介する書物を参考にして、さらにあなたの学びを深めていってください。
オススメ度★★★『陰陽師 ―安倍晴明の末裔たち』(集英社新書)
安倍晴明以降の陰陽師について書かれた新書です。時代によって陰陽師の境遇が変わっていく様が書かれており、江戸時代以降政治への影響力を失い、現在にどの様に至ったのかを知ることができます。
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オススメ度★★『陰陽五行と日本の民俗』(人文書院)
中国で興った陰陽五行思想が日本に与えた影響と、風俗について詳細に書かれています。民俗行事や呪術的な行為に着目しており、日本に土着した陰陽五行思想を知る専著です。
一部の書籍は「耳で読む」こともできます。通勤・通学中の時間も勉強に使えるようになるため、おすすめです。
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まとめ
最後にこの記事の内容をまとめます。
- 陰陽道とは、占い・天文・時・暦の編纂を担当する機関である陰陽寮で教えられていた天文・暦道の一つである
- 陰陽道の起源は古代中国にあった「陰陽思想」と「五行思想」にある
- 中国における陰陽五行思想の成立は紀元前3世紀頃と考えられている
- 日本への伝播は西暦6世紀頃と推測される
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