政治史

【藩閥政治とは】意味・背景から政党政治までの変遷をわかりやすく解説

藩閥政治とは

藩閥政治とは、明治政府による少数の公家と薩長土肥の有力者で実権を握った政治形態を批判的に示した言葉である

藩閥政治を理解することは、日本の近代政治史を理解する上でとても大事なポイントです。

この記事では、

  • 藩閥政治が行われた背景
  • 藩閥政治の具体的な展開と政党政治へと転換していく過程

について解説します。

好きな箇所から読み進めてください。

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1章:藩閥政治とは

はじめに藩閥政治の定義と、関連する主要人物を紹介します。全国歴史教育研究協議会編『日本史用語集』を見てみると、藩閥政治の項目には次のように記されています1全国歴史教育研究協議会編『日本史用語集』(山川出版)229頁

薩長土肥4藩、特に薩長の出身者が要職を独占した状態の政府を指す。1871年、廃藩置県後の新官制で参議・各省の卿の大部分を独占し、この状態が固まった。内閣制度成立後も薩長出身者の多くが首相・大臣・元老となった。

記述内容を補足すると、1871年に廃藩置県が実施された後に官制改革が行われ、その結果太政官は正院・左院・右院の三院制とされました。

正院

  • 正院の下に各省を置く形式が採られる。各省の長官は卿、次官は大輔(たいふ)が務めている
  • 正院は政治の最高機関で太政大臣・左大臣・右大臣・参議から構成された

この時、これらの役職は薩摩・長州・土佐・肥前藩出身者にほぼ独占され、その状態は1885年に官制が内閣制に変更された後も続きました。

とくに、薩長出身者は大正期まで政府内のさまざまな要職を占めており、この政治形態を現した用語として、藩閥政治と言う用語が用いられるようになりました。

1-1:藩閥政治の意味と背景

先に記したように、藩閥政治は特定の藩出身者が実権を握った、一種の寡頭制とも言うべき政治形態です。このような形態が採られた背景に、同郷人同士の情実的人事の側面があったことは確かです。

ただし、藩閥政治が行われた要因はそれだけではありません。アメリカの歴史学者、テツオ・ナジタは、藩閥政治が行われた要因について次のようにまとめています2『明治維新の遺産』(講談社学術文庫)121頁

彼ら(注.大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山県有朋など)は主として薩長両藩の出身者であったが、出身地の共通性以上に重要なのは、彼らの明治維新観の共通性であった。すなわち彼らにとって明治維新とは、官僚的手段によって、強力で豊かで自立的な国家日本を創出せよという至上命題にほかならなかったのである。

ここでナジタはその傍証として、元幕臣の勝海舟や平民出身の渋沢栄一のように藩閥出身者以外でも要職を任せられた例がある一方で、西郷隆盛や江藤新平のように藩閥出身者でも「官僚的手段」に抵抗した者は、政府から排斥されたことを指摘しています。

ナジタが述べているように、明治初頭に寡頭制(藩閥政治)が採られた背景として、政府内では欧米列強と対抗できる、強力で豊かな日本を築くことが至上命題であったことが挙げられます。そのため、中央集権に適した形態として、藩閥政治が実施されることとなったのです。

とはいえ、薩長土肥以外の人々からすれば、この方針は納得しがたいものであったと考えられます。

  • 1868年に出された「五か条の誓文」にも「広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スヘシ」とあるように、幕末より「公議」に基づいて政治を行うべきという考えがあった
  • そのため、藩閥政治が成立した直後より、その形態に繰り返し反発が生じている

こうした不満は「自由民権運動」「護憲運動」のような運動につながり、明治から大正期の政治的局面に大きな影響を与えることとなります。

※自由民権運動や護憲運動は以下の記事で詳しく解説しています。

→【自由民権運動とは】背景・影響・板垣退助の役割をわかりやすく解説

→【護憲運動とは】第一次・第二次の背景から結果までわかりやすく解説

このように藩閥政治とこれに対抗する勢力の対立は、明治・大正期の政治史を貫く主要な対立軸となりました。ただし藩閥と対抗勢力は対立を続けただけでなく、時に提携したほか、藩閥勢力が対抗勢力に歩み寄ったり、立憲政治の樹立に向けて動く局面も散見されます。

ナジタが指摘したように、あくまで藩閥政治の目的は「強力で豊かで自立的な国家日本を創出」することでした。そのためには国民の協力が不可欠であり、国民の協力を取り付けるためには、政府も国民の意を汲み上げて政党政治を行う必要があったのです。

この要因を踏まえて藩閥政治の展開過程を見ることが、日本近代の通史的な理解を深める上で重要なポイントとなります。



1-2:藩閥政治時の代表的人物

ここでは藩閥を代表する人物について、簡単にその経歴を紹介します。

1-2-1: 大久保利通(1830-1878)

薩摩藩出身の人物です。西郷隆盛や木戸孝允と共に「維新の三傑」と称され、王政復古の大号令やその後の徳川慶喜を政権から排斥する工作をした中心人物として知られます。

※王政復古の大号令に関してはこちらの記事→【王政復古の大号令とは】時代背景・内容・流れを簡単に解説

大久保は王政復古の大号令の直後に参与となって以来、1878年に暗殺されるまで政府の中心人物であり続けました。そのため、大久保は代表的な官僚的専制政治家と見られることもありますが、詳しくは後述するように、彼自身も立憲政体を樹立する必要性を理解していたと言われます。

また、大久保は後進の育成にも力を入れており、彼の後継者には伊藤博文や大隈重信のように、薩摩藩出身者以外の人物も含まれます。

1-2-2: 伊藤博文(1841-1909)

長州藩出身で、大久保や木戸が亡くなった後、第二世代として政府の中心人物となりました。

  • 伊藤は初代内閣総理大臣を務めたほか、大日本帝国憲法の作成を主導したことでも有名
  • 大日本帝国憲法は天皇主権を定め、国民(臣民)の権利が法の範囲内に制限されたことが問題視されている
  • その一方で、伊藤は天皇の統治権を憲法で定めることを主張し、君主権を制限することも目指した

伊藤が天皇の統治権を憲法で定めたことが、のちに美濃部達吉の「天皇機関説」につながります。また、伊藤は1900年に立憲政友会を設立するなど、後述する山県と比較すると、藩閥に批判的な勢力とも融和的な姿勢を取りました。

伊藤系統の政治家として、盟友の井上馨や陸奥宗光、西園寺公望、金子堅太郎などが有名です。ただし、伊藤は派閥を作る意志がなく、そのつながりは伊藤閥と言えるほど強固なものではなかったと言われます。

1-2-3: 山県有朋(1838-1922)

長州藩出身で、伊藤と同じように第二世代として政府の中心となった人物です。彼は伊藤博文とライバル関係にあり、さまざまな点で対照的だったと言われます。

  • たとえば、山県は信頼できる人物にふさわしい地位に取り立て、最後まで面倒を見たと言われいる
  • そのため、山県は陸軍や内務省を中心に巨大な派閥を形成し、その派閥は「山県閥(長州閥)」と呼ばれた
  • また、山県は政党内閣制の実施は時期尚早であると考え、政党政治に批判的な立場を取り続けていた
  • これらの要因から山県は代表的な藩閥政治家と目され、同時代の評価は決して高くなかった

※政党政治に関してはこちらの記事→【政党政治とは】基礎知識から日本の特徴・問題点まで詳しく解説

ただし、近年では再評価も進み、歴史学者の井上寿一は『山県有朋と明治国家』(NHK出版)の中で、リアリストとしての山県の姿勢を高く評価しています。

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山県閥に属する人物として、桂太郎・寺内正毅・清浦圭吾などが有名です。彼らはいずれも総理大臣に就任していますが、その内閣は藩閥内閣と見なされています。寺内内閣は「米騒動」を契機に、桂内閣と清浦内閣は「第一次・第二次護憲運動」によって倒れることとなりました。



1-3:藩閥政治に対して行われた批判

ここでは代表的な藩閥政治に対する批判を紹介し、当時どのような文脈で、藩閥政治が批判されたのかについて確認します。

まず紹介するのは、自由民権運動の出発点となった「民撰議院設立建白書」の一節です。建白書は板垣退助を中心に作成され、1874年に政府に提出されました。その中で板垣は、以下のように述べ、政府が「有司(=藩閥)」の独裁状態にあることを批判しています3『日新真事誌』1874年1月18日(注.適宜句読点を補い、字体を現用のものに改めた)

臣等伏して方今〔ほうこん〕政権の帰する所を察するに、上帝室に在らず、下人民に在らず、しかして独り有司に帰す

その上で、次のように述べて、その弊害を取り除いて「天下を維持振起」するため「民撰議院」を設立し、人々の声を政治に反映することを主張しました4『日新真事誌』1874年1月18日(注.適宜句読点を補い、字体を現用のものに改めた)

切に謂う、今日天下を維持振起するの道、ただ民撰議院を立て、しかして天下の公議を張るにあるのみ〔中略〕

ここで明らかなように、藩閥政治に対する批判された要因として、まず政治の実権が一部の人間に独占されたことが挙げられます。

1節で述べたように、当時政府は速やかに日本の国力を増進させるため、中央集権化を志向していました。その一環として藩閥政治が実施されましたが、人々はその方針に異議を唱えたのです。

そして人々は、世論が政治に反映されることのみを求めたのでもありませんでした。この点について、1913年の「第一次護憲運動」の際、立憲政友会の尾崎幸雄が行った桂太郎内閣不信任の演説を見ながら確認していきます。

当時、桂は山県と対立し、独自の勢力基盤として新政党(のちの立憲同志会)を設立しようとしていました。この動きを尾崎は批判して、次のように述べています5『帝国議会衆議院議事速記録 27 第二十九・三〇回議会』(東京大学出版会)15頁(注.適宜句読点を補い、字体を現用のものに改めた)

 (注.桂が)内閣総理大臣の地位に立って、しかる後政党の組織に着手するというが如き〔中略〕、天下何れのところにまず政権を握り、政権を挟んで与党を造るのを以て、立憲的動作と心得る者がありますか。およそ立憲の大義として、まず政党を組織し、世論民意のあるところを己の与党に集めて、しかる後内閣に入るというのがその結果が無ければならぬのに、彼らはまず結果を先にして、しかしてその原因を作らんとするが如きは、いわゆる逆施倒行の甚だしきものであって、順逆の別をしらない者であります。

ここで尾崎は、桂が内閣を組織した後に政党を設立しようとしていることを「順逆の別をしらない」と批判しています。

これも1節で述べた通り、藩閥も「強力で豊かで自立的な国家日本を創出」する目的に合致した場合、立憲政治の実現に向けて動いています。

しかしそれは言ってみれば、「上からの民主化」であり、尾崎にとってはそのような形で民意を取り入れても、「逆施倒行(正しい道理に逆らった手段をとること)」でしかなかったのです。

1章のまとめ
  • 藩閥政治とは、明治政府による少数の公家と薩長土肥の有力者で実権を握った政治形態を批判的に示した言葉である
  • 藩閥政治が採られた背景として、政府内では欧米列強と対抗できる、強力で豊かな日本を築くことが至上命題であったことが挙げられる
  • 藩閥政治に対しては、政治の実権が一部の人間に独占されたことに反撥があった

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2章:藩閥政治から政党政治までの変遷

ここからは、どのように藩閥政治が政党政治へと移り変わっていったのか、その過程を時系列に沿って紹介します。

2-1:政府への批判の芽生え

1章で述べた通り、1871年に実施された廃藩置県の前後で、藩閥政府〔注.以下、政府と記します〕の基盤が築かれました。政府は官制改革と並行して、義務の制定や殖産興業政策など、さまざまな改革を実施していきます。

しかしこれらの改革は、さまざまな反発を招くこととなります。

  • たとえば、各地で「新政反対一揆」が生じる。とくに、1876年に発生した大規模な地租改正反対一揆が発生した時は、政府も地租を引き下げざるを得なくなったほど
  • ほかにも1876年に廃刀令や秩禄処分が実施された結果、それまで元武士(士族)が持っていたさまざまな特権が廃止された。これに不満を抱いた不平士族たちによって、西日本各地で「士族反乱」が発生している

このように改革に反発が生じる中、次第に人々の間で政府への批判も強まっていくこととなりました。

2-2:自由民権運動と大阪会議

同じころ、政府内でも征韓論をめぐる対立がきっかけとなって「明治六年の政変」が発生しています。征韓論を唱えた西郷隆盛、江藤新平、板垣退助などが政府を下野し、彼らは士族反乱や自由民権運動の指導者となって政府への対抗を続けました。

こうした動きに対し、大久保利通は1875年2月に自由民権運動を主導した板垣や木戸孝允を招き、「大阪会議」を開いています。

大阪会議の概要

  • ここで大久保は2人の復職を条件に、立憲政体を目指すことを約束した
  • そして、1875年4月に「漸次立憲政体樹立の詔」が出された後、政府も立憲政体の樹立に向けて動き出した
  • この大久保の動きは、彼自身の指導力を強化し、士族反乱の鎮圧に専念するためのものであった

ただし、注意すべきポイントとして、大久保は民権派とは異なった形で、立憲政体を樹立する必要性を考えていたことも押さえる必要があります。

歴史学者の鳥海靖によれば、大久保は明治六年の政変後、「立憲政体に関する意見書」を記して立憲政治について論じています。その内容は、以下のものでした6『逆賊と元勲の明治』(講談社学術文庫)81頁

大体幕末から明治のごく初年には、軍事力ないしそれを支えている軍事技術というものが、政府首脳の国力概念の中心にあったが、その後次第に、単に軍事力だけではない様々な要因が国力を支えているのだという認識が、彼らの間に深まった。

大久保に言わせると、国力の重要な要因は機械制大工業に支えられた経済力と、国を守り立てようとする国民の自主的精神および、それを伸ばすような良政にあるという。〔中略、国力が伸展しているイギリスでは〕国民が自らの権利を唱え自主的に国を支えようとはかり、政府もまたそれを活かすような政治を行っている、と説いている。

ここに記されているように、大久保は国力伸展の観点から、日本も立憲政治を実現する必要があると考えていたようです。ただし民権派とは異なり、大久保にはただちに立憲政治を行う意志はなかったと考えられています。この点について鳥海は、次のように述べています7『逆賊と元勲の明治』81-82頁

大久保は立憲政治についての理解という点で、決して木戸に劣るものではなかった、と私は考える。むろん彼は現実的政治家であるから、ただちに立憲政治が実現出来るとは考えていなかったし、また、あくまでそれは政府のイニシアティブで上から推進しなければならないと考えていた。

このように大久保は、立憲政治の必要性を認識しつつも、その実現には時間がかかること、政府主導の下で実施する必要があると考えていたようです。

この大久保の考えはその後も踏襲され、政府は早期の立憲政治実現を求める民権派と対立しつつ、立憲政治導入に向け漸進的に準備を進めていくこととなります。



2-3 : 明治14年の政変

その後、民権派は1880年3月に国会開設を目指す全国組織として「国会期成同盟」を結成し、国会開設の請願運動を大々的に展開しました。これを受けて政府内でも、立憲政治導入に対する意見が交わされています。

当時、政府は1878年に大久保が暗殺されたことを機に、幕末の動乱を主導した第1世代から第2世代へと世代交代が進んでいました。そのような状況下、立憲政治に対してもさまざまな意見が唱えられることとなります。

たとえば、以下のような意見が存在しました。

  • 薩摩出身の黒田清隆は国会開設を時期尚早と唱え、法整備や産業振興、教育改善などを優先することを主張した
  • 一方、長州出身の伊藤博文は、国会開設は漸進的改革によって目指すべきである。しかし、その準備として元老院を拡張するなど、黒田よりも踏み込んだ主張を行っている

そのような中、1881年3月に大隈重信は、憲法の早期制定や1883年に国会を開くことを目指す急進的な意見書を提出しました。大隈は藩閥の中では勢力の弱い肥前藩の出身でしたが、大蔵省に勢力をもち、在野の福沢諭吉とも関係を深めて強い影響力を持っていた人物です。

その大隈が急進的な意見を出したことに対して、伊藤など藩閥主流派は、大隈が民権派と結託して立憲政体樹立の主導権を握ることで、自分たちを出し抜こうとしているものと捉えました。そのためこの頃から、政府内部では伊藤と大隈の関係が悪化しつつあったと言われます。

こうした情勢下、1881年8月に黒田と薩摩出身の政商五代友厚の癒着が疑われた「開拓使官有物払い下げ事件」が発生し、民権派を中心に藩閥への激しい批判が沸き起こりました。この時、大隈は世論と同調し、政府内にありながら黒田を激しく攻撃しています。

これに対して伊藤など藩閥主流派は事態を収束するため、払い下げを中止したほか、大隈重信を罷免する一方で国会開設の詔を発し、1890年に国会を開設することを宣言しました。この一連の動きが、「明治十四年の政変」と呼ばれるものです。

明治十四年の政変の結果

  • 肥前藩系列の有力者たちは政府を去ることとなた。これ以前に土佐藩系列の有力者が政府から排斥されていたこともあり、以後の藩閥は薩長が主体となっている
  • 一方、政府が正式に国会の開設を表明したことで、その後、政府・民権派の双方で、国会開設に向けた準備が進められることとなった

伊藤を中心とする政府は、1885年に内閣制度を創設したほか、1889年に大日本帝国憲法を公布しています。一方、民権派は板垣が自由党、大隈が立憲改進党を結党し、国会での活動に向けて準備を進めていきました。

2-4 : 初期議会の対立と、三国干渉後の関係変化

1890年7月に最初の総選挙が行われ、11月に最初の議会が開かれました。議会では民権運動の流れを汲む「民党」が過半数を獲得していましたが、政府は「超然主義」を掲げて政府の政策は政党の意向に左右されないと表明し、民党と対立しました。

議会で民党は「政費節減・民力休養」を唱えて地租軽減や予算削減を主張し、日清の対立を背景に、海軍の拡張を目指していた政府と衝突しています。第二議会で薩摩出身の海軍大臣樺山資紀が、以下のように薩長の正当性を主張しています8第2回帝国議会 衆議院第2回本会議 第20号

現政府はこの如く、内外国家多難の艱難を切り抜けて、今日まで来た政府である。薩長政府とか何政府とか言っても、今日国のこの安寧を保ち、四千万の生霊に関係せず、安全を保ったということは、誰の功力である

この「蛮勇演説」をきっかけに議会は紛糾したため、最初の衆議院解散も生じています。

このように議会が混乱した結果、1890年代前半の日本では予算の成立も困難となり、政府は政権運営に支障をきたすようになってしまいました。

そのような中、1892年に伊藤博文は、明治天皇に政局安定のために政党を組織することを上奏しています。この経験を通じて伊藤は、強力な与党を自ら組織するか、民党の与党化を図る必要があると考えるようになったと言われます。

さて、民党と政府の対立は1894年の第六議会まで続きましたが、状況は日清戦争の勃発と、その後の三国干渉によって一変することとなります。

日清戦争後の大まかな展開

  • 下関条約によって日本は台湾や遼東半島などを獲得したが、当時遼東半島の獲得を目指していたロシアが反発し、フランスやドイツと共に遼東半島の返還を要求する三国干渉を行っている
  • 日本は三国干渉を受け入れたが、これを契機に国内の対露感情は悪化していった
  • その後、政府はロシアに対抗するため軍備拡張を目指します。そのための財源は、下関条約の賠償金と、増税によって確保する必要があった
  • ところが増税を実施するためには、政府は増税を議会で提案、通過させる必要がある。そのため、政府も、民党に一定の譲歩をする必要が生じた

一方で、民党も世論の対露感情悪化を背景に、政府方針を支持するようになりました。こうして日清戦争後、政府と民党の提携が進んでいきました。第二次伊藤内閣、第二次松方正義内閣では板垣退助や大隈重信が大臣として入閣したほか、1898年には大隈と板垣が中心となり、最初の政党内閣(隈板内閣)が成立しています。

さらに1900年には、伊藤が自由党系の政治家たちと立憲政友会を結党しました。このように藩閥内部でも政党と協力する動きが進んだ一方で、山県有朋は伊藤の行動に批判的で、政府内部の有力者が政党を結成することは、将来的に政党内閣制の実現につながると考えていたようです。

このように政府内部にも様々な見解がありましたが、日清戦争後は次のような時代を迎えることとなります。

  • 日露戦争前から日露戦争後の政治情勢は、山県有朋の後継者となった長州出身の桂太郎を中心とする藩閥勢力
  • 伊藤の後を受けた西園寺公望を中心とする政党勢力が政界を二分する「桂園時代」を迎えることとなる

桂園時代の始まりと並行して、伊藤や山県は老齢のため政界の第一線から退くこととなりました。しかし彼らは、その後も非公式に天皇を補佐する「元老」として首相の選任権を握り、強い影響力を保ち続けています。



2-5 : 護憲運動の展開と藩閥政治の終焉

日露戦争後、日露戦争の戦費償還問題や産業革命の影響もあり、人々の生活は困窮するようになりました。

第二次桂太郎内閣は、このような情勢への不満から社会主義や個人主義の風潮が広まることを恐れて、さまざまな取り組みをしていきます。

  • 1908年に「戊申詔書」を出したほか、内務省の主導で「地方改良運動」を展開している
  • 勤労や倹約の奨励による国力増強と、農村共同体を基盤に、国家に対する忠誠心を強化することが目的であった

しかし、このような動きにも関わらず、人々は不満解消のため、さまざまな民衆運動を展開するようになっていきました。

そして1912年から13年にかけて、第二次西園寺公望内閣にかわって第三次桂内閣が成立すると、これに反発した人々が「憲政擁護・閥族打破」をスローガンに「第一次護憲運動」が発生しています。

運動の結果、第三次桂内閣はわずか53日で倒されました。これは日本史上最初の内閣が民衆の運動によって倒された出来事であり、今日では「大正政変」と呼ばれています。

その後も山県の流れをくむ寺内正毅や清浦圭吾のように、藩閥系の政治家による組閣は続いています。

しかし大正デモクラシーの風潮の中で、藩閥内閣は激しい批判にさらされました。たとえば、「ビリケン(非立憲)内閣」と呼ばれた寺内内閣は1918年の「米騒動」を契機に退陣に追いこまれ、その後本格的な政党内閣として原敬内閣が成立しています。

※大正デモクラシーに関してはこちらの記事→【大正デモクラシーとは】意味・背景・結果をわかりやすく解説

1910年代は、世界的に民主主義的な風潮が広まった時代でした。そのような風潮の中日本でも民意が政局に与える影響が拡大し、もはや藩閥政治を行うことは不可能となっていたのです。

その後、1922年に代表的な藩閥政治家である山県が亡くなりました。そして1924年に山県閥につらなる清浦内閣が組閣した際には、これに対する反発から「第二次護憲運動」が生じています。

運動により清浦内閣は退陣に追い込まれ、かわって成立した加藤高明内閣(護憲三派内閣)は普通選挙法を制定しています。護憲三派内閣以降、1932年まで政党内閣が組閣される慣行が確立され、藩閥政治は終えんを迎えることとなりました。

2章のまとめ
  • 大久保は、立憲政治の必要性を認識しつつも、その実現には時間がかかること、政府主導の下で実施する必要があると考えていた
  • 伊藤を中心とする政府は、1885年に内閣制度を創設したほか、1889年に大日本帝国憲法を公布している
  • 1910年代から民意が政局に与える影響が拡大し、もはや藩閥政治を行うことは不可能となっていた

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3章:藩閥政治に関するおすすめ本

藩閥政治に関する理解を深めることはできました?最後に、藩閥政治を学ぶためのおすすめ本を紹介していきます。

おすすめ書籍

オススメ度★★★ 鳥海靖『逆賊と元勲の明治』(講談社学術文庫)

本文中でも取り上げた一冊です。原著は1970年代に刊行されたものですが、大久保や伊藤、山県を中心に、藩閥政治が完全に他者を排除したものではなく、「逆賊」とされた対立勢力も内部に取り込んでいたことを指摘します。史料から浮かび上がるそれぞれの人物像も、非常に興味深い内容です。

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オススメ度★★★ 中里裕司『桂園時代の形成 1900年体制の実像』(山川出版)

桂園時代を中心に、藩閥勢力と政党勢力の間でどのような対立や妥協があったのか、個別事例を詳細にまとめた作品です。それぞれのケースから合意形成のためどのような取り組みがなされたのか見ることで、さまざまな知見を得ることができるでしょう。

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まとめ

最後にこの記事の内容をまとめます。

この記事のまとめ
  • 藩閥政治とは、明治政府による少数の公家と薩長土肥の有力者で実権を握った政治形態を批判的に示した言葉である
  • 藩閥政治が採られた背景として、政府内では欧米列強と対抗できる、強力で豊かな日本を築くことが至上命題であったことが挙げられる
  • 1910年代から民意が政局に与える影響が拡大し、もはや藩閥政治を行うことは不可能となっていた

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