政治史

【王政復古の大号令とは】時代背景・内容・流れを簡単に解説

王政復古の大号令とは

王政復古の大号令とは、薩長の武力倒幕派が計画し天皇中心の新政府樹立を目指して、摂政・関白の廃止、幕府の廃絶、三職の設置などが宣言されたものです。

1867年12月9日、王政復古の大号令によって天皇を中心とする新政府が樹立しました。この出来事は江戸幕府の支配に終止符を打ったほか、戊辰戦争をはじめとする幕末の動乱にも大きな影響を与えています。

そのため、王政復古の大号令の一連の出来事をしっかり理解する必要があります。

この記事では、

  • 王政復古の大号令が行われた背景
  • 王政復古の大号令の具体的な内容や流れ

について解説します。

好きな箇所から読み進めてください。

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1章:王政復古の大号令とは

まず、全国歴史教育研究協議会編『日本史用語集』を見てみると、王政復古の大号令の項目には次のように記されています1全国歴史教育研究協議会編『日本史用語集』山川出版, 224頁

薩長の武力倒幕派が計画し、1867年12月に発表された政体変革の命令書。摂政・関白の廃止、幕府の廃絶、三職の設置、諸事神武創業の昔への復帰などを宣言した(王政復古政変、王政復古のクーデター)。天皇中心の新政府樹立を目指した。

ここに記されているように、王政復古の大号令は薩長が主体となって行われ、これにより天皇を中心とする新政府が樹立されました。

一方で「王政復古のクーデター」とも呼ばれるように、この行為は薩摩藩などの武力を背景に決行されました。強引な行動が行われた要因として、当時政治的な主導権をめぐって徳川慶喜を中心とする勢力と、倒幕を目指した薩長が激しく対立していたことが挙げられます。

それぞれの勢力の思惑と具体的な行動を結び付けることが、より深く王政復古の大号令を理解するためのポイントとなります。

このサイトでは複数の文献を参照して、記事を執筆しています。参照・引用箇所は注2ここに参照情報を入れますを入れていますので、クリックして参考にしてください。

1-1:王政復古の大号令が行われた時代背景

歴史学者の牧原憲夫は『日本の歴史 13巻 文明国をめざして』において、幕末情勢は「攘夷・天皇・公論という3つの正当性をめぐる争奪戦であり、典型的な政治闘争であった」ことを指摘しています。

王政復古の大号令以前より、欧米列強の圧力に対応するためにさまざまな政治体制が模索され、政治的な主導権をめぐって様々な勢力の対立が繰り返されてきました。ここでは主に牧原の記述に依拠しながら、王政復古の大号令にいたる政治情勢を簡潔にまとめます。

まず、王政復古の大号令にいたるまでに、以下のような状況がありました。

  • 1853年のペリー来航以前より、島津斉彬など改革派の大名は、外交などの「国事」を譜代大名が先決することを批判していた。
  • このような状況下でペリーが来航すると、老中首座の阿部正弘は朝廷に報告を行い、諸大名や幕臣にも意見を求めた(安政の改革)。この措置は朝廷の権威を高め、幕政を転換させる契機になったと言われている。
  • その後、1856年にアメリカ総領事としてハリスが着任すると、ハリスは通商条約の締結を強く求めた。交渉を担当した老中首座の堀田正睦は条約調印の勅許を求めたが、孝明天皇は攘夷の意向が強く、勅許を得ることはできなかった。

その結果、牧原によれば「攘夷こそが天皇の意思であり、かつ公議世論であるといいたてて幕府を追い込む戦略が有効」3『日本の歴史 13巻 文明国をめざして』72頁となり、その後各地で攘夷活動が展開される事態が生じていきます。

ここで攘夷が政治問題化したことが次のことにつながり、その後の政治情勢に大きな影響を与えています4『日本の歴史 13巻 文明国をめざして』72頁

「政治過程を錯綜させ、『攘夷のために開国して富国強兵をめざす』か、それとも『富国強兵のために攘夷を決行して挙国一致をめざす』かという屈折した論争を生み出すとともに、ひたすら攘夷に突進する「志士」を生み出」すことになる

こうしてさまざまな勢力が、攘夷を名目に掲げて主導権を握ろうと活動していきました。ところが長州藩を中心に攘夷活動が先鋭化すると、孝明天皇は長州藩の影響力を朝廷から排除し、これらの活動を抑えようと幕府に接近するようになっていきます。

その結果、1864年に孝明天皇は14代将軍徳川家茂が攘夷決行を約束したことを受け、家茂に京都に滞在する大名を集め、国事を諮問することを認めることとなりました。

これを牧原は「幕府が「攘夷」を掲げて「天皇」を味方につけ、大名会議という「公議」の場まで手中にしたのである」5『日本の歴史 13巻 文明国をめざして』73頁と述べています。

この過程で、長州藩士や彼らに協力した急進的な公家は「8月18日の政変」によって京から追放されました。長州藩が巻き返しのために起こした「禁門の変」も、会津藩兵らによって撃退されて失敗に終わっています。

ここに明らかな通り、一般的なイメージとは異なり、幕末の段階でも依然として政治の主導権は幕府が握り続けていたのです。

一方で、この頃からイギリス公使のパークスは、幕府に代わる政体として、天皇を中心とする雄藩連合政権に期待を寄せるようになりました。

そして、1863年に生起した薩英戦争の結果イギリスに接近するようになった薩摩藩は、西郷隆盛らが中心となって反幕府に藩論を転じることとなります。

  • 1866年1月、薩摩藩と長州藩は「薩長同盟」を結び、武力倒幕を目指すようになった
  • 幕府は「長州征討」を実施したものの各地で敗退し、家茂が急死したことで、征討は中止が宣言された
  • その後1867年1月には、親幕府の立場をとった孝明天皇も病死した。そのため、15代将軍となった徳川慶喜は、薩長との緊張が高まる中、難しいかじ取りを迫られることとなっていく

同じころ、薩長は武力倒幕の実行に向けて動き始め、1867年10月14日には岩倉具視と結び、朝廷から「討幕の密勅」を得ることに成功しました。

一方幕府の崩壊を望んでいなかった土佐藩は、坂本龍馬や後藤象二郎が前土佐藩主山内容堂を通じ、慶喜に公議政権を実現するための構想を提示しています。これを受け、倒幕の密勅が出されたのと同じ10月14日に、「大政奉還」の上表が朝廷に提出されています。

大政奉還により、朝廷に対して将軍位の返上や、徳川主導の諸藩連合政権を樹立することが提案されました。ここまで見てきたように、1864年以来、すでに「公議」に基づいて政治を行う方針(公議政体論)が確立されており、薩長もこの提案を正面から拒否することはできませんでした。

こうして1867年10月の時点で、薩長を中心とする倒幕派は慶喜に機先を制され、武力倒幕の大義名分を失ってしまったのです。



1-2:王政復古の大号令の目的

王政復古の大号令は、このように倒幕の正当性を失っていた薩長の倒幕派が、状況を打開して主導権を握り返すために行ったものでした。

詳しくは次節で説明するように、王政復古の大号令は以下のことを目指しました。

  • 将軍や摂政・関白の代わりに総裁・議定・参与の「三職」が置かれている
  • これを通じて薩長は、将軍を中心とする幕府や、平安時代のように有力な公家が主導する旧来の政治機構を解体することを目指した

そしてこの時、徳川慶喜は三職のいずれにも任命されませんでした。慶喜だけでなく、それまで彼に協力してきた会津藩主や桑名藩主も三職から除外されており、これによって親徳川勢力は、政治的な影響力を大きく後退させることとなります。

ただし薩長も、この時点では公議政体論を完全に否定することはできませんでした。三職も親薩長派で独占されたわけでなく、慶喜に同情的な勢力も残存しています。

そのため、事態は王政復古の大号令だけでは決着がつかず、その後薩長と親徳川勢力の間で武力衝突が生じることとなります。そして、この事態から戊辰戦争へと拡大することとなったのです。



1-3:王政復古の大号令の具体的な内容

ここでは王政復古の大号令の文面を確認しながら、その具体的な内容について紹介します。

王政復古の大号令は、冒頭で以下のように記しているように、徳川内府(内大臣、徳川慶喜のこと)が大政奉還を奏上したことを踏まえ、発されたものです6歴史学研究会編『日本史史料 4 近代』79~80頁 (注.適宜句読点を補い、字体を現用のものに改めた)

徳川内府、従前御委任ノ大政返上、将軍職辞退ノ両条、今般断然聞シメサレ候

その上で、ペリー来航以後の「未曽有ノ国難」に対処するためには、次のことが必要があると述べています7歴史学研究会編『日本史史料 4 近代』79~80頁(注.適宜句読点を補い、字体を現用のものに改めた)

諸事神武創業ノ始メニ原〔もと〕ヅキ、縉紳〔しんしん、公家のこと〕、武弁〔武家のこと〕、堂上〔昇殿を許された人〕、地下〔じげ、昇殿を許されていない人〕ノ別ナク、至当ノ公議ヲ竭〔つく〕シ〔中略〕、尽忠報国ノ誠ヲ以テ、奉公致スベク候事

つまり、神武天皇の創業時に立ち返り、上下の別なく議論を行いながら国家に尽くすことが必要であると述べています。

これを踏まえて、次に王政復古の大号令は「神武創業ノ始メ」に立ち返るため、どのような方針を示したのか見ていきます。結論からいえば、王政復古の大号令の主な内容は、次の通りです。

  1. 徳川慶喜の将軍辞職の許可
  2. 幕府の廃止
  3. 摂政・関白の廃止
  4. 三職(総裁・議定・参与)の設置
  5. 京都守護職と京都所司代の廃止

以下番号順に解説すると、まず①と②によって大政奉還で提案された、慶喜の将軍辞職、幕府の廃止が正式に認められました。これをもって260年余にわたる、江戸幕府の支配に終止符が打たれることとなります。

ここで注目すべきポイントは、③にあるように幕府を廃止しただけでなく、それまで朝廷の中枢を担っていた摂政・関白も廃止されていることです。幕府を解体するだけでなく、旧来の朝廷の支配構造も解体が目指されたことが分かります。

そしてこれらの代わる新たな役職として、総裁・議定・参与の三職が設置されました。

  • 総裁・・・将軍や摂政・関白に代わって国事を管轄するために設置され、有栖川宮熾仁親王が任命されている
  • 議定と参与・・・総裁の下で議論を行い、政策策定に参加することが認められた。議定には皇族や公家、有力諸侯などが任命され、参与には雄藩の藩士が任命されている

先に述べた通り、徳川慶喜は三職のいずれにも任命されていません。これにより、慶喜の政治的な影響力は後退を余儀なくされました。

同時に⑤によって、京都所司代を務めた桑名藩主松平定敬と、京都守護職を務めた会津藩主松平容保も政権へ参加する資格を失ってしまいます。彼らは慶喜を補佐し、「一会桑体制」を構成する主要人物でもありました。

このことからも、薩長が王政復古の大号令によって、慶喜の影響力を排除しようとしたことが窺えます。

1章のまとめ
  • 王政復古の大号令とは、薩長の武力倒幕派が計画し天皇中心の新政府樹立を目指して、摂政・関白の廃止、幕府の廃絶、三職の設置などが宣言されたもの
  • 幕末情勢は攘夷・天皇・公論という3つの正当性をめぐる争奪戦であり、典型的な政治闘争であった
  • 倒幕の正当性を失っていた薩長の倒幕派が、状況を打開して主導権を握り返すために行ったもの
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2章:王政復古の大号令の流れ

ここからは、王政復古の大号令が発されるまでの具体的な流れと、その影響について紹介します。

2-1:王政復古の大号令の発令

1-1で確認した通り、王政復古の大号令が発されるまで、政局の主導権は徳川慶喜が握っていました。それではこの状況を打開するため、薩長はどのような活動を展開したのでしょうか?

王政復古の大号令に至る過程を主導したのは、薩摩藩の大久保利通と西郷隆盛です。彼らは公家の岩倉具視と協力しつつ、王政復古の大号令を発する準備を進めていきました。

  • 1867年12月8日、岩倉は自邸に尾張・越前・薩摩・土佐・安芸の各藩代表者を招き、翌日に王政復古を断行することを伝達した
  • それにあたって各藩の藩兵によって京都御所の各門を封鎖する割り当てを行っている

当時、御所では8月18日の政変で失脚した公家や、禁門の変を起こした長州藩主父子などの赦免が議論されていました。岩倉も和宮降嫁をめぐって蟄居処分となっていましたが、この時赦免されることが決まっていました。

そこで岩倉は赦免された直後に参内し、王政復古の大号令を行うことを目指したのです。

12月9日、朝議で岩倉らの赦免が決まって朝議に参加した公家たちが退出した直後に、赦免されたばかりの岩倉は直ちに参内し、自派の親王・公家・藩主を招集しています。そして五藩兵が各門を固める中、王政復古の大号令が発されることとなりました。



2-2:王政復古の大号令のその後の変化・出来事

王政復古の大号令が発されたその日の夜、新たに任命された総裁・議定・参与による最初の会議が開かれました。「小御所会議」と呼ばれるこの会議では、徳川慶喜に対して官位と領地の返上を命じる「辞官納地」が決定されています。

このように薩長は主導権を握った後、着実に慶喜の勢力を削いでいくことを試みました。

一方で王政復古の大号令後の情勢について、上海で発行されていた『ノース・チャイナ・ヘラルド』は次のように伝えています8初出:『ノース・チャイナ・ヘラルド』1868年3月4日 引用元:『外国新聞に見る日本』第1巻, 433頁

将軍、摂政、関白の廃止が宣言されたのは、天皇の実権が回復された明白なしるしである。もはや兵馬の権は徳川家にはなく、勅令が無責任な摂政や関白の手で発せられることもない。大小を問わず、外様、譜代の別なくすべての大名は京都の議事堂に集まり、少なくともサムライ階級の者すべての願いをかなえることが可能となろう。

ここに記されているように、諸外国は王政復古の大号令の結果、徳川家が主導権を失った一方で、新政府は武士階級の議論によって政策が決定される、一種の議会政治を行うようになったと見なしていました。

確かに王政復古の大号令によって、慶喜は政治的な主導権を失っています。しかし依然として慶喜に同情的な勢力も政権に参画することは可能であり、薩長が完全に主導権を握っていたわけではないのです。

そのため、辞官納地が決定された後も、議定となった尾張藩主の徳川慶勝や越前藩主の松平慶永が慶喜の新政権参加を要求しました。

慶喜自身も「一部の武装勢力が<諸藩の会同衆議を待たずして、にわかに未曽有の大変革を断行>したことを非難する上疏を提出」9『日本の歴史 13巻 文明国をめざして』74頁し、王政復古の大号令を撤回することを要求しています。

このように親慶喜勢力は巻き返しを図り、王政復古の大号令は有名無実となる一歩手前まで追い込まれていました。牧原が述べるように、「政治闘争で倒幕派は最後まで劣勢だった」10『日本の歴史 13巻 文明国をめざして』74頁のです。

ところが、このような状況を一変させる出来事が江戸で発生します。12月25日、江戸の薩摩藩邸が庄内藩などに攻撃され、焼失したのです。

  • その原因となったのが、薩摩藩邸を拠点とした「屯集隊(御用盗とも)」であった
  • 彼らは江戸を中心に関東各地で強盗などの騒擾をひき起こし、12月23日には江戸城の二の丸に放火したと言われている
  • このような行動には、薩摩藩による慶喜側を挑発する意図があった
  • 王政復古の大号令の準備と並行して、西郷隆盛は配下の益満休之助や伊牟田尚平、下総の相良総三に江戸でのかく乱工作を命じている
  • 益満らはこの命に沿って屯集隊を組織し、各種の破壊工作を行っていた

この一連の活動に旧幕臣の不満は高まり、ついに庄内藩は江戸市中の警備を担当していた新徴組と共に薩摩藩邸を攻撃することとなりました。そして、その報が大坂にいた慶喜に届けられると、ここでも強硬論が台頭していきました。

その結果、強硬派の突き上げを受けた慶喜も、薩摩藩との決戦を決意することとなります。1868年1月1日に慶喜は薩摩藩の征討を表明し、旧幕府軍・会津藩兵、桑名藩兵に京への進撃を命じました。

そして1月3日、鳥羽・伏見で慶喜たちは薩長両藩兵と衝突し、こうして生起した「鳥羽・伏見の戦い」をきっかけに「戊辰戦争」が勃発しています。戦争は1年半余りにわたって続き、各地で薩長を中心とする新政府と、これに反発した諸勢力の間で戦いが繰り広げられることとなりました。

このように、王政復古の大号令は、

  • 錯綜する幕末の政治情勢が、薩長有利の状況に転じるきっかけとなった
  • その過程で示された強引な方法は反発を招き、戊辰戦争にも大きな影響を与えた

と考えられているのです。

2章のまとめ
  • 王政復古の大号令に至る過程を主導したのは、薩摩藩の大久保利通と西郷隆盛である
  • 政治闘争で倒幕派は最後まで劣勢だった
  • 錯綜する幕末の政治情勢が、薩長有利の状況に転じるきっかけとなった
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3章:王政復古の大号令について学べる本

王政復古の大号令について理解を深めることができたでしょうか?

これから紹介する本は、王政復古の大号令を理解する本としておすすめですので、ぜひ読んでみてください。

オススメ書籍

オススメ度★★★ 坂本一登『岩倉具視 幕末維新期の調停者』(山川出版)

岩倉具視の生涯をまとめた評伝です。第2章で王政復古の大号令に関する出来事が取り上げられており、岩倉を中心に主要人物の動向がまとめられています。

オススメ度★★★ 家近良樹『徳川慶喜』(吉川弘文館)

幕末の動乱期を中心に、徳川慶喜の生涯をまとめた作品です。慶喜の立場から見た王政復古の大号令にも言及されており、倒幕派がなぜ強硬な手段に出ざるを得なかったのか、その背景を知ることができるでしょう。

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オススメ度★★★ 津本陽『幕末御用盗』(講談社)

本作品は、史実を踏まえたフィクションです。そのためすべてが事実ではありませんが、主導権を握るために薩摩藩が行った暗躍について、イメージを掴むことができるでしょう。

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まとめ

最後にこの記事の内容をまとめます。

この記事のまとめ
  • 王政復古の大号令とは、薩長の武力倒幕派が計画し天皇中心の新政府樹立を目指して、摂政・関白の廃止、幕府の廃絶、三職の設置などが宣言されたもの
  • 幕末情勢は攘夷・天皇・公論という3つの正当性をめぐる争奪戦であり、典型的な政治闘争であった
  • 王政復古の大号令に至る過程を主導したのは、薩摩藩の大久保利通と西郷隆盛である

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