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政治史

【護憲運動とは】第一次・第二次の背景から結果までわかりやすく解説

護憲運動とは

護憲運動とは、各種の民主主義的な活動が展開された中で2度起きた代表的な運動を指します。特に、第一次護憲運動は「大正デモクラシー」の出発点と位置づけられる重要な運動です。

護憲運動は民主的な側面を促進した運動である一方で、「治安維持法」の制定から後の政党政治に衰退をもたらしています。この矛盾を理解するためには、社会政治的な背景から護憲運動を学ぶ必要があります。

そこで、この記事では、

  • 護憲運動が生じた背景
  • 第一次護憲運動の詳細と、後世に与えた影響
  • 第二次護憲運動の詳細と、後世に与えた影響

について解説します。

好きな箇所から読んでみてください。

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1章:護憲運動とは

まず、1章では護憲運動の「意味」「背景」について解説します。

2章では第一次護憲運動に関して、3章では第二次護憲運動に関して詳しく解説しますので、用途に沿って読み進めてください。

1-1:護憲運動の意味

冒頭で説明したように、護憲運動とは大正時代に起きた2つの運動を指します。具体的には、

  • 第一次護憲運動(1912年−1913年)
  • 第二次護憲運動(1924年)

の2つです。現在は一般に「護憲運動」と呼ばれますが、当時は「憲政擁護運動」とも呼ばれました。

2つの運動の共通点として、運動を通じて政党政治が進展し、民衆の政治参加を促進する大きな役割を果たしたことが挙げられます。(→政党政治に関して詳しくはこちら

しかし、その一方で、それぞれの運動は名称こそ似ていますが、その性質は異なっているので注意が必要です。

詳しくは後述しますが、第二次護憲運動を経て成立した護憲三派内閣は、普通選挙法を公布して男子普通選挙を実現しました。しかし一方で、治安維持法を制定、のちに同法は言論弾圧に利用され、政党政治の衰退をもたらしています。

ここで、「なぜ、護憲三派内閣は相反する法律を制定したのか?」と思う方がいるかもしれません。

それを理解するためには、第二次護憲運動に参加した政治家たちが民衆たちの動向を警戒していたこと、そのような意識が生まれた社会政治的な背景を知る必要があります。

以下では、2つの護憲運動を把握するポイントとなる当時の政治・社会情勢を解説していきます。



1-2:第一次護憲運動の背景

結論からいえば、第一次護憲運動の背景には「藩閥への反発」「人々の生活の困窮」がありました。それぞれ解説していきます。

1-2-1: 藩閥への反発

まず、当時の政治的な背景として「藩閥への反発」があります。

江戸幕府に代わって成立した明治新政府でしたが、その中枢を占めた薩摩藩・長州藩出身者でした。薩摩藩・長州藩出身者が作った派閥を「藩閥」と呼び、藩閥中心に行われた政治が「藩閥政治」です。(注:正確には、当初は薩長に加えて土佐藩・肥前藩出身者も政権に参加しています。しかし彼らは政争に敗れ、主流派とはなりえませんでした)

その様子は、1874年に板垣退助らが「民撰議院設立建白書」の中で「有司ノ専裁」と批判したように、明治初期より強い反発を招いています。

こうした反発は、以下のような展開に繋がっていきます。

  • 1870年代から1880年代にかけて「自由民権運動」が進展した
  • 1890年に議会が開設されてからも、民権運動の流れを汲む政党(民党)と、「超然主義(※)」を掲げ、議会や政党の意向を無視しようとする藩閥政府の対立が継続した

こうした明治以来の藩閥への反発が、人々を第一次護憲運動に駆り立てる要因となりました。

※超然主義とは議会や政党の意向を無視しようと考えた藩閥政府の姿勢のことです。

1-2-2: 人々の生活の困窮

上述の不満に加え、人々の生活が困窮していたことも、第一次護憲運動に影響しています。

1910年代の日本では、日露戦争の悪影響から様々な問題が生じていました。その様子を、歴史学者の大浜徹也は次のように記しています。

戦争により、国民は4億円ちかい税金に加え、国債4億8千万円を負担しなくてはならず、そのもてるすべてを国庫に吸収されてしまったのである。そのため資本の供給は杜絶し、金融梗塞、金利の高騰を生み、軍需産業を除く一般産業界は、不況の波におおわれた。〔中略〕さらに消費税や専売などによる増税は物価にはねかえり、日用生活品をいやがうえにも暴騰させた。〔中略〕とくに東北では、生産の主要な一翼をになっていた牛馬が戦争によって徴発されたことなどにより生産力を奪われ、〔中略〕その惨状を深めた。

大浜徹也『明治の墓標 庶民のみた日清・日露戦争』(河出書房新社)175-230頁

政府は日露戦争の戦費を調達するため、増税に加えて外債を発行、英米から資金を調達していました。そして、日露戦争後も外債償還のために増税が継続され、人々の生活に悪影響を及ぼしていたのです。

加えて、当時は産業革命が進展しており、横山源之助が『日本之下層社会』で描き出したように、労働問題が深刻化していました。

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これらの要因が重なった結果、生活が困窮する人々が激増します。そして、彼らは学生や新聞記者と共に、第一次護憲運動の一翼を担うこととなったのです。



1-3: 第二次護憲運動の背景

そして、第二次護憲運動の背景も結論からいえば、「世界的な民主主義的風潮の勃興」「社会主義への政府の警戒」という要素がありました。

1-3-1: 世界的な民主主義的風潮の勃興

第二次護憲運動が行われた当時は、1914年に勃発した第一次世界大戦をきっかけに、世界各地で民主主義的な政治運動が拡大していました。たとえば、ロシアやドイツ、オーストリア、トルコでは帝政が崩壊、共和政が成立しています。

世界的な動きに影響されて、日本でも学生たちを中心に、制限選挙の廃止と普通選挙を求める「普選運動」が活性化していきました。たとえば、1919年2月11日、「普選促進同盟会全国学生同盟会」が普通選挙実現を求める集会が開催されます。

その席上で学生たちが、次のような演説を行っています。

デモクラシーは世界の大勢である。民本主義は時代の潮流である。〔中略〕何を苦しんでこの大勢に逆行し、不徹底な制限選挙を墨守するのか。世界は動揺しはじめた。時代はまさに回転しようとしている。われわれは決然立って全国の青年を糾合し、普通選挙制度の実現につとめ、もって帝国将来の国際的進歩を確立しようとしている。

信夫清三郎『大正政治史』(頸草書房)866-869頁

この演説にみられるように、当時日本社会では普通選挙実現を求める動きが高揚、このような人々の活動が、普通選挙法につながりました。

1-3-2: 社会主義と政府の警戒

一方で、こうした民衆の動きが「社会主義」と結びつくことを危険視する考えもありました。(簡単にいえば、社会主義とは、生産手段の私的所有を禁じることで格差をなくし、平等な社会を実現しようとする考え)

日本でも産業革命の進展と並行して注目が集まり、1901年に幸徳秋水たちが、日本最初の社会主義政党である「社会民主党」を結党しています。しかしこれは、すぐに政府によって禁止されてしまいました。それは「平等」の概念が、天皇制の否定につながることが恐れられたためです。

そのため、日本では、社会主義は厳しく弾圧されています。代表的な出来事が、1911年に幸徳秋水などが処刑された「大逆事件」です。

その後1917年に生じた「ロシア革命」を経て、世界初の社会主義国家であるソビエト連邦が成立します。隣国が社会主義化したことで、さらに社会主義への警戒感が強まりました。

このような社会情勢は第二次護憲運動にも影響し、治安維持法の制定につながっていきます。

1章のまとめ
  • 護憲運動とは、各種の民主主義的な活動が展開された中で2度起きた代表的な運動を指す
  • 第一次護憲運動の背景には「藩閥への反発」「人々の生活の困窮」があった
  • 第二次護憲運動の背景には「世界的な民主主義的風潮の勃興」「社会主義と政府の警戒」があった
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2章:第一次護憲運動とは

さて、2章では第一次護憲運動を「発端」「運動」「結果・影響」からそれぞれ解説していきます。

2-1:発端

結論からいえば、第一次護憲運動が発生した直接のきっかけは、1912年12月に立憲政友会主体の第二次西園寺公望内閣が倒されたことです。「二個師団増設問題」をめぐって西園寺と対立した陸軍が、陸相を出さなかったことが原因でした。

この動きが、人々の不満に火をつけることとなります。それは「陸の長州、海の薩摩」といわれたように陸海軍は藩閥の影響力が強く、人々が一連の動きを、長州閥による政権打倒と見なしたためです。

12月14日、交詢社に所属する代議士や新聞記者と、国民党の犬養毅や政友会の尾崎幸雄たちが「憲政擁護会」を結成します。憲政擁護会は「憲政擁護・閥族打破」をスローガンに反陸軍運動を展開し、第一次護憲運動が始まりました。

2-2:運動

反陸軍の動きが拡大していく中、1912年12月21日に長州藩出身の桂太郎の組閣の大命が降りました。

実は桂への大命降下は、陸軍の意向を受けたものではありませんでした。しかし結果的に、桂の組閣が第一次護憲運動の拡大につながります。その過程について、歴史学者の宮地正人は次のようにまとめています。

陸軍はみずからひき起こした意想外の政治危機に衝撃を受け、練り上げていた寺内正毅首相案を押し通すことができず、結局内大臣となっていた桂太郎が十二月二十一日組閣することとなる。だが、民衆にとっては、桂内閣は陸軍が引き出したものとしてしか映らず、しかも桂が反政友会の新党結成を意図したことは、それまで桂との提携によって政友会内のみずからの地位を築いてきた原敬に、犬養の国民党と手を結ぶことを強い、憲政擁護運動に彼を追いやることとなった。

宮地正人『国際政治下の近代日本』(山川出版)151頁

宮地が述べたように、桂の組閣はかえって民衆の怒りを買い、さらに政友会との決定的な対立にもつながったのです。

そして1913年2月5日、政友会と国民党が議会に内閣不信任案を提出します。その際、尾崎幸雄が大正天皇の権威を利用する桂を批判して、

「彼ら(注: 桂太郎とその支持者)は玉座を以て胸壁となし、詔勅をもって弾丸に代えて政敵を倒さんとするものではないか」

『帝国議会衆議院議事速記録 27 第二十九・三〇回議会』(東京大学出版会)15頁 (注: 適宜句読点を補い、字体を現用のものに改めた)

と演説したことは有名です。

これに対し、桂は詔勅によって議会を5日間停会することを決定します。すると民衆は激昂、国会前で激しい抗議行動を行いました。

警視庁の「大正二年騒擾事件記録」には、その様子が次のように記されています。

傍聴人の出てくる者、および通行人またこれに加わり、〔中略、桂を支持する〕議員の退院するを見るや、殊に幌を蔽える人力車の出てくるあれば、たちまち怒号騒然として威迫し来たり、警察官の制止もほとんどその効なく、遂に溝渠〔注: 排水溝〕に墜落したるもの二台、ある議員のごときは、危害を恐れ正門より出ること能わず

荻野富士夫編『特高警察関係資料集成』第19巻(不二出版)26頁    (注: 適宜句読点を補い、字体を現用のものに改めた)

このように人々の不満は頂点に達し、暴動寸前の状態だったのです。

そして、2月10日、国会は再び数万の民衆によって包囲されてしまいます。これを見た山本権兵衛や衆院議長の大岡育造が桂に辞職を要求しました。

宮地正人によれば、この時大岡は、「この民衆は決して血を見ざれば止むものではありません。場合によれば、これが端緒となって内乱になるかも判らん。だから切に閣下のご考慮を願う」と述べたそうです。(前掲『国際政治下の近代日本』141頁)

そして2月11日、ついに桂は内閣総辞職を表明しました。内閣を組閣してから、わずか53日目のことでした。



2-3:結果・影響

このように第一次護憲運動の結果、第三次桂太郎内閣が倒されました。これは日本史上初、民衆が内閣を倒した出来事であり、このことは「大正政変」と呼ばれています。

「大正政変」以後の展開として、

  • 藩閥の影響力が後退する一方で、政党の影響力が強まったこと
  • 学者たちも、さまざまな理論を発表してこの変化を後押ししていたこと(たとえば、1912年に美濃部達吉が「天皇機関説」を発表し憲法論の観点から政党政治を支えたり、1914年には吉野作造が「民本主義」を唱えて、政治に民衆の考えを反映すべきと主張したこと)

が挙げられます。

このように第一次護憲運動がもたらした変化は、政治情勢を大きく変えるきっかけとなりました。このことから第一次護憲運動は、その後進展した「大正デモクラシー」の出発点と位置づけられています。

とわいえど、大正デモクラシー当時の日本には「内に立憲主義、外に帝国主義」という矛盾した潮流があったことを忘れるべきではないかもしれません。歴史学者の成田龍一は以下のようにその矛盾点を指摘しています。

民本主義者を含む人びとは、国内に向かっては「立憲主義」を唱えながら、国内に向かっては「帝国主義」の方針を疑っていなかった。日本は、すでに台湾、朝鮮半島を植民地にし、さらに中国への進出を図り、〔中略〕中国に対して二一か条の要求を突きつける。〔中略〕この二一か条の要求に対し、吉野たちも支持をしていたのである。

「週刊 新発見! 日本の歴史 近代6 戦前デモクラシーと「改造」の時代」(朝日新聞出版)11頁

このように、人々が植民地支配を批判する視座をもっていなかったことは、第一次護憲運動や「大正デモクラシー」の限界点と考えられています。

2章のまとめ
  • 第一次護憲運動が発生した直接のきっかけは、1912年12月に立憲政友会主体の第二次西園寺公望内閣が倒されたこと
  • 第一次護憲運動は、その後進展した「大正デモクラシー」の出発点と位置づけられている
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3章:第二次護憲運動とは

同様に、3章でも第二次護憲運動を「発端」「運動」「結果・影響」からそれぞれ解説していきます。

3-1:発端

結論からいえば、第二次護憲運動が生じた直接のきっかけは、1924年1月に清浦圭吾内閣が成立した際に政党勢力が反発したことです。

清浦内閣が反発を招いた理由は以下の2つです。

  • 当時は政党政治の流れが一時後退、非政党系内閣が続いていたという状況のため
  • 清浦内閣は貴族院議員を中心に組閣、政党政治家が1人も入閣していない「超然内閣」となったため

清浦内閣の成立後、1月10日に憲政会、革新倶楽部、政友会の有志が「第二憲政擁護会」を設立します。

さらに1月18日に憲政会の加藤高明、革新倶楽部の犬養毅、政友会の高橋是清が「護憲三派」を結成しています。護憲三派は清浦内閣を「特権内閣」と批判して倒閣運動を展開、第二次護憲運動が始まりました。

3-2:運動

護憲三派は人々の支持を得るために、普選断行、政党内閣の実現、貴族院・枢密院改革、行政整理などを公約に掲げ、各地で集会を開きました。

たとえば、1924年1月22日、東京上野で開催された集会の様子について、『東京朝日新聞』は次のように伝えています。

第二憲政擁護会主催にかかる、四頭首並に憲政擁護派に属する代議士の招待会は、二十二日午後三時より上野精養軒において開催、〔中略〕各派代議士院外者は勿論、地方上京者、青年学生等の二千余名の多数に達し、真に満場立錐の余地が無かった。〔中略〕大盛況裏に午後七時半散会した場外には、制服私服の巡査多数の警戒物々しく、往年第一の憲政擁護運動当時に比して、勝るとも劣らざるの勢いを示しておった。

『東京朝日新聞』1924年1月25日「四頭首を迎えて護憲の雄叫び 特権内閣倒壊の気勢を揚げた上野の護憲派大会」(注: 適宜句読点を補い、字体を現用のものに改めた)

このような護憲三派の活動に対し、清浦内閣は1月31日に衆議院を解散して対抗しました。

さらに運動の過程で政友会の一部が分裂し、政友本党を結成して清浦支持にまわっています。しかし、5月10日に行われた第15回衆議院議員総選挙では、護憲三派が過半数を獲得して勝利を収めました。

この選挙の結果、清浦内閣は総辞職することになります。第一党となった憲政会の加藤に組閣の大命が降ります。そして加藤は犬養と高橋に入閣を要請し、6月11日に護憲三派内閣が成立しました。



3-3:結果・影響

このように第二次護憲運動が展開された結果、護憲三派内閣が成立しました。護憲三派内閣の成立は、のちの政治情勢を変化させる大きな転機となりました。

たとえば、

  • 護憲三派内閣の成立後、1932年に犬養毅内閣が倒れるまでの8年間、政友会と憲政会(のち立憲民政党)の総裁が交互に組閣するようになった
  • この状態は「憲政の常道」と呼ばれ、衆議院の最大多数党の党首が政権を担当、失脚した場合は次の多数党に政権交代する慣習が定着していった

ということが起きます。

ほかにも護憲三派内閣は1924年6月に「衆議院議員選挙法」を改正し、翌5月に公布しています。この改正衆議院議員選挙法が、今日「普通選挙法」と呼ばれるものです。有権者数が約300万人から1240万人に増加、国民の約20%が有権者となりました。

一方で、護憲三派内閣は司法省や枢密院の要請を受け、1925年4月22日に「治安維持法」を公布しています。

  • 治安維持法により、「国体ヲ変革」することや「私有財産制度ヲ否認スルコト」を目的とした結社や人、具体的には社会主義者が処罰されることとなった
  • 同法公布の要因として、選挙権の拡大により、それまでは選挙権を持たなかった労働者階級の影響力が増したことや1925年にソ連と国交が樹立され、社会主義思想が流入する恐れが強まったことが挙げられる

ここでポイントとなるのが、護憲三派も治安維持法に反対していないことです。当時の状況を振り返って、政友会の高橋是清は次のように回想しています。

加藤高明君と話し合ったんだが、今これ〔注: 普通選挙のこと〕を政治的に解決してしまわぬと社会問題になる。〔中略〕政治的に解決して、社会問題が起こらぬようにしなければならぬ。これを残しておいたならば過激思想が入ってきて、これ〔注: 普通選挙が実現していないこと〕が彼等の材料になる。〔中略〕これは加藤君も同意であつた。

大津淳一郎『大日本憲政史』第9巻(原書房)640-641頁(注: 適宜句読点を補い、字体を現用のものに改めた)

ここで高橋が述べている「過激思想」は社会主義のことです。このことから、民衆が社会主義に走ることへの警戒感は、政党政治家の間でももたれていたことが分かります。

上述の点をまとめると、第二次護憲運動と第一次護憲運動の性質の違いとして、次の事柄が指摘されています。

  1. 第一次護憲運動は民衆の行動が前面に出てきた民衆運動とされる一方で、第二次護憲運動は民衆ではなく政党政治家が主体となった、より政治闘争の色彩が強い運動であったこと
  2. 第一次護憲運動の時は民衆と政党の利害がおおむね一致したのに対し、第二次護憲運動の時は、政党内部にも民衆への警戒感が存在したことが明らかとなっている。この警戒感が、のちに治安維持法の制定につながったこと

その後、治安維持法は対象が拡大され、大々的な言論弾圧は政党政治の衰退をもたらしています。

結果的に、第二次護憲運動は政党政治の発展と衰退の双方に、大きな影響を与えたと考えられています。

3章のまとめ
  • 第二次護憲運動が生じた直接のきっかけは、1924年1月に清浦圭吾内閣が成立した際に政党勢力が反発したこと
  • 護憲三派内閣は「普通選挙法」や「治安維持法」を制定し、後の日本社会に大きな影響を与えることになった

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4章:護憲運動について学べるおすすめ本

護憲運動への理解を深めることはできましたか?

歴史的記述が多くなりましたが、この記事で紹介した内容はあくまでも一部にすぎません。そのため、以下の書物からぜひ学びを深めていってください。

オススメ書籍

オススメ度★★★ 成田龍一『大正デモクラシー シリーズ日本近現代史④』(岩波新書)

2つの護憲運動をはじめ、大正時代に生じた主要な出来事をコンパクトにまとめた一冊です。初学者でも読みやすいのでおススメです。

オススメ度★★★ 清水唯一朗『政党と官僚の近代 日本における立憲統治構造の相克』(藤原書店)

明治から大正期における、政党と官僚(藩閥)の複雑な関係が考察されています。本格的な内容ですが、護憲運動をはじめとする諸運動の分析は一読の価値ありです。

オススメ度★★ 岡義武『近代日本の政治家』(岩波書店)

本文中に登場した原敬、犬養毅、西園寺公望のほか、伊藤博文や大隈重信が紹介されています。それぞれの人物像から、護憲運動が生じた時代の雰囲気を読み取ることができます。

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まとめ

最後にこの記事の内容をまとめます。

この記事のまとめ
  • 護憲運動とは、各種の民主主義的な活動が展開された中で2度起きた代表的な運動を指す。特に、第一次護憲運動は「大正デモクラシー」の出発点と位置づけられる運動である。
  • 第一次護憲運動は、その後進展した「大正デモクラシー」の出発点と位置づけられている
  • 第二次護憲運動に誕生する護憲三派内閣は「普通選挙法」や「治安維持法」を制定し、後の日本社会に大きな影響を与えることになった

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