イギリス革命とは、清教徒革命(ピューリタン革命/1642年)と名誉革命(1688年)をあわせたイギリスで起こった革命のことで、立憲君主制を成立させ政治における議会の役割を不可欠にした出来事です。
イギリス革命の要点を知っておくことは、世界史の教養としてだけでなく政治学を中心とした社会科学をより深く理解する基盤にもなります。
そこでこの記事では、
- イギリス革命の背景や歴史、その他の市民革命との違い
- イギリス革命の歴史
について詳しく解説します。
関心のあるところからぜひ読んでみてください。
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1章:イギリス革命とは
繰り返しになりますが、イギリス革命とは、
清教徒革命(ピューリタン革命/1642年)と名誉革命(1688年)をあわせたイギリスで起こった革命のことで、立憲君主制を成立させ政治における議会の役割を不可欠にした出来事です。
「清教徒革命(ピューリタン革命/Puritan Revolution)」と「名誉革命(Glorious Revolution)」の2つの出来事を合わせたもので、2つの革命は連続して起こりました。
先に結論を言えば、イギリス革命は、
- ステュアート朝の絶対王政を倒して、憲法に国王の権力が制限される「立憲君主制」を成立させた
- 議院内閣制と政党政治という現代の政治制度の基盤となる仕組みを作った
- イングランドとスコットランドを合併させ、現代の私たちが知る「イギリス」という国家を作った
という出来事です。
このサイトでは複数の文献を参照して、記事を執筆しています。参照・引用箇所は注1ここに参照情報を入れますを入れていますので、クリックして参考にしてください。
1-1:イギリス革命の背景・原因
イギリス革命はさまざまな要因から起こった出来事ですが、いくつかの重要な要素があります。
- 独立自営農民や地主、産業資本家、承認などの市民階級が台頭し、政治的主張を行うようになっていた
- 国王に対して議会が一定の力を持ち、国王の絶対的な権力が制限される準備がなされていた
- イングランド国教会と、非イングランド国教会のプロテスタントの諸派やカトリック教徒との対立があり、宗教問題が政治問題になっていた
また、清教徒革命(ピューリタン革命)と名誉革命の特徴をまとめると以下のようになります。
清教徒革命 | 名誉革命 | |
時代 | 1642-1649年 | 1688-1689年 |
原因 | チャールズ1世の専制政治、非イングランド国教会の教徒の弾圧、スコットランド、アイルランドへの弾圧 | ジェームズ2世による専制政治や親カトリック政策 |
革命の主体 | チャールズ1世率いる国王軍との争いに対し、議会の独立派を主導したクロムウェル | 議会の一部とオランダ総督ウィレム(後のウィリアム3世) |
意義 | 絶対王政を倒し共和政を樹立した | ジェームズの王政を倒し、ウィリアムの統治下で立憲君主制や言論の自由が保障された |
詳しくは2章の解説の中で説明していきますので、まずはここでは簡単に頭に入れておいてください。
1-2:イギリス革命とステュアート朝
イギリス革命は、「ステュアート朝(Stuart dynasty)」というスコットランド生まれの王朝を中心に起こった出来事です。
※王朝とは血族や養子縁組などによる、君主の系列による分類のことです。
イギリス革命の中心はステュアート朝ですので、まずはステュアート朝について簡単に押さえておきましょう。
イギリス革命が起こったときのステュアート朝は、以下のようになっていました。
その中でもイギリス革命において重要な役割を果たしたのが、下記の君主たちです。
- ジェームズ1世
- チャールズ1世
- チャールズ2世
- ジェームズ2世
- ウィリアム3世・メアリ2世
- アン
彼らの政治的・宗教的な行動を中心として、それと議会や貴族、周辺国の国家とのせめぎあいの中で起こったのがイギリス革命なのです。
1-3:イギリス革命とフランス革命の違い
世界史上の有名な革命として、イギリス革命の他にもフランス革命があります。
それぞれ別個の出来事ですので同一の基準から区別することは難しいですが、あえて整理すれば以下のようになります。
イギリス革命 | フランス革命 | |
時代 | 1642-1689年 | 1789年-1799年 |
原因 | 英国王の絶対王政への議会の不満、イングランド国教会とそれ以外の宗派の対立、中産階級の台頭 | ブルジョアジーの台頭、君主や貴族の特権への第三身分の不満 |
達成されたこと | 立憲君主制など | 人権宣言、封建制の廃止 |
イギリス革命の概要が分かりましたか?
2章ではイギリス革命の歴史を詳しく解説していきますが、より詳しく知りたい場合は以下の本を読んでみることをオススメします。
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まずはここまでをまとめます。
- イギリス革命とは、17世紀イギリスにおける清教徒革命(ピューリタン革命)と名誉革命を合わせた革命のこと
- イギリス革命は、市民階級の台頭や宗教上の対立、国王と議会の対立など複数の要因から起こったもの
- イギリス革命は、立憲君主制の成立や議院内閣制、政党政治など、その後の政治制度を作る原点となった点に歴史的意義がある
2章:イギリス革命①清教徒革命(ピューリタン革命)
清教徒革命(ピューリタン革命)は、
- ジェームズ1世、その息子チャールズ1世の統治に国内外の勢力が不満
- チャールズ1世の王権を議会が制限したことから対立が深刻に
- クロムウェルがチャールズ1世を倒す
- クロムウェルが共和政を樹立し護国卿として軍事独裁的政治へ
という流れで起こった出来事です。
この流れに沿ってポイントのみを説明します。
2-1:ジェームズ1世の3国統一への野望
清教徒革命(ピューリタン革命)の発端は、ジェームズ1世の統治のころからありました。
ジェームズ1世(Charles James Stuart/1566-1625年)は、イングランドとスコットランドの王を兼任したステュアート朝の王です(同君連合)。
両国の王となっていた一方で、当時のブリテン諸島は民族、政治、宗教などバラバラの状態であったため、ジェームズ1世はイングランド、スコットランド、アイルランドの3国を統一したいという野望を持っていました2君塚直隆『物語イギリスの歴史』(下)6頁。
しかしジェームズ1世は、
- アイルランドの植民地化→アイルランドの人々からの反感を買う
- ジェントリ(下層地主階級)、ヨーマン(独立自営農民)、ピューリタン(国教会の改革を訴える人々)の主張や立場を軽視
といった政策を行ったため、国内外に不満を蓄積させてしまいます。
2-2:チャールズ1世の専制政治
さらに、ジェームズ1世の死去後に即位した、息子のチャールズ1世(Charles I)は専制政治を行ったため、国内外の不満は限界まで達します。
チャールズ1世は以下のような政策を行いました。
- 国王の行動に対して、議会が「権利の請願」を提出するも、議会を解散し11年間議会を開催せず専制政治を行った
- 財政難解決のために、関税強化、騎士強制金を新設、船舶税の拡大などを実施し、議会や庶民に強い反発心を生んだ
- ピューリタンを弾圧し、イングランド国教会を重視した政策を実施
- カルヴァン派の長老派が体制となっていたスコットランドで、イングランド国教会のやり方を押し付ける
- アイルランドでは、側近ウェントワースが専制政治を行う
こうした政策の結果、国内外に反発を持つ勢力が増えていったのです。
2-3:議会の反発から清教徒革命(ピューリタン革命)が勃発
こうした背景があった上で、チャールズ1世がスコットランドの遠征費を議会で要求したことで、議会との対立が深刻なものになりました。
2-3-1:内戦の勃発
そのために結集された「短期議会」は、国王の要求を退けてすぐに解散させられました。
しかし、チャールズ1世はスコットランドとの停戦のための賠償金5万ポンドを支払うために、再び議会を結集します(長期議会)。
長期議会では、下記のような国王の権限を削ぐ法が制定されました。
- チャールズ1世の側近として専制政治を主導した、ウェントワースとロードの弾劾
- 議会の同意のない課税の廃止
- 少なくとも3年に1度ずつ、1会期が50日以上の議会を開催する
- 了承のない議会の解散の禁止
自分の権力を制限しようとする議会に反発し、チャールズ1世は庶民院の改革派議員を逮捕しようとしたことで、「国王派」「議会派」に分かれて国内が内戦状態になってしまいます。
2-3-2:チャールズ1世を処刑したクロムウェル
内戦では、
- 国王軍…スコットランド契約派と連携
- 議会軍・長老派…国王軍との妥協を求める
- 議会軍・独立派…国王軍と徹底抗戦
と勢力が分かれ、独立派からは庶民院出身のオリヴァー・クロムウェル(Oliver Cromwell)が鉄騎隊を率いて、国王軍・スコットランド軍を打倒しました。
議会では、長老派と独立派が対立しましたが、独立派が長老派を逮捕し、独立派のみの議会を結成します(残部議会)。そして、チャールズ1世を処刑しました。
クロムウェルはこうして、革命の英雄としてその後の統治を主導します。
2-3-3:共和政樹立・護国卿体制
独立派のみが集まった残部議会は、王政を打倒したため「共和政」を樹立し、下記のような政策をしました。
【残部議会による決定】
- 王政と貴族院の廃止
→17世紀から続いてきた三位一体(国王、貴族院、庶民院)の統治を廃止 - 共和政宣言
→残部議会と国務会議が新たな統治機構となる - 3国の合併を進める
→アイルランドの植民地化、スコットランドの合併を進め、イングランドの脅威にならないようにした
国内においては統治機構を王政から共和政に一新し、国外に対しても新たな脅威が生まれないようにしたことが分かります。
しかし、残部議会は現在の立場を守るために選挙を先延ばしにするような有様で、今後の統治のためには体制を新たにする必要がありました。
そこでクロムウェルは、以下のような政策を実施しました。
- 残部議会を軍事力で解散させ、「指名議会」という新たな議会を作り、指名議会と国務会議が国内を統治することにする
- 「統治章典」というイングランド初の成典憲法を作り、自らを三国の行政・治安のトップであると憲法で規定(護国卿体制)
- 全国に軍政官を配置し軍事的な支配を強める
- 議会の権力を抑制するために、「第二院」を作り多くの自分の友人を議員にした
しかし、クロムウェルは病死しクロムウェルの子も護国卿の立場を引き継がなかったため、護国卿体制は終わりを告げ、王政復古によって新体制が作られることになりました。
清教徒革命(ピューリタン革命)については、以下の記事でより詳しく解説しています。ぜひご覧ください。
清教徒革命(ピューリタン革命)についてまとめます。
- 清教徒革命の背景には、ジェームズ1世、チャールズ1世の専制政治があった
- 清教徒革命は、チャールズ1世に反発した議会軍の独立派によって起こされた
- 独立派を率いたクロムウェルは、チャールズ1世を処刑し共和政を樹立、護国卿体制を築いた
3章:イギリス革命②名誉革命
名誉革命の歴史は、
- 議会とチャールズ2世によって王政復古
- ジェームズ2世によって専制政治
- 議会とオランダ総督ウィレムが結託し、ジェームズは国外逃亡
- ウィリアム3世とメアリ2世の統治下で、「権利章典」で王権が制限され、立憲君主制の礎となった
という流れです。
この流れに沿ってポイントを解説していきます。
3-1:王政復古でチャールズ2世が君主に
清教徒革命(ピューリタン革命)を主導し、護国卿体制を築いたクロムウェルが死亡したことで、新たな政治体制が求められました。
そこで、
- 「仮議会」が招集され、「貴族院」と「庶民院」の二院制が復活
- 亡命していたチャールズ2世が、清教徒革命関係者への大赦や軍隊の未払い給与の補償など、王政復古のために行動
- チャールズの行動を踏まえて、仮議会がチャールズを国王チャールズ2世として承認し、統治形態を三位一体(国王、貴族院、庶民院)に戻す
といったことを行いました。
スコットランド、アイルランドも追従し、イングランドは共和政から再び王政となったのです。
貴族院と庶民院による議会(騎士議会)は、国教会の復権と国王の権力の制限を行うために、
- 清教徒革命(ピューリタン革命)によって崩れたイングランド国教会の体制を再建
→その反動でカトリックや非イングランド協会のプロテスタントが迫害の対象になった - クロムウェルの専制を裏付ける力になった軍隊を縮小
- 国王による封建的課税や、議会の同意なき課税を禁止
といった政策を実施しました。
チャールズ2世はこれを受け入れましたが、その弟ジェームズはチャールズとは違い議会と強く対立しました。
ジェームズはカトリックであったことから、ジェームズをイングランドの君主として認めていいのか議会を2分する激しい議論になりました。
その中で、ホイッグ党・トーリ党が生まれ後の議院内閣制や政党政治のベースになっていきました。詳しくは以下の記事をご覧ください。
3-2:ジェームズ2世による専制政治と名誉革命
チャールズ2世の後を継いで君主となったジェームズ2世は、
- チャールズ2世の私生児モンマス侯爵が反乱した際、進軍し、鎮圧した後も常備軍を維持した
- 王位継承後に要職の就く人々を粛正し、カトリック教徒に要職を継がせた
- 信仰自由宣言を発し、カトリックを重視、イングランド国教会の体制を弱める姿勢を持った
といった専制政治を行いました。
こうしたジェームズ2世の政策は国内外に反発を生み、議会の有力者とオランダ総督ウィレム(後のウィリアム3世/William III)が結託します。
イングランド議会はイングランド軍をコントロールし、ウィレムがオランダ軍を率いてイングランドに進軍。ジェームズ2世は国外逃亡しました。
議会は王位の空座を宣言し、オランダ総督ウィレムをウィリアム3世とし、その妻メアリ2世と共に君主にすることにしました。
王政であることには変わりありませんが、君主が入れ替わったことで革命が成し遂げられたのが名誉革命です。
名誉革命では、直接的には誰も血を流すことがなかったため、それが「名誉」であったことから名誉革命と言われるようになりました。無血革命とも言われます。
3-3:名誉革命の意義・権利章典
名誉革命は、共和政から王政に転換した清教徒革命とは違い、王政のまま君主のみが入れ替わった革命です。
政体が変化していないのですから、「革命とは言えないのでは?」と思われる方もいるかもしれません。しかし、名誉革命はその後の歴史に与えた影響を考えれば、やはり革命的だった出来事です。
その最大の意義は、「権利章典」という法律を明文化したことです。
権利章典とは、国王の存在を前提に、議会や国民の権利・自由を規定した法律です。
「王権神授説」が信奉され国王の権力が絶対的なものとされた当時の時代背景を考えれば、その権力が制限され、議会や国民に一定の権利が認められたことはとても意義があるのです。
具体的には、権利章典では以下のことなどが規定されています。
『権利章典』で定められたこと
- 議会の同意がない課税禁止
- 議会の同意がない常備軍の維持が禁止
- 議会の同意がない法律の適用免除などの禁止
- 議会での言論や選挙の自由を保障
- 議会を招集すること
- 人身の自由
こうして、国王すらも憲法によって権利が制限される「立憲君主制」のベースが作られ、その後の統治のあり方を大きく規定していくことになるのです。
名誉革命について、より詳しくは以下の記事で解説していますので、ぜひご覧ください。
【名誉革命とは】清教徒革命との違い・ロックとの関係までわかりやすく解説
- 名誉革命は、ジェームズ2世の専制政治に反発した、議会とオランダ総督ウィレムが結託して実行した出来事
- ウィレムはウィリアム3世として妻メアリ2世と共にイングランドを統治
- 名誉革命では、「権利章典」が成立し立憲君主制の礎を築いた
4章:イギリス革命の学び方とおすすめ本
イギリス革命について理解を深めることはできましたか?
歴史上の出来事は細かく見ていくときりがありません。そのためこの記事ではできるだけ簡潔に要点に絞って記述しましたが、より詳しく知りたい場合は必ず書籍にあたることをおすすめします。
そこで最後にイギリス革命について学べるオススメ書籍を紹介します。
イギリスの歴史【帝国の衝撃】―イギリス中学校歴史教科書―』(明石書店)
近代のイギリスの歴史が詳しく書かれた、イギリスの中学校の教科書を翻訳したものです。非常に面白いのでぜひ通読することをおすすめします。
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君塚直隆『物語イギリスの歴史』(上・下)(中公新書)
イギリスの歴史を講義調で解説しているものです。イギリス革命について書かれているのは「下」ですが、その前の歴史から知っておかなければイギリスの王朝の役割や王権が制限されていくプロセスが理解しづらいです。上下合わせて読むことをおすすめします。
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オススメ度★岩井淳『ピューリタン革命と複合国家』(山川出版社)
イギリス革命の一部のみを理解したいなら、薄くて読みやすいこちらのブックレットをおすすめします。イギリス史をある程度知っている方におすすめです。
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まとめ
この記事の内容をまとめます。
- 清教徒革命(ピューリタン革命)は、チャールズ1世の専制政治に反発した議会の「独立派」とそれを率いたクロムウェルによって成し遂げられた
- クロムウェルは護国卿として軍事独裁的な政治を行った
- クロムウェルの死後、王政復古によって三位一体の統治が復活するも、王位を継承したジェームズ2世が専制政治をしたため、議会とオランダ総督ウィレムによって名誉革命が成された
- 名誉革命後、王権は制限され、イングランドとスコットランドは合併されてイギリスとなった
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