考古学

【古代天皇とは】歴史・実在性や学術的議論をわかりやすく解説

古代天皇とは

古代天皇とは、古事記・日本書紀に登場する天皇のことです。

日本最古の神話・歴史書である『古事記』『日本書紀』(以下「記紀」)には、神々から天皇家へのつながりと、天皇家が古くから日本を収めていた事績が記されています。特に『日本書紀』には、初代の神武天皇から第41代の持統天皇に至るまで41代40人1『日本書紀』に登場する天皇を41代40人とする見解は、明治時代に第38代天智天皇の皇子にあたる大友皇子を「弘文天皇」として皇統譜に加える解釈に拠ります。実際には大友皇子が天皇として即位したかは定かではありません。の天皇が登場しているのです。

しかしながら、さまざまな理由によって、『記紀』に記載のある天皇が全員実在した可能性は低いものと考えられています。また、実在性が考えられる古代天皇の事績にも一部には神話的な記述も含まれるなど、『記紀』の内容が「実在か・非実在か」「事実か・創作か」についてはかねがね議論が起こってきました。

『古事記』『日本書紀』の成立

その一方で、『記紀』や古代天皇について知ることは、日本の国家としての成立過程や現代まで続く皇室の歴史を探るうえで大変重要なことです。

したがって、この記事では、

  • 古代天皇の一覧
  • 古代天皇の事績と実在性
  • 古代天皇にかんする学術的研究

についてわかりやすく解説していきます。

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1章:古代天皇の一覧と果たした役割

本記事を読み進んでいく上で、以下の念頭においていただきたい点に目を通していただけると幸いです。

  1. 「古代天皇」の名称は(学術用語ではあるものの)確定的なものではなく、研究者間で「古代天皇」が規定する時代・天皇・解釈はそれぞれ異なるものであることをご了解ください。
  2. 『記紀』に登場する天皇は40人と多く、本維持内で全員について詳しく解説することは不可能でした。全員について詳しく知りたい方は、3章で紹介する本や、記事内に登場する論文をお読みいただけますと幸いです。
  3. 本記事は、「古代天皇」の実在性や『記紀』の記述について疑義を呈する内容を含みます。しかしながら、これらはあくまで神道信仰を否定するものではありません(→神道に関してはこちらの記事)。

1-1:古代天皇の一覧

まずは、『記紀』に登場する天皇の一覧を掲載いたします。以下のリストでは、古代天皇の代数・諡号・即位年・享年・陵墓をまとめました。

リストをご覧いただく前に、天皇一人一人の「名前」について知っていただきたいと思います。

  • 実は、古代天皇に限らず今日われわれが目にする「天皇の名称」(例:「神武天皇」「明治天皇」など)は、「諡号(おくりな)」であり、天皇の崩御後に贈られる名前である
  • そのため、生前にはこれらの「諡号」とは別の本名で呼ばれていた

また、「日本の建国」の記事でも触れたように、「天皇」号が成立したのは7世紀に入ってからのことと考えられています(→記事へとぶ)。したがって、それ以前の天皇については、「王」または「大王」と呼ばれていたものと考えてください。

代数 漢風諡号 和風諡号 即位年(西暦) 享年(紀) 天皇陵 天皇陵に指定された古墳
1 神武天皇 神日本磐余彦 前660年 127 畝傍山東北陵 四条ミサンザイ
2 綏靖天皇 神渟名川耳 前581年 84 桃花鳥田丘上陵 塚山
3 安寧天皇 磯城津彦玉手看 前549年 57 畝傍山西南御陰
4 懿徳天皇 大日本彦耜友 前510年 77 畝傍山南織沙渓
5 孝昭天皇 観松彦香殖稲 前475年 137 掖上博多山上陵
6 孝安天皇 日本足彦国押人 前392年 137 玉手丘上陵
7 孝霊天皇 大日本根子彦太瓊 前290年 128 片丘馬坂陵
8 孝元天皇 大日本根子彦国牽 前214年 116 剣池嶋上陵 中山塚1-3号墳
9 開化天皇 稚日本根子彦大日日 前158年 115 春日率川坂本陵 念仏寺山古墳
10 崇神天皇 御間城入彦五十瓊殖 前97年 119 山辺道勾岡上陵 行燈山古墳
11 垂仁天皇 活目入彦五十狭茅 前29年 140 菅原伏見東陵 宝来山古墳
12 景行天皇 大足彦忍代別 71年 143 山辺道上陵 渋谷向山古墳
13 成務天皇 稚足彦 131年 107 狭城盾列池後陵 佐紀石塚山古墳
14 仲哀天皇 足仲彦 192年 恵我長野西陵 岡ミサンザイ古墳
神功皇后 狭城盾列池上陵 五社神古墳
15 応神天皇 誉田 270年 111 恵我藻伏岡陵 誉田御廟山古墳
16 仁徳天皇 大鷦鷯 313年 143 百舌鳥耳原中陵 大仙陵古墳
17 履中天皇 去来穂別 400年 百舌鳥耳原南陵 上石津ミサンザイ古墳
18 反正天皇 瑞歯別 406年 百舌鳥耳原北陵 田出井山古墳
19 允恭天皇 雄朝津間稚子宿禰 412年 恵我長野北陵 市野山古墳
20 安康天皇 穴穂 453年 菅原伏見西陵
21 雄略天皇 大泊瀬幼武 456年 丹比高鷲原陵 鳥泉丸山古墳
22 清寧天皇 白髪武広国押稚日本根子 480年 河内坂門原陵 白髪山古墳
飯豊青尊 埴口丘陵 北花内大塚古墳
23 顕宗天皇 弘計 485年 傍丘磐坏丘南陵
24 仁賢天皇 億計 488年 埴生坂本陵 野中ボケ山古墳
25 武烈天皇 小泊瀬稚鷦鷯 498年 82 傍丘磐杯丘北陵
26 継体天皇 男大迹 507年 70 三島藍野陵 太田茶臼山古墳
27 安閑天皇 広国押武金日 531年 73 古市高屋丘陵 高屋築山古墳
28 宣化天皇 武小広国押盾 535年 63 身狭桃花鳥坂上陵 鳥屋ミサンザイ古墳
29 欽明天皇 天国排開広庭 539年 48 桧隈坂合陵 平田梅山古墳
30 敏達天皇 渟中倉太珠敷 572年 48 河内磯長中尾陵 太子西山古墳
31 用明天皇 橘豊日 585年 河内磯長原陵 春日向山古墳
32 崇峻天皇 泊瀬部 587年 倉梯岡上陵
33 推古天皇 豊御食炊屋姫 592年 75 磯長山田陵 山田高塚古墳
34 舒明天皇 息長足日広額 629年 49 押坂内陵 段ノ塚古墳
35 皇極天皇 天豊財重日足姫 642年 68(※) 越智崗上陵 車木ケンノウ古墳
36 孝徳天皇 天万豊日 645年 59 大坂磯長陵 山田上ノ山古墳
37 斉明天皇 天豊財重日足姫 655年 68(※) 越智崗上陵 車木ケンノウ古墳
38 天智天皇 天命開別 661年 46 山科陵 御廟野古墳
39 (弘文天皇) 671年 25 長等山前陵 園城寺亀丘古墳
40 天武天皇 天渟中原瀛真人 673年 56 桧隈大内陵 野口王墓古墳
41 持統天皇 高天原広野姫 686年 58 桧隈大内陵 野口王墓古墳

赤字は女帝
※天皇陵が古墳以外(自然地形など)の場合は空欄



1-2:古代天皇の実在性

上記のリストで挙げた古代天皇が全員実在した人物であるかといえば、そうではないとする考えが学界の常識です。『記紀』は神話と地続きの歴史書であり、古代天皇の事績を記した部分にも神話的要素がたびたび介在しています。したがって、あまりにも神話的要素が強い天皇については非実在のレッテルが貼られるのです。

具体的に、以下の天皇の実在性は疑問視されています。

  • 神武天皇の後に続く綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安・孝霊・孝元・開化の8代の天皇は「非実在の可能性が高い」と考えられている
  • なぜなら、「欠史八代」とも呼ばれる8代の天皇には事績(いわば物語的な部分)の記述が欠けており、名前だけが残っているような状態だからである

古代天皇の実在性

ここで実際に「欠史八代」の一人「安寧天皇」についての『日本書紀』の記述をみてみます2『日本書紀』巻4より引用、()は筆者訳

磯城津彥玉手看天皇、神渟名川耳天皇太子也。母曰五十鈴依媛命、事代主神之少女也。天皇、以神渟名川耳天皇廿五年、立爲皇太子、年廿一。

(安寧天皇は綏靖天皇の皇太子であった。母は五十鈴依媛命で、事代主神の娘である。安寧天皇は綏靖天皇25年に皇太子に任ぜられ、その時天皇は21歳であった)

卅三年夏五月、神渟名川耳天皇崩。其年七月癸亥朔乙丑、太子卽天皇位。

(綏靖天皇32年夏5月、綏靖天皇が崩御された。その年の7月3日、太子は即位した)

元年冬十月丙戌朔丙申、葬神渟名川耳天皇於倭桃花鳥田丘上陵。尊皇后曰皇太后。是年也、太歲癸丑。

(安寧天皇元年、綏靖天皇を桃花鳥田丘上陵に葬った。先代の皇后を慕って皇太后と呼ぶこととなった。この年、太歳癸丑)

二年遷都於片鹽、是謂浮孔宮。

(安寧天皇2年、都を片塩の浮孔宮に遷した)

三年春正月戊寅朔壬午、立渟名底仲媛命亦曰渟名襲媛爲皇后。先是、后生二皇子、第一曰息石耳命、第二曰大日本彥耜友天皇。

(安寧天皇3年、渟名底仲媛命亦曰渟名襲媛を皇后に立てた。皇后との間には二人の皇子が生まれ、第一子は息石耳命、第二子は懿徳天皇である)

十一年春正月壬戌朔、立大日本彥耜友尊、爲皇太子也。弟磯城津彥命、是猪使連之始祖也。

(安寧天皇11年、懿徳天皇を皇太子に任じた。弟の磯城津彥命は、猪使連の始祖である)

卅八年冬十二月庚戌朔乙卯、天皇崩。時年五十七。

(安寧天皇38年12月6日、天皇は崩御された。享年57歳である)

このように、「欠史八代」の天皇についての記述は形式的なものです。一方で、他の古代天皇には人間臭いエピソードがかなり長く描写されています。

このほかにも実在性が疑われている古代天皇は少なくありません。とはいえ、近畿地方の巨大古墳の存在などから、『記紀』の古代天皇のモデルとなった「ヤマト王権の大王」の実在は確実です。

「仁徳天皇陵」とされる大仙陵古墳「仁徳天皇陵」とされる大仙陵古墳(筆者撮影)

ただし、2章で解説するように、古墳などの遺跡から大王(≒古代天皇)の名が刻まれた遺物が見つかるケースはごく少ないため、『記紀』に登場する古代天皇の名前そのままの人物が実在したかどうかはなかなかわからないのです。



1-3:『記紀』の記述内容について

『記紀』は7世紀後半の天武天皇の時代に編纂が開始され、奈良時代に完成した文献です。したがって、リアルタイムの情報を記録した史料ではないことに留意する必要があります。

上述のとおり、天皇の実在性・非実在性も含めて、創作箇所や曖昧な部分が数多く含まれているのです。つまり、『記紀』に記された古代天皇の名前や事績には、後の時代の人々にとって都合がよくなるように改変された部分や創作された部分があるといえます。

たとえば、次のようなことを挙げることができます。

  • 『記紀』においては、「天皇家は神々の子孫である」と明記されている
  • また、初代・神武天皇の即位年が紀元前660年とあまりにも古く設定されている(さらに言えば、初期の天皇の享年は非常に長く延長されている)

これらの暦年代操作は、朝廷が天皇中心の国家を築き上げるうえで、天皇による国家支配の正当性を主張するための創作の可能性が高いとされています。『日本書紀』の暦年代についてち密な計算を行った小島荘一は、この「操作」について次のように述べていました3小島荘一「『日本書紀』の史料学的検討 : 記事に付された暦日の性格と編纂過程」『日本研究』第20号 67頁

そして、記事に付されている暦日の具体的な正確性を数値化した記事密度と記事精度を用いて、『書紀』の古い時代の暦日が、新しいものよりも却って正確性が高くなっていることを指摘した。このことはこうした礫質が史実に基づく記録では有り得ず、架空に設定されたものと考えられることを示していると言えよう。

箸墓古墳ヤマト政権の初代の王の墓といわれる箸墓古墳は、科学的な年代測定の結果西暦250年前後に築造されたとみられている(筆者撮影)

もちろん、『記紀』には天皇やその近親者による悪事や、淡々とした事実が記されている部分もあり、一概に「天皇家による支配の正当性」「有力者にとって都合の良い歴史」を訴えるためだけに『記紀』が編纂されたわけではないのも事実です。しかしながら、それ以外の創作部分が後の時代に都合よく解釈されたことにも目を向けなければなりません。

例を挙げると、『記紀』には日本の古代天皇の勢力が朝鮮半島の一部地域にまで及んでいたとの記述が見受けられます(「任那日本府」)。戦前の日本は、この記述を「韓国併合」の根拠の一つとしていました。

「韓国併合」の実態や内容についての歴史的な評価は過度に政治的な内容を含むため本記事内では避けますが、少なくとも現在では、日本と韓国の考古学・古代史学の協業によって古代日本が朝鮮半島の一部を支配していた可能性は低いとされています。考古学の立場から古墳時代の日朝関係史の解明に挑む高田貫太は、次のように述べました4高田貫太「古墳時代の日朝関係史と国家形成論をめぐる考古学史的整理」『国立歴史民俗博物館研究報告』第170集 80-81頁

倭王権の朝鮮半島における軍事的活動をどの程度まで考古学的に証明し得るのかについては,大きな疑問がある。たとえ,そのような活動を示唆する『日本書紀』や『古事記』の記録があったとしても,古代史学側の成果によって,朝鮮半島における倭人の活動に軍事的側面が認められるとしても,まずは考古学的な方法論に則って,朝鮮半島における倭の軍事的活動の実態を再検討していくことが必要あろう。

このように、『記紀』の記述のなかには現在に至るまでの考古学・歴史学の研究によって否定されているものも少なくありません。また、逆に『記紀』の記述内容が正しいと証明されたケースも存在します。いずれにせよ、『記紀』の内容だけで事実か否かを判断するのは非常に難しいのです。

1章のまとめ
  • 古代天皇とは、古事記・日本書紀に登場する天皇のことである
  • 『記紀』に記された古代天皇の名前や事績には、後の時代の人々にとって都合がよくなるように改変された部分や創作された部分がある
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2章:古代天皇についての学術的研究

『記紀』によれば、初代・神武天皇の即位年は紀元前660年とされています。しかしながら、考古学的には紀元前5、6世紀は未だ弥生時代であり、統一的な王権が日本列島内に成立していた形跡は認められません。

こうしたことを含めさまざまな理由から、『記紀』が記すような古代天皇のモデルとなった大王は、およそ3世紀中ごろのヤマト王権の成立(古墳時代の開始)をもって登場したものと考えられています。そのヤマト王権の大王=当時の倭国王が、のちの朝廷、ひいては現在の皇室につながっていくとされているのです。

しかしながら、古墳時代以前の日本について書かれた文献は『記紀』以外にはほとんど存在していません。したがって、古代天皇≒ヤマト王権の大王について知るには、中国の歴史書やわずかに出土する「文字の書かれた考古資料」から考察する必要があります。

そこで、2章では、『記紀』以外の文献や考古資料などからわかる古代天皇の実像について解説します。

2-1:中国の史書に記された「倭王」との対応

まずは古墳時代の直前から飛鳥時代(西暦200年~700年前後)の日本についての記載がある中国の歴史書の記述をみていきます。

日本の建国」の記事でも挙げた通り、この500年の間には「卑弥呼」「倭の五王」「○○」の計7人の倭国王についての記載があることがわかります。このうち卑弥呼を除く6人は、ほぼ確実にヤマト王権の大王です5『日本書紀』の神功皇后記には『魏志』倭人伝の記事が数カ所引用されています。『日本書紀』の編者は『魏志』倭人伝の内容を皇室の歴史のなかに組み込もうとしていたようです。しかし、卑弥呼が現在の天皇家につながる人物である証拠はほぼ皆無です。

このうち、以前の記事でも紹介した「倭の五王」は、『記紀』に記された古代天皇の系譜とは一致しません。そのため、『記紀』に登場する天皇のうちどの人物が「倭の五王」に対応するのか、研究者間で活発な議論が交わされてきました。「倭の五王」を天皇に比定する方法論は、古代史学者の西條勉がよくまとめています6西條 勉「倭の五王と古代王権の系譜学―天皇の系譜と物語について―」『国士舘大学文学部人文学会紀要』第28巻 26頁

そのひとつは、五王の実年代を古事記の崩年干支や書紀の対外記事に対照させるものである。…(中略)…もうひとつは、中国の正史の方を重くみて、そこに書かれている五王の王名と続柄を、記紀に伝える天皇の系譜や諡号に比較する方法がある。今日もっとも一般的な比定法といってよい。

「倭の五王」と『記紀』の対応関係「倭の五王」と『記紀』の対応関係(筆者作成)

現在までのところ、倭の五王の最後の一人「武」は雄略天皇に、「興」は安康天皇、「済」は允恭天皇と比定されています。興と武、安康天皇と雄略天皇はともに兄弟関係であり、済・允恭天皇はその兄弟の父です。これは、『宋書』倭国伝と『記紀』とで合致しています。

しかし、「讃」と「珍」についてはよくわかっていません。『記紀』にみえる天皇の人数と「二人の王」が合致していないからです。また、『宋書』倭国伝では「珍」と「済」の関係を明らかにしておらず、この点も疑問を深めています。

いずれにせよ、以下の点はたしかな可能性が高いです。

  • 倭の五王の時代(5世紀)=古墳時代中期を通して中国南朝とヤマト王権が活発な交渉を行っていたこと
  • 古墳時代中期は大阪府の百舌鳥・古市古墳群にヤマト王権の大王墓に相当する巨大古墳が次々と築かれた時代であり、そのいずれかに「倭の五王」が葬られていること

ヤマト王権が巨大な古墳を築くだけの権力を手にした背景には、中国や朝鮮半島との外交がありました。また、巨大古墳自体が倭国のもつ技術や大王の権力を他国の外交官に示す舞台装置となったとする見解も存在します。

そう考えると、倭の五王の名前が中国の歴史書に刻まれていることも、当時のヤマト王権の外交・政治の状況をよく表しているのかもしれません。しかし、当時の倭と中国南朝との外交関係は一切記録されておらず、その点には疑問が残ります。

一方で、『隋書』倭国伝に登場する倭王「多利思北孤(タリシヒコカ)」は、倭の五王の時代が過ぎて100年以上経ったころの大王です。「多利思北孤」は名前ではなく尊称ではないか、とする見解も存在しています。名前にせよ尊称にせよ、「ヒコ」と呼ばれている以上、大王は男性と考えるのが自然です7『隋書』倭国伝より引用、()は筆者訳

開皇二十年、俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕。

(開皇二十年、姓は「アメ」、字は「タリシヒコ」、号は「オホキミ」を名乗る倭王が隋に遣使してきた)

ただし、『日本書紀』に登場する当時の天皇は女帝の推古天皇です。『隋書』と『日本書紀』で大王の性別が一致しません。これについては、「多利思北孤」は厩戸王(聖徳太子)のことである、ヤマト王権は推古天皇が女帝であることを隠した、などさまざまな見解が存在します。

また、注目すべきは、当時の隋と倭の外交関係が『隋書』と『日本書紀』の両方に記録されている点です。大王の性別などの細かな違いや記述漏れは認められるものの、両者ともに同じ時代の同じ出来事について記しているのは間違いありません。

『宋書』と『記紀』では「倭の五王」と当時の古代天皇の人数や事績がほとんど対応しないことを考えると、中国と倭の外交関係の変化がうかがえます。



2-2:古代天皇と考古資料

1978年、埼玉県稲荷山古墳から出土した鉄剣にX線を照射したところ、約115文字にもおよぶ、金で書かれた漢文が発見されました。驚くべきことに、そこには当時の天下(国家)を統べる者として「ワカタケル大王」の名が刻まれていたのです。

それ以前に熊本県江田船山古墳から発掘された鉄刀にも銀にて「ワ〇〇〇ル大王」の名が刻まれており、関東と九州の遠く離れた地に同じ大王の名が轟いていたことがわかりました。

稲荷山古墳と金錯銘鉄剣(フリー画像より作成)稲荷山古墳と金錯銘鉄剣(フリー画像より作成)

稲荷山古墳出土金錯銘鉄剣:「(前略)……獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也」

筆者訳:「ワカタケル大王がシキの宮に所在していた際、私(鉄剣の持ち主か)は大王が天下を統治するのを補佐しており、この鋭い鉄剣を製作させ、私が大王家に仕えてきた理由をそこに記させた」

江田船山古墳と銀錯銘大刀(左は筆者撮影、右はフリー画像)江田船山古墳と銀錯銘大刀(左は筆者撮影、右はフリー画像)

江田船山古墳出土銀錯銘大刀:「治天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖……(以下略)」

筆者訳:「天下を統治するワカタケル大王の時代、典曹人(文官か)として(大王に)仕えたムリテという名の人物は……」

特筆すべきは、埼玉県稲荷山古墳で発見された「金錯銘鉄剣」に辛亥年の年号が刻まれていたことです。この「辛亥年」はおそらく西暦471年であろう、とされ、年代および名前の読みから、「ワカタケル大王」とは第21代雄略天皇(大泊瀬幼武天皇)のことと考えられています。

雄略天皇は『宋書』倭国伝にみえる倭王「武」と対応するため、「ワカタケル大王」=「雄略天皇」=「武」が成り立つのです。これは、『記紀』に登場する古代天皇の実在性が日本の考古資料によって証明された数少ない事例の一つといえます。古代史学者の熊谷公男は、「ワカタケル大王」について次のようにまとめました8熊谷公男『大王から天皇へ』日本の歴史03講談社 110-113頁

倭王権は、五世紀末の倭王武=雄略天皇のときに中国王朝と決別するが、その雄略天皇に相当すると考えられるワカタケル大王が、国内で独自の「天下」観をもち、みずから「治天下大王」と名のって列島支配を行っていたことを示す刀剣銘が2つ発見されている。

…(中略)…鉄剣銘の解釈では、辛亥年はいつで、ワカタケル大王とは誰か、ということがまず問題となったが、現在では、前者は471年、後者は雄略天皇とするのが定説となっている。

…(中略)…一方、ワカタケル大王は、「大王」が倭王、すなわち列島の支配者であるとすれば『書紀』に大泊瀬幼武(『古事記』では大長谷若建)との名前を伝える雄略天皇をおいてほかに該当者はいない。

もう一つ注目したいのが、和歌山県の隅田八幡神社に奉納されている「人物画像鏡」です。この銅鏡には、「男弟王」の名が刻まれており、(諸説ありますが)『記紀』に登場する第26代継体天皇の可能性が高いと考えられています。この鏡自体が朝鮮半島・百済からの渡来品であるとされており、海の向こうまでヤマト王権の人物の名が届いていた証拠とも考えられるものです。

このように、数は決して多くないものの、古代天皇の実在性が考古資料から担保される例も存在します。ただし、古墳の内部から被葬者または関係者の名前が刻まれた遺物が検出される例はほぼ皆無であり、特に古代天皇がどの古墳に葬られているのかが名前付きでわかるケースは存在しません。それは後述する「天皇陵問題」の大きな原因の一つとなってます。



2-3:「天皇陵」の問題

『記紀』には天皇の墓=天皇陵の位置について簡単な記載があり、後の平安時代に記された『延喜式』でも改めて天皇陵の位置が整理されています。

さらにその後、江戸時代から明治時代にかけてそれらの史料や伝聞情報をもとに天皇陵が治定され、現在に至るまで主に近畿地方の古墳が陵墓として宮内庁に管理されてきました。

しかしながら、この天皇陵の治定には大きな問題もあります。それは以下の理由からです。

  • 戦後の考古学・古代史学の進展によって「天皇の在位年代と古墳の年代観に矛盾が生じている」「○○天皇の実在性は低いため、天皇陵も存在しないと考えられる」といったケースが増加した
  • つまり、宮内庁が「○○天皇陵」としている古墳が本当に○○天皇のお墓であるかは、今のところ非常に判断が難しいといえる9大阪府百舌鳥・古市古墳群の各古墳のなかでも、宮内庁によって天皇陵に指定されている古墳は「○○天皇陵古墳」として世界遺産リストに掲載されています。実際の被葬者は不明であるものの、世界遺産登録にかかわる宮内庁との協業の一環でそのような名称が採用されました。しかし、「○○天皇陵古墳」の呼び名は学術的に支持されているものではなく、論文・研究書等には「○○古墳(地名など+古墳)」の正式名称で記載される場合がほとんどです。

たとえば、第26代継体天皇の陵には現在のところ大阪府茨木市の太田茶臼山古墳が指定されています。ただし、考古学的にはこの太田茶臼山古墳の年代が継体天皇の在位期間よりも古いと考えられているのです。真の継体天皇陵は、年代が一致している大阪府高槻市今城塚古墳の可能性が最も高く、太田茶臼山古墳は継体天皇陵としてふさわしくありません。

「真の継体天皇陵」の可能性が高い今城塚古墳(筆者撮影)「真の継体天皇陵」の可能性が高い今城塚古墳(筆者撮影)

「真の斉明天皇陵」の可能性がある牽午子塚古墳(筆者撮影)「真の斉明天皇陵」の可能性がある牽午子塚古墳(筆者撮影)

こうした例があるにもかかわらず、宮内庁は「確定的な証拠がない限り陵墓指定の変更は行わない」としています。この「継体天皇陵問題」をまとめた高木博志は、次のように述べました10高木博志「近代の陵墓問題と継体天皇陵」『佛教大学総合研究所紀要』2004年第1巻 50頁

継体天皇陵(太田茶臼山古墳)は、全長226m、後円部・前方部の高さが20mの堂々たる南向きの前方後円墳である。ところが戦後の考古学の成果では、現・継体天皇陵は、五世紀代の前方後円墳の典型的類型とされる。継体天皇の没年は『日本書紀』では531年であり、むしろ高槻市にある、全長190mの今城塚が年代的にふさわしい。

実をいうと、現在陵墓または陵墓参考地に指定されている古墳には、研究者も含めて一般人が勝手に立ち入ることはできません。したがって、天皇陵に指定されているような巨大古墳・有力古墳では自由な学術的研究ができないのです。裏を返すと、天皇陵の治定の見直しのようなことは困難を極めます。

これらの「治定の誤り」の問題を抜きにしても、古代天皇の陵に指定されるような巨大古墳から得られる情報は非常に多いはずであり、日本古代史の研究には天皇陵古墳の調査が必要不可欠です。近年では、陵墓への限定的な立ち入り調査や外堤など墳丘外の部分の発掘調査が徐々に許可されるようになってきました。今後の研究の進展が望まれます。

2章のまとめ
  • 中国の歴史書の記述から古代天皇の実在性を検討することができる
  • 天皇陵に指定されているような巨大古墳・有力古墳では自由な学術的研究ができない

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3章:古代天皇について学べるおすすめの本

古代天皇について理解することはできたでしょうか?

もっと深く学びたい場合は、以下の本を読んでみてください。

おすすめ書籍

オススメ度★★★ 吉村武彦『古代天皇の誕生』(角川書店)

古代史学者の吉村武彦が、『記紀』や中国の歴史書の内容をもとに「古代天皇」の実像に迫った概説書です。

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考古学の大家・大塚初重が、古墳の発掘調査事例から被葬者像を説いた一冊です。本記事の末尾「天皇陵問題」についても詳しく解説されています。

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まとめ

最後にこの記事の内容をまとめます。

この記事のまとめ
  • 古代天皇とは、古事記・日本書紀に登場する天皇のことである
  • 『記紀』に記された古代天皇の名前や事績には、後の時代の人々にとって都合がよくなるように改変された部分や創作された部分がある
  • 中国の歴史書の記述から古代天皇の実在性を検討することができる

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