考古学

【青銅器祭祀とは】弥生時代の「まつり」についてわかりやすく解説

青銅器祭祀とは
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青銅器祭祀とは、主に弥生時代に行われていた、青銅器を使用する「まつり」のことです。(※上の写真は加茂岩倉遺跡出土銅鐸の展示、フリー画像より)

弥生時代、朝鮮半島から日本へ青銅器がもたらされました。銅と錫の合金である青銅でつくられた武器・利器は当初実用品として使用されたといいます。

しかし、実用品として鉄製品が使われるようになると、青銅器は徐々に「まつり」の道具の役割が強くなりました。

そんな青銅器を使った祭祀の姿は未だ不明です。出土する青銅器はいわば「まつりの後」の状態を示すものであるため、正確な使用方法や祭祀の目的はわかりません。それゆえに、現在でも青銅器祭祀についての議論は活発に交わされています。

そこで、この記事では、

  • 青銅器の種類
  • 想定される青銅器祭祀の姿
  • 青銅器祭祀のルーツと展開

についてそれぞれ解説します。

好きな所から読んでみてください。

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1章:青銅器祭祀とは

1章では、まず青銅器の種類や姿をまとめ、その後に現在想定されている青銅器祭祀の具体像について解説します。青銅器の日本への流入とその後の青銅器祭祀発展および終焉までの流れについては2章で詳しく解説しますので、用途に沿って読み進めてください。

このサイトでは複数の文献を参照して、記事を執筆しています。参照・引用箇所は注1ここに参照情報を入れますを入れていますので、クリックして参考にしてください。

1-1:青銅器の種類

日本の弥生時代の青銅器にはさまざまな種類が存在しました。さらに現代では、その1つ1つの種類のなかにも、製作地の違いや時期差による細かな区分(=型式分類)がなされています。この記事では、細かな型式分類には立ち入らずに、主な種類・区分を紹介します。

まず、青銅器は大きく「武器形」それ以外とで区分されてきました。前者の例としては主に銅戈・銅矛・銅剣が挙げられ、後者の代表例は銅鐸です(図1)。

青銅器の種類と型式変化

図1「青銅器の種類と型式変化」(春成秀爾「日本の青銅器文化と東アジア」『国立歴史民俗博物館研究報告』 第119集 37頁)

武器形青銅器ははじめ実用品としての意味合いが強く、実際に武器・利器として使用されるか、または故人の葬送儀礼に使用されるものでした。そこから徐々に祭器(「まつり」に使用する道具)としての意味合いが強くなっていったと考えられています。

国立歴史民俗博物館の弥生時代研究者・春成秀爾は次のようにまとめています2春成秀爾「日本の青銅器文化と東アジア」『国立歴史民俗博物館研究報告』 第119集 34-35頁

北部九州では,青銅の剣・文・矛は初めのうちは朝鮮半島からもたらされた現物を故地と同じように武器として使っていた。人骨に刺さってのこっている先端部の破片や,刃を研ぎ直した痕跡はその証拠である。しかし,朝鮮半島から青銅器の製作工人が渡来し,北部九州でも鋳造が始まると,先端は鈍化し刃付けも不熱心になるなど,武器としての要素は後退していく。やがて,大型化を指向する一方で,柄をつけることを放棄し,祭器としての道をまっしぐらに走る。個人用の武器から集団の祭器への変質である。

銅鐸のルーツは中国・朝鮮半島の「銅鈴」と呼ばれる小型の青銅製品です。つまり、当初は実用品ではなく、祭器として導入されたことになります。

たしかに北部九州や出雲などでは武器形青銅器と銅鐸を共に祭祀の場で使用した形跡こそあるものの、銅鐸は主に単独で祭器として発展していったのです。青銅器研究者の石橋茂登は銅鐸について次のように述べました3石橋茂登「大陸文物の受容と型式的変化をめぐる考察」『千葉大学人文社会科学研究科研究プロジェクト報告書』 第276集 138頁

韓の地で武器とともに副葬されていた小銅鐸は、はじめは銅剣・銅戈を伴ったが、埋納祭祀に供され、やがて銅鐸だけが切り離されて、大型化の道をたどった。

加えて、「武器形」と銅鐸には地域差も存在しています。青銅器が祭器として用いられ始めた弥生時代中期前葉以降には以下のような相違が成立していました。

  • 北部九州・・・「武器形」を中心とする多様な青銅器文化が成立した
  • 中国・四国地方以東・・・銅鐸を中心とする青銅器文化が定着し始めた

また、この時代には徐々に青銅器を模した「模造品」の生産および祭祀もはじまり、青銅器祭祀と地域の結びつきはこのような点からも推察されます。愛媛大学の青銅器研究者・吉田広は中期末の状況を次のようにまとめています4吉田広「弥生青銅器祭祀の展開と特質」『国立歴史民俗博物館研究報告』第185集 265頁

…(中略)…各地では受容した青銅器の種類と数量に基づく選択により多様な模倣品が生みだされるなど,青銅器・青銅器文化の在地化が進行する。そして,中期末葉には,北部九州では多種の青銅器を使い分ける分節化を達成し,中四国地方以東では特定の1器種の地域型青銅器を成立させ,地域弥生社会における祭祀の中核をなすに到る。

これらの選択の違いは中期末~後期にかけて顕在化していき、北部九州では銅戈・銅矛、環瀬戸内地域では平形銅剣、近畿では大型の銅鐸を中心とした分布を示すようになります。この分布の違いは単なる地域性を越えた政治性をも読み取れるものです。



1-2:青銅器祭祀の具体像

次に、青銅器が祭祀の場においてどのように使用されたのかについて解説します。

残念ながら、先ほども述べたように青銅器は「まつり」が終了した後に埋められた姿で出土するため、正確な使い方は不明です。したがって、これから述べる具体例はあくまで青銅器の形や文様や出土状況から考察したものとなります。

祭祀における青銅器の使い方についての研究は銅鐸でより進んでいます。銅鐸には文様や絵が描かれている場合があり、その内容から銅鐸を使用する目的を考察できるからです。

これらの研究では、当初の銅鐸には農業祭祀の目的が強く存在したことが想定されてきました。それは表面の絵には農業にかかわる景観や動物が描かれているためです。銅鐸の絵図を研究した春成秀爾はこのように述べています5春成秀爾「日本の青銅器文化と東アジア」『国立歴史民俗博物館研究報告』 第119集 39頁

銅鐸の直接的な起源は朝鮮半島にあるが,彼地では無文であるのに対して,近畿の銅鐸は最初から装飾文様をもっている。その点で,銅鐸は弥生人の意向が加わって創造された青銅器である。やがて,銅鐸の表面に絵画を描くことも始める。…(中略)…(銅鐸に描かれた)鹿は土地の精霊,サギは稲の精霊,そして人を祖先の霊とみなせば,三者を主役とする神話があり,それにもとついて弥生時代の稲の祭りがおこなわれたことを想定できる。

銅鐸が当初「鐘」「鈴」のような金属音を鳴らす祭器であったことを踏まえると、集落の田んぼの横で銅鐸の音を響かせるような、そういった祭祀の姿が浮かんできます。

銅鐸の使用例(イメージ)筆者作成)

一方で、武器形青銅器の祭祀は農業とのかかわりがあまりなかったものとされてきました。当初の実用品的な性格から、祭器となってもなお武威の表象として使用されたようです。

銅鐸と違って鳴らす機能がないため武器形青銅器を用いた祭祀の姿は想像しにくいものの、たとえば、振り回す使い方や戦いの演技が想定されています6春成秀爾「日本の青銅器文化と東アジア」『国立歴史民俗博物館研究報告』第119集 38頁

稀少かつ高価な青銅武器は,武器であると同時に権威を誇示する儀器となった。そして,祭りの場でそれを振りまわせば祭器となった。しかし,日本列島では,青銅武器は,銅繊を除くと,祭器の方向へのみ突き進んだ。弥生時代は稲作農耕の時代だからといって,武器・武器形祭器を用いた祭りがすべて農耕にかかわりをもっていたと考える必要はない。

このような祭祀の場での使用が終わった青銅器は、何らかの理由で土中に埋納されました。これが「埋められた姿で見つかる」理由です。この埋納行為もいわば祭祀の一環であり、集落や地域を敵や悪い物事から護るためであったとの説もあります。

青銅器研究者の石橋茂登がまとめた青銅器の埋納についての諸説がこちらです7石橋茂登「銅鐸・武器形青銅器の埋納状態に関する一考察」『千葉大学人文社会科学研究』 第22号 85頁を一部改変

埋める行為が祭祀ではないとみる説
  • 用済み後の廃棄、隠匿
  • 交易品の貯蔵
  • ムラの政治的統合に関する集積
  • 配布のための集積
祭祀による埋納とみる説
  • 土中保管
  • 俗界からの隔離
  • 奉献・供犠
  • 境界守護
  • 地霊・穀霊の依り代を大地に納めておくこと行為
埋納された銅鐸(復元)

埋納された銅鐸(復元)(筆者撮影)

そして、青銅器は徐々に「巨大化」していきます。それにともなって、銅鐸では音を鳴らす機能が失われるなど、本来の祭器としての実用性も消えていきました。その代わりに、青銅器を埋納する祭祀が増えていったようです。

これらのことから、青銅器においては、「豊穣を祈るため」「武威を高めるため」といった当初の性格よりもむしろ、呪術的・政治的な側面が強くなっていったものと考えられています。こうした青銅器の変化について、吉田広は次のようにまとめました8吉田広「弥生青銅器祭祀の展開と特質」『国立歴史民俗博物館研究報告』第185集 265頁

…(中略)…地域性が分立するとともに,青銅祭器の性格も,本来の機能喪失と見た目の大型化という点では一致しながら,武器形青銅器が金属光沢の強調へ,銅鐸は文様造形性重視へと乖離し,より大きな統合へ向かわなかった。

1章のまとめ
  • 青銅器祭祀とは、主に弥生時代に行われていた、青銅器を使用する「まつり」のことである
  • 青銅器は大きく「武器形」とそれ以外とで区分されてきた
  • 青銅器においては、「豊穣を祈るため」「武威を高めるため」から、次第に呪術的・政治的な側面が強くなっていった

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2章:青銅器祭祀に関する考古学的議論

さて、2章では、青銅器に関わる考古学的な成果を軸に、青銅器祭祀のルーツや発展・終焉と青銅器からわかる弥生時代の社会の様子について解説します。

2-1:青銅器のルーツと展開

弥生時代に祭祀の場で用いられた青銅器のルーツは朝鮮半島に求められます。これまで1章でも何度か触れてきたように、当初の青銅器は実用品または副葬品として日本にもたらされ、徐々に日本国内でも青銅器の生産が行われるようになりました。

しかし、そういった実用的な使用法はあまり根付かないまま、青銅器は祭器としての発展をはじめます。

  • 一見同じように見える青銅器でも、朝鮮半島では副葬品として使用された
  • 日本では祭祀にしか用いられないといった違いが析出してきた

そして、弥生時代の中期前半(実年代でおよそ紀元前4世紀~3世紀ごろ)には、すでに日本独自の青銅器祭祀が生まれていたものとみられています。また、このころの青銅器は集落=ムラの祭器の域を出ていませんでした9石橋茂登「大陸文物の受容と型式的変化をめぐる考察」『千葉大学人文社会科学研究科研究プロジェクト報告書』 第276集 137頁

使い方も、倭の青銅武器は祭器化して副葬品、さらに埋納品へと変化することが知られている。それに対して朝鮮半島では武器形青銅器は一貫して副葬品であり、大量に埋納したりはしない。…(中略)…つまり朝鮮半島の青銅器は、日本に受容される過程で器種の脱落、使い方・形態変化の相違が起こる。

その後、青銅器は地域の内情にあわせた独自の発展を遂げていきます。地域の政治的構造や祭祀のありかたを踏まえた青銅器の選択がなされたのです。1章で述べたように、北部九州では武器形青銅器が、中国・四国地方以東では銅鐸が主な祭器として受容されました。

この間には特に地域性が強くなり、同じ武器形青銅器・銅鐸でも、九州に独特なモノ、出雲に独特なモノなどが生まれます。こうして、青銅器は集落の域を超えた地域性を帯びるようになりました。

これが弥生時代中期後半の段階です。こうした選択の背景について、弥生時代研究者の寺沢薫は次のような見解を述べています10寺沢薫『王権誕生』日本の歴史02 講談社 182頁

北部九州社会が中期前葉の段階に、早くも武器形青銅祭器を共同体のシンボルとする志向をもち始めていたことの背景には、やはり前期以来の熾烈な戦いという現実があると思う。それは、武力をもって自らのクニや国を守り、他を威嚇することだ。戦争に勝つことこそが、彼らにとって、共同体やムラの安定と発展を約束する現実的な手段であった。武器形はシンボルとしてこの上ないオブジェだったのだ。ところが、そうした緊迫感が現実的でなく、農業の経済的発展を重視するような社会では、穀霊を加護し、増幅することで生産の安定をはかってくれる呪器(銅鐸)こそが、共同体の安寧と発展を約束するシンボルだったはずである。

青銅器の地域性

(筆者作成)

一方で、出雲地域では独自の型式を生み出しつつも、武器形青銅器と銅鐸をともに祭祀に用いるありかたが中期末に出現しました。特に、荒神谷遺跡では358本の銅剣・6個の銅鐸・16本の銅矛が、それより少し時期が下る加茂岩倉遺跡では39個もの銅鐸が発見されています。

地域性を越えた青銅器祭祀は、当時の出雲の特殊性を如実に表すものです。ただし、その後の出雲ではこのような大規模な青銅器祭祀は終焉を迎え、青銅器と交代するかのように四隅突出型墳丘墓と呼ばれる特殊な墳墓が出現します(→【出雲の王朝とは】日本神話・古代史・考古学からわかりやすく解説)。

後期に入ると、銅鐸を中心とする近畿と銅戈・銅矛などの武器形青銅器を中心とする北部九州の2つの地域が傑出するようになります。加えて、このころにはそれぞれの青銅器が「巨大化」し、いわば祭器としての実用性をも離れた地域のマンパワーの表象のように扱われ始めました。

弥生時代後期の大和・河内地域(近畿地方)と北部九州地域では,地域社会間関係の深化にともなう地域社会の中心の役割の拡大と,その階級的利益の発生・拡大を押さえようとする方向に作用する共同体的規制の強化,さらに地域社会関係における不均衡の拡大といった現象が絡むなかで,大型青銅製祭器を用いた祭祀が発達することになった。…(中略)…後期の青銅器祭祀は,参加する地域社会の平等性を前提としながらも,その原材料の入手から製作,分配においては,寧ろ中心と周辺という関係を明確に意識させるものであった。銅鐸が極限まで大型化した終末期の様相は,その背後にある中心―周辺の優劣の差が非常に大きくなっていたことを示唆するものである11安藤広道「弥生時代における生産と権力とイデオロギー」『国立歴史民俗博物館研究報告』第152 集 234-238頁

弥生時代後期における武器形青銅器△と銅鐸〇の分布「弥生時代後期における武器形青銅器△と銅鐸〇の分布」吉田広「弥生青銅器祭祀の展開と特質」『国立歴史民俗博物館研究報告』第185集 270頁

しかし、これらの巨大な青銅器による祭祀の文化は突如終焉を迎え、次の段階の古墳時代を迎えます。このころには前方後円墳が地域権力の表象となり、青銅器としては銅鏡が古墳の副葬品として残るようになりました。



2-2:青銅器からわかる弥生時代社会の様相

上に述べた青銅器祭祀の歴史的な展開とは別に、青銅器から弥生時代社会の様子を探る研究も盛んに行われています。特に、青銅器の中でも銅鐸の文様・絵に着目した研究は古くからなされてきました。

銅鐸に描かれた絵図の拓影

「銅鐸に描かれた絵図の拓影」(春成秀爾「日本の青銅器文化と東アジア」『国立歴史民俗博物館研究報告』第119集 41頁)

銅鐸の絵に着目した研究では、国立歴史民俗博物館の春成秀爾の研究が有名です。彼は銅鐸に鳥が描かれている例を分析し「銅鐸は豊穣を祈るための祭器である」との考察を深めています12春成秀爾「銅鐸のまつり」『国立歴史民俗博物館研究報告』第12集 25頁

古い銅鐸は,その一部が舌を伴出していることに示されるように,その機能は音響を発するカネであった。したがって,その音を誰かが,何者かが聞き,その音に感応することが期待されているのである。その音をたてるのが,おそらく鳥装の司祭者であるとすれば,これまでの行論からして,その音を聞くにふさわしいのは鳥であり,稲魂であるということになろう。とすれば,銅鐸から発せられる澄みきった単打音は,つまるところ稲魂を呼び,振起するためのものであったのではあるまいか。

一方で、銅鐸の「絵」から弥生時代の集落景観や人々の精神性を探る研究も存在します。安藤広道は、銅鐸を農業祭器として使用した人々の精神世界を次のように描いています13安藤広道「弥生時代における生産と権力とイデオロギー」『国立歴史民俗博物館研究報告』第152 集 210頁

銅鐸「絵画」は,「水と地」「人間と自然」「男性と女性」という3つの対立軸によって構成されており,いずれの対立においても前者が優位に立つという関係が表現されていると理解できる。…(中略)…つまり,銅鐸「絵画」は,水(水田)と深い関係をもつ人間が,地をはじめとする自然に打ち勝つことを表現していることになり,そこに水(水田)によって自然あるいはその一部を超克することで人間の世界が形成されるという意識の芽生えを想定することが可能になってくる。

このように、銅鐸と農業の関係は深いものでした。そういった意味では、朝鮮半島から流入してきたことも踏まえて青銅器=弥生文化と言えるのです。

一方で、銅鐸の文様には縄文文化の名残もあるとの意見も存在しています。東京大学の考古学者・設楽博己は銅鐸に刻まれた木葉文・羽状文といった縄文系の文様からこのように考察しています14設楽博己「銅鐸文様の起源」『東京大学考古学研究室研究紀要』第28号 126頁

弥生文化といえば、青銅器をはじめとして大陸に起源が求められ、政治的な役割をもつなど革新的な部分が評価の対象になり、縄文系の文化要素に対する研究はあまり深められてこなかったとされる。もちろん革新的な部分は重視しなくてはならないが、大陸から伝来しその後の弥生文化の地域集団の統合に大きな役割を果たした銅鐸の性格を考えた場合、そのなかに縄文系の文化が大きく作用していたことは、弥生文化形成の多元性などその歴史的な性格を考えていくうえで示唆するところが大きい。

この説は、青銅器祭祀の開始時の銅鐸の分布からも補強されています。縄文時代以来の伝統である石棒祭祀が弥生時代にも継続されてきた地域で特に銅鐸の出土例が多いというのです。

たしかに、青銅器はそもそも朝鮮半島から入ってきた新しい道具でした。しかし、本来は実用品または副葬品として使用されるべき道具を祭器として用いるようになったのは日本独自のことです。また、青銅器が単に弥生文化の文脈で発展したわけではなく、少なからず縄文文化の名残をみることもできます。

弥生時代が終わりに向かうにつれ、青銅器祭祀は終了していきました。しかしながら、青銅器を用いていないだけで、豊穣への祈りや地域権力の誇示といった青銅器祭祀にルーツをもつ伝統は受け継がれます。

青銅器における文化の継承(イメージ)(筆者作成)

青銅器をめぐる歴史的な展開のなかにも、日本の縄文・弥生・古墳時代のゆるやかなつながりは残っているとみていいのかもしれません。

2章のまとめ
  • 地域の政治的構造や祭祀のありかたを踏まえた青銅器の選択がなされた
  • 「銅鐸は豊穣を祈るための祭器である」とう有名な研究がある

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3章:青銅器祭祀について学べるおすすめの本

青銅器祭祀について理解することはできたでしょうか?

もっと深く学びたい場合は、以下の本を参考にしてみてください。

オススメ本

オススメ度★★★ 寺沢薫『王権誕生 日本の歴史02』(講談社)

稲作・青銅器の伝来から社会の成熟・権力の成立まで、弥生時代全体の構造を概説した一冊。青銅器祭祀については地域・政治と結びついたあとの姿について詳しい。

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講談社
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オススメ度★★★ 春成秀爾・西本豊弘編『東アジア青銅器の系譜』(雄山閣)

弥生時代の青銅器の起源・展開について、中国・朝鮮半島における青銅器の出土状況や動向を絡めながら追った一冊です。

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まとめ

最後に今回の内容をまとめます。

この記事のまとめ
  • 青銅器祭祀とは、主に弥生時代に行われていた、青銅器を使用する「まつり」のことである
  • 青銅器においては、「豊穣を祈るため」「武威を高めるため」から、次第に呪術的・政治的な側面が強くなっていった
  • 地域の政治的構造や祭祀のありかたを踏まえた青銅器の選択がなされた

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