倭の五王とは、古墳時代中期にあたる5世紀代に日本列島を統括し、中国との交流を行った5人の王=讃・珍・済・興・武のことです。
古墳時代の日本列島は諸外国から「倭」「倭国」などと呼ばれ、ヤマト政権の大王を中心とする体制をとっていました。このことは、近畿地方を中心に全国各地に分布する前方後円墳の存在や『古事記』『日本書紀』(以下『記紀』と総称する)などの記述から明らかです。
しかしながら、前方後円墳から「人名」「事績」などを記した文字資料が出土する例は大変稀です。また、『記紀』の記述には神話的要素が多分に含まれるため、その内容の全てを事実として捉えることはできません。
その一方で、中国大陸の歴史書には当時の倭国にかんする記録が(少なくとも『記紀』よりは信頼できる形で)残されています。その一つで、5世紀代の中国南朝の歴史を記した『宋書』倭国伝には、5人もの倭王の名が刻まれているのです。
その名は「讃」「珍」「済」「興」「武」で、彼らはヤマト政権の代々の王であると考えられています。
この記事では、
- 「倭の五王」の事績と候補者の対応
- 「倭の五王」と当時の社会
- 「倭の五王」に関連する遺跡
について、わかりやすく解説していきます。お好きなところから読み進めてください。
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1章:「倭の五王」とその事績
1章では、「倭の五王」がどういった存在であるのか、『宋書』倭国伝や『記紀』などの関連史料をもとに解説していきます。「倭の五王」と古墳時代の遺跡の関係などについては2章で解説しますので、ご興味のある個所から読み進めてください。
このサイトでは複数の文献を参照して、記事を執筆しています。参照・引用箇所は注1ここに参照情報を入れますを入れていますので、クリックして参考にしてください。
1-1:「倭の五王」とは
「倭の五王」についての詳細は『宋書』倭国伝や『梁書』倭国伝などの中国南朝の歴史書に記されています。「讃」「珍」「済」「興」「武」はそれぞれ中国南朝に使者を派遣して交流を図った王であるため、中国側に記録が残っているのです。
彼らが中国に遣使した理由の一つに、「冊封」があります。
冊封とは
- 東アジアの統治者である中国の皇帝が各地の王の地位を是認する行為である
- つまり、「倭の五王」は、国内の統治および朝鮮半島との交流を優位に進めるための肩書きを中国南朝の皇帝に求めた
したがって、「倭の五王」と中国とが行った対外交渉は「中国>倭」の関係のもとで行われていたのです。
このような交易のありかたを「(中国への)朝貢」といい、「漢委奴国王」や「倭国王帥升」といった弥生時代の北部九州の王や、その後に邪馬台国連合を統治した倭の女王「卑弥呼」などもこのような朝貢を実施していました。
「倭の五王」もその例に漏れず、自らへり下って中国に遣使することでその地位の承認を得たのでした。
1-2:「倭の五王」の記録と対応関係
ここからは『宋書』倭国伝に登場する倭王の名前と事績、および『記紀』に登場する古代天皇との対応関係をみていきます。古代天皇については過去の記事をご覧ください。→【古代天皇とは】歴史・実在性や学術的議論をわかりやすく解説
また、「倭の五王」に関しては『倭の五王 5世紀の東アジアと倭王群像』が情報量もあり、初学者に勧めたい本です。
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1-2-1:「讃」
- 名前:「讃」(在位413?~)
- 読み:「さん」
- 候補者(『記紀』):応神天皇・仁徳天皇・履中天皇
「倭の五王」のなかで最初に中国南朝に遣使したのが「讃」です。在位期間などから『記紀』に登場する応神天皇・仁徳天皇・履中天皇のいずれかに対応するとみられるものの、定説はありません。以下、『宋書』倭国伝の記録です。
原文:倭國在高驪東南大海中、丗修貢職。髙祖永初二年、詔曰「倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授」。
太祖元嘉二年、讃又遣司馬曹達奉表獻方物。
和訳:高麗より南東の海上に「倭国」という島国があり、代々その王が中国に朝貢してくる。髙祖永初二年(421年)、皇帝は「倭王・讃は万里もの遠く離れた土地から朝貢してくる。その誠意に応じて官職を授けよう」と命じた。
太祖元嘉二年(425年)、讃はまた司馬曹達を派遣して上表文と特産品を献上した。
この記述から読み取れるのは以下の2点です。
- 倭は中国に対して代々朝貢を行っていた
- 宋の皇帝・武帝が「讃」に官職を授けた
①については2通りの解釈が存在します
まず、倭から中国への朝貢の記録は晋の泰始2年(266年)以来、およそ150年ぶりのことです。また、倭王の名前が中国の歴史書に登場するのは卑弥呼以来のことでした。
これは、4世紀の中国大陸が異民族の侵攻や諸国の成立で混迷を極めていたことによるものと思われます。したがって、(A)倭は中国に遣使していなかった、(B)倭は中国に遣使していたが記録は残らなかったの2通りが考えられるのです。
いずれにせよ、これは中国南朝の宋にとっては初めての倭国からの朝貢でした。「讃」の遣使に至るまでの歴史的な背景(=過去の遣使)も踏まえた上で、宋の武帝は「讃」に官職を授け、記録も残したものと解釈できます。
応神天皇陵こと誉田御廟山古墳(筆者撮影)
仁徳天皇陵こと大仙陵古墳(筆者撮影)
1-2-2:「珍」
- 名前:「珍」(在位438?~)
- 読み:「ちん」
- 候補者(『記紀』):仁徳天皇・履中天皇・反正天皇
「珍」は「讃」のあとを継いだ倭王で、「讃」の弟として記録されています。在位期間や「讃」の弟であるとの続柄から『記紀』の仁徳天皇・履中天皇・反正天皇のいずれかに対応するとみられているものの、定説はありません。
原文:讃死弟珍立。遣使貢獻、自稱「使持節都督倭・百濟・新羅・任那・秦韓・慕韓・六國諸軍事安東大將軍倭國王」表求除正。詔除「安東將軍倭國王」。珍又求除正倭隋等十三人平西征虜冠軍輔國將軍號詔竝聽。
和訳:讃が死んで弟の珍が倭王となった。珍は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓・六國諸軍事安東大将軍倭國王」を名乗り、皇帝に対してその官職への任命を要求した。文帝は珍を「安東将軍・倭国王」に任ずるよう命じた。珍はまた隋ら13人に「平西・征虜・冠軍・輔國」のそれぞれの将軍職を授けるよう文帝に求め、文帝はこれらを全て認めた。
この記述からは、
- 「珍」が使持節都督倭・百濟・新羅・任那・秦韓・慕韓・六國諸軍事安東大将軍倭國王」の官職を求めていたこと
- 宋の文帝は珍の要求をのまなかったこと
の2点がわかります。
①については、当時の倭王の意識が伺い知れるものと評価できます。当時のヤマト政権は朝鮮半島と積極的に交流を行っており、その先進的な技術や文物を受容していました。その交流のなかで主導権を把握するために、珍はわざわざ朝鮮半島諸国の支配権を含む官職を求めたと思われるのです。
こうした流れはのちの倭王にもみられます。しかしながら、珍は望み通りの官職を授かることができませんでした。
文帝が珍の要求を跳ねのけた背景には、倭国がまだそれほど力をつけていなかったこと、宋側の朝鮮半島諸国への配慮、宋の軍事情勢など、さまざまな事情が考えられます。
履中天皇陵こと上石津ミサンザイ古墳(筆者撮影)
反正天皇陵こと田出井山古墳(筆者撮影)
1-2-3:「済」
- 名前:「済」(在位443?~)
- 読み:「せい」
- 候補者(『記紀』):允恭天皇
「済」は珍のあとを継いだ倭王で、『宋書』倭国伝には珍との続柄が記されていません(『梁書』倭伝には珍の子との記載アリ)。在位期間や次代・次々代の興・武との続柄から、允恭天皇に比定されます。
原文:二十年倭國王濟遣使、奉獻復以爲「安東將軍倭國王」。二十八年、加「使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六國諸軍事」、安東將軍如故、并除所上二十三人軍郡。
和訳:元嘉20年(443年)、倭王・済が使者を派遣して朝貢した。安東将軍・倭国王に任命した。元嘉28年(451年)には、安東将軍に加えて、使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事の称号を与えた。また、同時に上表された23人を将軍・郡長官に任命した。
済の代になって、安東将軍に「使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事」の称号が加えられました。
ただし、先代の珍が「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓・六國諸軍事・安東大将軍倭國王」を求めていたのに対し、済に与えられた称号からは「百済」が除かれています。
つまり、当時の中国南朝は、倭よりも百済が上の立場とみなしていたのです。それでも、東アジア社会のなかで徐々に倭の地位が向上していたのは事実とみられます。
允恭天皇陵こと市野山古墳(筆者撮影)
1-2-4:「興」
- 名前:「興」(在位462?~)
- 読み:「こう」
- 候補者(『記紀』):安康天皇
「興」は済のあとを継いだ倭王で、済の子とされます。また、『記紀』に残る安康天皇との説が有力です。
原文:丗祖大明六年、詔曰「倭王丗子興、奕丗載忠作藩外海稟化、寧境恭修貢、職新嗣邊業宜授爵號可安東將軍倭國王」。
和訳: 孝武帝の大明6年(462年)、帝は「倭王・済の世継ぎ・興は中国の外縁の海を守る役割を果たし、丁寧に朝貢してきた。よって、興にも先代同様の安東将軍・倭国王の地位を授けるべきである」と命令された。
以上の記述からは、中国南朝から倭国が信頼を置かれていることがわかります。しかしながら、称号からは「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓・六國諸軍事」が消えるなど、関係性は一歩後退しているとみることもできます。
こうした状況の背景には、倭国内部の政治不安があったと考える説もあります。というのも、『記紀』によれば興=安康天皇は即位後短期間のうちに殺害されてしまったとされているからです。
『宋書』倭国伝における次代の倭王・武にかんする記述のなかにも、『記紀』に記された安康天皇の殺害をほのめかす表現がみられます。
1-2-5:「武」
- 名前:「武」(在位462?or 477~)
- 読み:「ぶ」
- 候補者(『記紀』):雄略天皇
「武」は興のあとを継いだ倭王で、興の弟とされます。また、『記紀』に残る安康天皇との説が有力です。かなり長いですが、重要な記載がある『宋書』倭国伝の倭王・武にかんする部分をすべて引用します。
原文:倭國王興死弟武立。自稱「使持節都督・倭・百濟・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・七國諸軍事・安東大將軍・倭國王」。
順帝昇明二年、遣使上表曰「封國偏遠作藩于外、自昔祖禰躬擐甲冑、跋渉山川、不遑寧處、東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國。王道融泰廓土遐畿。累葉朝宗不愆于歳。臣雖下愚、忝胤先緒、驅率所統、歸崇天極、道遥百濟、装治船舫。而句驪無道、圖欲見呑、掠抄邊隷、虔劉不已。毎致稽滯、以失良風、雖曰進路、或通、或不。臣亡考濟、實忿寇讎壅塞天路、控弦百萬、義聲感激、方欲大舉、奄喪父兄、使垂成之功不獲一簣。居在諒闇、不動兵甲。是以偃息未捷。至今、欲練甲治兵、申父兄之志、義士虎賁文武效功、白刃交前亦所不顧。若以帝德覆載摧、此彊敵克靖方難無朁、前功。竊自假開府義同三司、其餘咸假授、以勸忠節」。詔、除武「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王」。
和訳: 倭王・興が死んで弟の武が王位に就いた。倭王・武は自ら「使持節・都督・倭・百濟・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・七國諸軍事・安東大將軍・倭國王」と称した。
順帝の昇明2年(478年)、倭王・武は使者を派遣して上表文を送った。それによると、
「代々冊封を受けているわが国は遠い地にあり、中国外縁の海を守る役割を果たしています。私の祖先は昔から自ら甲冑を着て山や川を越え、一か所にとどまることがありませんでした。東国においては毛人の55国を征し、西国においては衆夷の66国を服属させ、海を渡った北方の国では95国を平らげました。皇帝の威光は広くわが国に溶け込んでおり、わが国の国土は広大です。
わが国は先祖代々しかるべきタイミングで朝貢してきました。私は愚か者ながら、祖先の偉業を継承し、人々を統率して天極である宋に従っています。宋へ向かうにあたっては、百済を経由する航路を使っています。ところが、非情な高句麗はその百済を征服しようとして両国の境界に住む人々に対する略奪や殺害を行っています。そのため、わが国が朝貢するルートが遮断されることもあるのです。
宋の臣下であるわが父・済は高句麗が朝貢ルートを遮ることに憤っており、100万の兵を率いて高句麗遠征を試みました。しかし、相次いで父と兄が亡くなったため、うまくいかなかったのです。私は喪に服しているために兵を出せずにいました。それにより、高句麗との戦には勝てずにいます。
ただ、今こそ兵士を鍛え、父と兄の遺志を継ぐときです。わが国の義士・勇士・文官・武官もともに力を発揮して敵と刃を交えようとも、命は惜しくありません。もし皇帝がわが国を支援していただけるならば、高句麗という強敵を倒し、朝鮮半島の乱れを収束させ、祖先の業績に並びたいと考えます。
勝手ではございますが、私はひそかに開府儀同三司を名乗り、その他の諸将も仮の職位を名乗って宋に忠義を尽くしております」
以上の上表文を受けて、順帝は武を「使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」に任命しました。
以上の「倭王・武の上表文」には、(A)倭国の統治にかんする記述、(B)朝鮮半島情勢と倭国の関係性にかんする記述、(C)倭国情勢と高句麗への出兵計画にかんする記述、の3つの観点が見受けられます。
また、興が殺害されたことをほのめかすような、「父・兄の相次ぐ死」にかんする記述も重要です。『記紀』によれば、興=安康天皇の跡を継いだ武=雄略天皇は、兄の殺害に関与した豪族をはじめとする敵対勢力を押さえつけたとされています。
国内情勢の安定を図ったために、高句麗との戦闘などの朝鮮半島との交流をうまく進められなかった可能性も考えられるのです。
ただし、結果として、上表文の主張は実り、武はこれまでの倭王よりも高い官位を得ることに成功しました。その一方で、倭国と中国皇帝との対外交渉は武=雄略天皇の時代ののち、厩戸王・推古天皇の時代まで150年ほど途絶えてしまいます。倭の五王による朝貢の時代は、5世紀のごく短期間のうちに終了しました。
(筆者作成)
倭王・武が中国南朝への朝貢をやめた理由について、古代史研究者の熊谷公男は次のように述べています2熊谷公男『大王から天皇へ』日本の歴史03、講談社 82頁。
こうして倭王は、冊封体制から離脱する決意をして中国王朝と決別し、独自の「天下」的世界の王としての歩みを始めることになる。その理由は、何といっても、列島の支配者としての地位の維持に、もはや中国王朝の権威を必要としなくなった、ということであろう。冊封体制からの離脱は、倭王権がようやく自立する段階にまで立ち至ったことを示しているのである。
一方、このような倭王・武こと雄略天皇の決意とは裏腹に、雄略の死後の日本列島は混迷の時期を迎え、ついに倭の五王の系譜は断絶してしまいます。6世紀のはじめごろに即位した継体天皇から始まる王統は、倭の五王とはほとんどつながらないものでした。
1-3:「倭の五王」と当時の社会
当時の倭国の状況は、『宋書』倭国伝の記述、特に倭王・武の上表文からうかがい知ることができます。すなわち、当時の日本列島は倭王を中心にある程度の統率が取れており、朝鮮半島や中国と交流できるだけの文化レベルを有していたと考えられるのです。
無論、上表文の記述はより高い官位を得るために話を盛った可能性があるため、『記紀』と同様、そのすべてを信用することはできません。
たとえば、古墳時代の日朝関係を研究する考古学者の高田貫太は、上表文や『高句麗広開土王碑』にみる倭国の軍事的活動の実態について、厳しい目で検証する必要性を述べています3高田貫太「古墳時代の日朝関係史と国家形成論をめぐる考古学史的整理」『国立歴史民俗博物館研究報告』第170集 80-81頁。
倭王権の朝鮮半島における軍事的活動をどの程度まで考古学的に証明し得るのかについては,大きな疑問がある。たとえ,そのような活動を示唆する『日本書紀』や『古事記』の記録があったとしても,古代史学側の成果によって,朝鮮半島における倭人の活動に軍事的側面が認められるとしても,まずは考古学的な方法論に則って,朝鮮半島における倭の軍事的活動の実態を再検討していくことが必要あろう。
一方で、軍事活動の有無や規模の大小にかかわらず、現在までの日韓の考古学的な成果を踏まえると、「倭の五王」の時代に日本列島と朝鮮半島の交流が盛んになり、半島を通じて大陸側の先進的な知識や技術が日本列島内にもたらされたことは事実と考えられます。
当時の日本列島社会、ひいてはヤマト政権にとって、朝鮮半島との交流を優位に進め、国内の発展を促すことは重要でした。そこで、倭王は中国南朝の権威をうまく利用しようと考えたものと想定できるのです。
次の第2章では、以上で述べてきた「倭の五王」の業績および当時の列島社会の状況を表す考古学的な証拠、すなわち古墳をはじめとする遺跡やそこから出土した遺物を中心に解説します。
- 倭の五王とは、古墳時代中期にあたる5世紀代に日本列島を統括し、中国との交流を行った5人の王=讃・珍・済・興・武のことである
- 「倭の五王」の時代に日本列島と朝鮮半島の交流が盛んになり、半島を通じて大陸側の先進的な知識や技術が日本列島内にもたらされた
2章:「倭の五王」の考古学
1章では、『宋書』倭国伝を中心に、『記紀』との対応関係を踏まえながら、「倭の五王」の業績を紹介しました。2章では、「倭の五王」の時代が考古学(=遺跡・遺物などの物的証拠から人間の歴史を考える学問)ではどのように捉えられているのかについて解説します。
2-1:巨大古墳の時代
「倭の五王」の時代、すなわち5世紀=古墳時代中期を一言で表すならば、「巨大古墳の時代」がふさわしいといえます。なぜなら、5世紀には大阪府の百舌鳥・古市古墳群を中心に超巨大な前方後円墳が次々に築造されたからです。
前方後円墳は、古墳時代と呼ばれる3世紀中ごろから7世紀ごろまでの間、日本列島内各地域の有力者のために築造されたお墓です。古墳は土や石を盛って造るため、古墳の造営には高い技術力や数多くの人員が必要でした。
古墳時代の各時期において最も巨大な前方後円墳が造られたのは現在の近畿地方であり、近畿地方こそが列島内の政治権力=ヤマト政権の所在地と考えられています。
つまり、近畿地方の巨大古墳に葬られた人物こそ、ヤマト政権の大王やその一族、または政権内で権力をもった豪族です。
冒頭に述べた通り、ヤマト政権の代々の王のなかでも、5世紀に大王位についた系譜が、中国の歴史書に「倭の五王」として記載されたものとみられています。
- たとえば、古墳時代前期の大王墓の多くは200m代の前方後円墳で、300m代はごくわずかであった
- しかし、「倭の五王」の時代には、古市古墳群の誉田御廟山古墳が426m、百舌鳥古墳群の大仙陵古墳が486m(525mとの説も!)と、大王墓にあたる前方後円墳が超巨大化した
- すなわち、大王の権力が非常に高くなったと考えられる
また、古墳の巨大化が東アジア諸国との交流に大きな役割を担ったとの説も存在します。百舌鳥古墳群は海岸線沿いに位置し、古市古墳群は主要河川沿いに位置することから、海を渡って大阪湾にやってきた諸外国の使者に対して、巨大な古墳を見せようとしたのではないか、との説です。
近畿地方の大型前方後円墳の分布4板靖2018「ヤマト王権中枢部の有力地域集団―「おおやまと」古墳集団の伸張―」『国立歴史民俗博物館研究報告』第211 集 253頁より引用
……住吉津に上陸すれば百舌鳥古墳群,やがて東方へ歩を進めると古市古墳群が姿を見せる。圧倒的な量感で人びとの視野に突き刺さって王権のありかを明示する,という仕掛けになっている5広瀬和雄「古墳時代像再構築のための考察-前方後円墳時代は律令国家の前史か-」『国立歴史民俗博物館研究報告』第150集 76頁。
このような見解に従うならば、超巨大古墳は、先祖代々の王の威光を国内外に示すとともに、高い土木技術と多くの人員を古墳の造営に導入できるだけの権力の表象としての機能も有していたといえます。
また、「倭の五王」の墓は、そのような超巨大古墳を有する百舌鳥・古市古墳群に築造されたと考えられています。すなわち、中国南朝への朝貢だけでなく、古墳の造営からも、対外交渉を優位に進めようとする当時のヤマト政権の姿勢を見て取ることができるのです。
2-2:「倭の五王」と先進技術・物資の導入
「倭の五王」の時代、すなわち5世紀は、大陸や朝鮮半島から日本列島へ先進技術および物資の導入が進められた時代ともいえます。
- たとえば、巨大古墳の造営など、高い技術を要する土木工事には鉄製の工具が必要不可欠であった
- また、当時はヤマト政権から入手したとみられる鉄製の武器や武具(甲冑など)を有力者の古墳に納める武人的な風俗も流行しており、鉄の需要は非常に高かった
ただし、5世紀の日本列島にはゼロから鉄を作り出す技術がなく、鉄素材の入手は朝鮮半島からの輸入に頼らざるを得ませんでした。
そのほかにも、「倭の五王」には須恵器(=窯で焼成する硬質の土器)の製作技術や、馬の飼育技術、鉄素材をうまく加工して製品にする技術など、さまざまな先進技術が朝鮮半島から日本列島に導入されました。
特に、当時の大阪湾岸地域には、先進技術を有する鉄・須恵器・馬飼育・玉製品などの工房が多数配置されており、ヤマト政権が積極的に先進技術や物資の導入を図った形跡が残っています。
5世紀における近畿地方中央部の遺跡構造6板靖2018「ヤマト王権中枢部の有力地域集団―「おおやまと」古墳集団の伸張―」『国立歴史民俗博物館研究報告』第211 集 254頁より引用
朝鮮半島の強い影響をうけ、馬匹生産・窯業生産・金銅製品・武器、武具生産が変革する段階と、誉田御廟山古墳と大山古墳の築造とが同時期の関係にあると考えられるだろう。それに呼応して、上町台地上の法円坂遺跡の大規模倉庫群、百舌鳥古墳群内の鉄器生産工房である陵南遺跡、その背後の陶邑古窯址群、古市古墳群の対岸にある鉄器生産工房である大県遺跡,奈良盆地の中央部にある大規模玉生産工房である曽我遺跡など、大王が直営する手工業の生産拠点や流通拠点が、機能したと考えられる7板靖2018「ヤマト王権中枢部の有力地域集団―「おおやまと」古墳集団の伸張―」『国立歴史民俗博物館研究報告』第211 集 253頁。
鉄素材などの必要材や数々の先進技術は、ヤマト政権が権力を高め、地方との関係性を高めるうえで欠かせないものでした。すなわち、文物や技術を「配る」行為によって、ヤマト政権は列島の中心勢力としての優位性を高めたのです。
当時のヤマト政権を考えるうえで、熊本県の江田船山古墳と埼玉県の稲荷山古墳の存在は欠かせません。両古墳からは、「ワカタケル大王」の名が刻まれた刀剣が出土しました。ワカタケル大王はヤマト政権の大王で、雄略天皇=倭王・武に比定されます。
江田船山古墳(筆者撮影)と銀錯銘大刀(フリー画像)
埼玉稲荷山古墳(フリー画像)と金錯銘鉄剣(フリー画像)
注目すべきは、江田船山古墳出土大刀には「典曹人」、稲荷山古墳出土鉄剣には「杖刀人」、といった役職名とみられる呼称が記載されていたことです。こうしたことから、両古墳の被葬者は地方からヤマト政権に出仕していた可能性があるとの考えも出されています。
大王の名のもとに地方から有力者が出仕し、役職が与えられる。少なくとも「倭の五王」の最後の倭王である武の時代までには中心―周縁関係がある程度完成されていたとみてよいと思われます。
このように、国内の安定を図る中心―周縁関係の分配システムにおいて大王のもつ権威は必要不可欠でした。そんなヤマト政権の権力は、ある意味では朝鮮半島から導入された文物や技術に支えられていたといえます。
「倭の五王」がなぜ、わざわざ遠く離れた中国南朝にまで使者を派遣したのか。なぜ巨大な古墳を作ったのか。その背景の一部に、朝鮮半島の文物や先進技術を積極的に導入するにあたって、国際社会での地位を高めなければならない事情があったのかもしれません。
2-3:「倭の五王」時代の終わり
1章で述べたように、倭王・武を最後にヤマト政権から中国南朝への朝貢は終わりを迎えました。
なぜ朝貢をやめたのか。その理由については、1章で述べたように、倭王・武=雄略天皇の時代には中国南朝の権威に頼らずとも大王権力を維持できるようになったから、との説が存在します。
- 雄略天皇の名前「ワカタケル」は少なくとも東国から九州の広い範囲に「大王」として轟いていた
- また、近畿に次いで巨大な古墳を築いていた吉備(岡山県域+広島県域の一部)の勢力も雄略天皇の時代に急激に衰え、古墳のサイズが小型化した
- いわば、近畿のヤマト政権が日本列島内で一強のような状態になった
- そのように考えると、江田船山古墳出土大刀にみえる「治天下ワカタケル大王」=「天下を治めるワカタケル大王」のような表現は、雄略朝の権威の強さを表しているともいえる
しかし、強い権力で抑圧するような時代も長くは続きませんでした。『記紀』には雄略天皇の死後の混乱が記載されており、その混乱は「倭の五王」に比定される天皇たちとは系譜を異にする継体天皇の即位前後、6世紀前半まで続きます8板靖2018「ヤマト王権中枢部の有力地域集団―「おおやまと」古墳集団の伸張―」『国立歴史民俗博物館研究報告』第211 集 257頁。
6世紀になって,ヤマト王権の生産基盤が大きく変動する。それが,継体政権の成立によるものであることは多言を要しないだろう。『日本書紀』によると,継体(男大迹)は,近江・越前で生まれ育ち,尾張連草香の娘を元妃とした。さらに,樟葉宮・弟国宮・筒城宮,仲介者としての河内馬飼首荒籠の記載がある。考古資料からも北陸・東海地方及び近江・山城及び淀川流域一帯に,その生産基盤があり,継体擁立を支持した在地集団があったことが確認されている。とりわけ,注目されるのが淀川北岸部の三島古墳群にある今城塚古墳であり,これは継体自身の生産基盤に築かれたものとみられる。
越(=北陸)や近江(=滋賀)に出自をもつ継体天皇は、「倭の五王」とは血のつながりの薄い、新たな系統の天皇です。継体天皇は、「倭の五王」とは違った形で列島の統括を進めました。
継体天皇の真陵とみなされる今城塚古墳(筆者撮影)。横穴式石室が存在した。
その手段の一つが、横穴式石室の導入です。継体天皇の時代には、これまでの竪穴式石室に替えて、朝鮮半島の先進的な墓制であった横穴式石室が近畿地方の古墳の埋葬施設(=死体を納める空間)として本格的に導入されました。
いち早く横穴式石室を導入したのは、近畿地方のなかでも継体天皇と縁の深かった地域が中心です。また、「倭の五王」の時代に生産が本格化した須恵器の形態もこの時代に大きく変化し、横穴式石室とともに爆発的な普及をみせます。
このように、継体天皇は「倭の五王」とは違ったかたちで半島から先進技術の導入をはかり、権力の確保・維持に努めたといえるのです。
かくして「倭の五王」の時代は終わり、継体天皇からは新たな系譜のヤマト政権がスタートしました。その後、倭国が再び中国に遣いを送るのは、厩戸王と推古天皇の時代です。倭王・武が朝貢を終えてから約150年後の出来事でした。
- 中国南朝への朝貢だけでなく、古墳の造営からも、対外交渉を優位に進めようとする当時のヤマト政権の姿勢を見て取ることができる
- 文物や技術を「配る」行為によって、ヤマト政権は列島の中心勢力としての優位性を高めた
- 継体天皇は「倭の五王」とは違ったかたちで半島から先進技術の導入をはかり、権力の確保・維持に努めた
3章:「倭の五王」について学べるおすすめの本
「倭の五王」について理解することはできたでしょうか。もっと深く学びたい場合は、以下の本を参考にしてみてください。
森公章『倭の五王 5世紀の東アジアと倭王群像』日本史リブレット人002(山川出版社)
日本古代史だけでなく、当時の東アジア情勢をまじえながら「倭の五王」について解説した本です。ページ数は多くないものの、情報量が多く読み応えたっぷりです。
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広瀬和雄『前方後円墳国家』(中公文庫)
考古学の視点から古墳時代を「前方後円墳国家」ととらえた書籍です。「倭の五王」についても、考古学の立場から検討されています。
一部の書籍は「耳で読む」こともできます。通勤・通学中の時間も勉強に使えるようになるため、おすすめです。
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まとめ
最後にこの記事の内容をまとめます。
- 倭の五王とは、古墳時代中期にあたる5世紀代に日本列島を統括し、中国との交流を行った5人の王=讃・珍・済・興・武のことである
- 「倭の五王」の時代に日本列島と朝鮮半島の交流が盛んになり、半島を通じて大陸側の先進的な知識や技術が日本列島内にもたらされた
- 継体天皇は「倭の五王」とは違ったかたちで半島から先進技術の導入をはかり、権力の確保・維持に努めた
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