イヌイット(Inuit)とは、カナダ極北地域で生活を営む人々です。もともと「エスキモー」という名称が使用されていましたが、1970年代以降は人種差別の観点から、彼らの言葉で「人々」を意味する「イヌイット」が用いられています。
イヌイットは地球上でもっとも過酷な環境に暮らしてきた先住民たちの一人です。「原始的な生活を今でもしている!」と思う方もいるかもしれませんが、必ずしもそうでありません。
そこで、この記事では、
- イヌイットとエスキモーの違い
- イヌイットの生活(家、食事、言語、宗教)
- イヌイットの歴史と現在
をそれぞれ解説していきます。
あなたの関心に沿って読み進めてください。
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1章:イヌイットとは
1章では「エスキモーとの違い」と「イヌイットの生活」を詳しく解説します。イヌイットの歴史や現在に興味ある方は、2章から読んでみてください。
このサイトでは複数の文献を参照して、記事を執筆しています。参照・引用箇所は注1ここに参照情報を入れますを入れていますので、クリックして参考にしてください。
1-1: イヌイットとエスキモー
さて、「イヌイット」と「エスキモー」はどのような違いがあるかご存じですか?以前の記事で詳しく解説したように、「イヌイット」と「エスキモー」の違いは非常に複雑です。(→詳しくはこちら:【イヌイットとエスキモーとは】)
そのため、ここでは要点を絞り説明します。
まず、そもそもの前提として、
- 極北地域に住み、似た言語を話す人々全体を指す名称がないこと
- 「カナダ」と「ロシア・アラスカ・グリーンランド」とでは極北地域における人々を指す名称が異なること
を知っておくことが大事です。
そのため、「カナダ」と「ロシア・アラスカ・グリーンランド」における民族名称を説明しながら解説していきます。
1-1-1: カナダの場合
カナダの場合、もともと「エスキモー」が極北地域に住む民族を説明する言葉として使用されていましたが、1970年代以降は「イヌイット」が使われるようになったという歴史があります。
極北地域における人々の名称変更は、下記のような差別問題があったためです。
「エスキモー」の差別的な意味
- 「エスキモー」はカナダ先住民のクリー族やオジブワ族の言葉で、「生肉を食べる輩」という意味があるとされる
- 欧米の価値観を中心にすると、料理をしないで生の肉をそのまま食べることは非文明的だと考えられた
- そのため、そのような意味をもつ「エスキモー」を、民族名称に使うことは差別的であると認識が広まりをみせる
- さらに悪いことに、「エスキモー」は自称ではなく、他称であった
1970年代のカナダでは、アメリカ合衆国での公民権運動に強く影響を受けた先住民運動が展開され、社会政治的権利が先住民側から要求されていました。
そしてカナダ政府やメディアは先住民運動の影響を受けて、次第に「エスキモー」ではなく、「イヌイット」を民族名称として使用するようになりました。
冒頭で述べたように、「イヌイット」は彼らの言葉で「人々」を意味する用語です。(*先住民の名称には「人間」や「人々」を意味する言葉が使われる傾向がある。「アイヌ」を考えてみてください。)
1-1-2: ロシア・アラスカ・グリーンランドの場合
一方で、ロシア・アラスカ・グリーンランドの場合、「エスキモー」は必ずしも否定的な意味を含むわけではないことに注意が必要です。
カナダの極北地域における人々を専門とする岸上によると、
- ロシアのチュコト半島沿岸地域の民族…自称「ユピート」/公称「エスキモー」
- アラスカの民族…北西部では自称「イヌピアート」、中西部から南西部では自称「ユピート」。彼らは他称の「イヌイット」を嫌うため、総称として「アラスカ・エスキモー」が使われる場合がある
- グリーンランドの民族…西部で自称「イヌイット」、東部で自称「イット」。現在では「カラーリット」というグリーンランド人を意味する民族名称が採用されている
という状況があります2岸上伸啓『イヌイット―「極北の狩猟民」のいま』(中公新書)を参照。
地域によって名称が異なるという複雑な状況があるため、極北地域のすべての民族を指す用語として言語学や考古学では「エスキモー」が、文化人類学では「イヌイット」が便宜的に採用される場合があります。
いずれにせよ、「エスキモー」=「差別用語」と考えることは短絡的であることがわかります。それは用語の意味があくまでも当該社会における歴史的文脈に依存するためです。
用語による混乱を避けるために、この記事およびサイトではカナダ極北地域における人々を指す名称として「イヌイット」を使用しています。
1-2: イヌイットの生活
さて、では一体、イヌイットはどのような生活を送っているのでしょうか?ここでは「家」「食事」「言語」「宗教」の観点から、イヌイットの生活を概観します。
1-2-1: 家
イヌイットの家といえば、「イグルー」と呼ばれるドーム型の雪の家を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか?
歴史的に、イヌイットは季節ごとに居住地を移動した生活を送っていました。イグルーはそのような生活の中で生み出されたものです(写真1)。
(写真1:イグルー)
冬にはー30度に達する極寒の地において、イグルー内部でアザラシの脂肪に火をともせば、室内気温が0度以上に保つことができたそうです。また、イグルーは密封性に優れているため、外は厳しい環境でも、快適に過ごすことができたといいます。
しかし、1950年以降のイヌイット定住化政策の結果、現在では電化されたセントラル・ヒーティング完備の家に暮らしています。
伝統的・現代的な住居の特徴について、より詳しくは次の記事を参照ください。
1-2-2: 食事
そして、伝統的なイヌイットの食事としてアザラシの生肉が極めて有名です。しかし、実はアザラシ以外にも、多様な動植物資源があります。
具体的に、イヌイットは、
- 海獣…ワモンアザラシ、アゴヒゲアザラシ、セイウチ、シロイルカ、ホッキョクグマなど
- 陸獣…カリブー、ジャコウウシなど
- 魚…ホッキョクイワナ、ホワイトフィッシュなど
- 鳥…カナダガン、ハクガン、ライチョウなど
- しょう果類…ブルーベリーなど
を資源として活用してきました。
そして、これらの食事に特徴的なのは以下の2点です。
- 極寒のなかで生き残るためには、肉を中心とした食事から体内でエネルギーを燃焼させる必要があった。そのため、タンパク質と高カロリーな脂身の摂取量が多い
- 植物類からのビタミン摂取が極めて少ない。そのため、動物の血や脂身に含まれるビタミン類やミネラル類から間接的に摂取していた
ここで注意していただきたいのは、上述した食事はあくまでも伝統的なものであることです。
イヌイット定住化政策後のイヌイット社会では、ジャンクフードなどが消費されるようになり、健康問題が深刻化しています。特に、糖尿病や肥満といった健康問題は深刻です。
暖房のきいた住宅で暮らし、野外活動が減少してきたにもかかわらず、高カロリーの食事を続けることは健康問題の理由の一つとなっています。
イヌイットの食事に関してより詳しくは、次の記事を参照ください
【イヌイットの食事とは】伝統的な食事・現在・問題をわかりやすく解説
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1-2-3: 言語
言語の観点からいえば、イヌイット語はカナダ、グリーンランド、アラスカ、シベリアの極北地域に住む民族が話す「エスキモー語」の下位語派の一つといえます。
特徴的な点として頻繁にあげられるのは、「雪」を表す言葉の多さです。実際に、宮岡伯人が「言語の違い、認識のちがい」で提示したように、イヌイット語には以下のような種類の「雪」があります3宮岡伯人「言語の違い、認識のちがい」『今、世界のことばが危ない! : グローバル化と少数者の言語 : 2005第19回「大学と科学」公開シンポジウム講演収録集』クバプロ, 2006を参照。
- 「カニック」=「降っている雪」
- 「アニユ」=「飲料水をつくるための雪」
- 「アプット」=「積もっている雪」
- 「プカック」=「きめ細かな雪」
- 「ベシュトック」=「吹雪」
- 「アウベック」=「イグルーを作るための雪」
日本語の「細雪」「どか雪」「粉雪」といったように形容をして細分化しているのでなく、イヌイット語の「雪」はそれぞれまったく別物です。
つまり、イヌイット生活と切り離しがたく結びついた日常的な基礎語彙であるため、言語システムの内部で語彙が細分化されたということです。
本来ならば言語システムを解説するべきですが、話が大きく脱線しますので割愛します。
イヌイット言語と言語システムに関しては、下記の記事を参考してください。
1-2-4: 宗教
最後に、宗教的な信仰に関していえば、イヌイットのほとんどがキリスト教徒です。
上述した岸上によると、キリスト教への改宗には次の主な要因があります。
- 19世紀に毛皮交易者が極北地域に入ったとき、英国教会やカトリック宣教師が布教活動をおこなったこと
- キリスト教が強調する価値観(家族愛、平和、相互扶助、寛容さ等)が、イヌイットの価値観に近かったこと
- 宣教師がイヌイットのシャーマンよりも、強力なシャーマンであることをイヌイット自身が認めたこと
ここで注意したい点は、キリスト教への改宗が元来のシャーマニズム的信仰を否定したわけではないことです。
つまり、イヌイットはキリスト教の教えを自らの状況に引きつけて再解釈し、元来の世界観と宗教観に適合させていきました。その結果、イヌイット的キリスト教を生み出していったのです。
そういった意味で、イヌイットはハイブリッドな形態の文化的アイデンティティをもつといえるでしょう。
- 「カナダ」と「ロシア・アラスカ・グリーンランド」とでは極北地域における人々を指す名称が異なる
- イヌイットの生活は伝統的なものから現代的なものへ移り変わっている
2章:イヌイットの歴史と現在
さて、イヌイットはどのような歴史をもつ人々なのでしょうか?
イヌイットの歴史を振り返る上で、やはり無視できないのは「欧米人との関係」と「イヌイット定住化政策」です。それぞれを解説していきます。
2-1: イヌイットと欧米人との関係
イヌイットの欧米人との出会いは散発的ながら、甚大な社会的影響を与えるものでした。具体的に、それは①欧米人が疫病を持ち込んだこと、②毛皮交易による欧米社会との経済的関係の形成を指します。
2-1-1: 疫病
15世紀以降、ヨーロッパからタラ漁民、探検家、捕鯨者たちが極北地域における活動を活発にしていきました。それら欧米人との出会いから、イヌイットは銃や鉄製品を入手することができた一方で、この接触によってイヌイット社会には結核・はしかなどが持ち込まれました。
イヌイット社会において伝染病が蔓延した結果、総人口の1/3が命を落とし、人口の劇的な減少を経験することになりました。
アメリカ大陸の先住民は、欧米人が持ち込んだ疫病によって壊滅的な人口減少を経験しています。ネイティブ・アメリカンの事例に関してはこちらの記事→【ネイティブ・アメリカンとは】部族・歴史・居留地をわかりやすく解説
2-1-2: 毛皮交易による欧米社会との経済的関係
そして、極北地域における捕鯨が衰退して以降、ホッキョクギツネやアザラシの毛皮交易が盛んになります。交易品からみると、次のような時代区分が可能です。
- 1910年代〜1940年代・・・ホッキョクギツネの毛皮が主な交易品。イヌイットは毛皮を売り、ライフルやカヌー、紅茶や砂糖などを購入した
- 1960年代〜1980年代・・・アザラシ毛皮のなめし技術が開発されて以降は、アザラシ毛皮が高給毛皮コートの素材として主な交易品となった。1983年にEC(ヨーロッパ共同体)が、アザラシ毛皮の輸入禁止するまで続いた
このようにして、イヌイットは欧米社会との経済的関係を強固にしてきました。
また確認となりますが、毛皮交易者が極北地域での活動を活発にした時期、英国教会やカトリック宣教師が布教活動をおこない、イヌイットのキリスト教への改宗が一気に進みました。
2-2: イヌイット定住化政策
続いて、「イヌイットの定住化政策」に関してです。
簡潔にいえば、イヌイット定住化政策とは、
- 1950年代後半からカナダ連邦政府が極北地域における行政管理を促進することを目的に実施した政策
- 具体的に、英語による初等教育の実施、医療や福祉サービスの提供、極北地域における行政施設の建設、イヌイットの定住化の促進がおこなわれた
ものです。
この政策の影響はイヌイット社会に大きな変化をもたらしました。たとえば、イヌイットの食の観点でいえば、
- 現金やクレジットカードを利用して、生協・小型スーパーで南から運搬された食材を手にできるようになった
- 冷凍庫や冷蔵庫の普及により、さまざまな食材の長期保存が可能になった一方で、乾燥保存や発酵保存といった伝統的な保存法が廃れていった
- 「生食」「煮る」「発酵」「乾燥」「冷凍」という調理法が主流だったが、電子レンジの普及で伝統的なものから幅が広がった
といった変化がありました。
他にも上述したように、全てのイヌイットがイグルーやテントではなく、電化されたセントラル・ヒーティング完備の家に暮らすようになり、生活全般で大きな変化を迫られたのです。
2-3: イヌイットの現在
このようにみると、
「伝統的な生活をするイヌイットはもう存在しないの?」
と思う方もいるかもしれません。
たしかに、過去のある時期の自然共同体を「伝統的」というならば、そのようなイヌイットはもういないかもしれません。
しかし、このサイトで繰り返し述べているように、大事なのは本質主義的なイヌイット像を想定しないことです。(本質主義的とは「太古から続く生活を現在でも営むイヌイット像」を意味する→本質主義に関して詳しくはこちら)
なぜならば、本質主義的なイヌイットをいつまでも想定していると、「現在イヌイットはいない」という結論に帰着してしまうからです。
そのような思考から抜け出すためには、グローバルなものと混ざりあうハイブリッドな形態のイヌイットを想定することが必要です。きっかけとして、以下の記事では世界的に有名なジェームズ・クリフォードの議論を紹介しています。ぜひ読んでみてください。
→【ネイティブアメリカンの現在】統計情報や文化の問題をわかりやすく解説
- イヌイットの歴史において「欧米人との関係」と「イヌイット定住化政策」が社会変化の契機となっている
- 21世紀において、本質主義的なイヌイットを想定しないことが大事
3章:イヌイットについて学べるおすすめ本
イヌイットについて理解することはできましたか?
イヌイットに関してはさまざまな研究本があるので勉強しやすいはずです。今回は初学者へのおすすめ本を紹介します。
岸上 伸啓『イヌイット―「極北の狩猟民」のいま』 (中公新書)
イヌイットに興味をもっているすべての人にお勧めできる本です。イヌイットの歴史、衣食住、現在を確かなフィールドワークから紹介しています。
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浅井 晃『カナダ先住民の世界』(彩流社)
イヌイットに限らず、カナダ先住民に関して知ることができます。文体も非常に読みやすいので、初学者におすすめです。
一部の書籍は「耳で読む」こともできます。通勤・通学中の時間も勉強に使えるようになるため、おすすめです。
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まとめ
最後にこの記事の内容をまとめます。
- 「カナダ」と「ロシア・アラスカ・グリーンランド」とでは極北地域における人々を指す名称が異なる
- イヌイットの歴史において「欧米人との関係」と「イヌイット定住化政策」が社会変化の契機となっている
- 21世紀において、本質主義的なイヌイットを想定しないことが大事
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