ピルグリム・ファーザーズ(Pilgrim Fathers)とは、イギリス王ジェームズ1世の統治による宗教的弾圧や迫害から逃れるために、1620年メイフラワー号に乗船して北アメリカ(プリマス)へ移住したピューリタン(イギリスにおけるカルヴァン派)のことです。「ピルグリム(Pilgrim)」とは、巡礼者のことを意味します。
ピルグリム・ファーザーズは、アメリカ史を学ぶ上で必ず登場するキーワードです。しかし、この出来事は世界史の教養としてのみ重要なわけではありません。
ピルグリム・ファーザーズが信じた「神との直接的な契約」は、現在のアメリカ国家を支える重要な概念の一つとなっています。
そういった意味で、ピルグリム・ファーザーズを理解することは現代的な文脈でもとても重要です。
そこで、この記事では、
- ピルグリム・ファーザーズの誕生背景
- ピルグリム・ファーザーズの思想
- ピルグリム・ファーザーズとアメリカ植民地
をそれぞれ解説していきます。
好きな箇所から読んでみてください。
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1章:ピルグリム・ファーザーズとは
1章ではピルグリム・ファーザーズを「誕生の背景」「思想」「プリマスへの上陸」といった項目から概説します。
2章ではピルグリム・ファーザーズと植民地の関係を解説しますので、関心に沿って読み進めてください。
細かい歴史的過程を触れますが、それらを必ずしも覚える必要はありません。出来事の全体像を理解することを優先しましょう。
1-1: ピルグリム・ファーザーズの誕生の背景
まずは当時のイギリス社会の状況から、ピルグリム・ファーザーズがアメリカに渡った理由までを解説します。
1-1-1: イギリス国教会の設立
まず、重要な出来事として、イギリス国教会の設立があります。16世紀にヨーロッパで宗教改革の機運が高まると、イギリスでもローマ・カトリック教会から分離し国王を首長とする教会が設立されました。
しかし、実際はすべての人がイギリス国教会に賛成したわけではありませんでした。
- スコットランド・・・カルヴァン派プロテスタントから構成された長老派教会などが主流であった
- アイルランド・・・昔からカトリック教会派が主流であった
- イングランド内部・・・国王を中心とする国教会の体制に反対する人たちもいった
にもかかわらず、1530年代、ヘンリ8世から始まったイギリス国教会の設立と統一の動きは、エドワード6世の時代を経てエリザベス1世に引き継がれます。
エリザベス1世は1559年イギリス国教会の礼拝や祈祷(きとう)の統一基準を定めた法律である「礼拝統一法(Act of Uniformity)」を定めて、国王を中心として宗教改革は完了し国教会の体制が確立しました。(→宗教改革についてより詳しくはこちら)
1-1-2: ピューリタン
エリザベス1世の死去後、1603年ジェームズ1世が王位を継承すると、「ひとりの国王、ひとつの信仰、ひとつの法、ひとつの議会、ひとつの国名、ひとつの旗」のスローガンをかかげ、他宗派の人々に対してのイギリス国教会の考え方の強制が激化していきました。
そして、イングランド内においてイギリス国教会に同意できない人々のひとつのグループが、「ピューリタン(Puritan)」または「清教徒」と呼ばれる人々だったのです。具体的に、ピューリタンとは以下の特徴をもつ人々です。
- スイスを拠点に宗教改革を行ったカルヴァンの考え方を支持するカルヴァン派の人々
- 「ピューリタン」と呼ばれるようになったのは、イギリス国教会の考え方の中には未だにカトリック寄りの考え方が混ざっていて、その残存物を浄化するように要求したことからに由来する
- 「浄化する」という動詞は英語で「Purify」で、名詞である「浄化」は「Purification」である。残存物を浄化する人々という意味で「Puritan」(ピューリタン)と名付けられた
一方で、イギリス国教会の信者からピューリタンたちは、法律に従わない人々という意味で「非国教徒」または「ノンコンフォーミスト(Non-conformist)」とも呼ばれました。
ピューリタンに関してより詳しくは、以下の関連記事をご覧ください。
1-1-3: オランダを経由してアメリカへ
1603年にはスコットランドのみではなく、イングランド、アイルランドの王にも就任したジェームズ1世は、イギリス国教会以外の宗派はすべて否定し議会も無視するようになっていきます。
このように国教会の強制・弾圧や課税が厳しくなると、他の土地へ避難し自分たちの信仰を貫きたいと考えるピューリタンたちが登場してきます。そんな彼らが最初に向かったのは、オランダでした。
たとえば、1608年にはジョン・ロビンソン牧師を中心とするピューリタンたちがイングランドを逃れて、オランダのアムステルダム(Amsterdam)に移住します。そして、約12年間その土地に住み続けました。しかし、その中で次のような出来事が起こります。
- オランダで家族をもち子どもを設けたピューリタンだったが、第二世代の子どもたちがオランダの文化や生活に過度に溶け込んでいく不安や、生活自体の行き詰まりを感じるようになった
- ピューリタンの子供たちの中には、オランダの兵隊として雇われるケースもでてきており、イギリスの文化の影響を受けている新大陸へ渡って、自分たちが理想とする社会を作り上げたいと願うものもでてきた
このような変化を経て、イングランドを逃れオランダで生活し始めたピューリタンの中にはその地での生活にも行き詰まりを感じ、さらなる理想の地を求めて1620年アメリカへ渡っいく決意をするのです。
1620年9月、これらのピューリタンはイギリスのサウサンプトン(Southernpton)でメイフラワー号に乗船して、プリマス港を出港して新大陸へ向かいました。総勢102名で、その内の41名がピューリタンだったといわれています。
国王の弾圧を受け、オランダへ移住しなければならなかったピューリタンの内の何人かは理想とする社会の構築と自らが信じる宗教的生活を送るためにアメリカへ旅立ったという決意をしたのでした。
1-2: ピルグリム・ファーザーズの思想
では、ここからはメイフラワー号に乗船した人々の思想を詳しくみていきましょう。
1-2-1: ピューリタン達の思想
上述したように、乗船した41名はピューリタンの家族たちでした。彼らは「神との契約」を守るため、新天地で理想の社会を構築し、宗教的に規律ある生活をしていきたいと望んでいました。
具体的には、ピューリタンたちには次のような思想的特徴がありました。
- 契約する相手は神・・・個人と神の間に、王や大主教などが入り込む必要性はなかった。(そのため、ピューリタンたちは国王を首長とし、その下に二つの大主教区をおいて階層的に教会を統制するという祖国イギリスの国教会のやり方や体制に反対した)
- 神に選ばれた人間である・・・神に選ばれた人間であるからこそ神の意思に基づいて生かなければならないという信念。(ピューリタンたちは、この世には偶然は存在せず、すべては神の意思が作用したものだと信じていたため、アメリカへ移民する行為そのものも神の意思だと捉えた)
実際に、このようなピルグリム・ファーザーズが神との契約を守るために規律や秩序を厳しく管理し専制的権威主義の社会となっていったことを描いた小説に、『緋文字』(ひもんじ)があります。
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このように、ピルグリム・ファーザーズの中でも、ピューリタンは、自分たちは神から選ばれた人間であると考えていました。それゆえに「神との契約」を最優先させる生活をおくることを理想としていました。実際に彼らが新天地に築いた社会は規律の厳しい社会になっていったのです。
1-2-2: ピューリタン以外の人々
そしてピルグリム・ファーザーズの多くはピューリタンであったと思われがちですが、実際には102名のピルグリム・ファーザーズの中の61人はピューリタンではなかったです。
ピューリタン以外の人々は、
- 投機家が募集した植民地建設に長けた人々・船乗り・奉公人
- 宗教的には、ほとんどすべての人がイギリス国教会を支持する人たち
でした。
自国のイングランドを離れてオランダに渡ったピューリタン達には多くの資産がなかったため、植民地経営に携わっていたイングランドの投機家トマス・ウェストン(Thomas Weston)たちの財政的な支援を受ける必要がありました。
そして、多くの資産家にとって、メイフラワー号出港の目的は信仰ではなく、先住民との取引や農業から得られる利益だったのです。
そのため、しばしば神格化されて語られるピルグリム・ファーザーズですが、実際にはピューリタンたちが、イギリスから新大陸を植民する権利を与えられていた投資家と交渉してアメリカへ渡る手段を見つけた集団だったのです。
1-3: プリマスへの上陸
1章の最後に、「なぜプリマスへ上陸したのか?」という疑問に答えていきましょう。
1-3-1: プリマス上陸の理由
当初、ピルグリム・ファーザーズ一行は、1620年11月11日にコッド岬の先端にあるプロビンスタウン(Provincetown)に上陸しました。しかし、この地の土壌が良くないことがわかるとマサチューセッツ湾を渡りプリマスへ入植することに計画を変更したのです。
到着した時期はこれから冬へと向かう時期でもあり、また食料も不足していましたが、ピルグリム・ファーザーズは、その年の冬をニューイングランドの地で越すことを決めたのだと言われています。
1-3-2: メイフラワー誓約とは
ピルグリム・ファーザーズがプリマスに上陸する前の11月20日に署名した書面は、「メイフラワー誓約(Mayflower Compact)」と呼ばれています。
メイフラワー誓約とは、プリマスの地で植民を続けることを誓約したものです。
上陸前、乗組員たちの中には宗教的目的で移住してきたピューリタンと離れて自由行動を取りたいと主張する者がいました。これを聞いて困ったのはピューリタンたちです。
なぜならば、ピューリタンたちは、投資家が雇った他の入植者のように家を建てたり、食糧を確保するなどの訓練を受けていたわけではなかったからです。
このような側面を含めると、メイフラワー誓約とは、
- ピューリタンたちだけでは新しい土地で植民活動をしていけないという不安もあり、上陸後の保証のための書面だったという側面もある
- また、メイフラワー誓約には、「国王と祖国の名誉のための」植民という目的を明記して乗組員全員がイギリス人として共有できる内容としたものでもある
といえます。
1-3-3: 「プリマス」という名称
ちなみに、「プリマス」と名付けたのはヴァージニア植民地開拓の指導者ジョン・スミスです。
ジョン・スミスとは、
- イギリスの軍人であり、1607年イギリスの新大陸初の植民地になったヴァージニア植民地にジェームズ・タウンを建設した人物
- 1614年、ヴァージニア植民地の北の地域を探検時に現在のプリマスを訪れニュー・プリマスと名付けた人物
です。
つまり、メイフラワー号はイギリスのプリマスの港から出航し、偶然にもアメリカで同名のプリマスという土地で植民することになったのです。
12月21日にプリマスに入植したピルグリム・ファーザーズたちでしたが、イギリスから持ち込んだ野菜や小麦の残りは十分ではなく、厳しい寒さもあって、その年の冬を越すまでに半数ほどが病死したと言われています。
1621年3月にメイフラワー号のいくつかの船員はイギリスにもどり、残ったピルグリム・ファーザーズたちは、その後もプリマスで共同生活を続けていきました。
- ピルグリム・ファーザーズとは、イギリス王ジェームズ1世の統治による宗教的弾圧や迫害から逃れるために、1620年メイフラワー号に乗船してアメリカへ移住したピューリタンのことである
- イギリス国教会に同意できない人々のひとつのグループとして「ピューリタン(Puritan)」がいた
- ピューリタンは「神との契約」を守るため、新天地で理想の社会を構築し、宗教的に規律ある生活をしていきたいと考えて、アメリカに渡った
2章:ピルグリム・ファーザーズとアメリカ植民地
さて、2章では新世界におけるピルグリム・ファーザーズの活動を解説してきます。重要なポイントは「インディアン」「植民地」です。
2-1: ピルグリム・ファーザーズとインディアンの関係
まずは、ピルグリム・ファーザーズとインディアンの関係を紹介します。
2-1-1: ワンパノアグ族との出会い
プリマスに上陸したピルグリム・ファーザーズが深い関係をもつことになる部族は、ワンパノアグ族です。ピルグリム・ファーザーズは、ワンパノアグ族に助けられて新天地での生活を維持していきます。
両者は次のような偶然から出会うことになります。
- 1620年11月21日に上陸したピルグリム・ファーザーズは、プリマスの地での生活を始めた
- ヴァージニア植民地のイギリス人と交流したことがあるアベナキ族の酋長サモセット(Samoset)が、ピルグリムたちを訪ねて片言の英語で話しかけてきた
- ピルグリムたちの状況を視察したサモセットは翌日、英語が堪能なワンパノアグ族のスクアント(Squanto)を連れてきた
そして、スクアントというワンパノアグ族の先住民が重要な役割を果たすことになります。
- スクアントはかってイギリスに奴隷として売られたものの自由の身になった後、通訳として故郷にもどってきた過去をもつ先住民
- スクアントはピルグリム・ファーザーズにインディアンの農耕や漁業のしかたを教えた
- また、翌年1621年3月には、スクアントの仲介により、ピルグリム・ファーザーズは、ワンパノアグ族のマサソイト酋長と平和と友情の条約を結び、ワンパノアグ族はプリマス植民地のために48.5km²の土地を譲渡することを約束した
- 1621年の秋は豊作で、ピルグリム・ファーザーズはワンパノアグ族の助けによる神の恵みに感謝し、ワンパノアグ族をプリマス植民地に招き、3日にわたる祝宴会を開催したといいます(これが現在の感謝祭(thanksgiving day)の起源という説もある)
このように、ワンパノアグ族と出会い助けられたピルグリム・ファーザーズの半分は厳しい冬の数カ月を乗り越えたのです。
2-1-2: 関係の悪化
良好な関係でスタートしたピルグリム・ファーザーズとワンパノアグ族でしたが、プリマスや周辺地域へのヨーロッパからの移民の増加により、白人とインディアンとの摩擦は次第に大きなものになっていきました。
1620年プリマスに上陸したピルグリム・ファーザーズはたった102名でしたが、1630年からの10年でイギリスにいたピューリタンたちを中心にプリマスや周辺の入植者がは2万人を超えたと言われています。一方で、周辺インディアンの人口は1万人と人口比率の割合も逆転していきました。
そして、二者間の摩擦が増加していった理由は土地譲渡の問題でした。
- ワンパノアグ族から譲渡された土地は、ピルグリム・ファーザーズにとってプリマス植民地が取得したものであり、プリマス植民地の所有物になったものと理解していた
- しかし、一方のインディアンたちにとって、土地は誰のものでもなく、土地の所有権という概念はもともと持ち合わせていなかったの
つまり、インディアンたちは入植者の不動産証書に署名したという契約上の理由から土地から締め出されていく事態が増えていきました。
インディアンたちにとって共有物であるはずの土地が植民者たちに占有され、自分たちが締め出されていく状況に不満を抱いていったのです。
新大陸における先住民に関しては、以下の記事を参考に勉強してみてください。
2-1-3: フィリップ王戦争の勃発
土地譲渡の問題が加熱すると、ピルグリム・ファーザーズの上陸から55年が過ぎついに植民者とワンパノアグ族を中心とするインディアンとの間で全面戦争が起こりました。この戦いは「フィリップ王戦争」と呼ばれています。
1675年、植民開始から50年以上が経過し、ワンパノアグ族もピルグリム・ファーザーズと平和と友情を誓いあったマサソイト酋長から酋長の次男であるメタコメットが酋長をつとめる時代になっていました。
酋長とは元来、コミュニティ内部の調停役であり、軍の指揮をとるなどのリーダーではありませんが、入植者たちは酋長のことを決裁権のあるリーダーであると理解し、メタコメットのことを「フィリップ王」と呼んでいました。
入植者の白人たちに不満を募らせていたメタコメットは仲間たちと話し合い、入植者たちへの反抗を企てていましたが、計画の実行の前に仲間が入植者たちに捕らえられ、処刑されてしまったのです。戦いの死と異なり仲間が処刑されたことに対して、メタコメットは怒り白人は卑劣であると判断し、同年6月にフィリップ王戦争が開始されました。
大まかにまとめると、フィリップ王戦争の概要は以下のとおりです。
- 銃や火薬を蓄えていたインディアン達は次々に入植者たちの集落を焼き払っていきった
- その結果、プリマスを含めたニューイングランド植民地はほぼ壊滅的な状態にまで陥った
- しかし、イギリスから千人の援軍が到着したワンパノグア族を抑えると、3千人のナラガンセット族がこもる要塞を攻撃し制圧した
- メタコメットは6月の戦闘で戦死、残ったインディアンの男性は奴隷として売られ、女性は使用人として各家庭に分配された
そして、フィリップ王戦争の結果、インディアンは追放されニューイングランドの地は植民者に独占されたのです。
2-2: ニューイングランド植民地の誕生
さて、フィリップ王戦争といった出来事を通して、ニューイングランド植民地が誕生していくことになります。その際、問題となったのはプリマス植民地の法的問題です。
プリマス植民地の法的問題
- ヴァージニア植民地を目指して新大陸に渡ってきたピルグリム・ファーザーズはその後もプリマスの地に定住し続けたが、もともと、本国イギリスの植民の承認を受けた植民地ではなかった
- そのため、プリマス植民地は法的には新たに本国から認可を受けた「ニューイングランド評議会」の下請会社として植民活動を継続する必要があった
ニューイングランド評議会とは、新大陸の植民についてイギリスで認可されていた会社の一つです。もう一つの認可会社であるヴァージニア会社の管轄している地域の北側を、植民する権利を所有し具体的な植民も計画していました。
債権者たちはニューイングランド評議会との交渉の結果、法的にプリマス植民地をニューイングランド評議会の下請け会社にする手続きをとりました。この下請け会社としての手続きの後、ピルグリム・ファーザーズが建設したプリマスへは、本国からさらに多くのピューリタンたちが入植していったのです。
2-2-1: 増加するピューリタンたちの入植
本国イギリスでは、1625年にチャールズ1世が王位に就くとピューリタンへの弾圧はさらに高まり、プリマスや周辺のニューイングランド地域への入植数は増加しました。(ピルグリム・ファーザーズが入植した1620年から1630年までの間に2万人を超えるように)
当時のイギリス国内における状況は、以下のとおりです。
- ピルグリム・ファーザーズがアメリカへ入植してきた時代のイギリス国王はジェームズ1世だったが、1625年には反ピューリタン意識が強いチャールズ1世が王位に就く
- さらに、その年はピューリタンが多く居住するイギリス西部の地域は不作と不況も重なり、ピルグリム・ファーザーズと同様に人々は国外に逃れて理想の町を作ることを望むようになっていった
- ピューリタンたちが新天地のどこへ行くかを検討した際に、国教会が優勢であるヴァージニア植民地よりも、ピューリタンの影響の強いニューイングランド地方への移住を希望する人々が多数であった
そして、植民活動をしていたヴァージニア会社やニューイングランド評議会の次に植民の認可を受けたのがマサチューセッツ湾会社でした。1630年、マサチューセッツ湾会社の株主たちは、ピューリタンのジョン・ウィンスロップ(John Winthrop)をマサチューセッツ湾初代植民地総督に選出し、3月にウィンスロップを含む第一陣がニューイングランドへと旅立ちました。
その後、3ヵ月間に15隻の船で千人のピューリタン達が入植し、ピルグリム・ファーザーズの入植後10年間で2万人がアメリカへ渡りました。ちなみに、マサチューセッツ湾会社が植民した町の中で中心的な町がボストンでした。
このように、ピルグリム・ファーザーズのアメリカへの移民をきっかけとして、その後も東海岸北部のニューイングランド地方への入植活動は増えていったのです。
2-2-2: ニューイングランド地域の4つの植民地
17世紀末までに小さな植民地の統合、吸収、脱退などがされた結果、ニューイングランド地域では4つの植民地が確立されました。
植民地によって事情や背景は異なりますが、これら4つの植民地は南部のヴァージニア植民地のような大プランテーション型ではなく、独立自営のタウンが形成されていったのが特徴でした。
- マサチューセッツ湾植民地・・・1629年に設立されたマサチューセッツ湾植民地は、1691年にピルグリム・ファーザーズが建設したプリマス植民地を吸収。翌年1692年にはフランス人を中心に建設されたメイン植民地を吸収した
- ロードアイランド植民地・・・マサチューセッツ湾植民地でピューリタン達に宗教的迫害を受けたクエーカー教徒やユダヤ教徒たちが中心となって設立したもの。1636年、ロジャー・ウイリアムスによって設立された
- コネチカット植民地・・・1636年にピューリタンの貴族の受け入れ地としてトマス・フーカ―によって設立された
- ニューハンプシャー植民地・・・当初はマサチューセッツ湾植民地の一部だったが、1679年に独立し新たな植民地となったもの
ピルグリム・ファーザーズが建設したプリマス植民地を含め、ニューイングランドに建設された植民地は、ヴァージニアのような大プランテーションによる利益獲得だけが目的ではなく、宗教などの理念を持ってアメリカに永住する覚悟をもって移民してきた人々でした。
その特徴として、
- 「タウン」と呼ばれる何十世帯かの家族が集まり植民地会社と契約を結び、植民地会社総会の承認を得て土地を受け取り、独立自営で自給自足的な生活をしていったこと(港を介して交易で繁栄したタウンは、作物を栽培し、ヨーロッパへの輸出するタウンも誕生していった)
- 奴隷を働かせるのではなく、自身の力で労働し利益を上げるという独立自尊の精神をもったこと(後のアメリカ北部の考え方に影響していく)
がありました。
そして、ニューイングランド地方に位置するこれらの4つの植民地は、中部植民地、南部植民地の9州と共に合計13植民地で、1776年にイギリスから独立し、アメリカ合衆国を設立することになります。
- 当初、友好関係にあったピルグリム・ファーザーズとインディアンは、フィリップ王戦争を経て、イギリス人による植民地化へと進んでいく
- 17世紀末までに、「マサチューセッツ湾植民地」「ロードアイランド植民地」「コネチカット植民地」「ニューハンプシャー植民地」といったニューイングランド植民地が誕生する
3章:ピルグリム・ファーザーズを学ぶための本
ピルグリム・ファーザーズを理解するきっかけを掴むことはできたでしょうか?
歴史的な記述が多くなりましたので、以下の書物から学術的な議論にも触れてみてください。
斎藤真『アメリカとは何か』 (平凡社ライブラリー)
アメリカ政治史を専門として東京大学などで教鞭を取り、大学生用のテキストも著作されてきた本です。この本書からは、ピルグリム・ファーザーズのアメリカへの旅立ちが単にピューリタン信者によってなされた航海ではなかったこと、当時のイギリスの政治状況や植民地政策と深く結びついて起こった出来事であることが理解できるお勧めの1冊です。
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ナサニエル・ホーソーン『緋文字』(光文社古典新訳文庫)
ピルグリム・ファーザーズがアメリカへ渡った後、ピューリタンたちに建設された17世紀のマサチューセッツのセイラムを舞台にした小説です。高い理想をかかげてアメリカへ渡ってきたピューリタンたちでしたが、厳しすぎる規律や戒律、自分たちは神に選ばれたという上流階級思考の雰囲気の中で、ホーソーンが感じていた町の息苦しいほどの閉塞感が伝わってくる作品です。
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その他参考文献
増井志津代『植民地時代アメリカの宗教思想 ピューリタニズムと大西洋世界』(上智大学出版)
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大西直樹『ピルグリム・ファーザーズという神話 : 作られた「アメリカ建国」』(講談社)
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一部の書籍は「耳で読む」こともできます。通勤・通学中の時間も勉強に使えるようになるため、おすすめです。
最初の1冊は無料でもらえますので、まずは1度試してみてください。
また、書籍を電子版で読むこともオススメします。
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- 「書籍のポイント還元最大10%(学生の場合)」
などの特典もあります。学術的感性は読書や映画鑑賞などの幅広い経験から鍛えられますので、ぜひお試しください。
まとめ
最後にこの記事の内容をまとめます。
- ピルグリム・ファーザーズとは、イギリス王ジェームズ1世の統治による宗教的弾圧や迫害から逃れるために、1620年メイフラワー号に乗船してアメリカへ移住したピューリタンのことである
- ピューリタンは「神との契約」を守るため、新天地で理想の社会を構築し、宗教的に規律ある生活をしていきたいと考えて、アメリカに渡った
- 当初、友好関係にあったピルグリム・ファーザーズとインディアンは、フィリップ王戦争を経て、イギリス人による植民地化へと進んでいく
このサイトは人文社会科学系学問をより多くの人が学び、楽しみ、支えるようになることを目指して運営している学術メディアです。
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