政治史

【幕藩体制とは】その意味から学術的な議論までわかりやすく解説

幕藩体制とは

幕藩体制とは、江戸幕府を頂点としつつ、幕府と藩の強固な結合によって、全国の土地と民衆をおよそ260年間にわたって支配した体制のことです。

歴史学では、古代は律令制、中世は権門制、近世は幕藩制、近代は資本制といった概念をもって、時代のしくみを説明しています。

しかしながら、律令制、権門制、資本制などはそれぞれ同時代に存在した言葉であり、時代性を示すのに説得力があります。

その一方で、幕藩体制という言葉は、江戸時代に実際に使用されていたわけではなく、日本の江戸時代像のあり方を端的に表したものとして、戦前から使われ始めた、いわゆる歴史用語です。

では、江戸時代を端的に言い表した幕藩体制とはどのような体制だったのでしょうか?

そこで、この記事では

  • 幕藩体制の確立
  • 幕藩体制の仕組み
  • 幕藩体制に関する学術的議論

などについてわかりやすく解説していきます。

好きなところからお読みください。

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1章:幕藩体制の確立

1章では、幕藩体制がどのように確立していくのかについて解説します。

このサイトでは複数の文献を参照して、記事を執筆しています。参照・引用箇所は注1ここに参照情報を入れますを入れていますので、クリックして参考にしてください。

1-1:武家諸法度の制定

戦国時代が終わり、徳川家康が天下を統一し、江戸幕府が出来たことはよく知られています。

しかし、家康が征夷大将軍に任命された後も、戦国時代の遺風が残り、いつまた戦乱の世に戻るか油断できない状況でした。そのため、江戸幕府は諸大名を服従させ、幕藩体制を確立させていくことが当面の課題でした。

ここでは、幕藩体制の成立について、江戸幕府がどのように国家の統治権の正当化を図ったのかを中心に解説したいと思います。

記事の冒頭で、幕藩体制とは、「幕府と藩の強固な結合によって、全国の土地と民衆をおよそ260年間にわたって支配した体制」と解説しました。幕藩体制を理解する上では、幕府と藩の主従関係が重要なカギとなってきます。

つまり、江戸幕府がいかにして徳川家の正当性を主張し、諸大名との主従関係を築いていったのでしょうか?

征夷大将軍となった徳川家康は、慶長16年(1611)に諸大名から、鎌倉幕府を開いた源頼朝以来の将軍同様に、「公方」となることを承認させ、服従と忠誠を誓う誓詞を提出させます。

誓詞とは

  • 頼朝以降の「公方之法式」、つまり国家の統治権を徳川家に命じられたことを諸大名に認識させた上で、江戸幕府が定める法令や規則を遵守するようにと書かれている
  • また、その法令や規則への違反をしないことや、江戸幕府に従わない者を匿わないこと、反逆や殺害人を召し抱えないことを規定して、これらの条目に背けば、取り調べの上、厳しい処分を受けることを諸大名たちに誓わせている

この誓詞から江戸幕府の統治権の源流を見いだすことができます。この誓詞を基本として、武家諸法度は構成されています。

武家諸法度とは

  • 徳川家康は金地院崇伝に起草させて、慶長20年(1615)7月7日に伏見城で諸大名に武家諸法度を渡した
  • 武家諸法度を見ると、13条からなっていて、居城を新たに築くことを禁じ、修理の際は届け出が必要であること、私婚を結ばないことなどが記されている

このように、武家諸法度をもとに、幕府と諸大名たちとの間で、主従関係を築き、幕藩体制の基礎が固められました。そして、三代家光の頃に幕藩体制が確立期を迎えます。

参勤交代制度が制度化したのも家光の時代でした。また、大船造船の禁止も盛り込まれ、諸藩の軍事力を抑制し、国内統制を強めることとなりました。さらに、家光は、旗本以下の幕臣に対しても諸士法度を発布しました。

五代綱吉の頃、天和3年(1683)の武家諸法度では、基本事項は踏襲され、そこに殉死の禁止も規定され、文治政治を反映した内容となりました。また、諸士法度も武家諸法度に包摂されることとなりました。

その後、享保の八代吉宗の武家諸法度では、前の武家諸法度の内容を変更することなく、以降そのまま引き継がれていきました。このように、武家諸法度は、将軍の代替わりごとに結ばれました。

それは、将軍が交代しても江戸幕府の統治権と大名の自領支配権の継続を双方で誓約的に認める、主従関係の確認でもあったのです。



1-2:家康の神格化

前述しました通り、三代家光の時代に幕藩体制が確立期を迎えました。家光時代の政策として、参勤交代の制度化や「鎖国」体制の成立などが有名ですが、その他に、重要なものの一つに家康の神格化が挙げられます。

これは、家康が天正18年(1590)に江戸に入った際に、八月一日を選んだという「八朔打ち入り伝説」と、中世まで葦原が茂るさびれた漁村だった江戸が、家康によって巨大都市に発展したという「葦原伝説」とがあります。

1-2-1:葦原伝説

まず、「葦原伝説」についてですが、後北条氏時代の江戸は交通の要所として、発展を遂げていました。よくドラマなどで、豊臣秀吉によって、江戸に移された家康がさびれた江戸を見て呆気にとられるシーンを目にしますが、実際には、それなりに町が発展していました。

つまり、「葦原伝説」では、家康以前の江戸を過小評価し、家康の偉大さや先見性を強調したのです。

この伝説については、天孫降臨神話を連想させます。つまり、以下の古代史や神話を意識しつつ、「葦原伝説」が形成されていたと考えられています。

  • 火瓊瓊杵命(ほのににぎのみこと)が高天原(たかまがはら)から豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)に降り立ったように、家康は東海から葦原の茂る江戸に降り立ったこと
  • また、『万葉集』で天武・持統天皇の都城造営の偉大さを「大君は神にしませば」と神に喩えたように、家康はさびれた漁村を巨大都市に成長させた

1-2-2:八朔打ち入り伝説

一方、「八朔打ち入り伝説」ですが、史実では、家康が八月一日以前に江戸城に入城していたことや、八朔の儀礼は慶長16年(1611)頃から、江戸と駿府に諸士が八朔参賀のため、出仕するようになったという程度でした。

家康の神格化に拍車をかけたのが、寛永13年(1636)の日光東照宮の大改築でした。家康には自らが天下人になったというカリスマ性がありましたが、生まれながらの将軍である家光にはそのカリスマ性を示すものがなかったのです。

そこで、家康を神格化することで、その血筋を引くことを強調し、将軍としてのカリスマ性を高めようとしたといわれています。このような背景のもと、江戸城天守・本丸の大改築が完了し、八朔の次第が定められました。ちょうどこの頃から、「八朔打ち入り伝説」が意識されていたと考えられます。

家光の時代の特徴

  • 幕府の職制が整備され、幕府巡見使の派遣や、参勤交代の制度化、「鎖国」が成立し、江戸も政治都市として完成されつつあった
  • このような幕藩体制の確立とともに、幕府儀礼が整備され、その中核に八朔が位置付けられた

大名統治の政策と同時にこのような家康の神格化が進められました。そして、このような神話に支えられながら、幕藩体制が確立したのです。

1章のまとめ
  • 幕藩体制とは、江戸幕府を頂点としつつ、幕府と藩の強固な結合によって、全国の土地と民衆をおよそ260年間にわたって支配した体制のことである
  • 将軍が交代しても江戸幕府の統治権と大名の自領支配権の継続を双方で誓約的に認める、主従関係の確認でもあった

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2章:幕藩体制の仕組み

さて、2章では、幕藩体制を支えた4つの仕組みについて、最新の研究動向も紹介しながら、解説します。

2-1:参勤交代制度

まず、幕藩体制の根幹として、最も知られているものに参勤交代制度が挙げられます。

  • 参勤・・・諸大名が一定の時期を限って江戸に伺候すること
  • 交代・・・大名が領国に就くこと

参勤交代は、家光の時代に制度化され、享保の改革で一時緩和政策が出されますが、江戸時代を通じて実施されました。文久2年(1862)には一橋慶喜・松平慶永らの幕政改革によって、緩和政策が出されました。

しかし、これは幕府の大名統制力の低下によるもので、慶応元年(1865)に再び旧制への復帰を計りましたが効果は乏しく、幕府倒壊を早める結果となりました。

このように、参勤交代制度は、幕藩体制が確立する家光の時代に制度化され、異国船来航などにより大名統治力を弱めた頃に実質廃止となっています。幕藩体制においていかに重要な制度であったかがうかがえます。

近年では、参勤交代制度による副次的な要素に注目した研究が注目されています。

  • 経済面・・・江戸の都市的発展による三都を中核とする国内市場の形成、水陸交通の整備と宿場町などの繁栄
  • 文化・思想面・・・江戸文化の地方伝播と庶民文化の発達、全国各地方の人心の一体化傾向の促進



2-2:石高制

江戸時代の仕組みとして特徴的なものに、石高制があります。大名の領地から農民の所持した田畑にいたるまですべて石高によって表示されました。

石高制とは

  • 田畑・屋敷地などの標準的な農業生産力をお米の量で表したもの
  • 一定の面積の田から収穫できる平均的なお米の量が、その田の石高を示している
  • 畑や屋敷地は実際にはお米が獲れないが、作ったと仮定して畑や屋敷地も石高で表示していた

江戸時代の農民は、検地によって、田畑の土地柄や面積を決めて、それに基づいた田畑の生産高を石高で算出していました。それに基づいて、年貢高も決定していきます。

また、一つの村の田畑の合計の石高は、村高と呼びます。そして、村に対して課された年貢高や、村々の村高の合計によって、国高が決められ、大名などに領地を割り当てる際の基準となっていました。

たとえば、加賀百万石の前田家の場合、一つ一つの村々の石高を合わせて、能登国・加賀国・越中国、つまり、現在の石川県と富山県を合わせるとおおよそ百万石となるわけです。

石高は、その地域の生産力を示す意味だけではありませんでした。大名が幕府に負担する軍役や、大名の格までもがこの石高に準じて決まっていました。農民に対しても、年貢やその他の負担の大きな基準となっていました。



2-3:身分社会

江戸時代には、天下泰平の世の到来とともに、様々な制度が作られましたが、その代表格が身分制度であったともいわれています。

一般に、江戸時代の身分は、「士農工商」と呼ばれることが多いのですが、映画やテレビなどの時代劇でも、江戸時代の特徴として描かれています。

江戸時代の身分

  • まず、支配身分の武士と、それ以外の被支配者とに分けて説明されている
  • この原型は、豊臣秀吉の太閤検地によって、年貢を徴収する武士と、それを納める百姓とに区分したことから見いだせる
  • そして、こうした兵農分離政策によって、城下町に武士が住み、農村に百姓が住むといったように、集住する土地も定められて、兵が農を支配するという概念形成につながっていった

ただし、一般的に使われている「士農工商」という理解は、近年見直されつつあります。すなわち、現実問題では「士農工商」という4つのカテゴリーでは集約されるべきものではないという見解が広まっているからです。

それは、政治的性格が強い狭義の身分制としての士・農・工・商・えた・ひにんに収まらない領域の人々が存在したのです。

具体的には、僧侶や神主などの宗教者や、朝廷に仕える官人、漁師や塩田従事者、歌舞伎などの芸能者、そして総じて女性が狭義の身分制に当てはまらない人々として挙げられます。

実は、江戸幕府が政策として「士農工商」といった序列を作り上げた事実は確認できていません。ただ、一般的な理解として、「士農工商」という言葉が広まったというのが真相だといえます。



2-4:「鎖国」

「鎖国」とは、

江戸幕府が、キリスト教国の人の来航、及び日本人の東南アジア方面への出入国を禁止し、貿易を管理・統制・制限した対外政策のこと

です。

しかし、注意したいのが、実際には、長崎・対馬・薩摩・松前の「四つの口」が開かれていて、これらを通じて、オランダ・中国・朝鮮・琉球・蝦夷地と外交をおこなっていましたので、完全に国を閉ざしていたわけではないということです。

ちなみに、「鎖国」という言葉は、江戸時代後期にケンペルという外国人が著した『日本誌』を、蘭学者であった志筑忠雄が「鎖国」と翻訳したことから使われ始めたといわれています。

つまり、当時の人たちは、自分たちの国の状況を「鎖国」だったと認識しておらず、古文書にも「鎖国」という表現は使われていませんでした。

また、「鎖国」は、当時の東アジア諸国に一般的に見られた外交政策で、江戸時代の日本独自の政策ではありませんでした。 たとえば、明ではこれを海禁と呼んでいたため、近年の研究では、「鎖国」ではなく、「海禁」と呼ぶことが提起されています。

さらに、「鎖国」には、キリスト教弾圧だけではなく、将軍の国際的権威を国内に知らしめる役割も果たしていました。

  • 「鎖国」の成立から3年後、寛永21年(1644)に明が滅び、清王国が誕生する
  • もともと、東アジアでは、「中華」が、周辺国の「夷狄(いてき)」を配することから、「中華」が東アジアを支配する「中華思想」が広く浸透していた
  • 日本は、この「中華思想」から独立し、自らが中心となって国際秩序を作りあげようとしていた
  • そのため、民清交代によって、その動きが一層強まっていった

そこで、江戸幕府は、明の手法を模倣し、日本が「中華」となり、周辺諸国を「夷狄」としました。一般民衆に外交に関与することを禁じた上で、宗氏に朝鮮、島津氏に琉球と外交をさせました。

そして、朝鮮・琉球とは正式に国交が結ばれ、両国は「通信国」となりました。一方、中国とオランダとは、正式な国交は結ばれず、長崎貿易は建前上、民間レベルでの貿易となり、幕府は貿易全体を管轄することにとどまっていました。そのため、中国やオランダは「通商国」と位置付けられていました。

これらの国交を結んだ朝鮮王国・琉球王国からの使節や、オランダ商館長は、度々将軍に謁見するために江戸にやってきます。

これらの使節は、まるで、文化的に劣った「夷狄」諸国が、「中華」の徳を慕って、江戸にやってきているかのように、中華意識を可視化したものでした。そして、将軍の国際的な権威を国内(民衆)に誇示する役割を担っていたのです。

2章のまとめ
  • 参勤交代は、家光の時代に制度化され、享保の改革で一時緩和政策が出されますが、江戸時代を通じて実施された
  • 現実問題では「士農工商」という4つのカテゴリーでは集約されるべきものではないという見解が広まっている
  • 「鎖国」は将軍の国際的な権威を国内(民衆)に誇示する役割を担っていた

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3章:幕藩体制に関する学術的議論

3章では、幕藩体制に関して、過去にどのような議論がなされたのか、そして、現在どのような研究につながっているのかについて解説していきます。

3-1:幕藩体制論の始まり

幕藩体制という用語は、戦前期から用いられていましたが、幕藩体制論として学術的に議論されるのは、戦後になってからでした。

幕藩体制をめぐる議論の先駆的研究者として、伊東多三郎2伊東多三郎『幕府と諸藩(近世史の研究第四冊)』(吉川弘文館、1984年)が挙げられます。

  • 伊東は、幕藩体制を支配階級による土地領有と庶民統治と定義した
  • これは、幕藩体制を政治支配の体制という側面に重点をおいた視点で、多くの批判があった
  • しかし、大名による中央集権的支配を重視して藩の確立を捉える研究手法は、その後の藩制史研究にも影響を与えた

また、その後、農業史・農村構造の研究から幕藩体制論に踏みこんだ研究も出てきます。その研究をリードしたのが古島敏雄3古島敏雄「幕藩体制」(『世界歴史事典』一五、平凡社、1953年)です。

古島は、社会関係の基礎と生産構造との関係性に注目して政治機構を捉える立場から、石高を基準に統一的に賦課された生産物年貢を本百姓が負担することの上に成り立った仕組みを幕藩体制と理解しました。

古島の定義は、伊東の定義した政治支配の体制だけではなく、政治・社会の体制を包括する概念として、幕藩体制の用語が学術的に定着するきっかけとなりました。



3-2:幕藩体制論の展開

幕藩体制論が戦後の歴史学の画期となったのは、安良城盛昭の太閤検地の意義に関する研究4安良城盛昭『幕藩体制社会の成立と構造』(御茶の水書房、1959年)でした。

安良城の研究

  • 中世の日本を家父長的奴隷制社会と捉え、太閤検地によって生産様式の変化に基づいた変革的な土地政策が実施された結果、近世および封建社会の日本が成立したと論じた
  • この研究は太閤検地の評価だけでなく、日本の時代区分論にも一石を投じ、「安良城旋風」と呼ばれ、多くの研究者に衝撃を与えた

安良城の問題提起以降、多くの個別藩制成立研究が生まれ、個別の藩を対象とした検地政策、地方知行と家臣団編成、小農・本百姓の把握などの論点へとつながり、藩体制確立をめぐる議論に発展しました5藤野保『新訂幕藩体制史の研究―権力構造の確立と展開』(吉川弘文館、1975年)

この頃の藩研究は、個別藩の分析で完結する傾向でしたが、幕藩権力に焦点を当てた実証的研究が多く発表されました。このように、個別藩制史から幕藩体制の本質を見いだそうとする方向へと進み、幕藩体制論の主要な研究手法として確立していきました。

その後、幕藩体制論を継承・発展させたのが、幕藩制構造論と幕藩制国家論です。前者は、軍役に注目した佐々木潤之介の軍役論6藤野保『新訂幕藩体制史の研究―権力構造の確立と展開』(吉川弘文館、1975年)や、幕藩体制の基本要素を兵農分離・石高制・鎖国制と位置付けた朝尾直弘の研究7藤野保『新訂幕藩体制史の研究―権力構造の確立と展開』(吉川弘文館、1975年)があります。

一方、後者は、幕藩体制論の視角を継承しつつ、その問題を国家史につなげ、江戸時代の国家をめぐる多くの論点を提起しました。特に、日本の江戸時代の国家を、東アジアに位置付けるという問題関心が高まり、発展していきました。



3-3:近年の研究動向

1980年代以降の研究は、幕藩体制の基本要素としての兵農分離・石高制・鎖国制に留まらず、多様な要素を研究テーマとして、専制的や集権的といった幕藩体制のイメージを一新していきます。

そして、近年では、従来の研究を踏まえた上で、国家と社会の関係性について、幕藩体制という用語そのものの定義も含めて、新しい視角から考察していくことが求められています。

たとえば、2000年代の藩研究の動向では、「藩世界」・「藩社会」8岡山藩研究会編『藩世界の意識と関係』(岩田書院、2000年)などといった概念を用いて、以下の内容を説明しています。

  • 従来の藩研究の主流であった政治主体に焦点を当てた研究(藩政・藩制)だけでなく、百姓・町人など諸集団によって形成される社会・文化に着目した
  • さらには、藩領域に留まらず、江戸藩邸や京都藩邸などでの藩主や藩士の行動も藩研究の一部であるとする認識が定着してきている

こうした藩内外の総合的把握を志向する研究動向は、従来の幕藩体制論を乗り越えようとする模索の一つといえます。

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4章:幕藩体制について学べるおすすめ本

幕藩体制について理解が深まりましたか。さらに深く知りたいという方は、以下のような本をご覧ください。

おすすめ本

落合功『「徳川の平和」を考える』(日本経済評論社)

江戸時代が何故250年間もの平和を継続できたのか、「徳川の平和」を支える仕組みを戦国時代から明治時代までの歴史の流れのなかでわかりやすく叙述しています。

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藤田達夫『藩とは何か 「江戸の泰平」はいかに誕生したか』(中公新書)

江戸時代の平和の基盤となった藩とは何だったのかについて、特に、地方の王者であった戦国大名が、いかにして「国家の官僚」と変貌したのかを詳しく解説しています。

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まとめ

最後にこの記事の内容をまとめます。

この記事のまとめ
  • 幕藩体制とは、江戸幕府を頂点としつつ、幕府と藩の強固な結合によって、全国の土地と民衆をおよそ260年間にわたって支配した体制のことである
  • 幕藩体制を支えた「参勤交代制度」「石高制」「身分社会」「鎖国」という4つの仕組みがある
  • 従来の研究を踏まえた上で、国家と社会の関係性について、幕藩体制という用語そのものの定義も含めて、新しい視角から考察していく

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