ナゴルノ・カラバフとは、アゼルバイジャン西部に位置し、アゼルバイジャンとアルメニアの間で長年帰属問題が争われた地域です。1991年にナゴルノ・カラバフ共和国(アルツァフ共和国)として独立宣言し、現在に至っても未承認国家として存在しています。
日本ではあまり知られていない地域と問題ですが、現代でも対立が解消されておらず、国際関係を学ぶ上で避けては通れません。
そこで、この記事では、
- ナゴルノ・カラバフの基本的な情報(歴史、民族、宗教等)
- ナゴルノ・カラバフ戦争の経緯
について詳しく解説します。
関心のある所から読んでみてください。
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1章:ナゴルノ・カラバフとは
繰り返しになりますが、ナゴルノ・カラバフとは、
- アゼルバイジャン西部に存在する、アゼルバイジャンとアルメニアの間で帰属問題が争われた地域
- 1923年から1991年までの間存在した、ナゴルノ・カラバフ自治州
- 1991年に独立を宣言し、現在まで未承認国家となっているナゴルノ・カラバフ共和国(アルツァフ共和国)
のことです。
1章ではまずは、ナゴルノ・カラバフの基礎的な情報と歴史を解説します。
※未承認国家とは?
領域・住民・政府が備わっており、外交能力も持ち、諸外国に国家承認を求めるいるにも関わらず、多くの国家や国際機関から承認を受けていない、国際法的な主権国家にはあたらない国家のこと。
1-1:ナゴルノ・カラバフの基礎的情報
ナゴルノ・カラバフで対立が起こっている理由を解説する前に、基礎的な情報を紹介します。
- 場所:アゼルバイジャン共和国内西部(山岳地帯)
- 人種:アルメニア人
- 宗教:アルメニア使徒教会
1923年から1991年に独立するまでの「ナゴルノ・カラバフ自治州」は、以下の地域です。
また、後に解説するように1991年に「ナゴルノ・カラバフ共和国」として独立宣言を出した際には、以下の地域が独立しました。
現在、アルメニア人がナゴルノ・カラバフ及び、同地とアルメニアを結ぶ地域などアゼルバイジャン領の16.4%を占領しています1参考:廣瀬陽子『未承認国家と覇権なき世界』第2章未承認国家という現実。
未承認国家やナゴルノ・カラバフの基礎的情報について、以下の本が詳しいです。
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1-2:ナゴルノ・カラバフの歴史
では、ナゴルノ・カラバフはどのような歴史を辿ってきたのでしょうか。なぜナゴルノ・カラバフは現在に至るまで未承認国家なのでしょうか?
まず、ナゴルノ・カラバフの帰属問題が発生するきっかけとなるアゼルバイジャン・アルメニア独立までの歴史を簡単に見ていきます。
1-2-1:アゼルバイジャン・アルメニア独立の歴史
カラバフ地方は、古代よりアルメニア人が住んでいた土地と言われています。7世紀初頭、アルメニア人とアルバニア人(現在アルバニア共和国を構成するアルバニア人ではない)が同化し、カラバフ地方を支配しました。
しかしその後、下記の経緯でオスマン帝国の支配下に置かれます。
- 世界最古のキリスト教国として知られるアルメニアであるため、(西暦301年キリスト教を世界で初めて国教化た)住民らはキリスト教を信仰していた
- しかし、8世紀アラブ人がコーカサス地方を占領、11世紀にはトルコがイランとの戦いに勝ち、イスラム化を進める
- その後中央アジアのトルコ系人種であるタタール人が侵入、16世紀にはオスマン帝国が占領
- 住民たちはオスマン帝国に対して武装蜂起をするも失敗に終わり続ける
1805年、ロシア皇太子ツィツィアノフがカラバフをロシア皇帝ツァーに献上するため奪還し、以降はロシアの領土となります。
しかし、1917年2~3月ロシア革命がおこり帝政は終焉を迎えます。オスマン帝国も衰退し1922年に滅亡しました。
オスマン帝国の滅亡により、1918年アゼルバイジャン共和国、アルメニアは独立しました。
このように、アゼルバイジャン・アルメニアは長い支配を受けた後、20世紀にようやく独立したのです。
1-2-2:ナゴルノ・カラバフの歴史と未承認国家である理由
次に、2か国独立後のナゴルノ・カラバフの歴史を見つつ、「なぜ今でもナゴルノ・カラバフは未承認国家であるのか」という疑問に答えていきます。
■ナゴルノ・カラバフの独立までの経緯
- 1918年の独立後、ナゴルノ・カラバフはアゼルバイジャン国内であった一方で、住民はアルメニア人であったため帰属問題が発生
- その後すぐ両国はソ連の支配下に置かれ、ソ連により、ナゴルノ・カラバフは1921年にアゼルバイジャン・ソビエト共和国に併合され、1923年にアゼルバイジャン内の自治州となる
- しかし、アルメニア人は断続的に帰属変更を求めていた(実際、ソ連末期にはアルメニア人が約76%を占めていた)
- 1980年代、ペレストロイカ期にその運動の勢いは頂点に達し、1988年から94年まで続くナゴルノ・カラバフ戦争が発生(1991年に両国ともソ連からの独立宣言を発表)
- その最中にナゴルノ・カラバフはアルメニアへの帰属を求め、1991年9月2日に「ナゴルノ・カラバフ共和国」として独立宣言(アルツァフ共和国とも言われる)
このように、ナゴルノ・カラバフの大半を占めたアルメニア人が、アルメニアへの帰属を求め戦争が発生。その途中で独立宣言したのです。多くの死者・難民を出したナゴルノ・カラバフ戦争は1994年ロシアの仲介で停戦を達成します。(第2章で詳しく説明します)
しかし、その後の和平交渉はうまくいかず、近隣諸国の複雑な国際関係もそれをより困難にさせました。そのため、結局戦争の決着はつかず、独立宣言をしたもののそれが国家承認を得られずに現在までナゴルノ・カラバフは未承認国家として存在しています。
少し古い本ですが、ナゴルノ・カラバフの歴史については以下の本が詳しいです。
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2章ではナゴルノ・カラバフ戦争について詳しく解説しますので、まずはここまでをまとめます。
- 1918年独立後、ナゴルノ・カラバフはアルメニア人の国なのにアゼルバイジャン国内にあったため帰属問題発生
- その後ソ連に支配され、アゼルバイジャン・ソビエト共和国に併合されアゼルバイジャン内の自治州になる
- アルメニア人は帰属を求めて1988年から1994年までナゴルノ・カラバフ戦争になる
- 1991年に独立宣言を出すも、承認が得られず未承認国家の状態が現在まで続く
2章:ナゴルノ・カラバフ戦争とは
ナゴルノ・カラバフ戦争とは、1988年から1994年まで続いた、ナゴルノ・カラバフ地方の帰属を巡ったアゼルバイジャンとアルメニアによる戦争です。これからその原因や詳しい経緯を解説します。
2-1:戦争の背景(アイデンティティの問題)
ナゴルノ・カラバフ戦争の背景には、アイデンティティの問題がありました。
2-1-1:アルメニア人のアイデンティティ
アルメニアは、第1章でも触れたように世界で最初にキリスト教を国教化し、アララト山を故地とするなど、アルメニア人としてのアイデンティティを古くから強く持ち続けています。
外部からの侵略を受けることも多く、ディアスポラが多いこともそれを促進させているといえるでしょう。アルメニア虐殺で反トルコ感情が高まったこともあり(虐殺については2-2に詳しく記載)、民族の誇りをかけて戦うという思いが強いといえます。
それが帰属運動の暴力化、そして戦争までつながった背景であると考えられています。
2-1-2:アゼルバイジャン人のアイデンティティ
対照的に、アゼルバイジャンには一応のナゴルノ・カラバフが彼らのものであるという主張はあるものの、歴史的に形成が不明な点が多くアイデンティティはそこまで強くないと思われています。
そのため、政府はアルメニアとの対立を利用して、アゼルバイジャン人としてのナショナリズムを高めようとしました。それも対立の悪化につながったといえるでしょう。
また、ペレストロイカ期に、当時のモスクワの知識人や政治家たちの多くがアルメニアに近い立場を表明したこと、ディアスポラから金銭的・政治的援助を得ることができたことも戦争の背景の一部であると考えられます2参考:廣瀬陽子「ナゴルノ・カラバフ紛争の位相-冷戦終結の影響と和平の模索を中心に」『社会科学研究』55(5・6)、139‐141頁。
アイデンティティと政治の関係について、詳しくはこちらの記事も参考にしてください。
2-2:戦争の原因
戦争の原因として一般的にイメージされるのは、宗教の対立や、資源の取り合いといった経済的対立です。しかし、ナゴルノ・カラバフ戦争には、宗教的対立や経済的対立は、あまり影響していません。では、何がナゴルノ・カラバフ戦争に影響したのでしょうか。
結論から言えば、ナショナリズムの対立、虐殺の歴史が戦争の背景にありました。
原因①ナショナリズムの対立
前述のように、ナゴルノ・カラバフには7世紀ごろキリスト教徒のコーカサス・アルバニア人がいたとされています。
世界で最初にキリスト教を国教化した民族であるアルメニア人にとってナゴルノ・カラバフは「未回収のアルメニア」の1つです。アルバニアにあるものはキリスト教の遺産ばかりであり、それこそ先祖の土地であったことを証明していると主張しています。
一方、アゼルバイジャン人はアルメニア人に対し、アルバニア人はアゼルバイジャン人の祖先であり、最初はキリスト教だったがのちにイスラム化をしたと主張しています。また、彼らはカラバフを芸術家を輩出してきた場所として捉えており、文化の源として譲れないとも考えています。
原因②民族虐殺の歴史
アゼルバイジャン人とアルメニア人の関係を悪化させた一因として虐殺の歴史があります。
当初、アルメニア人の帰属変更を求める運動は平和裏に行われていました。しかし、最終的に暴力化してナゴルノ・カラバフ戦争につながります。そのきっかけとなる事件が「スムガイト事件」です。
最初に、スムガイト事件、ナゴルノ・カラバフ戦争に至るまでにあった民族浄化のための虐殺の歴史について簡単に振り返ります。
■スムガイト事件以前の虐殺の歴史
まず、1895年-1896年に、オスマン帝国内で第一次アルメニア人虐殺が行われます。
次に、1905年-07年のアルメニア・タタール戦争がコーカサス地方で起こりました。この戦争で、アルメニアにとってトルコは敵として強大だがアゼルバイジャンに対しては勝算が持てるという考え方を生んだと考えられています。
その後も民族浄化の応酬は続きます。
例えば、1915年のアルメニア人大虐殺もその一例です。(オスマン帝国領内で起こった虐殺であり、一説によると150万人死亡といわれています。現在トルコ政府は虐殺の事実を否定しています。)
そして、ソ連の弱体化で求心力がなくなったことに合わせてアルメニアの運動は頂点に達し、アゼルバイジャン人2人がアルメニア人に殺されたという報道が直接的なきっかけとなり1988年(ナゴルノ・カラバフ戦争と同年)スムガイト事件が発生しました。
■スムガイト事件
スムガイト事件には不明な点も多いのですが、アルメニア民族主義政党のダシュナク党党員に殺されたとの報道を契機に発生したといわれている虐殺事件です。
以下のような被害があったと報じられています。
- アゼルバイジャン6人死亡
- アルメニア人26人死亡し
- 双方で197人が負傷
- 86人のアゼルバイジャン人が逮捕
スムガイト事件に限らず、アルメニア人とアゼルバイジャン人の民族浄化や虐殺は、噂が暴力を誘引していたとも考えられています。元々、互いの緊張関係や歴史による不信感・敵対感がずっと続いており、それが暴力化にもたやすくつながったとも思われます3参考:廣瀬陽子『コーカサス紛争を巡る歴史的背景の客観的事実と認識ギャップの比較研究』28-29頁、32-33頁。
2-3:戦争の経緯
1988年に開戦した戦争は、相互虐殺が常態化していました。最初の2年ほどは内戦状態でしたが1990年の「黒い1月事件」の発生で、ソ連の介入が本格的にはじまり、戦闘は大きくなりました。
■黒い1月事件
この事件は、ソ連軍と内務省国内軍の両部隊2万4000人がバクーへ侵攻し、民衆約200人を無差別虐殺した事件です。ソ連は、軍事介入をバクーの状態が危険だったためとして正当化しましたが、アゼルバイジャン人民戦線を解体することで、他の人民戦線に対する見せしめの目的があったという説が有力です。
その後1991年のソ連の解体に伴い、アルメニアとアゼルバイジャンが独立したために「戦線布告のない全面戦争」となりました。1992年2月25日から26日には、ホジャル大虐殺でアゼルバイジャン市民約800人が死亡しました。
その後も、ロシアが違法な軍事援助をアルメニアに行うなど、アゼルバイジャンは窮地に立たされました。ナゴルノ・カラバフの最後のアゼルバイジャン側拠点であったシューシャも陥落しました。
1993年に入ると劣勢だったアゼルバイジャンも反撃を開始しました。戦争は激化する一方でしたが、ロシアが独自の仲介工作を始めました。その理由は、コーカサス地方においてロシアの威厳を示し今後も影響力を持ちたかったからだと考えられます。
和平交渉も決してうまくいったわけではないのですが、ロシアの圧力で「ビシュケク議定書」が結ばれ、半ば強引に停戦が決定しました4参考:廣瀬陽子「ナゴルノ・カラバフ紛争の位相-冷戦終結の影響と和平の模索を中心に」『社会科学研究』55(5・6)、146‐148頁。
2-4:停戦~現在の状況
ナゴルノ・カラバフ戦争は、ロシアがアルメニアを支援し、アルメニアが勝利して1994年5月にロシアが仲介する形で停戦は達成されました。
正確な人数は不明ですが、最低でも2万5000人が死亡し、約100万人のアゼルバイジャン人が難民・国内避難民になったと言われています。
停戦は締結されましたが、アルメニア人がナゴルノ・カラバフおよび同地とアルメニアを結ぶ地域などアゼルバイジャン領の約20%を占領し続けている現状があります。また、和平交渉のためのOSCEミンスクグループ(共同議長はロシア、アメリカ、フランス)は、アゼルバイジャンが不信感を抱いている事からうまくいっていません。
現状、停戦後もしばしば停戦ラインで両軍の戦いが起こるなど、緊張が続いています。
2008年8月のグルジア紛争後、トルコとロシアの仲介で交渉は活発化し、モスクワ宣言が11月2日に出され合意が成立したかに思えましたが、状況は変わっていません。その後も2011年6月のカザンサミットでロシアによる仲介がはかられましたが失敗に終わりました。
最近では、2016年4月、少なくとも110人死者を出すほどの戦闘が4日間行われたり、2017年5月にはアゼルバイジャン側の攻撃で、ナゴルノ・カラバフに設置されたアルメニアの防空ミサイルシステムが破壊されるといったことも発生しています5参考:廣瀬陽子「コーカサスの紛争を巡る歴史的背景の客観的事実と認識ギャップの比較研究」『アジア歴史研究報告書』22頁。
- ナゴルノ・カラバフ戦争の背景には、アルメニア人のアイデンティティの強さ、アゼルバイジャン政府のナショナリズムの利用、長年にわたる民族虐殺の歴史などがある
- スムガイト事件戦争の直接の引き金となった
- ロシアの仲介で停戦させられたものの、いまだに緊張感のある状況が続いている
3章:ナゴルノ・カラバフに関するおすすめ本
ナゴルノ・カラバフについて理解することができたでしょうか?
さらに理解を深めるために、これから紹介する本をぜひ読んでみてください。
廣瀬陽子『コーカサス国際関係の十字路』(集英社新書)
アルメニアとアゼルバイジャンの2か国間だけでなく、コーカサス地方全体に関わっているのがナゴルノ・カラバフ問題です。この本ではその国際関係を整理できます。また、著者が出している論文はわかりやすいためそちらもおすすめです。
佐藤信夫『ナゴルノ・カラバフーソ連邦の民族問題とアルメニア』(泰流社)
やや古く難解ですが、詳しくナゴルノ・カラバフの歴史について書かれています。日本では盛んではないアルメニア研究ですが、この本で網羅的に理解することができます。
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まとめ
最後にこの記事の内容をまとめます。
- ナゴルノ・カラバフは、アゼルバイジャンの西部に存在する地域であり、1991年までは自治州として、1991年以降は独立した未承認国家としていまだに帰属問題が争われている
- ナゴルノ・カラバフは、アルメニア人にとっては「未回収のアルメニア」であり、アゼルバイジャン内にあり、双方に虐殺の歴史があることなどから、戦争になるほど争われている
- ナゴルノ・カラバフ戦争は停戦したものの、今も争われている
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