マイケル・サンデル(Michael Sandel)とは、
ロールズの『正義論』を中心としたリベラリズムを批判し、コミュニタリアニズム(共同体主義)や共和主義の重要性を唱えた、アメリカの哲学者、政治哲学者です。
アメリカでそれまで支配的だったリベラリズムを、哲学的・倫理学的に批判し、その問題点を指摘したことから、コミュニタリアン(共同体主義者)として一躍有名になりました。
日本でも「白熱教室」や『これから正義の話をしよう』などで一般的にも有名になりましたね。
しかし、日本で流行した書籍では、サンデルの政治哲学について体系的に明らかにされていません。
そのため、サンデルがどのような政治的思想を持っているのか、知名度のわりにいまいち知らない人も多いのではないかと思います。
そこでこの記事では、
- マイケル・サンデルの政治哲学の特徴
- サンデルのロールズ、リベラリズム批判
- サンデルの共和主義やコミュニタリアニズム、目的論
などについて詳しく解説します。
サンデルの政治哲学は、実はリベラリズムが支配的な現代日本においても、とても意義があるものです。
日本の政治に当てはめて読んでも面白いと思いますので、ぜひ興味があるところから読んでみてください。
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1章:サンデルの思想・哲学とは
マイケル・サンデル(Michael Sandel/1953~)は、アメリカの政治哲学者です。
ハーバード大学教授で、政治哲学者チャールズ・テイラー(Charles Margrave Taylor)、ドナルド・ドウォーキン(Ronald Dworkin)らの弟子にあたります。
アメリカの政治思想を支えたリベラリズムを批判し、リベラル・コミュニタリアン論争を起こすきっかけを作ったことで有名になりました。
1章では、サンデルの政治哲学、思想について簡単に説明します。
1-1:リベラリズム批判
サンデルの思想は、ジョン・ロールズ(John Bordley Rawls)の『正義論』を批判したことで有名になりました。
ロールズの『正義論』とは、戦後の西側先進国で行われてきた「福祉国家」的政策の正当性について論じた、リベラリズムの政治哲学です。
サンデルはロールズの政治哲学や、福祉国家的政策を擁護する論拠となったリベラリズムの思想そのものについて、
- ロールズやリベラリズムの思想では、個人が特定の価値観から独立していて、自由に「善」を選べるように想定している
- しかし、実際の個人は自分の所蔵している共同体から独立して価値観を持つことはできない
と批判しました。
このように、サンデルはロールズを批判することで、若きコミュニタリアンとして知られるようになったのです。
1-2:政治哲学の3つの流れ
サンデルはコミュニタリアン(共同体主義者)として知られていますが、ここでアメリカの政治哲学の3つの潮流を整理しておきましょう。
アメリカの政治哲学には、「リベラリズム」「リバタリアニズム」「コミュニタリアニズム(共同体主義)」の3つがあります。
もともと、アメリカは自由主義の国家として誕生しました。それは、イギリスの国教会に反発し宗教の自由を求めたプロテスタント(ピューリタン)たちが、アメリカに移住したためです。
したがって、もともとアメリカで支配的な政治思想は自由主義だったのです。
この自由主義は、アメリカでは国家が個人や州に対して強い権力を行使しない、という思想でした。
しかし、1930年代以降に国家が個人や州に対して積極的に介入することで平等な社会を実現する、新しい自由主義(ニューリベラリズム/社会自由主義)へ自由主義の意味が変化します。
そのため、「いや、国家による個人への介入は最小限であるべき」と考えた人々は、アメリカで主流の新しい自由主義から離れました。これがリバタリアニズムです。
こうした自由主義やリバタリアニズムの流れに対し、「これまでのアメリカの思想は少数の犠牲を生んでしまう」として批判したのがジョン・ロールズという政治哲学者です。
そして彼が新たなリベラリズム(現代リベラリズム)を生み、そこからアメリカの現代政治哲学の伝統がはじまりました。
さらにそれを批判したのがサンデルであり、サンデル以降に大きな潮流の一つになったのが、コミュニタリアニズム(共同体主義)なのです。
こうした流れを頭に入れておくと、これからのサンデルの議論やアメリカの政治哲学への理解が深まるはずです。
アメリカの政治哲学の流れについて、以下の本で分かりやすく解説されているのでおすすめです。
- サンデルはロールズの『正義論』を批判したことから有名になった
- アメリカの政治哲学は、リベラリズム、リバタリアニズム、コミュニタリアニズム(共同体主義)の3つの潮流があり、それぞれ異なる主張をする
2章:サンデルのロールズ批判『リベラリズムと正義の限界』
1章でも簡単に触れたように、サンデルの思想はロールズ・リベラリズムへの批判としてはじまったものです。
初期のサンデルの思想は、自らの政治哲学を体系的に論じたというより、ロールズを批判することが主な主張でした。
そこで、まずはロールズやリベラリズムへの批判として、サンデルが主張したことを理解しましょう。
サンデルが最初にロールズを批判したのが『リベラリズムと正義の限界』(1982)という著作です。
2-1:ロールズ『正義論』とは
まず、ロールズの『正義論』について理解しておきましょう。
ロールズは『正義論』で以下のように主張し、政治哲学における現代リベラリズムの流れを作りました。
- 戦後の社会自由主義的なリベラリズムは、「最大多数の最大幸福」のような功利主義の伝統を受け継いでいる
- 「最大多数の最大幸福」の考え方では、社会の幸福の総量を増加させるために、少数派の幸福が犠牲にされてしまう
- そのため、功利主義的に基づく社会を作るのではなく、改めて平等・公正な社会を作ることを考えるべき
上記のように考えて、打ち出した考えが「正義の二原理」と言われるものです。
正義の二原理とは以下のようなものです。
- 第一の原理(基本的自由の原理)…思想や言論、財産の所有などの基本的自由について、平等であること
- 第二の原理(平等の原理)…どうしても生じてしまう不平等は、以下の2つの条件が満たされる場合のみ認められる
- 格差原理…不平等は、その社会で最も貧しい人にとって最大の利益になるようなものである限り認められる
- 機会均等の原理…公正な機会の均等という条件のもとで、すべての人に開かれている職位、地位に付随するような不平等
つまりは、第一原理で基本的な自由な権利を平等に認めること、第二原理で、不平等が生じてしまうとしても、それは最も貧しい人のためになるようなものに限る場合のみ認められる、ということです。
ロールズは、こうした「正義の二原理」を満たす社会について、人々は「自分や他人が生まれ持つ諸条件をまったく知らない仮想的な状況(無知のヴェール)のもとで合意できる」と考えました。
つまり、自分が持つ才能や環境についてまったくわからなければ「自分がもっとも貧しい存在かもしれない」と考えて、社会のメンバーみんなが上記の原理に同意する。その結果、正義の二原理にみんなが同意した平等・公正な社会が実現する、と考えました。
※ロールズの正義論について、詳しくは以下の記事で解説しています。
2-2:正義の善に対する優位性への批判
上記のロールズの議論に対し、サンデルはまず、ロールズの正義論において「正義」が「善」よりも優位に置かれている点を批判します。
2-2-1:「正義」「善」とは
「善(the good)」とは、特定の個人や社会にとって、自己をより幸福にしてくれること(あるいはその状態)のことです。人々は、それぞれが自分の「善」の構想(≒価値観)を持ち、その「善」に従って自分の人生選択をするものです。
「正義(justice)」とは、権利が守られ、みんなが合意した法・ルールによって正しく問題解決されることで、日本語の「権利(right)」に近い意味を持ちます。
ロールズは、人々が持つ「善」は多様であるから、それを社会の法・ルールで規制するべきではない。そのため、すべての人が合意できる「正義」に限定して法・ルールを検討するべきと考えました。
つまり、「善」より「正義」が優位に置かれているのです。
※「正義」や「善」について、詳しくは以下の記事で整理して説明しています。
上記の説明から分かるように、ロールズは人々が持つ「善」は独立していて、「正義」は特定の「善」に依拠しないと考えました。
具体的に言うと、「善」つまり「どういう生き方を『善いもの』とするか」という考え方は、現代では村の慣習や国の宗教の「こう生きるべき」という観念から切り離されていて多様である。
そのため、「正義」が何らかの価値観に依拠すると、多様な「善」を持つ人々は同意できない。そのため、「正義」は特定の価値観(善)から独立したものである。という考え方です。
2-2-2:サンデルによる「負荷なき自己」批判
上記のロールズの考えに対して、サンデルは、
- ロールズは一人ひとりが自由で独立した人間であると考えている
- また、「無知のヴェール」のような仮想状態から議論しているが、これは自分の生まれ持った条件をまったく知らないという虚構であり、現実にはあり得ない「負荷なき自己」を想定している
- 実際には、現代社会においても人々は自分の所属するコミュニティ(共同体)の価値観に影響されていて、そこからまったく独立することはできない
と主張しました。
ここで大事なのが「負荷なき自己」という考え方です。
「負荷」とは、現実に生きる私たちが持つ属性のことです。たとえば、「日本人」「〇〇大学の学生」「父親」などのことです。
私たちは、実際にはこのような属性(負荷)を持っており、属性を持つ人間をサンデルは「位置づけられた自己」と呼びます。
サンデルの主張は、「ロールズは、人々が自分の持つ属性について無知な『負荷なき自己』から議論をはじめ、人間が特定の価値観に依拠せず『善』を持てるとしているが、実際にはそんなことはあり得ない」というものです。
「位置づけられた自己」の人間は、自分の属する共同体から独立して価値観を持つことはできない。そのため、「正義」が「善」から独立し、「正」が優位に立つことも間違っているのだ、ということになります。
そのため、サンデルは、
- 「正義」は人々が契約によって合意するものではなく、自分たちで発見していくもの
- 「正義」は「善」から切り離されて存在することはできず、正義は善と関係して存在する
- 正義は共同体から独立して普遍的に存在するものではなく、共同体ごとに定義されるものではないか
と主張しています。
2-2-3:サンデルの考える「分配」の正当性
サンデルは、ロールズのリベラリズムやノージックらのリバタリアニズムの思想に対して、その「分配」に対する考え方を批判しています。
「分配」とは、国家が人々から徴税などによって財産を集め、平等のために貧しい人に分配(再配分)すること。
リベラリズム、リバタリアニズムでは、それぞれ分配について以下のように考えます。
- リベラリズム(ロールズ)…個人の能力は自然の恵みによるものだから、その人の所有物ではないため、得られた収入は分配されるべき
- リバタリアニズム(ノージック)…個人の能力はその人の所有物であるため、その能力によって獲得された収入などはその人のものであるため、分配は正当化できない
サンデルはロールズの考え方では、その人の持つ価値(真価)を認めないことになると批判します。
ロールズの考え方では、その人が得ている収入とその人が持つ価値は関係しないことになります。つまり、その人の資質のすべては偶然の産物で、その人の「自己」から切り離されるということです。
これはまさに「負荷なき自己」の考え方です。
また、ロールズは個人の持つ資質を社会の共有資産である(個人には属さない)という論理で「分配」を正当化しますが、これは強いコミュニティ感覚がなければ成り立たないのではないか、ともサンデルは主張しています。
こうしてサンデルは、ロールズが立つ人間観(負荷なき自己)を『リベラリズムと正義の限界』で徹底的に批判し、ロールズの議論が成り立たないことを主張したのです。
こうしてロールズのリベラリズムに対して、サンデルの立場はコミュニタリアニズム(共同体主義)と言われるようになり、さまざまな議論がなされるようになりました。
これが「リベラル・コミュニタリアン論争」です。
※コミュニタリアニズム(共同体主義)では他の論者も議論しています。詳しくは以下の記事で説明しています。
- ロールズ『正義論』は、個人が独立して「善」を持てると想定しているが、実際の人間はさまざまな属性(負荷)を持っているため、ロールズの想定は虚構である
- 人々がそれぞれ持つ「善」は、所属する共同体によって規定されるため、「善」と「正義」を独立して考えるロールズの思想は間違いではないか
- 「正義」と「善」は関連しており、「正義」は普遍的なものではなく共同体ごとに規定すべき
3章:共和主義について『民主政の不満』
ロールズ・リベラリズム批判がメインだった『リベラリズムと正義の限界』に対し、サンデルが具体的な思想を語っているのが『民主政の不満』です。
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この2冊を読めば、サンデルの思想についてある程度理解できるはずです。
『民主政の不満』では、アメリカがもともと「共和主義」の国だったこと、それがリベラリズムが支配する国になってしまったこと、共和主義を復興すべきだということが主張されています。
また、ロールズが『正義論』の後に思想を転向したことから、その転向したロールズに対してさらなる批判も行っています。
まずは、転向したロールズへの批判から説明します。
3-1:ロールズの「政治的リベラリズム」への批判
ロールズは、サンデルによって批判されたことが原因かは明らかではありませんが、『正義論』以降に思想を大きく転向しました。それが分かるのが『政治的リベラリズム』(1993)です。
この著作においてロールズは、
- 「正義の二原理」的な、普遍的に合意できる「正義」の考え方を放棄
- その代わりに、正義は人々の重なり合う合意(重合的合意)として考える
- つまり、「正義」を普遍的に合意できるものから、一定の条件において合意できるものに変化させた
という転向をしています。
この転向によって、「負荷なき自己」という非難された想定を捨てて、自己を経験的な存在として考えるようになりました。
この「政治的リベラリズム」の最大の特徴は、どう生きるべきか?といった「善」は個人によって多様であるため、「善」について考えることは棚上げする。そして、合意ができる部分のみに限定して「正義」を考えるという点です。
■「善」の中立性に対する批判
サンデルは、この「政治的リベラリズム」についてさまざまな批判を行いました。
分かりやすいものの一つは、「善」について棚上げすることは、特定の「善」に対して中立的になることにはならないということです。
たとえば、現在の女性の中には「結婚後も仕事を続ける」という価値観(善の構想)を持っている人が少なくないと思います。
このような価値観に対して、国家はそれを否定も肯定もせず「仕事は続けても辞めてもいい」という中立的な立場を取ると考えてみましょう。これを価値中立的と言います。
その結果、国家は女性が結婚後に働くことを保護しないため、女性は出産や育児によって収入が減ったりしてしまう可能性があります。国家の価値中立的な態度が、結果的に「結婚後は仕事をやめた方がいい」という価値観を重視することになるのです。
つまり、特定の「善」の問題を棚上げする(中立的である)という態度は、中立的ではない結果を生むということです。
このように、ロールズの思想に生じた新たな問題をサンデルは指摘しました。
3-2:アメリカの共和主義の歴史
さて、『民主政の不満』はサンデルが「共和主義」の復興を謳った書籍であり、上記のロールズ批判もその中で行われたものでした。
そこで、共和主義とは何なのか、どのような意味の思想なのか説明します。
3-2-1:共和主義とは
まずは共和主義について理解しましょう。政治学者の小林正弥によると共和主義とは以下のような意味です。
共和主義とは、簡単に言えば、公民的美徳に基づいて人々による自己統治を目指す考え方である。
(引用:小林正弥『サンデルの政治哲学』p.153)
現代の日本人にとって、「公民的美徳」や「自己統治」なんて身近ではりませんよね。
公民的美徳とは、市民として社会に参加していく上で持っておくべき美徳のことです。自己統治とは、人任せにするのではなく、市民として自分たちで社会を統治するということです。
いずれも、「社会を運営するのは私たちである」という自由と責任が付随する考え方で、アメリカ的な思想と言えます。
3-2-2:共和主義からリベラリズムへ:手続き的共和国の問題
サンデルの主張は、共和主義の国家として生まれたはずのアメリカが、いつのまにかリベラリズムの国(手続き的共和国)になってしまった、というものです。
■アメリカの共和主義の伝統
そもそも、共和主義は公民的美徳を持って自己統治することです。
サンデルによると、自己統治するために共同体における共通善について自分たちで議論すること、また共同体への帰属意識や責任を持つことなどが、共和主義的政治に必要です。
つまり、より良い政治ができるように、人々を人格形成する政治が共和主義です。
アメリカにおいては、建国当時の合衆国憲法から共和主義の伝統がありました。
1900年代序盤あたりまでは、「善」や「人格形成」と関連して憲法が作られ、解釈されてきました。
■「手続き的共和国」への移行
しかし、その後リベラリズム的な「権利」の考え方が支配的になっていきました。
リベラリズムでは、正義(≒権利)が個人の善に優先すると考えるため、権利を中心とした国家が作られます。つまり、権利を行使するための手続き(たとえば訴訟)を実施することが目的になるのです。これが「手続き的共和国」です。
つまり、「善」や「人格形成」について考える思想から、「正義(≒権利)」を中心に考える思想に変化したのです。
別言すれば、国家は、個人がどのような「善(価値観)」を持つのかについて立ち入らす、
- 個人がどのような「善」を持つのかは個人に任せる
- 国家は「善(価値観)」に対して中立的である
- 個人が自由に「善」を選択できる権利を国家は保護する
という思想を持つようになりました。
国家が個人の「善」に関わる国家から、「善」に中立的で権利のみに力点を置くようになったということですね。
ある意味で、国家は個人に特定の価値観を押し付けなくなったのですが、そのために人々による自己統治や人格形成に関与できなくなった(=共和主義の伝統を失った)のです。
■福祉国家的政策へ
経済的にも、リベラリズムの思想が浸透したことから共和主義的政策は失われました。
1900年代序盤まで、アメリカの経済政策は、国民が自己統治できること、そのために人格的な教育がなされることなどに力点が置かれて議論されることがありました。
しかし、そのような思想は利益重視の経済成長で勝ち抜いていくことができません。
そのため、「善」という道徳的な問題は棚上げされ、経済面では純粋に経済成長を目指すような政策がなされるようになったのです。
こうして、その後の政治はリベラリズム的な、「善」などの道徳的問題を無視して行われるようになり現代にいたります。
3-3:なぜ共和主義を復活させるべきなのか
ここまでの説明を読んで、
「共和主義よりも、経済成長や権利を重視するリベラリズムの方が、個人の自由を尊重していて良い思想なのでは?」と思われるかもしれません。
確かに、個人レベルで考えるとそうかもしれません。
しかし、リベラリズムが支配的になることには問題もあります。それは、共同体の繋がりが失われ個人が「善」を見つけられなくなること、政治に対する個人の責任意識がなくなり人任せになること、人格形成に政治が介入しないために政治的問題について国民が熟議できなくなることなどです。
たとえば、リベラリズムが支配的な思想になったことを表す出来事として、レーガン政権の成立があります。
レーガン政権が行ったのは、政治的には保守的、経済的には新自由主義的な、弱者に厳しい政策です。
しかし、当時のレーガン大統領は非常に人気があり偉大な大統領だと支持されました。
それは、レーガンが当時のアメリカで道徳的な議論がなされないことを知っていたために、道徳について強く訴えることでアメリカ市民の支持を取り付けることができたからです。
つまり、アメリカの市民の道徳心を(見せかけ上)取り込んだことから、支持を得られたのです。
こうした支持の取り付け方が可能になるのは、人々の間で「自己統治」の思想が失われ、「善」のような道徳的な議論が不可能になったためです。
人々の間で自己統治や「善」に関する議論が当たり前のようになされるようになると、道徳的な空白が生まれず、より良い政治ができるようになる。これがサンデルの主張です。
- 『民主政の不満』は、アメリカにおける共和主義の伝統の復活と、思想を転向したロールズへの批判がテーマ
- 『民主政の不満』では、ロールズの善の中立性を唱える「政治的リベラリズム」に対し、善が中立的であることの問題を指摘した
- アメリカでは共和主義の伝統があったが、1940年代以降リベラリズムの思想が支配的になり、その結果「正義(権利)」が中心となってルールが作られた
- 「正義(権利)」が優先されるようになった結果、アメリカでは道徳的空白が生まれた
4章:サンデルの政治哲学の学び方
サンデルの政治哲学について理解できましたか?
この記事で紹介しているのは、サンデルの政治哲学の一部にすぎません。サンデルについてもっと理解したいばら、彼が書いた書籍や解説本を読むことをおすすめします。
おすすめ度★★★小林正弥『サンデルの政治哲学‐〈正義〉とは何か‐』(平凡社)
サンデル本人とも交流があり政治哲学を研究している著者によって、サンデルの政治哲学が紹介されている本です。サンデルの中心的な思想が分かりやすく解説されているため、サンデルについて理解したい人には必読書です。
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おすすめ度★★マイケルサンデル『これからの「正義」の話をしよう』 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
日本で最も有名なサンデル本です。一般向けで分かりやすいので、まずはこの本から取り掛かると理解しやすいでしょう。
サンデルの政治哲学は抽象的ですが、その問題意識は現実の社会制度、政策、問題に根差したものです。しかし、その内容はアメリカを舞台としており、当然日本の問題は直接には扱われません。
そこで、政治哲学の理解を深め応用するために、日本で起こっているリアルなテーマを自分の頭で考えてみることをおすすめします。
以下の雑誌・新聞は端的に時事テーマがまとまっているのでおすすめです。
まとめ
最後に今回の内容をまとめます。
- マイケルサンデルは、ロールズの『正義論』におけるリベラリズムに批判
- サンデルは、リベラリズム・リバタリアニズムが持つ、個人が自由に「善」を選べるとする人間観を批判した
- また、リベラリズム・リバタリアニズムの「善」と「正義」を分けて、「正義」を優先させる思想を批判した
- サンデルは、人間は所属する共同体から独立して「善」を選べないし、「善」と「正義」を完全に切り離して考えることはできないと主張
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