薩英戦争(Bombardment of Kagoshima)とは、文久3年7月に起こった薩摩藩とイギリスによる戦争を指します。
薩英戦争を経た薩摩藩とイギリスの繋がりは明治維新への大きな原動力の一つになっていくため、政治史的にとても大事な出来事です。
この記事では、
- 薩英戦争の背景・内容
- 薩英戦争の影響
について詳しく解説します。
ぜひ読みたい所から読んで勉強に役立ててみてください。
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1章:薩英戦争とは
まず、1章では薩英戦争を概説します。2章では薩英戦争の影響に関して詳しく解説しますので、用途に沿って読み進めてください。
このサイトでは複数の文献を参照して、記事を執筆しています。参照・引用箇所は注1ここに参照情報を入れますを入れていますので、クリックして参考にしてください。
1-1:薩摩藩の政治運動
薩英戦争の背景として、1861年~63年ごろまでの政治過程を見ていくことが必要です。
当該期の政治史
- 「尊王攘夷」の実現を声高に主張して活動する勢力や「尊王」という思想は同じでも過激な「攘夷」行動は慎みながら日本が挙国一致で諸外国と渡り合わなければならないとする勢力がそれぞれ活動を展開している状況であった
- その中でも、薩摩藩は後者に該当し、藩内で過激な行動を採ろうとした者たちを粛清する(寺田屋騒動)など藩内統一に努め、一体となって政治運動を展開していた
薩摩藩は、率兵上京と幕政改革の要求を行なうという大胆な政治行動を起こし、見事に成功させます。
幕政改革の内容は、①将軍の上洛、②五大老の設置、③一橋慶喜を将軍後見職に、松平慶永を大老に就任させることでした。
- 文久2年1月 島津久光の東上が決定される
- 3月 薩摩藩内で過激な浪士と交流することが禁じられる
- 島津久光が率兵上京を開始する
- 4月 島津久光が伏見に到着し、朝廷から浪士の鎮撫を命じる勅諚を得る
- 寺田屋騒動
- 5月 勅使大原重徳(薩摩藩が随行)が京都を出発し、江戸に向かう
- 6月 勅使大原重徳・薩摩藩が江戸に到着する
- 江戸城にて勅使大原重徳が将軍徳川家茂に勅命を授ける
- 幕府が勅命を受諾する
- 8月 薩摩藩が鹿児島への帰路で生麦事件が発生する
1-2:生麦事件の発生とイギリス政府の対応
勅使を護衛する名目で江戸へ随行した薩摩藩は、幕政改革を実現させて鹿児島へ帰っていくことになります。その帰路に、行列に誤って入ってきてしまったイギリス人を殺傷する事件が発生します。
これは生麦事件と呼ばれます。より詳しくはこちらの記事→【生麦事件とは】内容から薩英戦争につながる過程をわかりやすく解説
生麦事件は幕府・薩摩藩とイギリスの間の外交問題を引き起こしたということで歴史的に分岐点となる出来事と言えます。
在日イギリス人の間では報復行動をとるか否かで意見が分かれましたが、イギリス政府は当時の日本国内の「攘夷」論に鑑みて、以下の2点を実行し、拒否されれば報復行動を行なうことをイギリス代理公使ニールに命令しました。
- 幕府に謝罪状と賠償金を要求すること
- 薩摩藩に犯人の処刑と賠償金を要求すること
一方で、薩摩藩は要求を一切許容しないことを決め、鹿児島の砲台を整備するなど臨戦態勢を整えていきます。
1-3:薩英戦争の原因
薩摩藩としては、「生麦事件」は行列を乱したために対応した結果に過ぎませんでした。つまり、外国人を打ち払うという「攘夷」行動ではなく、行列を乱した者に対しては誰であろうと制裁を行なうという当時の武士としての通常の行動でした。
それまでの薩摩藩がイギリスに対して敵対行動をとっていたということはなく、生麦事件の発生前には、横浜にて薩摩藩家老の島津登と家老吟味の小松帯刀がイギリスのジャーディン・マセソン商会横浜支店総支配人ガワーらと軍艦購入の商談をしています。
- 薩摩藩・島津久光が率兵上京と幕政改革を成功させて以降の文久2年(1862)後半期は、京都を中心として日本全体を「攘夷」という方針のもとで統一しようとする動きが活発化していた
- 具体的には、土佐藩や長州藩が薩摩藩と同じやり方で勅使を使って幕府に「攘夷」方針を決めさせようと動いた
- 翌年に幕府は「攘夷」を朝廷に約束させられてしまうこととなる
宮地正人は、『幕末維新変革史 上』(岩波書店)にて、幕府とイギリスの交渉について詳述しています。
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それによると、イギリス側の強硬的な要求に対して、幕府は関東の大名・旗本に戦争の覚悟を持っておくようにと促すほど事態は緊迫していました。
朝廷の意思を重んじるかたちで「攘夷」を約束してしまった幕府は、万が一を想定していたのです。
文久3年5月9日、老中格の小笠原長行が独断というかたちで生麦事件及び第二次東禅寺事件2松本藩士によるイギリス仮公使館襲撃事件を指す。の賠償金としてイギリス代理公使ニールに44万ドルを交付し、謝罪状も提出されました3宮地正人『幕末維新変革史 上』(岩波書店、2012年)385頁。
イギリスは幕府との交渉が完了して、次に薩摩藩との交渉に向かいます。
文久3年(1863)6月、イギリス代理公使ニールらを乗せたイギリス軍艦は鹿児島近海に到着し、薩摩藩と交渉を行ないますが上手くいかず、イギリスが薩摩藩の蒸気船を拿捕したことで開戦に至ります。7月2日、遂に薩摩藩とイギリスの間で戦争が起こります。
- 薩英戦争とは、文久3年7月に起こった薩摩藩とイギリスによる戦争を指す
- 生麦事件(行列に誤って入ってきてしまったイギリス人を殺傷する事件)がきっかけで起きた
2章:薩英戦争の具体的な内容と影響
2章では薩英戦争の内容を詳しくみてきます。
2-1:薩英戦争の経過
薩摩藩は鹿児島城下の砲台からイギリス軍艦ユーリアラス号を砲撃し、艦長のジョスリングらを戦死させました。
一方で、鹿児島城下も被弾して火災が発生し、イギリス軍艦によって薩摩藩の砲台は全て破壊されました。7月4日、イギリス艦隊は鹿児島湾から退去し、横浜へ帰っていきました。
前掲書で宮地正人は、イギリス内での戦争反対論について述べています。イギリス下院議員のコクランの発言を引用・紹介します4宮地正人『幕末維新変革史 上』(岩波書店、2012年)387~389頁。
われわれが日本政府に求めたおもな賠償要求は、イギリス人一人が殺されたある事件、つまり有力大名の一人薩摩侯5「有力大名の一人薩摩侯」は島津久光を指しているが、久光自身は薩摩島津家の当主(薩摩藩主)ではないの随員と遠乗りに出かけたイギリス人一行との遭遇から生じたものだ。しかしながら、われわれは予想される事態について警告を受けていたということを忘れてはならない。サー・R・オールコックは、日本政府が戦わなければならない国内の抵抗の存在を認めていた。彼はさらに条約が日本人の間で不人気なことを認めた。この条約をむりやり押しつけられた日本人に、いったいなんの過失があるというのか。(中略)日本人は自由な通商を許すことで、自分たちの国の伝統を百八十度転換せねばならず、それ以来、困難と危険のみが生じた。(中略)日本人には兵士や金よりも強い武器がある。彼らには大義名分がある。われわれイギリス人も、もしわれわれが侮辱されたとしたなら、戦費がいくらかかろうと大した問題にはなりえない。(中略)この条約が幸福に満ち足りて暮らしている国民の血を流すことによってしか守られないとしたら、そんな条約はびりびりに引き裂いてしまったほうがよいと思う。
このように、イギリスの議員からは、日本と結んだ条約体制そのものに対する疑義が呈せられ、生麦事件におけるイギリス人側の過失を指摘しています。
さらに、イギリスメディアの『スタンダード』には次のような内容が掲載されていました6宮地正人『幕末維新変革史 上』(岩波書店、2012年)386~387頁。
日本人にもっと何かをしようというのなら、いかなるイギリスの大臣でも議会に提案するのを躊躇するほどの兵力を日本に配備しなくてはならない。日本人は死を少しも恐れない。完全な破壊以外に彼らを屈服させる手だてはない。(中略)ヨーロッパ人が東洋に持ち込む文明は、東洋の人間の衰退と破滅という言葉と置換え可能である。そして日本人は自分自身の道を選ぶ権利がある。二百年に及ぶ鎖国時代を通じて、彼らがかなりの物質的幸福を楽しんだことは疑いようもない。ヨーロッパと接触してその幸福が脅かされていると彼らは思っている。そして古くからの手堅い道に戻る権利が彼らにはある。自分の文明や貿易を彼らに押し付けるのと同じようにはっきりとした権利はイギリスにはない。
このように、イギリス国内でも開戦論一色ということはなく、日本の立場や考え方を尊重する言説も存在していました。
2-2:イギリスメディア『タイムズ』の薩英戦争総括
さらに、宮地正人氏の前掲書では、イギリスの有力メディア『タイムズ』が薩英戦争の結果について総括していることを提示しています。イギリス側の認識を知る大変重要な史料なので、引用・紹介させてもらいます7宮地正人『幕末維新変革史 上』(岩波書店、2012年)393~394頁。
われわれの側にも重大な損失があった。死者11名、負傷者39名のリストは、われわれの敵が大君(※徳川将軍のこと)自身ではなく、その無法な部下の一人にすぎぬことを考えると、大きすぎたとも言えよう。またこれは、われわれの小さな勝利に要したコストのすべてではない、というのは11名の死者の中に2人の艦長ジョスリングとウィルモットの名前があるからだ。それはナイル河での戦闘(※1798年のナポレオンとネルソンの海戦)のような激戦においてさえ大きな損失と考えられる高級士官たちの犠牲である。(中略)われわれは、ヨーロッパの艦船との最近の戦闘で示されたような、日本国民の軍事的素質並びに機械に強い素養に感心しないではいられない。アメリカ艦ワイオミング号は長門侯(※長州藩主のこと)の要塞とその軍艦との戦いで16名の命を失い、ついには戦線離脱を余儀なくされた。オランダ艦はあらかじめ用意していたのでうまくやったが、フランス艦一隻は戦闘能力を失い、もう一隻は多くの負傷者を出した。われわれは薩摩侯(※薩摩藩主のこと)にわが艦隊が加えた砲撃がどんな損害を生じたか、まだ聞いてはいないが、人員の損害から見ても、それは軽微なものなどとは言えない。中国人だったら、彼らの町が火に包まれるずっと前に逃げ去ってしまっただろう。それに中国人はごく最近まで、日本で製造されているのに匹敵する兵器を持っていなかった。(中略)彼ら(※日本人)は一人のアームストロングもウィットワースもまだ生み出していないが、彼らが一度施条砲を手に入れたなら、どうしたら模倣できるのかを知っていることは確かだし、多分、それに改良を加えるだろう。破壊的機械を生産できる彼らのこの能力は、現在のところでは、われわれにとってあまり愉快なこととは言いがたいが、この並外れた国民の知性と未来の運命への確信が、われわれの敬意を呼ぶだろうことは十分に考えられる。
宮地が提示している史料からは、主に次のことが言えます。
- 薩英戦争はイギリス側にも大きな損害を被ったという認識があること
- 薩英戦争では薩摩藩側も損害は軽くないだろうこと
- 日本人は軍事的素質と機械を使用する素質に長けていること
- 将来的にはイギリス人は日本人に敬意を抱くことになるだろうこと
①・②については、薩英戦争は薩摩藩・イギリス双方に大きな損害を残して終結したということであり、実態に即した認識と言えるでしょう。
③については、欧米諸国側と薩摩藩・長州藩が実際に戦闘を行なった中で培われた認識でした。危険を顧みず、死を賭して戦闘を行なう屈強な武士たちの軍事的素質と大砲などの機械を上手く利用する素質にイギリス側は脅威を抱いていると言えます。
そして、④では、将来的に日本人が尊敬の眼差しで見られることを予言しています。
薩英戦争はイギリスの制裁的要求に対して薩摩藩が臨戦態勢を整えたことで開戦に至りました。双方とも大きな損害を被りましたが、戦後には薩摩藩とイギリスは接近していくことになります。
戦争を行なった国家同士が戦後に接近していくことは、薩摩藩とイギリスだけでなく、長州藩も同様であり、もっと長い期間で見てみればアジア・太平洋戦争後の日本とアメリカなどの事例もあります。
戦争を行なった敵国同士が戦後に接近することで歴史が動いていくことは事実であり、薩英戦争を経た薩摩藩とイギリスの繋がりは明治維新への大きな原動力の一つになっていきます。
- イギリス国内でも開戦論一色ということはなく、日本の立場や考え方を尊重する意見も存在していた
- 薩英戦争を経た薩摩藩とイギリスの繋がりは明治維新への大きな原動力の一つであった
3章:薩英戦争について学べるおすすめ本
薩英戦争に関して理解を深めることはできましたか?
以下では、薩英戦争をさらに深く知ろうとする際に参考となる文献をいくつか紹介します。
宮地正人『幕末維新変革史 上』(岩波書店)
政治史を国際的に論じていることに特色がある本書では、薩英戦争をめぐる動向についてイギリス政府・幕府・薩摩藩のみならず、社会世論の言説にまで踏み込んで検討されており、生麦事件や薩英戦争が如何に捉えられていたかが理解できると思います。
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井上勝生『日本の歴史18 開国と幕末変革』(講談社)
薩英戦争自体の記述は少ないですが、通史のなかに同戦争が位置づけられています。これをもとに幕末政治史の全体像のなかで薩英戦争を考察してみるといい勉強になることでしょう。
町田明広『グローバル幕末史 幕末日本人は世界をどう見ていたか』(草思社)
同書では、「第五章 薩摩藩の世界観―斉彬・久光に見る現実主義」にて薩英戦争を詳述しています。
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一部の書籍は「耳で読む」こともできます。通勤・通学中の時間も勉強に使えるようになるため、おすすめです。
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まとめ
最後にこの記事の内容をまとめます。
- 薩英戦争とは、文久3年7月に起こった薩摩藩とイギリスによる戦争を指す
- イギリス国内でも開戦論一色ということはなく、日本の立場や考え方を尊重する意見も存在していた
- 薩英戦争を経た薩摩藩とイギリスの繋がりは明治維新への大きな原動力の一つであった
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