イギリス東インド会社(East India Company)とは、17世紀初頭に設立されたインドを拠点とした貿易会社です。イギリス、インド、中国間で行われた「三角貿易」で多大な利益を上げました。
イギリス東インド会社は世界史を学ぶ上で避けては通れない出来事を深く結びついています。そのため、全体像だけでも理解しておくことが重要です。
そこで、この記事では、
- イギリス東インド会社設立の時代的背景
- イギリス東インド会社の概要・特徴
- イギリス東インド会社の発足から解体までの歴史
をそれぞれ解説していきます。
関心のある所からお読みください。
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1章:イギリス東インド会社とは
1章ではイギリス東インド会社を概説します。詳しい歴史に関心のある方は、2章から読み進めてください。
このサイトでは複数の文献を参照して、記事を執筆しています。参照・引用箇所は注1ここに参照情報を入れますを入れていますので、クリックして参考にしてください。
1-1:イギリス東インド会社設立の背景
はじめに、イギリス東インド会社が設立された背景に簡単にふれます。
15世紀、ポルトガルとスペインの海外進出を皮切りに「大航海時代」が始まりました。当時のヨーロッパでは豊かな食文化が華開き「香辛料」の需要が増しており、香辛料の原産地はインドを中心としたアジアの国々でした。
それまで、ヨーロッパからアジアへの貿易路はオスマン帝国(現在のアフリカ北部・トルコ周辺に位置した)を通過する陸路が主流でした。しかし、オスマン帝国は多額の関税をかけ、ヨーロッパの貿易商たちの負担となっていました。
そのため、アジアへの新たな貿易路として「海路」の開拓にヨーロッパ各国が乗り出したのです。こうして大航海時代が幕を開けましたが、イギリスも例外ではありませんでした。
イギリス東インド会社設立のきっかけは、オランダの躍進です。具体的には、以下のような過程がありました。
- 当時、アジア貿易を独占していたスペインを破ったオランダは、アジアでの貿易でも大躍進を果した
- このようなオランダの躍進に、イギリスの商人たちは大きな脅威を感じており、アジアでの香辛料貿易に乗り出すためにイギリス東インド会社設立設立された
- そして、時の女王「エリザベス一世」からアジア貿易独占の特許を与えられ、イギリスの商業の発展に多大な役割を担うこととなった
アジア進出後は、イギリス東インド会社設立後に結成された「オランダ東インド会社」と香辛料の原産地である東南アジア(インドネシア周辺)で度々衝突しました。
その争いに敗れたイギリスは、貿易の拠点を「インド」へと移し、インドでの植民活動が進行していきます。
1-2:イギリス東インド会社の規模や拠点、貿易品種
イギリス東インド会社設立の背景を踏まえて、ここでは概要に触れていきます。
1-2-1:規模
主な貿易範囲は、インドと中国でした。オランダ東インド会社との争いに敗れたイギリス東インド会社は、香辛料の主要な原産地である東南アジアから撤退します。
そのため、綿、絹、キャラコ(木綿地)の生産地であるインドを植民地として支配下に収めて、中国との貿易にも乗り出しました。インド、中国、本国イギリス間で輸出入を行う「三角貿易」でイニシアチブをとり多大な利益をあげます。
1-2-2:主な拠点
続いて、主な拠点を列挙していきます。
マドラス(インド/現チェンナイ)
- インド東部の都市。1639年にイギリス東インド会社が進出、商館が設置された
- 一時、フランスの支配下に置かれたが1748年の「オーストリア継承戦争」の結果、その支配を回復した
ボンベイ(インド/現ムンバイ)
- インド西部の都市。1687年にイギリス東インド会社が進出、商館が設置された
- 造船所が建設され、インド最大となる造船業が展開された
カルカッタ(インド/現コルカタ)
- インド北東部の都市。1690年にイギリス東インド会社が進出、商館が設置された
- インド北東部(ベンガル地方)にはフランスも進出しており「プラッシーの戦い」が繰り広げられた。戦いに勝利したイギリスのインド支配は強固になる
バンテン(インドネシア)
- アジア進出初期に、イギリス東インド会社の香辛料貿易の拠点となった
- しかし、オランダ東インド会社との争い(「アンボイナ事件」)に敗北した後は撤退を余儀なくされる。そして、活動の拠点をインドへと移していった
海峡植民地(マレーシア)
- マレー半島の植民の結果、設立された複数の都市の総称。ナポレオン戦争後、オランダ東 インド会社の勢力が衰退する
- その後にイギリス東インド会社が進出して設立された
1-2-3:主な貿易品種
ここでも、主な貿易品種を概観します。
香辛料→ヨーロッパに輸出
17世紀前半までの主な輸出品です。アンボイナ事件以降は主な輸出品ではなくなりました。
キャラコ、綿、絹→ヨーロッパに輸出
インド原産。イギリス東インド会社の主な輸出品の一つです。キャラコとは、艶のある木綿地のことです。
塩→インド国内に流通
プラッシーの戦い以降、インド北東部を実質的な支配下に置き、同地域で塩を専売していきました。塩の競売で値段を釣り上げ、多くの利益をあげていました2神田さやこ「ベンガル社会経済の変容とギリシア商人:イギリス東インド会社専売下の塩取引を中心に」(『三田学会雑誌』第108巻2号)92-93頁参照。
茶→ヨーロッパ、アメリカに輸出
中国原産です。併せて景徳鎮産などの陶磁器の輸出も盛んになりました。
アヘン→中国に輸出
- 中国との茶の貿易で輸入超過となってしまったイギリスが、中国に輸出したものがアヘンでした。ヨーロッパでの茶の需要が増加し、イギリスは中国から一方的に輸入するばかりになってしまいます。
- 代わりに、中国にインド産の綿や絹を輸出しようとしましたが、中国ではそれらの需要は低かったため輸入超過が発生しました。
1-3:イギリス東インド会社の特徴
では一体、イギリス東インド会社はどのような特徴をもった会社だったのでしょか?オランダ東インド会社との違いでいえば、株式会社ではなかったという点が挙げられます。
設立当初のイギリス東インド会社は、一回の貿易ごとに資金調達を行っており、事業の継続が前提ではなかったです。そのため、会社とありますが、当初は株式会社ではありませんでした。
しかし、上述したように、東南アジアでの香辛料貿易からの撤退を余儀なくされたことから、その後、株式会社としての形態へと変化していきました。
- イギリス東インド会社とは、17世紀初頭に設立された、インドを拠点とした貿易会社である
- イギリス東インド会社設立のきっかけは、オランダの躍進である
- イギリス東インド会社は、当初、株式会社ではなかった
2章:イギリス東インド会社設立から解散までの経緯
2章では、イギリス東インド会社の設立から解散までの具体的な出来事を解説します。
2-1:設立
イギリス東インド会社の設立は1600年です。当時のイギリスには既にいくつかの貿易会社が存在しており、それらはレヴァント貿易(地中海貿易)専門の貿易会社でした。
しかし大航海時代が幕を開け、状況は一変します。自ら香辛料の仕入れに乗り出したポルトガルとスペインの台頭、後を追ったオランダの猛追にレヴァント貿易の貿易商人たちは危機感を感じます。
上述の確認ですが、このような背景からイギリス東インド会社が結成されました。そして、時の女王エリザベス1世にアジア貿易を独占する「特許状」を発布され、アジア貿易に乗り出しのです。
その後、イギリスを後にした船団は、
- 1602年にスマトラ島沖のアチェに到着
- ジャワ島のバンテンに商館を設置
東南アジアでの香辛料貿易に乗り出しました。
しかし、同時期に東南アジアに進出していたオランダ東インド会社との争いが勃発します。
アンボイナ事件
- イギリス商館がオランダ東インド会社に襲撃される事件「アンボイナ事件」が起き、商館内にいた商人が全員殺害される
- この事件を受け、イギリス東インド会社は東南アジアから撤退を余儀なくされる
- そして、拠点を「インド」に移しインドでの貿易を主とする
当時のイギリス東インド会社は、オランダ東インド会社に勝ち目がありませんでした。その理由の一つが「財力の差」です。
イギリス東インド会社は航海毎に資金調達が行われていため、財力的な観点からいえば勝利をすることが難しかったです。
2-2:発展
東南アジアから撤退したイギリス東インド会社は、インドを拠点として活動を続けて以降、インド産の絹、綿、キャラコ、中国産の茶のヨーロッパへの輸出で利益をあげます。
中でもキャラコは「キャラコ熱」と言われるほどヨーロッパで流行し、多くの利益を上げます。しかし、中国との貿易では「輸入超過」となってしまい、銀の流出を招いてしまいます。
また、中国から茶を輸入する代わりにインド産の絹や綿を輸出しようとしますが、中国ではインド産の絹や綿の需要はありませんでした。そこで中国に輸出されたものが「アヘン」です。中国ではアヘンが流行し、後の「アヘン戦争」の原因の一つとなりました。
イギリスはインドのマドラス、ボンベイ、カルカッタに商館を設置し活動を続けます。設置にはインドの現地勢力からの認可が必要で、後の植民地政策のように武力による方法ではなく、あくまで外交による方法がとられていました3堀江洋文「イギリス東インド会社の盛衰」(『専修大学人文科学研究所月報』第230巻)92-93頁参照。
やがて、同じくインドを貿易活動の拠点としていた「フランス東インド会社」と争いが激化し、武力衝突が勃発していきます。
たとえば、
- カーナティック戦争・・・インド南部のフランスの拠点「ポンディシェリ」をめぐり3度にわたり勃発したもの
- プラッシーの戦い・・・インド北東部のベンガル地方における戦い
が勃発しました。
イギリス東インド会社はプラッシーの戦いを契機に、ベンガル、ビハール、オリッサにおける徴税権及び司法権である「ディーワーニー」を現地勢力から奪取し、実質的な直接支配を始めました。
しかし、インドの植民支配は、本来のイギリス東インド会社の役割として認められていなかったため、イギリス本国はイギリス東インド会社への規制を強化します。
たとえば、その一環として、イギリス本国が任命する「ベンガル総督」が派遣され、イギリス東インド会社に代わりインド北東部の行政を担いました。初代ベンガル総督は「へースティングス」です。
しかしその後も、イギリス東インド会社はインド貿易でのさらなる利益追求を続け現地勢力と衝突を繰り返します。たとえば、以下のような戦争があります。
- マイソール戦争・・・インド南部の現地勢力「マイソール王国」との4度にわたる戦争
- マラーター戦争・・・インド中部の幾つかの王国が結成した「マラーター同盟」との3度にわたる戦争
- シク戦争・・・インド北部の現地勢力「シク王国」との2度にわたる戦争
このような戦争の結果、インドに拠点を移し約200年でインド全土を植民地として、その支配下に治めました。その過程で、イギリス東インド会社の機能は貿易会社としての機能から「インド植民地の支配機構」へと変化していったのです。
しかし、イギリス東インド会社にとって植民地政策の強化は凋落の始まりでもありました。
本来は商人の集まりであったため、植民地支配への対応をしきることができなかったのです。そのため、ディーワーニーを奪取し実質的に直接統治していたインド北東部では、ベンガル総督の設置後には現地情勢が悪化し、後に会社の業績も悪化していきました4堀江洋文「イギリス東インド会社の盛衰」(『専修大学人文科学研究所月報』第230巻)107-108頁参照谷口謙次「18世紀後半のベンガルにおける銀不足問題とベンガル植民地政策財政」(『経済学雑誌』第112巻4号)91-92頁参照。
2-3:解散
18世紀後半以降、躍進に陰りが見えていたイギリス東インド会社の解散のきっかけは「自由貿易の促進」と「シパーヒーの乱」でした。それぞれ解説していきます。
2-3-1: 自由貿易の促進
18世紀半ばから19世紀にかけて起こった産業革命によって工業化が進みました。
工業化が進んだ結果、以下のような革命が起きます。
- イギリスの産業資本家はインドからの輸入に依存していた綿糸の生産に成功した
- そして、インド産の綿を使った綿布よりも安価な綿布を大量製造することにも成功した
イギリスの産業資本家は、製造した綿布の販売先としてインドに目をつけました。しかし、インド貿易はイギリス東インド会社によって独占されている状態でした。
そこで、インドへの自由な輸出を望む産業資本家たちによるイギリス東インド会社のインド貿易独占への批判が高まり、次のような展開が起きます。
- それまでのヨーロッパ各国では貿易行為が国によって保護されており、国からの許可を得た貿易会社や貿易商人以外は貿易行為が制限されるという状況であった
- しかし、産業資本家たちによるインド貿易独占への批判が高まると、議会が「特許状法」を制定した。これによりイギリス東インド会社の「インド貿易独占権」が廃止された
- さらに、イギリス東インド会社の「中国貿易独占権」も廃止され、イギリス東インド会社のアジア貿易会社としての機能は失っていった
2-3-2: シパーヒーの乱
加えて、インド植民地の統治機構としてのイギリス東インド会社にも衰退の兆しが訪れます。それがシパーヒーの乱の勃発です。
インドでは、イギリス東インド会社によるインド統治への不満が溜まっていたことから、イギリス東インド会社の傭兵(シパーヒー)による反乱が勃発します。この反乱はインド全土に広がり、イギリス東インド会社のインド統治を揺るがす大規模な反乱になりました(インド大反乱)。
イギリス東インド会社は反乱の鎮圧に成功しますが、イギリス本国からはインド統治の失敗と捉えられ、以後インド植民地はイギリス本国の統治下に置かれることになります。
こうして、イギリス東インド会社は植民地統治機構としての機能も失い、1858年に解散していったのです。
- 大航海時代における時代の変化から、イギリス東インド会社が設立された
- 武力衝突の中で、イギリス東インド会社の機能は貿易会社としての機能から「インド植民地の支配機構」へと変化していった
- 躍進に陰りが見えていたイギリス東インド会社の解散のきっかけは「自由貿易の促進」と「シパーヒーの乱」であった
3章:イギリス東インド会社に関するおすすめ本
イギリス東インド会社について理解することはできたでしょうか?
最後に、さらに理解が深まる書籍を紹介します。ぜひ、学びを深めてください。どの書籍も、歴史が詳しくない方でも読みやすい一冊です。
浅田實『東インド会社 巨大商業資本の盛衰』(講談社現代新書)
入門書にオススメです。イギリス東インド会社の設立から解散までを詳しく学ぶことができます。イギリス東インド会社の盛衰を感じることができるはずです。
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ティルタンカル・ロイ『インド経済史-古代から現代まで-』(名古屋大学出版会)
経済の観点からイギリス東インド会社とインドの関係性を読み解くことができます。イギリス東インド会社が進出する以前から、現代に至るまでの経済を学ぶことができます。
オススメ度★★ 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』(講談社学術文庫)
イギリス東インド会社だけでなく、オランダ東インド会社、フランス東インド会社についても学ぶことができます。どのような時代だったのかをイメージしやすくなるはずです。
一部の書籍は「耳で読む」こともできます。通勤・通学中の時間も勉強に使えるようになるため、おすすめです。
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まとめ
最後にこの記事の内容をまとめます。
- イギリス東インド会社とは、17世紀初頭に設立された、インドを拠点とした貿易会社である
- 武力衝突の中で、イギリス東インド会社の機能は貿易会社としての機能から「インド植民地の支配機構」へと変化していった
- 躍進に陰りが見えていたイギリス東インド会社の解散のきっかけは「自由貿易の促進」と「シパーヒーの乱」であった
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