大正デモクラシーとは、1912年から1926年まで続いた大正時代の日本で展開された、さまざまな自由主義・民主主義的な運動を指します。
大正デモクラシーは、日本における民主主義の萌芽として高く評価されています。
しかし、その一方で大正デモクラシーは良くも悪くも民意が政治参加する状態を作り出し、1930年代における日本の軍国主義化につながっていったことも事実です。
この記事では、
- 大正デモクラシーの意味・背景
- 大正デモクラシーの展開から結果まで
を詳しく解説します。
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1章:大正デモクラシーとは何か
最初に、1章では大正デモクラシーの「意味」「背景」について解説します。
このサイトでは複数の文献を参照して、記事を執筆しています。参照・引用箇所は注1ここに参照情報を入れますを入れていますので、クリックして参考にしてください。
1-1:大正デモクラシーの意味
まず、全国歴史教育研究協議会編『日本史用語集』をみてみると、大正デモクラシーの項目には次のように記されています。
大正期に高揚した自由主義・民主主義的風潮。その背景には産業の発展、市民社会の発展、第一次世界大戦前後の世界的なデモクラシー風潮の影響がある。民本主義思想が拡大し、普選運動、社会・労働運動や教育運動も進展。2全国歴史教育研究協議会編『日本史用語集』(山川出版, 293頁)
この説明にあるとおり、大正デモクラシーは国内外のさまざまな影響を受けつつ行われた、多様な運動をまとめた総称です。
また、「デモクラシー(democracy、民主主義の意)」という語句が用いられたことから分かるように、これらの運動を通じて民衆の影響力が増し、民衆の政治参加も進展していきました。その象徴的な出来事が、1925年に制定された「普通選挙法」です。
一方で民衆の台頭は、必ずしも良い影響だけを与えたわけではありません。歴史の流れが伝えるように、大正デモクラシーの後、1930年代の日本では急速に軍国主義化が進展していきました。
この変化について、従来は大正デモクラシーの「挫折」と捉える向きが一般的でした。しかし近年、大正デモクラシーを通じて民衆が台頭したことが、1930年代における軍国主義化の遠因となったという指摘がなされています。
なぜ、デモクラシーの時代は戦争の時代へ移行したのか?その原因を理解することが、大正デモクラシーを把握する上でポイントとなります。
1-2:大正デモクラシーが行われた背景
ここでは大正デモクラシーが行われた背景として、明治末期の民衆が置かれていた状況を確認しましょう。
1880年代から1900年代にかけて、日本でも産業革命が進展していきました。その結果、農村から都市への人口流入が増加し、工場労働者も増加するようになりました。
しかし、当時の労働者の待遇は非常に劣悪でした。『毎日新聞』の島田三郎は、産業革命と社会の様子について次のように記しています。
世は自由競争の社会となれり〔中略〕、器機応用の結果〔注.産業革命を指す〕とによりて、富資増殖の良蹟を呈したるなり。社会はこれがために理想的文明に近きつつあるか。〔中略〕いわく、社会人民の幸福は単に富資増殖のために得られざるなり。自由競争の結果は、強者弱者を凌轢〔りょうれき〕するに至らん。3横山源之助『日本之下層社会』(教文館)序文より(注:適宜句読点を補い、字体を現用のものに改めた)
こうして産業革命の進展と並行して、労働問題が深刻化していきました。そして労働者たちは都市部でスラムを形成したため、都市問題も社会問題化しています。加えて1905年以降日露戦争による戦災や増税が重なると、さらに人々の暮らしは困窮していったのです。
こうした状況を背景に、
- 労働者の苦境を改善するため労働組合の設立や社会主義の勃興が生じた
- さらに、これらの動きは民衆運動に発展し、東京で1906年から1908年にかけて「電車賃値上げ反対騒擾」が発生するなど、デモ活動も頻発するようになっていった
という展開をみせます。
こうして明治末期の頃から、さまざまな階層の人々が問題を解決するため立ち上がるようになりました。これが、大正デモクラシーにつながったのです。
- 大正デモクラシーとは、1912年から1926年まで続いた大正時代の日本で展開された、さまざまな自由主義・民主主義的な運動を指す
- 産業革命の進展と並行して、労働問題・都市問題が顕在化していったことが背景にある
2章:大正デモクラシーの展開と結果
ここからは大正デモクラシーの期間に進展した主要な運動を紹介し、その結果や、のちの歴史に及ぼした影響を紹介します。
2-1:大正デモクラシーのはじまり
大正デモクラシーの出発点と位置付けられるのは、1912年から1913年にかけて生じた「第一次護憲運動」と、その結果として生じた「大正政変」です。
両者を簡潔に要約すると、
第一次護憲運動
- その発端は1912年12月に立憲政友会主体の第二次西園寺公望内閣が倒され、第三次桂太郎内閣が成立したこと
- これを藩閥による政権打倒と見なした人々は「憲政擁護会」を結成し、「憲政擁護・閥族打破」をスローガンに第一次護憲運動を展開した
大正政変
- そして1913年2月、政友会と国民党が国会で内閣不信任案を提出すると、民衆も国会前で激しい抗議行動を行った
- その結果、第三次桂内閣はわずか53日で倒れる。これは日本史上最初の内閣が民衆の運動によって倒された出来事であり、「大正政変」と呼ばれている
といえます。(→より詳しくは護憲運動の記事へ)
大正政変と前後して、学者たちもさまざまな理論を通じて運動を後押ししていきました。
たとえば、1912年に美濃部達吉が「天皇機関説」を発表し、憲法論の観点から政党政治を後押ししています。さらに1914年には、吉野作造が民主主義を天皇制と矛盾しないように修正した「民本主義」を発表し、民意を尊重する必要性を訴えています。
このように第一次護憲運動と大正政変は、情勢が大きく変わる転機となったのです。
2-2:米騒動と本格的な政党内閣の誕生
その後1914年に第一次世界大戦が勃発すると、日本経済にも転機が訪れます。大戦の勃発に伴い西欧列強がアジア市場から後退、代わりに日本の綿糸・織物業などが進出するようになったためです。
その結果、大戦は造船や鉄鋼など重工業の発展や海運業の盛況ももたらし、日本経済は「大戦景気」と呼ばれる好景気を迎えました。
しかし大戦景気の一方で、依然として庶民の生活水準は向上しませんでした。大幅な輸出拡大が国内の物資不足を招き、急激なインフレが進行したためです。
- さらに物価の高騰に対して、賃金の上昇は追い付いていなかった
- 信夫清三郎『大正政治史』(勁草書房)によれば、1914年を100とした場合、1918年の物価指数は230であったのに対し、賃金指数は157にとどまっていたという
2-2-1: 米騒動
このような状況下、特に深刻な問題となったのが米価の高騰です。これまで見てきたように、工業の急速な発展に伴い、都市人口が増加しました。その結果、米の需要の急増に繋がります。
さらに1917年に「ロシア革命」が発生すると、状況は一層悪化していきます。ロシア革命に対する「シベリア干渉戦争(シベリア出兵)」によって軍需米の大量需要が見込まれるようになると、商人の買い占めや地主の売り惜しみが起こりました。
そして1918年7月、ついに人々の不満が爆発します。富山県の魚津で漁民の妻たちが立ち上がり、町長や地主、米商人の家に押しかけて米の安売りを要求したのです。
当時の新聞を見ると、その様子が次のように記されています。
昨今の米価高騰にて家族は生活の困難はなはだしく、今や喰うや喰わずの悲惨の状態に陥れり。果然、昨日午後七時過ぎより漁師町一帯の女房連は海岸に集合し、その数百七、八十名に達せるが、〔中略、米屋などに対して〕義侠的に米の廉売を為されたしと哀願し、なおもしこれを聴き容れざれば、家を焼払え、一家を鏖殺〔おうさつ、皆殺しの意味〕せんと脅迫して、事態穏やかならず。4『高岡新報』1918年8月4日「女軍米屋に薄〔せま〕る」(注:適宜句読点を補い、字体を現用のものに改めた)
その後新聞報道に触発されて、東京や大阪など1道3府38県で約70万人が暴動に参加しました。この一連の暴動が、今日「米騒動」と呼ばれるものです。
米騒動に対して、
- 当時の寺内正毅内閣は新聞報道を禁じ、さらに警察や軍隊を動員して弾圧を図った
- しかし言論擁護や内閣批判の声が高まり、これらの世論に押された結果、寺内内閣は米騒動の責任を取って総辞職することとなった
という展開が起きます。
2-2-2: 政党内閣の誕生
このような状況下、次の首相を天皇に推薦する役割を担っていた元老たちは、民衆の不満を抑える必要に迫られました。そして次の内閣は民衆の声を反映する必要があると考えた結果、立憲政友会総裁の原敬に組閣の大命が降ったのです。
こうして1918年9月に成立した原内閣の特徴は、以下のとおりです。
- 陸海軍大臣を除くすべての閣僚が、政友会員やその支持者から成り立っていた
- 日本ではじめて衆議院に議席を持つ人物が首相となった内閣であった
- そのため原内閣は、日本における最初の本格的な政党内閣と呼ばれている
原は爵位を持っていなかったため、人々は「平民宰相」と呼んで歓迎したとも言われています。
※なお補足すると、1898年に成立した第一次大隈重信内閣が日本史上最初の政党内閣です。しかし第一次大隈内閣は半年余りで崩壊し、満足に政策を実施できませんでした。
一方で原内閣は、高等教育機関の充実や鉄道・道路の拡充、貿易振興などの政策を展開しています。そのため原内閣が、最初の本格的な政党内閣と呼ばれています
2-3 : 改造の時代
原内閣が成立した後、1918年11月に第一次世界大戦が終結しました。大戦を通じて影響力を拡大したアメリカは、「新外交」の名の下に、自らの信奉するイデオロギーとして世界中に民主主義を普及させることを試みるようになっていきます。
このようなアメリカの動向は日本にも影響を与え、大正デモクラシーは新たな局面を迎えることとなりました。民衆が政治参加以外にも、自分たちが抱えるさまざまな問題を提起し、その解決のために積極的に運動するようになったのです。
ここでは、第一次世界大戦後に生じた代表的な動きを紹介します。
- 日本労働総同盟・・・1912年に鈴木文治らが設立した友愛会を母体に、1921年に「日本労働総同盟」が誕生した。労働総同盟は労働組合のナショナルセンターとして機能し、各地で大々的な労働争議を展開して資本家との対決姿勢を打ち出す
- 日本農民組合・・・農村でも、寄生地主に収奪されていた小作人たちが団結し、小作料の軽減や耕作権確保を求める小作争議が頻発するようになる。そして1922年には、日本で最初の全国的な農民組合組織として「日本農民組合」が結成された
- 小日本主義・・・1919年に柳宗悦が朝鮮で生じた「3・1独立運動」を武力弾圧したことを批判したほか、1921年には石橋湛山が「小日本主義」を提唱して台湾・朝鮮・満州の放棄を訴えるなど、日本の植民地政策への批判もされた
これらの運動に加えて、被差別部落や女性のように差別されていた人々も、差別からの解放を目指して運動を展開しています。たとえば、1922年、西光万吉らによって「全国水平社」が設立されました。
その設立に際して宣言された「水平社宣言」は、
全国に散在する我が特殊部落民よ、団結せよ。〔中略〕我々がエタである事を誇り得る時が来たのだ。〔中略〕水平社は、かくして生れた。人の世に熱あれ、人間に光りあれ。5初出 :『水平』第1巻1号 引用元:歴史学研究会編『日本史史料 4 近代』(岩波書店, 363~364頁)(注:適宜句読点を補い、字体を現用のものに改めた)
と述べています。
あえて差別用語を用いつつ、自らの尊厳を謳いあげたことで有名です。
一方1920年には、「女性解放運動」を展開する平塚らいてうや市川房枝らによって「新婦人協会」が設立されています。同会の設立宣言を見てみると、当時の時代状況がよく読み取れます。
婦人もまた〔中略〕、男子と協力して戦後の社会改造の実際運動に参加すべき時であります。〔中略〕しかるにこれ等の婦人の力が一つとして、社会的に、もしくは社会的勢力となって活動して来ないのは何故でありましょう。〔中略〕故に婦人の団体的活動の一機関として「新婦人協会」を組織し、〔中略、女性の〕利益の増進、権利の獲得のため努力し、その目的を達せんことを期する所以であります。6初出:『女性同盟』第1号 引用元:歴史学研究会編『日本史史料 4 近代』(岩波書店, 368~369頁)(注:適宜句読点を補い、字体を現用のものに改めた)
この宣言に示されるように、当時活動した多様な団体は、運動を通じて「社会改造」の実現を目指していました。そのため近年の研究では、第一次世界大戦後の社会状況は「改造の時代」と呼ばれています。
2-4:普選運動と第二次護憲運動
一方同じ頃、政治の分野では普通選挙の実現が争点となっていました。
当時の選挙制度は、一定額の納税を行った男性だけが投票できる「制限選挙」でした。これに対し、制限の撤廃や女性参政権の実現を求める声が高まっていました。1919年2月に「普選促進同盟会全国学生同盟会」の集会は、その点を明確に示しています。
デモクラシーは世界の大勢である。民本主義は時代の潮流である。〔中略〕何を苦しんでこの大勢に逆行し、不徹底な制限選挙を墨守するのか。7信夫清三郎『大正政治史』(頸草書房, 866-869頁)
このような世論を背景に、原内閣は納税額を10円以上から3円以上に引き下げるなど、選挙法を改正しています。しかし原は、普通選挙は社会主義の台頭を招くと考えていました。そのため1920年に国会に普選法案が提出された際、原は反対の立場を表明しています。
このように原は、普通選挙実現を求める「普選運動」とは敵対的でした。そして1920年から「戦後恐慌」が生じた影響もあり、1921年に原は東京駅で不満を抱いた青年に襲われて、殺害されてしまいました。
原内閣に続いて高橋是清内閣が倒れた後、しばらくは政党政治家ではない人物の組閣が続きました。しかし1924年に政党政治家を1人も入閣させずに清浦奎吾内閣が成立すると、政党勢力が激しい反発を示すようになります。
具体的には、
- 清浦内閣の成立後、憲政会の加藤高明、革新倶楽部の犬養毅、政友会の高橋是清が「護憲三派」を結成し、清浦内閣の倒閣運動を展開していった(この運動が、今日「第二次護憲運動」と呼ばれるもの)
- 護憲三派は人々の支持を得るために、普選断行、政党内閣の実現、貴族院・枢密院改革、行政整理などを公約に掲げた
といった運動がされています。
そして5月に行われた第15回衆議院議員総選挙では、護憲三派が過半数を獲得して勝利を収めてました。
その後成立した護憲三派内閣は「衆議院議員選挙法」を改正し、1925年に公布しています。この改正衆議院議員選挙法が、今日「普通選挙法」と呼ばれるものです。
25歳以上の男性が選挙権をもつようになった結果、有権者数が約300万人から1240万人に増加し、国民の約20%が有権者となっている
こうした変化を背景に、日本でも衆議院を基盤とする政党政治が定着していきました。1932年に犬養毅内閣が倒れるまでの8年間、衆議院の多数党総裁が首相となる「憲政の常道」が続くこととなります。(→政党政治に関してはこちらの記事)
一方で護憲三派内閣は、普通選挙法の公布と前後して「治安維持法」も公布しています。この法律は、主に社会主義者を取り締まるために制定されました。その要因として、当時の政党政治家全般に、民衆が社会主義に走ることへの警戒感があったことが挙げられます。
ここでポイントとなるのが、
当時は民衆の影響力が増加する一方で、民衆が過激な主義主張に傾くことが警戒されていたこと
です。
詳しくは後述するように、この懸念が現実のものとなったことが、1930年代における日本の軍国主義化につながっていきます。
2-5:大正デモクラシーの結果・影響
ここまで見てきたように、大正時代を通じてさまざまな人々が状況を変えるために立ち上がり、多彩な運動を展開しました。そして一連の活動は第二次護憲運動をへて、政党政治の確立という形で結実することとなりました。
そのため大正デモクラシーは、日本における民主主義の萌芽として高く評価されています。たとえば、1945年7月、日本に無条件降伏を要求した「ポツダム宣言」の第十条において、以下のように述べられています。
日本国政府は、日本国国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障害を排除すべし8外務省編『日本外交年表竝主要文書 下』626~627頁(注:適宜句読点を補い、字体を現用のものに改めた)
このように、大正デモクラシーを「国民の間における民主主義的傾向」として評価する声は、同時期の欧米諸国にも存在しました。
一方で政党政治が確立され、民意が政治の動向を左右するようになったことは、さまざな問題点も生み出しています。
昭和期になると、二大政党であった民政党と政友会は選挙に勝つことを至上命題に掲げ、互いに激しい批判を繰り返すようになりました。しかし政争が優先された結果、政治の停滞が生じてしまいます。
そのため民政党の浜口雄幸が以下のように憂慮しているように、やがて国民は政党政治に失望感を持つようになっていったのです。
今日の政治は何人の罪とは言わざるも、確かに国民道徳の平均以下に堕落して、かえって国民道徳を破壊しつつあり。〔中略〕我が国民は、政党政治の樹立を認識するや否や、直ちにその弊害の甚しきに失望せり。9浜口富士子編『浜口雄幸遺稿 随感録』(三省堂, 141頁)(注:適宜句読点を補い、字体を現用のものに改めた)
そして1930年に生じた「昭和恐慌」が深刻化していく中、国民は政党ではなく、満州の権益拡大を目指した軍部を支持するようになりました。政党政治が十分な経済対策を打ち出せない一方で、軍部の行動を景気刺激策として歓迎する声が高まったためです。
当時の国内状況について、政治史学者の御厨貴は次のようにまとめています。
長引く不況の中では、政党の政権至上主義は国民生活から完全に遊離してしまう。〔中略、国民は〕大陸進出によって経済の混迷を打開できるのではと期待を寄せ、軍部に親近感を持つようになっていました。その国民の人気を獲得するため、選挙での勝利と政権争奪に血道を上げる政党は、軍部や反政党勢力に自ら接近し、その力を利用しようとした。しかし、その政党の思惑とは裏腹に、軍部の台頭を招く結果に陥ってしまったのです。10御厨貴『政党政治はなぜ自滅したのか』(文藝春秋)39~42頁
つまり、人々が軍部を支持するようになった結果、民意が無視できなくなった政党は軍部の意向に沿うようになりました。また民意が中国への侵略を支持するようになれば、侵略も正当化されるようになっていったのです。
こうして民意が政党政治を離れ、軍部を支持するようになったことが、日本の軍国主義化を後押ししました。大正デモクラシーは良くも悪くも民意が政治参加する状態を作り出し、民意が日本の動向を規定するようになったきっかけであることが理解できたと思います。
- 第一次世界大戦後、民衆が政治参加以外にも、自分たちが抱えるさまざまな問題を提起し、その解決のために積極的に運動するようになった
- 大正デモクラシーは良くも悪くも民意が政治参加する状態を作り出し、民意が日本の動向を規定するようになったきっかけである
3章:大正デモクラシーについて学べるおすすめ本
大正デモクラシーについて理解を深めることができたでしょうか?
これから紹介する本は、大正デモクラシーを理解する本としておすすめですので、ぜひ読んでみてください。
御厨貴『政党政治はなぜ自滅したのか』(文藝春秋)
本文中でも取り上げた一冊です。明治期・昭和期の政党の動きも取り上げながら、なぜ大正デモクラシー期に政党が力を伸ばし、そして崩壊していったのか考察しています。
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成田龍一『大正デモクラシー シリーズ日本近現代史④』(岩波書店)
新書サイズで、大正時代に生じた主要な出来事をコンパクトにまとめた一冊。初学者でも読みやすいのでおススメです。
(2024/11/21 10:24:44時点 Amazon調べ-詳細)
NHK取材班『日本人は何を考えてきたのか 大正編』(NHK出版)
さまざまな著名人や思想家を紹介し、当時の日本人がどう考え、どのように行動したのかまとめています。大正デモクラシー期に問題となった貧困や国際協調、関東大震災からの復興など、様々なテーマが紹介されています。
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一部の書籍は「耳で読む」こともできます。通勤・通学中の時間も勉強に使えるようになるため、おすすめです。
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などの特典もあります。学術的感性は読書や映画鑑賞などの幅広い経験から鍛えられますので、ぜひお試しください。
まとめ
最後にこの記事の内容をまとめます。
- 大正デモクラシーとは、1912年から1926年まで続いた大正時代の日本で展開された、さまざまな自由主義・民主主義的な運動を指す
- 産業革命の進展と並行して、労働問題・都市問題が顕在化していったことが背景にある
- 大正デモクラシーは良くも悪くも民意が政治参加する状態を作り出し、民意が日本の動向を規定するようになったきっかけである
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