玄学(Xuanxue)とは、中国の魏晋南北朝時代に流行した哲学思潮です。名称に冠する「玄」とは『老子』にある「玄之又玄」に由来しており、暗くて奥深く目に映りにくいものを意味します。
原義的には「三玄の書」と言われる『易経』『老子』『荘子』の三書について解釈を加える学問でしたが、儒教経典の解釈やその他の思想や概念の問題について議論が発展していきました。
この記事では、
- 玄学の概要と成立
- 玄学の影響
- 玄学の思想的特徴
について解説をしていきます。
好きな所から読み進めてみてください。
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1章:玄学とは
1章では「玄学を成立した時代背景」と「特徴」から概観します。
2章では玄学の系統と活動を解説しますので、好きな箇所から読み進めてください。
1-1: 玄学が成立した時代背景
まず、冒頭の確認となりますが、玄学とは、
- 魏晋南北朝時代に流行した思想で知識人の間で盛んになったもの
- 『易経』『老子』『荘子』の三つの書を「三玄の書」として、真理を追究したもの
- これまでの儒教の価値観に対するアンチテーゼでもあり、新しい思想の萌芽でもあったもの
です。
そして、結論からいうと、玄学が流行する前の時代とは、小さな異同はあれど、概ね儒教的世界観によって物事が評価される時代でした。
具体的には、以下のような時代的特徴がありました。
- 前漢の時代においては、一時的に黄老思想の流行があったものの、武帝の時代に儒教を国教としたことで、儒教的価値観で政治や人の評価がおこなわれるようになった
- 当時の人は儒学の徳行と修身によって地方官吏に推薦され、朝廷から官位を貰っていた。この推薦制度は次第に推薦される家や一族が固定化されるようになり、官吏の名門・貴族化が進んでいった
- 貴族化した官吏は文学や絵画、宗教や哲学への造詣を深めてゆき、相対的に儒教的価値観で行う政治への関心が薄れていった
- 後漢の末期からその風潮は顕著となり、儒教への反感も相まって、老荘思想の流行へと繋がっていった(→老荘思想について詳しくはこちら)
玄学では老荘思想の影響を色濃く受けており、「無」を「道」であると考え、無為の政治を理想としました。反対に、「仁愛」や「礼」は軽視されていたという特徴があります。
西晋に入ると、郭象によって、人は自然に身を任せて分に安んじることが重要であると説かれ、己を修めるべきであると主張されるようになり、次第に仏教的な色合いを強くしていきました。
玄学が誕生する時代背景をまとめると、下記の通りです。
- 漢代における儒教の隆盛
- 漢代の官吏の貴族化
- 知識人の老荘思想への傾倒
1-2: 玄学の思想の特徴
では、玄学の思想的特徴にはどのようなものがあったのでしょうか?ここでは、他の思想との相違点や類似点に触れながら紹介していきます。
1-2-1: 儒教との相違点と共通点
玄学は儒教一辺倒だった社会からの新しい哲学的思潮として表れたため、儒教と相違する点はかなり多いです。
たとえば、儒教で最も重視された「仁」や「礼」は、玄学や老荘思想で言うところの「人為」であり、儒教の掲げる自然主義とは真っ向から衝突をするものでした。
玄学が流行り初めの頃(西暦240年頃)は、儒教の影響力がまだ大きい時代でした。玄学の創始者として名高い何晏は、『道徳論』や『論語集解』を著しており、儒教に対して真っ向から対立はせず、折衷する形で自己の理論を展開していきます。
このように、玄学は単なる老荘思想ではなく、儒教と老荘との間にあって、その普遍的な共通点を模索したところに意義があるのです。
儒教に関する記事には、以下のようなものがあります。
1-2-2: 老荘思想との共通点・相違点
玄学は人為を排する自然主義であり、その思想は老荘の思想がベースになっています。そのため、基本的には老荘思想と同じ考え方です。
たとえば、玄学の創始者である何晏や王弼が無為の政治を主張した点や、阮籍・嵆康などが儒教を批判し礼儀作法を軽視した点などは老荘思想と共通するものです。
その一方で、先述した通り儒教との折衷を模索している点が特色となっており、そこに老荘思想との相違点があるのです。
1-2-3: 仏教との共通点
魏晋南北朝時代は老荘思想や玄学が盛んになった時期でもありましたが、同時に仏教も栄えた時代でした。玄学における老荘の考え方は、インドからもたらされた仏教を理解する上で、大きな役割を果たすことになります。
仏教と老荘思想には類似する考え方や概念が存在していたため、共通の概念を利用して仏教を解釈しました。この方法によって解釈された仏教を格義仏教といいます。
具体例を挙げると仏教における「空」が「無」の概念で解釈されたり、仏教語の「涅槃」を「無為」と捉えたりしていました。
- 玄学とは、中国の魏晋南北朝時代に流行した哲学思潮である
- 玄学が流行する前の時代とは、小さな異同はあれど、概ね儒教的世界観によって物事が評価される時代であった
- 玄学は単なる老荘思想ではなく、儒教と老荘との間にあって、その普遍的な共通点を模索したところに意義がある
2章:玄学の系統と活動
玄学は老荘思想と極めて近く共通する点が多々ありますが、思想史全体で捉えた場合、老荘思想の哲学を新しく発展させていくには至りませんでした。
玄学の特筆すべき点は老荘思想を日常生活に取り込み、実践していった点にあります。確かに儒教との折衷など玄学の特色もありましたが、思想史的にみると新しい発想や転換には乏しいものでした。
では、具体的に当時の人々はどのように老荘思想の実践に取り組んだのでしょうか?2章では、玄学を理解する上で、重要な社会的な動きを解説していきたいと思います。
2-1: 正始の風
正始の風は、
別称で正始の音とも呼ばれ、三国時代における曹魏の正始時代(240年~249年)に始まる学風
を指します。
玄学の礎となる最初の動きであり、何晏や王弼(おうひつ)に代表されます。何晏は早くから老荘の思想に影響され、『老子』の注を書きましたが、王弼の注には及ばず、普及しませんでした。
しかし、『論語集解』は広く読まれ、論語注の代表格である鄭玄に次ぐ地位を確立しました。顔には常に化粧をして、不老不死の薬とされた五石散という麻薬を服用していたと言われています。
王弼は老荘の学説では何晏に及ばずながらも、『老子』や『易経』の注釈をつけて、『道略論』を著しました。『易経』は元来、単なる現象を解き明かすための自然科学的な理論でしたが、王弼の注によって、哲学的な要素が加えられたため、後世にまで広く読まれるようになったと言われています。
この様に曹魏の正始時代には、儒教的な価値観から脱し、老荘の学を深める一派が誕生する一方で、儒教と老荘を融合させて解釈しようとする動きが活発になったのでした。
散歩の語源となった麻薬「五石散」
- 何晏が服用していたとされる五石散は、鍾乳石・硫黄・白石英・紫石英・赤石脂という五種類の鉱物から作られていました
- 不老不死や虚弱体質改善の効果があったとされますが、一方で皮膚が敏感になり、体が温まってくる副作用がありました。これを「散発」と言いますが、散発が起きなければ、薬が体内に残ってしまい死亡すると考えられていました
- 散発を維持するためには常に歩いていなければならず、この行動が後々の「散歩」の語源になったと言われています
2-2: 清談
清談とは、
三国時代の末期に流行した知識人たちの哲学的な談話
を指します。
知識人は従来の儒教道徳を超えて、老荘思想をテーマとして奥深い哲学的議論を交わしました。そのため、清談は世俗を離れた清らかで高尚な談話を意味しています。
三国時代の後期に活躍した竹林の七賢はその代表例です。竹林の七賢とは酒を飲んだり清談を行なったりと交遊した、下記の七人の総称です。
阮籍(げんせき)
嵆康(けいこう)
山濤(さんとう)
劉伶(りゅうれい)
阮咸(げんかん)
向秀(しょうしゅう)
王戎(おうじゅう)
一般的には世俗と交わることを嫌い、遁世した隠者と考えられることが多いですが、実は役職や官位を有している官吏でした。七賢の中でも山濤と王戎は三公(天子を補佐する最高位)までになっています。
まだ儒教の影響力が大きかった当時、儒教的倫理観から逸脱することは、死の危険がありました。事実、七賢の中でも嵆康は讒言によって貶められ、死刑となっています。
彼らの倫理道徳から逸脱した言動は、当時の社会に対する憤りの表現であり、命がけの批判表明と考えられています。
2-3: 元康の風
元康の風とは、
武帝の後を継いだ恵帝の元康年間(西暦291年~299年)は、その貴族たちの縦横な振る舞いが極に達した時期
です。
三国時代が終わりを迎えると、晋が天下を統一しました。貴族化した知識人の支持を受けて即位した武帝は、貴族に対して寛容な対応を行いました。
これまで儒教の影響下から脱却できなかった清談貴族も、晋の統一によって、より活動が活発になっていきます。武帝の後を継いだ恵帝の元康年間(西暦291年~299年)は、その貴族たちの縦横な振る舞いが極に達した時期でした。
元康の風と呼ばれるこの時期には、「儒墨の迹鄙(いやし)まれ、道家の言、遂に盛んなり。」(『晋書』向秀伝)と記録されるように、老荘の思想や玄学が隆盛していました。
しかし、その内実は本来の無為自然に無欲を貫く姿勢は失われ、己の欲望のままに振舞う豪奢で自由奔放なものでした。たとえば、大貴族の石祟は金谷の会という宴を開き、泥酔すまで酒を飲み続けたり、酒を辞退する賓客には酌をした美女の首を切らせるなどしていました。
2-4: 自得
自得とは、
西晋の郭象によって唱えられた玄学の到達点ともいえる理論
です。
荘子の注釈を記した郭象は、注にとどまらず、自己の思想を加えて著述しました。その思想の根幹を成す理論が自得です。
自得とは、自己に満足すること、充足することです。他者に押し付けることなく、自分に与えられた天分に満足する自得こそ、荘子の思想の根幹であると説きました。
郭象の自得の発想は老荘の自然の概念をエッセンスとしており、自分で満足して充足すること(自得)は、他者ではなく自分に内在する力でそうなると考えました。郭象は道のあるべき流れによって、自ずと生まれた有なるものを貴び、人間の倫理道徳は元々に備わっているものであると説きました。
2-5: 適性
郭象はその政治思想の一つとして、「適性」の思想を掲げました。「適性」とは、
人にはそれぞれの本分があり、本分を守ることが政治や社会の安定化に繋がるという考え方
です。
この考えは郭象の荘子注において展開されますが、一見すると老荘思想で説くところの「無為」の思想と対立するようにも見えます。
しかし郭象は、本来あるべき本分に則ること(適性)こそ「無為」であると考えたのです。これらの本分はあらかじめ天によって定められたものであり、各人が自分のもちまえを追求していくことが、本分を守ることに繋がると説きました。
この思想は先述した「自得」の考えにも繋がるものであり、郭象は本分に則ること(適性)と、本分に充足して満足すること(自得)が重要であると考えました。
従来の老荘思想では、君臣関係や秩序の「人為」を排除し、「無為」であるべきという発想でした。しかし、郭象の思想では君主や臣下は天から与えられた本分であり、これに従い守ることが「無為」であると考えた点に両者の違いが見て取れます。
- 正始の風とは、別称で正始の音とも呼ばれ、三国時代における曹魏の正始時代(240年~249年)に始まる学風である
- 清談とは、三国時代の末期に流行した知識人たちの哲学的な談話である
- 元康の風とは、武帝の後を継いだ恵帝の元康年間(西暦291年~299年)は、その貴族たちの縦横な振る舞いが極に達した時期である
- 自得とは、西晋の郭象によって唱えられた玄学の到達点ともいえる理論である
- 適性とは、人にはそれぞれの本分があり、本分を守ることが政治や社会の安定化に繋がるという考え方である
3章:玄学を学ぶためのおすすめ本
玄学について理解を深めることはできましたか?
ここで紹介した内容はあくまで学術的な議論の一部であるため、より詳しくはこれから紹介する本をご覧ください。
オススメ度★★★ 森三樹三郎『中国思想史』下(レグルス文庫/1978年)
思想史の大家である森樹三郎氏により、各時代の思想史、そして思想の内容が解説されています。玄学については下巻に収録されており、清談や竹林の七賢、郭象などについて取り上げています。
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オススメ度★★ 井波律子『中国の隠者』(文春新書/2001年)
中国文学が専門の井波律子の著作です。玄学に関する専著ではありませんが、中国の隠者16名をピックアップして著述しています。老荘や竹林の七賢等も紹介され、時代背景についても触れているので、一読してみてはいかがでしょうか。
一部の書籍は「耳で読む」こともできます。通勤・通学中の時間も勉強に使えるようになるため、おすすめです。
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まとめ
最後にこの記事の内容をまとめます。
- 玄学とは、中国の魏晋南北朝時代に流行した哲学思潮である
- 玄学が流行する前の時代とは、小さな異同はあれど、概ね儒教的世界観によって物事が評価される時代であった
- 他者に押し付けることなく、自分に与えられた天分に満足する自得こそ、荘子の思想の根幹である
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