東洋哲学・東洋思想

【朱子学とは】成立の歴史から日本への伝播・影響までわかりやすく解説

朱子学とは

朱子学とは南宋(1127年~1279年)の朱熹によって確立された新しい儒教の学説で、物事の原理原則である「理」を極めることが重視された思想です。

朱子学は北宋の周敦頤(しゅうといんい)、程頤(ていい)・程顥、張載を代表する宋代の儒教「宋学」の流れを汲み、仏教や道教の思想を組み入れて体系化されました。

南宋で誕生した朱子学は後に中国の国家教学となり、科挙に組み込まれたばかりか、後に諸外国にも伝播していきます。

この記事ではそんな朱子学について、

  • 朱子学成立の時代
  • 日本へ与えた影響
  • 朱子学の思想的特徴と成立までの流れ

について解説をしていきます。

お好きなところから読み進めてください。

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1章:朱子学とは

冒頭でも触れた通り、朱子学とは南宋に成立した新しい儒教の学説であり、南宋の朱熹によって成立させられました。朱子学の「子」とは、男性につける敬称で、思想家につけるものです。つまり、朱子学とは朱先生(朱熹)の学という意味になります。

宋代の儒学は朱熹の他にも周敦頤、程頤・程顥、張載など、様々な学説が展開されましたが、共通して「理」を中心として理論が構築されており、理学または宋明理学と呼ばれました。

朱熹は当時の思想家の流れを汲み、理気二元論や性即理説、格物致知、大義名分論などを説き、実践的道徳として社会に浸透させました。

これから朱子学と朱熹、成立した時代背景について説明します。

1-1:朱子学と朱熹

朱熹は1130年(建炎4年)に南剣州尤渓県(福建省三明市尤渓県)の人で、名を熹、字を元晦(げんかい)といいます。父は朱松といい、宋代の新しい儒学に強い関心を抱いていました。子の朱熹は父の影響を受けたと考えられています。

朱熹朱熹

19歳で科挙試験(当時の官吏採用試験)に合格して進士となり、地方官を歴任しました。その後に南宋の4代皇帝寧宗(ねいそう)の政治顧問に抜擢されました。

■進士とは

中国の科挙試験の及第者を指します。唐代までは明経科・進士科の内、進士科の及第者を進士及第などと呼んでいました。しかし、宋代以後は科挙の科目が進士科に統一されたため、科挙及第者は全て「進士」と呼ばれるようになりました。

しかし、韓侂冑(かんちゅうたく)の讒訴(ざんそ:他人を貶めるために訴えること)により僅か40日で職を追われ、政界から追放されました。

朱子学は「偽学」として迫害の対象になり、政界追放後も朱熹の一派59人が処罰されました。この朱子学に対する弾圧を「康元偽学の禁」と呼びます。

朱熹は憂悶の内に1200年(慶元6年)に71歳で死去しました。



1-2:朱子学の概要

朱熹の説いた朱子学は、彼の存命中に日の目をみることはありませんでしたが、後に国家教学となります。

朱子学の基本理念は物事の原理原則である「理」の追求に他なりません。全てのものは「理」という原理原則のもとに存在しており、人も同じであると考えました。

そのため人も本来の「理」に回帰することで、秩序を保つことができ、世に太平をもたらせると朱熹は考えたのです。

この理論を根底にして、人の本質は「理」であると説く「性即理」や、君臣の別が大事であるとする「大義名分論」などが展開されていきました。

1-3:朱子学が成立した時代背景

朱子学は単に朱熹やそれまでの思想家の影響によってのみ誕生した訳ではありません。思想の背景にある社会の状況も大きく影響しました。

1-3-1:宋(北宋・南宋)と北方民族の関係性

宋(北宋・南宋)の時代は異民族からの侵略に悩まされた時代でした。

北方に割拠した遼や西夏などに圧迫され続けたため、北宋は財貨の支払いでこれを抑えようとしました。

その結果、遼とは1004年(景徳元年)に澶淵の盟を結び、毎年多額の金銀や絹を送ることとなりました。他にも西夏とは1044年(慶暦四年)に慶暦の和約を結び、遼と同様に毎年銀や絹、茶などを送りました。

北宋最後の皇帝である欽宗が靖康の変によって金に連行されると、弟である高宗が南に遷都して南宋を興しました。その後も金は中国北部を支配し続け、南宋との間に紹興の和議を締結させます。これによって金は淮河以北の支配を確定させます。

南宋はかつて統治していた北部領土(北宋時代の旧領)を喪失し、毎年金に銀と絹を送るようになります。

1-3-2:異民族の北方支配と中華思想

この様に、宋代は北宋・南宋を通じて、北方民族の侵略に苦慮した時代でした。元々中国には自国を世界の中心とし、その他の国々を未開の蛮族と蔑視する中華思想が根付いています。

宋代は中華思想の理念と現実(遼・西夏・金による北方支配)が乖離した時代だったのです。朱子学が発展した理由の一つとして、理念と現実が乖離した社会状況がありました。朱子学によって、中国のアイデンティティを取り戻し、改めて中華と蛮族の別を明確にしようとしたのです。

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1-4:朱子学と日本

朱子学が日本に伝わったのは、1199年(正治元年)に宋に渡った僧呂 俊芿(しゅんじょう)が儒教の経典250巻を持って帰国した時だと考えられています。その後、元から一山一寧(いっさん いちねい)が来日し、朱子学の注釈書をもたらして発展させました。

1-4-1:朱子学の日本における展開

後醍醐天皇の側近とされる天台宗の僧侶 玄恵(げんえ)は朱子学の講義を行ったとされています。その他にも京都五山や鎌倉五山の寺院において、研究が進められました。

この様に、日本での朱子学はまず天皇や朝廷の臣、そして五山の僧侶など教養の学問として広がりました。

しかし、1467年(応仁元年)に応仁の乱が発生して京都が荒廃すると、朱子学を教養の学として学んだ儒学者が乱を避けて地方へ落ち延び、武家の庇護を受けるようになります。

肥後の菊池重朝や周防の大内義隆、薩摩の島津忠廉などは、臨済宗の僧呂 桂庵玄樹(けいあんげんじゅ)を招聘しました。桂庵玄樹が島津氏の下で朱子学の講義を行ったのがきっかけとなり、薩摩には薩南学派という儒学の一派が生まれました。

その他にも儒学者の南村梅軒が土佐へ渡って吉良宣経に朱子学を講じ、南学という儒学一派を形成しました。

1-4-2:江戸幕末への影響

江戸時代に入っても朱子学は武士や農民に広く浸透し、江戸幕府の正学とされました

朱子学では君臣の別が説かれ、臣下として君主に対する服従の名分を保つことが説かれました。しかし、本来の朱子学が説く君臣関係は君主に過ちがあり、諌止して聞き入れられなかった場合は君臣関係を破棄するのも止む無しという考え方でした。

古くからの儒教においても、徳のない君主に対しては放伐(武力による政権交代)も認められていました。

朱子学によって君臣関係の強化を図った江戸幕府でしたが、幕末になると皮肉にも尊王論を正当化させるための理論にも転用され、明治維新へと繋がっていきました。

1章のまとめ
  • 朱子学とは、朱熹によって成立された思想で、全てのものは「理」という原理原則のもとに存在しており、人も同じであると考えた
  • 朱子学は、中華思想的な理想と現実が乖離した宋の時代において、中華と蛮族を区別しようとした時代背景があった
  • 朱子学は1199年に日本に伝播し、広く社会に浸透し、江戸幕府の正学となった
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2章:朱子学の思想

朱子学は宋代に盛んになった新儒学「宋学」の流れを汲み、その集大成として位置づけられています。

性即理説や理気二元論など中国社会に大きな影響を与えましたが、その思想は全てが完全な朱熹のオリジナルという訳ではありません。

朱熹に至るまでに様々な宋学の大家の思想を体系的にまとめた所も数多くあり、朱子学の思想を理解するには、その宋学の流れを理解する必要があります。

2-1:宋学について

宋学の始祖として最初に挙げられるのは、周敦頤(しゅうとんい)です。

彼は『太極図説』において、万物生成の過程を説明し、その根源を太極であるとしました。太極から陰陽が生まれ、陰陽から五行(木・火・土・金・水)が生まれ、男的なものと女的なものが発生し、両者の交感によって万物が生み出されると説きました。

陰陽説、五行説について詳しくは以下の記事で解説しています。

【五行思想とは】陰陽説との関連から日本への影響までわかりやすく解説

この太極は人の中にもあり、嘘偽りのないまっさらな状態とされました。太極の状態に人が到達するために、周敦頤は「聖人学んで至るべし」と説きました。学ぶことによって聖人になれるという思想は以後、宋学の特徴の一つとなっていきます。

周敦頤の弟子である程頤(ていい)・程顥(ていこう)の兄弟も宋学を代表する人物です。程顥は師の周敦頤が太極をとなえたのに対し、「天理」を説きました。万物を生生する「天理」こそが根源であり、人の中にある天理は、おもむろに養い自得できると考えました。

程顥の弟 程頤は「理」について、理気二元論を展開します。理気二元論とは万物はガス状の粒子である「気」によって構成され、「理」という原理・秩序によって存在しているという考えです。

「理」は「気」を統制している存在であることから、「気」によって構成されている人間も「理」を内包しており、その「理」こそが人間の「性(本質)」であるとされました。これを性即理説と呼びます。



2-2:朱子学の思想の特徴

「結局、朱子学の思想はどんなものだったの?」と疑問かもしれません。結論から言えば、

  • 父子君臣の上下の別を強調した
  • 「理」と「気」はどちらも同時に存在していると考え、詳細に体系化した

というのが特徴です。

朱子学の思想の特徴として、まず挙げられるのは、父子君臣の上下の別を強調した点です。孔子に始まる儒教でも家族的繋がりや役割の重要性と、それによる秩序形成の重要性が説かれましたが、朱子学では為政者のための理論として、君臣の別を強調して論じられるようになりました。

また、朱熹は周敦頤の万物生成の過程を踏襲しましたが、太極についてはこれを「理」と同じであると説き、「理」と「気」はどちらが先に存在するということはないと考えました。「理」「気」はどちらも切り離すことができず同時に存在しているとしたのです。

この朱子学の理気二元論は程頤の説と同じであり、それを詳細に体系づけたというところに意義があります。

朱熹は性即理についても、程頤の主張をそのまま継承していますが、程頤との決定的な違いは、実績にありました。程頤に関する著作は弟子が残した『程川易伝』一つだけで、それも一部残存するのみです。

これに対して朱熹は四書五経すべてに注釈書を残して、朱子学の論理を体系化することに成功しました。

この実績を残した結果、朱子学が王朝を支配する国学として確固たる地位を築くことになったのです。

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2-3:朱子学と陽明学の違い

朱子学は一般的に陽明学と比較されることが多く、その思想にも大きな違いが見て取れます。朱子学も陽明学も同じ宋学の流れを汲む学派です。ここでは、朱子学と陽明学の違いについて、解説をしていきます。

2-3-1:陽明学と朱子学

陽明学とは、王守仁によって成立した新儒教の学説の一派で、明代に成立をしました。「陽明」と名付けられたのは、王守仁の号が「陽明」であったため、陽明学と呼称されました。朱子学が「性即理」を説いたのに対し、陽明学では「心即理」が説かれました。

朱子学においては「理」は人の外にあると同時に、人の中にも含まれているものですが、「情」によって、本来あるべき「理」から離れてしまっていると考えました。「情」は極端になると人欲に繋がるとされます。

しかし、陽明学では朱子学の「情」もまた「理」の一つであるとされ、良知(人に生まれながらに備わっている心)によって「理」を実現することができると考えられました。

この良知は直感的道徳力であり、知(認識)と行(実践)が一致しなければならず、これを「知行合一」と呼びました。

この様に、陽明学は朱子学を批判、否定する形で登場しました。

体制維持に貢献し国学とまでされた朱子学を否定することは、すなわち体制批判に繋がる危険性を孕んでいたため、中国では流行には至りませんでした。

2-3-2:日本への影響

陽明学は日本で大きな影響を持つようになりました。江戸時代では中江藤樹熊沢蕃山などが陽明学を学びましたが、江戸幕府からは弾圧の対象になり、1790年(寛政2年)には寛政異学の禁が起き、陽明学ではなく朱子学を学ぶように徹底されました。

1837年(天保8年)に起きた大塩平八郎の乱の主導者 大塩平八郎も陽明学を学んだ儒学者でした。

陽明学は個人の在り方にフォーカスして理論が展開されたため、日本においても反体制的な色合いが強くでる形となりました。

朱子学と違い陽明学が国学のような位置づけにならなかった背景には、そうした思想的性質によるものが影響していると考えられています。

2章のまとめ
  • 朱子学は「陰陽説」「五行思想」「理気二元論」といった、宋学の流れを汲んだもの
  • 朱子学は、父子君臣の上下の別を強調し、思想を詳細に体系化した点が特徴的
  • 朱子学と同じく、儒教からは陽明学が発生したが、陽明学は個人の在り方にフォーカスした理論であったため、反体制的思想として弾圧の対象となった
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3章:朱子学について学べるおすすめ本

朱子学の要点をつかむことはできたでしょうか。

中国哲学・中国思想について、他にも以下のページで紹介していますのでぜひご覧ください。

→中国哲学・中国思想について詳しくはこちら

朱子学についてさらに深く学びたい場合は、これから紹介する本をぜひ手に取ってみてください。

おすすめ書籍

オススメ度★★★島田虔次『朱子学と陽明学』(岩波新書/1967年)

島田虔次氏による朱子学と陽明学の専著です。思想内容に深く切り込んだ内容になっており、宋学から朱子学の成立まで詳細に書かれています。社会背景などについては、記述が多くはありませんが、朱子学とはどういう思想的な流れを汲むのかを知るには必読の書籍です。

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オススメ度★★★小島毅『朱子学と陽明学』(ちくま学芸文庫/2013年)

島田氏と同様に中国思想史が専門の小島毅氏による著作です。朱子学と陽明学の違いが端的に分かりやすく解説されており、初学者でもスムーズに読み進めることが可能です。思想が誕生した時代背景についても述べられており、前述の島田氏の専著と併せて読むといいでしょう。

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まとめ

最後にこの記事の内容をまとめます。

この記事のまとめ
  • 朱子学とは、朱熹によって成立された新しい儒教の学説の一つ
  • 朱子学は宋学の流れを汲んでいるが、父子君臣の上下の別を強調し、秩序の維持に利用しやすい思想であったため、日本でも江戸時代に正学として取り入れられた
  • 朱子学に対して陽明学は、反体制的な思想を含むものだったため、弾圧された

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