神道とは、日本で古来から信仰されてきた原始的信仰が、外来宗教である仏教や儒教の影響を受けて変質し、日本人の慣習や天皇の祭祀など、さまざまな形に展開したものです1「神道」の定義については諸説があり、一貫して「神道」という体系的な宗教が存在したとは言えません。ここでは、解説のためにゆるやかに捉えています。参考:伊藤聡『神道とは何か』9-15頁。
ほとんどの日本人にとって当たり前に存在するものですが、「神社」「神主」「お守り」などはイメージできても、それが「宗教」であることは意識していない人も多いと思います。
多くの人にとって、神道は宗教というより一種の慣習のような感覚かもしれません。実は、神道を宗教ではないと感じてしまうのは、歴史的な理由があります。
神道について理解することは、「私たちの自身の宗教観を認識すること」「明治維新から第二次世界大戦までの日本のナショナリズム」「天皇制」などを理解する上でとても重要です。
そこでこの記事では、
- 神道の定義、特徴、仏教との違い、種類
- 神道の原始から第二次世界大戦後までの歴史
について詳しく解説します。
関心のあるところから読んでより深く知る上での足掛かりにしてください。
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1章:神道とは
まずは、神道の定義、特徴などのポイントから解説していきます。
このサイトでは複数の文献を参照して、記事を執筆しています。参照・引用箇所は注2ここに参照情報を入れますを入れていますので、クリックして参考にしてください。
1-1:神道の定義
繰り返しになりますが、神道とは、日本で古来から信仰されてきた原始的信仰が、外来宗教である仏教や儒教の影響を受けて変質し、日本人の慣習や天皇の祭祀など、さまざまな形に展開したものです。
※儒教に関してはこの記事を参照ください。→【儒教とは】その教え・朱子学との関係・日本での影響を解説
注意が必要なのは、「そもそも、神道とは何なのか」ということについて研究者の間でも答えが出ていないことです。
そのため、ここでは分かりやすく定義を説明しましたが、たとえば歴史学者の津田左右吉は神道には以下の意味があると指摘しています3『日本の神道』(1949)。
- 古くから伝えられてきた民族的風習としての宗教
- 神そのもの、神の権威、神の力、しわざ、地位など
- 垂加神道など、①のような民族的風習としての宗教に何らかの解釈を加えたもの
- 伊勢神道など、特定の神社で喧伝されているもの
- 日本特有の独特的規範、政治的規範
- 金光教、天理教など近代になってできた宗派神道(教派神道)
実際には上記のように多様な意味で「神道」という言葉が使われることがあり、そもそも定義すらあいまいなのです。
一般的には、①や⑤の意味でイメージされることが多いと思います。
しかし一方で、「神道」というと、それがいかにも一貫した一つの宗教であるかのようにイメージしてしまいますが、私たちが持っている神道のイメージは近代になって作られたものにすぎません。
このように、神道とは説明が難しいものです。
また、研究者の伊藤聡は、『神道とは何か-神と仏の日本史―』で、
- 神道は原始、古代の時代には民族的宗教のようなものではなかった
- 中世の神仏習合によって両部神道、伊勢神道などが生み出された中で、現代イメージされているような宗教としての神道が形成されていった
と主張しています4伊藤、前掲書14-15頁。つまり、古代から一貫した神道という信仰・宗教が存在したわけではなく、神道は仏教と神仏習合する中で現代のような形になっていったと主張しています。
このようにさまざまな議論がありますが、この記事では神道について分かりやすく説明するために、神道を、原始的な民族的信仰が外来宗教の影響を受けて変化していったものとして説明します。
神道の定義をより深く理解するためには、研究者が書いた書籍にあたることをおすすめします。この記事からは、まずは神道の全体像をつかんでください。
※神道の定義から歴史まで以下の本で詳しく学ぶことができます。
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1-2:神道の特徴
神道といっても、神社や神主のイメージは湧いてきても言葉で説明できるほどは知らない、という方が多いのではないでしょうか。
神道について理解するために、まずは神道の特徴を説明していきます。
1-2-1:特徴①教祖・経典がない
通常、宗教には「教祖」「創始者」「唯一神」や「経典」が存在します。たとえば、キリスト教ならキリストが教祖であり『聖書』が経典です。イスラム教なら唯一神アッラーや開祖ムハンマドを信仰し、『コーラン』を経典とします。
しかし、神道には信仰される唯一の神や開祖はいませんし、経典も存在しません。
お正月にお参りに行ったり、受験前にお守りを買ったりした経験がある方は多いと思いますが、お参りするときに具体的な神を思い浮かべたことがある方は少ないでしょう。また、日本人の多くは神道を慣習として取り入れていますが、「神道のどんな教義・ルールに従って行動しているのか?」と問われても答えられないと思います。
2章で説明するように、神道は日本の原始的な信仰や神話から生まれたものなので、教祖も経典もありません。これが、他の宗教との大きな違いです。
1-2-2:特徴②多神教
通常、宗教には神が存在します。そして多くの世界宗教は一神教で、唯一の神を信仰しています。
- ユダヤ教:ヤハウェ
- キリスト教:キリスト
- イスラム教:アッラー
一方で、日本の神道は多神教でかつ祖霊崇拝であるため、あらゆる自然や一族の先祖、社会に大きな貢献をした特定の人物、怨霊などさまざまな「神」が存在します。このように多く存在する神道における神のことを八百万の神と言います5※ただし、多神教は神道以外にも多く存在し、多くの国にあった原始的な信仰やヒンドゥー教、道教、仏教などは多神教です。。
1-2-3:特徴③神道における神の体系
日本の神道における神は、すべてが並列に存在するわけではありません。『日本書紀』『古事記』(記紀神話)などから体系づけられて考えられます。
記紀神話によると、天から地上に神が降りてきた(天孫降臨)ときに、天の神の最高神が天照大神であり天皇の祖先とされています。
そして、神を天の神と地上の神とに以下のように区別しています。
- 天の神
「天津神」「天神」などという。天孫降臨してきた天照大神は、地上の神から国を譲ってもらった(国譲り)。これは、大和朝廷がさまざまな原始的共同体(ムラ、クニ)を吸収していったという経緯から生まれたと考えられる神話。 - 地上の神
「国津神」「地祇」などいう。代表的なのは「オオクニヌシノカミ」など。大和朝廷によって日本が統一される前に、共同体ごとに信仰されていた原始的な神がもとになっている。
※日本の建国に関する考古学的議論について、下記の記事で紹介しています。
【日本の建国とは】日本の成立とその時期についてわかりやすく解説
1-3:神道と仏教の違い
神道と仏教はともに日本に古代から存在する宗教だと考えられています。そのため、神道と仏教をあまり区別していない人もいるかもしれませんが、これは実はある意味でしょうがないことです。
仏教は、そもそも紀元前450年ごろにインドで生まれ、中国を伝って6世紀の日本に伝わったものです。つまり、仏教はもともと外来宗教です。その後、仏教は日本でも独自に発展したのですが、初期の段階から「神仏習合」つまり仏教と神道は部分的に融合しながら発展してきました。
詳しくは2章で解説しますが、神道の神が仏教の体系に組み込まれていたりと、詳しく調べなければ混乱してしまうような体系になっているのです。
1-4:神道の種類(宗派)
一言に「神道」と言ってもいくつものものがあります。主なものは以下の通りです。
- 神社神道
一般的にイメージされる神道で、神社を中心に信仰されるもの。 - 皇室神道
皇室による大嘗祭、新嘗祭などの祭祀を行う神道。 - 教派神道
明治時代以降に誕生した、金光教、天理教などの教祖の神秘的体験から生まれた神道や、伊勢神宮、出雲大社などの古来から続く神社から生まれたもの。 - 国家神道
明治維新から第二次世界大戦までの、国家とイデオロギー的に結びついた神道。 - 復古神道
江戸中期から明治まで続いた、外来宗教である仏教や儒教の影響を排した、純粋な日本ならではの原始的な神道を復活させようとした神道。
細かく分けると、他にもさまざまな神道の流れが存在しますが、まずは上記を覚えておけば神道の歴史を理解するには十分です。
2章では、神道の歴史について詳しく解説しますので、まずはここまでをまとめます。
- 神道は日本の原始的な信仰が、外来宗教である仏教や儒教と融合して展開してきたもの
- 神道には多神教、教祖や経典がないといった特徴がある
2章:神道の歴史
神道の起源となる信仰は、弥生時代の稲作の農耕がはじまったころからはじまった、もしくは縄文時代にあったとも言われます。つまりは、日本で最も古くから存在する信仰なのです。その信仰が古代から現代まで変化し今の形になりました。
そこでここでは、神道の歴史について、原始的な信仰からはじまり現代にいたるまで時系列で説明します。
2-1:原始神道
神道は当初、「ムラ」や「クニ」という古代の共同体単位で信仰されていたもので、「神祇信仰」「カミ信仰」などと呼ばれていました。
このころの神道は、世界に多く見られた信仰である一種のアニミズムであったと言われています。
アニミズムについて、当初は原始的な信仰として論じられていましたが、人類学の立場からは原始的信仰をアニミズムと呼ぶことは否定されています。他の学問ではいまだに原始信仰という意味でアニミズムが使われることもありますが、ここでは自然信仰、物神信仰という意味で使っています。
より詳しくはこちらの記事→【アニミズムとは】意味・特徴・具体例をわかりやすく解説
2-1-1:アニミズムとしての神道
稲作がはじまり社会が狩猟中心から農耕中心に移行しはじめると、共同体にある変化が生じます。それは、稲作は集団での共同作業が必要になるため、トップの指導者が必要になるということです。
また、稲作の生産力は自然によって大きく左右されるため、安定して作物が生産できるように祭りが行われるようになります。「ムラ」「クニ」の指導者によって、共同体での祭りが行われるようになるのです。
この時代の信仰は、万物には霊魂が宿ると考え、それを畏怖しあがめる信仰(アニミズム)です。
この時代から、現代にもその名残が残る以下のような形式が生まれました。
- 「神社」のような常設の場はなく、祭りのときに神が降りてくる「屋代」を作った
- 神は自然の岩や山に降りてくると考えられ、それらが「磐座(いわくら)」「神体山」などと呼ばれた
- 神の声を聞き共同体の人々に伝える(神託)役割の巫女などがいた6伊藤聡『神道とは何か』中公新書16-24頁など
神の声を聞いてそれを伝えることはシャーマニズムとも言われ、これも世界の信仰に存在します。
卑弥呼も神託を人に伝えることで複数の共同体を統治していた、一種のシャーマンだったと言われています。
2-1-2:古代国家と原始神道
卑弥呼が統治した邪馬台国や、3世紀に成立した大和朝廷では、原始神道という一種の宗教と政治が一致して行われていました。
卑弥呼は神託に基づいて政治判断をし、弟とともに邪馬台国を統治していました。
また、大和朝廷も皇后や皇女の神がかり(神託)が政治的影響力を持ったことが、『日本書紀』『古事記』らに記述されており、これも政治と宗教が一致した「祭政一致」の国家であったことが分かります。
しかし、当初は「祭政一致」だった国家と宗教の関係も、その後変化していきます。
そのきっかけの一つは「斎宮制」の成立です。「斎宮制」とは、未婚の皇女が天皇のかわりに、伊勢神宮に奉仕し神託を得る役割を持った制度のことです。
つまり直接神託を受ける斎宮と、祭事と政治を行う天皇とがゆるやかに分離したのです。
さらにその後、仏教という外来宗教の伝来によって、神道は大きく変化していくことになります。
邪馬台国をめぐる議論について、以下の記事でも解説しています。
【邪馬台国論争とは】倭の女王・卑弥呼の所在地の議論をわかりやすく解説
2-2:古代神道
原始神道は、宗教というよりも原始的な信仰で、国家の成立にも無自覚に取り入れられていました。しかし、仏教という外来宗教が伝来したことにより、神道という信仰が明確に自覚され、国家の統治に取り入れられていくことになります。
これが古墳時代、飛鳥時代のころのいわば「古代神道」です。
この時代の神道の変化の特徴は、
- 仏教伝来によって「神仏習合」、つまり仏教と神道が融合された
- 神託による政治は行われなくなり、神道は国家の儀礼となった
- 神道は制度化が進められ、神社や祭司としての神主が誕生
といった点です。
2-2-1:仏教伝来と神道の国教化
そもそも、仏教が伝来したのは6世紀ごろだと言われています。
そして、
- 仏教排斥、神道重視の物部氏と仏教推進派の蘇我氏とが争い、仏教推進派の蘇我氏が勝利する
- 聖徳太子が四天王寺、法隆寺などの寺の建立、「仏教興隆の詔」の発布など、積極的に仏教を推進
というように外来宗教である仏教が国家に積極的に取り入れられていったのです。
またこの時期、国家は単なる共同体の集まりではなく、統一された政治権力になりつつありました。確固たる統一国家となるために、聖徳太子は「十七条の憲法」や儒教思想をベースにした「冠位十二階」などの制度を作ったのです。
こうした統一国家の形成の中で、仏教だけでなく神道も重視され続けていました。
つまり、この時期の国家建設は神道と天皇制を軸に、仏教、儒教などの外来思想も積極的に取り入れられて行われたのです。
2-2-2:神仏習合
神道を理解する上でとても重要なのが「神仏習合」です。これは、仏教と神道が融合していったことを指します。
普通に考えれば、神道というもともとの信仰があるところに「仏教」という外来宗教が輸入されたら、神道を信仰する人々は排斥しそうなものです。しかし、日本ではそうならず神道と仏教は矛盾しない、融合できるものだと考えられたのです。
神仏習合が明らかに見られるようになったのは、8世紀に入ってからです。この時期以降、以下のような形で神道と仏教が融合していきました。
- 神宮寺の設置
神道の場である神社に仏教の寺が併設されるようになり、これを神宮寺と言った。 - 神道の神が仏教的に解釈された
仏教では仏による救済対象を「衆生」、衆生が住む世界を「六道」としたが、神道の神は「六道」の最上位「天道」にいるものの、救済対象であると考えられた - 神前読経
神は仏に救済してもらうために、神前読経、つまり神社にてお経(仏教の経典)を読んでもらうようになった - 菩薩の登場
神道の神の一部が仏の化身である「菩薩」であると考えられるようになった(本地垂迹説)
このように神道と仏教が融合していったのは、天皇が仏教の力を借りて国家運営をしようとした一方で、仏教と神道の体系の矛盾があらわになっていったからです。そのため、ある意味でその矛盾の「つじつま合わせ」として、それぞれの体系が融合され矛盾のないものとして再編成された。それが「神仏習合」のはじまりです。
神仏習合の伝統は、その後明治時代まで続くことになります。
2-2-3:天武天皇による神道の制度化
その後、さらに神道の国教化が進められます。神道の制度の確立を進めた一人が天武天皇です。
天武天皇によって、
- 国家が執り行う公的な祭祀が決められた
- 「神祇官」という祭祀に関わる行政を取り仕切る官庁が置かれた
- 大嘗祭(皇位継承の祭り)が始まった
- 伊勢神宮の式年遷宮(20年に1度の建て直しの行事)が始まった
といったことが行われます。
また、この時代には、
- 祭祀の時などのみに設置される一時的な「屋代」から、常設の建造物である「社」つまり神社が作られるようになった
- 神主は、神託を告げる巫女の役割から、男性神主の祭司へと転換した
といった変化もありました。
つまり、仏教伝来から神道が自覚され、それが意識的に国家の中枢で行われる祭祀などの形で制度化された。祭政一致から祭政分離へと変化し、シャーマニズム的な信仰から国家の儀礼へと神道は変化したのです。
2-2-4:『日本書紀』『古事記』での神話の形成
さらに、天武天皇のころにはじめられたのが日本の歴史の編纂作業で、これは後に『日本書紀』『古事記』になります。
『日本書紀』『古事記』は、古来から日本に伝わってきた神話、伝説をもとに作成されました。
しかし、古来から伝わる神話をそのまま記録したというよりは、大和朝廷による日本の統一を正当化するために、神話、伝説が活用されて一つのストーリーにされたという側面があります。
『日本書紀』『古事記』の編纂によって、日本を統治する天皇は神の子孫(天孫)であり、天皇は「現人神」であるとされました。
こうした一つのストーリーを作り上げ「歴史」にすることで、それを大和朝廷が日本を支配する根拠にし、また日本人としての民族的まとまりが作り出されたと考えられるでしょう。神道は、この「歴史」の中核を担う思想、信仰となったため一種の民族宗教となったのです。
古代天皇とその歴史に関しては、以下の記事でも詳しく解説しています。
ここまでを整理すると、
- 神道は日本の原始的な信仰として生まれ、当初は神託によって共同体の政治が行われた。
- やがて、複数の共同体を統一した国家が成立するようになると、神道は直接政治に影響を与えるというよりも、国家の「祭祀」へと変化していった。
- さらに、古代国家では、仏教も統治に利用されたため、仏教と矛盾なく信仰できるように神仏習合が進められた。
ということになります。これを踏まえた上で、中世における神道の変化を見ていきましょう。
2-4:中世の神道
中世(荘園制が成立した11世紀~16世紀ごろまで)は、政治権力の形が大きく変わっていく時期でした。
2-4-1:武家の台頭
この時代に特徴的なのが、武家の台頭と天皇の役割の変化です。
- 荘園制の発達によって中央の権力が弱まり、権力が分散した
- 天皇にかわって武家が実権を握り、天皇は政治よりも祭祀を行う役割を強めた
「天皇の権力が弱まるにしたがって、神道の役割も弱まったの?」と思われるかもしれませんが、実はそうではありませんでした。
たとえば、鎌倉幕府でも源頼朝は神社の存在を敬い、北条氏も神祇政治を継続します。しかし、応仁の乱以降は国内の混乱、朝廷の弱体化などから伊勢神宮の式年遷宮が行われなくなり、大嘗祭も行われなくなりました。
2-4-2:伊勢神道の誕生
このころまで、神道は国家の信仰であり、天皇が祭司を行い国家の繁栄を祈るものでした。しかし、それが平安時代から鎌倉時代にかけて変化していきます。
その変化の一つが、伊勢神道(度会神道)の誕生です。
伊勢神道とは、伊勢神宮の外宮の豊受大神宮の信仰を中心にした神道のことです。
それまでの神道は、天照大神を信仰するものでしたが、伊勢神道は豊受大神という別の神の神道です。
それまで、神道は国家の繁栄のために信仰されるものでしたが、伊勢神道は個人の繁栄のために信仰されました。貴族や武家が自らのために奉納するようになるのです。
2-4-3:吉田神道の誕生
室町時代後期には、吉田神道が誕生しました。
吉田神道とは、吉田兼倶(よしだかねとも/1435-1511年)人物が作った神道です。
吉田兼倶とは、京都にある吉田神社の社務であった吉田家の5代目の人物で、兼倶は密教や陰陽道の教えを神道に取り入れて独自の神道を作りました。これが吉田神道です。
吉田神道の教えは、
- 森羅万象はクニトコタチから始まっている
- 神道が根本、儒教は枝葉、仏教は花実とした説
といった神道と仏教、儒教が融合したもので、多くの人からの支持を得てその後、神社界における家元的な立場になっていきます7伊藤、前掲書243-244頁。
たとえば、吉田家は全国の神社に許可状を与えることができる特権を持っていました。これの特権は江戸幕府の体制が終わるまで続きました。
このように、中世には神道が分化し、また仏教や儒教を取り入れる神仏習合路線も進むことになったのです。
2-5:近世の神道
近世(安土桃山時代~江戸時代)には、
- 重要祭祀の復興
- 吉田家の特権や役割の拡大
- 儒教と融合した儒家神道の派生
- 仏教や儒教などの外来宗教の影響を排す復古神道の台頭
などの出来事が起こりました。
2-5-1:吉田家の特権拡大と重要祭祀復興
応仁の乱以降にいったん行われなくなっていた式年遷宮や大嘗祭などの重要な祭祀は、16世紀以降になって再開されていきます。
- 式年遷宮:1585年に復活
- 大嘗祭:1687年に復活
- 新嘗祭:1737年に復活
こうした神道の祭祀の復活と並行して、幕府は吉田家の「神社界の家元」としての立場を強化しました。
たとえば、諸社禰宜神主法度(しょしゃねぎかんぬしはっと)を制定して、
- 位階を持たない神職が「白張」以外の装束を着る場合は、吉田家の許可状が必要
- 神職であっても葬式は仏式で行うことが必要としたが、吉田家の許可状を持つ場合は神道式の葬式を行える
といった吉田家の特権を認めたのです。
吉田家はこうして明治維新が起こるまで家元的立場で神社界を監督することになりました。
2-5-2:儒家神道の展開
江戸時代は、儒教の思想に基づいた神道が発展しました。これが「儒家神道」です。
- 理当心地神道:林羅山の神道
- 吉川神道:吉川惟足の神道
- 垂加神道:山崎闇斎の神道
これは儒教という外来思想をより積極的に取り入れた神道ですが、それに対して外来宗教の影響を取り除き、日本古来の純粋な神道を追求する人々も生まれました。
これが、「復古神道」やそれを生んだ「国学」です。
2-5-3:国学と復古神道
国学とは、江戸時代中期に『万葉集』や『古事記』などの古典的書物を研究し、古代日本の思想を明らかにすることから、中国の影響を受けていない純粋な「日本らしさ」を追求した学問・思想のことです。
国学は、以下のように形成され復古神道を誕生させました。
- 徳川光圀の掛け声のもと、水戸藩ではじまった『大日本史』編纂事業で集まった学者たちの間ではじまった
- 契沖の『万葉集』研究、賀茂真淵の『万葉集』『源氏物語』研究、本居宣長の『古事記』研究などが国学を発展させた
- 国学の研究の中から、仏教、儒教などの外来宗教の影響を排した純粋な神道を追求するべきと考える「復古神道」が誕生した
「国学」や「復古神道」について詳しくは以下の記事で解説しています。
【国学とは】純粋な日本人の思想の追求と神道秩序への挑戦をわかりやすく解説
このように、近世は吉田神道の発展、儒家神道や復古神道の誕生など、神道はさまざまな形に派生した時代だったのです。
しかし、「復古神道」は一種のナショナリズムであり多くの支持者を得たため、政治的運動に強く結びついていきます。
2-6:明治時代の神道
復古神道は、2つの動きにつながりました。それが「尊王攘夷運動」と「神道の国教化」の運動です。
2-6-1:尊王攘夷運動
尊王攘夷運動とは、幕府を批判し天皇を尊ぶ(尊王)+外国勢力を排除する(攘夷)運動のことです。
明治維新では、明治政府は復古神道の影響を受けて、古代国家のような「祭政一致」の政治を理想とし「王政復古の大号令」を発しました。
また、「神仏判然令」を出し、神仏分離、いわゆる「廃仏毀釈」が行われます。これは場所によっては非常に厳しいもので、仏教に激しいダメージが与えられ多くの文化遺産が失われました。
さらに、明治政府は吉田家の特権も廃止します。
なぜなら、復古神道は仏教や儒教を融合した思想を持ち、神社界を支配する吉田神道を厳しく批判していたからです。
こうした復古神道の影響を受け、明治政府はさまざまな神道における政策を行ったわけです。
2-6-2:神道の国教化
復古神道の動きから起こったもう一つの運動が「神道の国教化」です。
明治政府は「新神社制度」を制定し、
- 神社を国家の宗祀とする
- 神社を国家の祭祀施設とし私的所有を廃止
- 古代に存在した「神祇官」制度を復活
- 神道を国教にする「教化活動」を行う
といった政策を行いました。
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明治政府は、近代国家として一体化した国家を建設するため、イデオロギー面の支配思想を必要としており、それを「日本人ならではの信仰」である神道に求めたのです。こうした流れの中で、明治の時代になって、天皇が行う「皇室祭祀」も整えられました。
国学の平田篤胤の門下生だった福場美静が神道の国教化に積極的に動き、明治政府はその主張を一部受け入れ、
- アマテラスを祭っている伊勢神宮を頂点とした神社界の秩序を定める
- 天皇のもとに近代化を進める
という方針を打ち出しました。
なぜ国家が近代化の過程でナショナリズムを必要とするのか、詳しくは以下の記事で解説しました。
2-6-3:神道国教化の失敗と国家神道の成立
復古神道の勢力が進めようとした神道国教化の政策は、結論を言えば失敗します。
なぜなら、
- 仏教やキリスト教を排斥し、神道のみを国教として優遇することは、信仰の自由の面から強く批判された
- 神社界の中でも、伊勢の勢力と出雲の勢力が対立し、一部の宗派が離脱するなど混乱が生じた
などのことが起こったからです。
こうした出来事の影響を受けて、明治政府は神道国教化を諦めました。
しかし、天皇を中心とする神道の神の体系自体は捨てませんでした。それは、日本のナショナリズムに必要なものだったからです。
そこで、ここで大きな思想の転換が行われます。それが「神道は宗教にあらず」という決定です。
神道を国家の中核には置くが、神道は宗教ではなく「国家の祭祀」であるため、それは「信仰の自由」を侵害しない。神道は祭祀のみ行うが、国民に教えを説くことはない(教化しない)。という方針です。
こうして成立したのが「国家神道」です。
ここまでを整理すると、復古神道が目指した「祭政一致」の神道にはならなかったものの、天皇を万世一系の神聖な存在にすること、神道を宗教を超えた「国家の祭祀」にしたことは、明治以前の神道からは大きな進化を遂げたのです。
こうして神道は、単なる宗教ではなく国民の道徳、思想、祭祀として位置づけられました。
私たち現代の日本人の多くは、神道を「宗教」というよりも、年中行事の一つや慣習として理解していると思いますが、それは明治の時代に作られたイメージだったことが分かると思います。
2-7:現代までの神道
神道について大きな位置づけが行われたのは明治時代でしたが、現代の神道の姿を理解するためには、それ以降に起こったことも知っておく必要があります。
その後起こった神道の変化には、以下のものがあります。
- 教派神道の誕生
- 神道の教化の復活
- 国家からの神道の分離
順番に解説します。
2-7-1:教派神道の誕生
前述のように、神道は「国家神道」という位置づけで「神道は宗教ではなく祭祀である」とされました。
こうした方針にすべての神道の勢力が従ったわけではありません。一部の勢力はこれに反発し、独自の「宗教としての神道」という道を選びました。
これが「教派神道」と言われるものです。
たとえば、
- 神社として独自に多くの人から信仰を集めてきた伊勢神宮からできた「神宮教」や出雲大社からできた「神道大社(出雲大社)教」など
- 教祖の神秘的体験に基づいて成立した「天理教」「金光教」「黒住教」など
- 山岳信仰の流れから生まれた「丸山教」「御嶽教」など
など13派が政府から公認を受けて「民間」の宗教団体として発足したのです。
2-7-2:神道の教化の復活
神道の一部が民間宗教になった一方で、政府はいったん皇室の祭祀のみを公的なものとして保護し、それ以外の神社への財政支出を削減しようとしました。
しかし、それに神社界が反発したため、政府は、
- 府県以下の神社への公的支出
- 神社の統廃合
- 小学校の神社参拝の奨励(後に強制)
- 公的な神社、祭祀の整備
などを行い神社を部分的に保護したのです。
こうした政府による神道の保護の動きは、戦争に向けてさらに厳しくなっていきました。
「奨励」だった小学校の集団参拝は「強制」になり、「祭政一致」の政治が目指されるようになります。また、祭政一致を進めるために省庁には「神祇院」が設置されました。
戦争に向かい日本人を一丸にするために、天皇を「現人神」とする神道のイデオロギーがより強調されたのです。
2-7-3:神道の国家からの分離
神道は日本の全体主義的体制を支えたイデオロギーと考えられ、戦後はGHQによって糾弾されます8神道指令/1945年。
天皇が行う祭祀は残されましたが、それはあくまで「私的なもの」とされ、その他の国家と神社界の結びつきは取り除かれました。GHQによって国家神道は解体されたのです。
「では、国家と結びつき保護されてきた多くの神社はどうなったの?」
と疑問かもしれませんが、その後神社は単に民間の宗教法人になりました。そしてほとんどの神社は「神社本庁」の傘下に入りました。
「神社本庁」とは、全国の神社を統括する組織で、現在約8万社の神社が参加しています。名前から紛らわしいですが、政府の省庁とは関係がない民間の宗教法人で、渋谷区代々木に本部を置いています。
ほとんどの神社は神社本庁の傘下にありますが、以下のように例外もあります。
- 伊勢神宮は別格の「本宗」としている
- 靖国神社、日光東照宮、伏見稲荷大社、その他教派神道などは、神社本庁の傘下になっていない
ここまでを整理すると、明治以降「国家神道」として政府から保護され、天皇を中心としたイデオロギーの中核を担った神道でしたが、戦後は解体され、民間の神道になっていったのです。
しかし、神道はもともと「宗教ではなく祭祀」という扱いを受けてきたため、現代でも日本人は「神道=宗教」という意識が薄く、一種の慣習として考えている。そんな状況が根付いているのです。
- 神道は古来は神託による政治として利用され、古代に入ってから徐々に祭政分離していった
- 仏教伝来後、国家は神道を中心としつつ仏教も利用し、神仏習合していった
- 近世以降、吉田神道、伊勢神道、儒家神道などが生まれた
- 江戸中期から国学が生まれ、復古神道という純粋な日本的な神道を復活させようとする勢力が力を持った
- 明治政府は神道を活用して国家神道を成立させ、戦後に解体された
- 戦後の神道はほとんどが神社本庁の傘下に入った
3章:神道の学び方・オススメ書籍
神道について要点を理解することはできたでしょうか?
神道の研究は非常に多く、また一般向けの書籍も多数出版されています。そのため、より詳しく理解したい場合はこれから紹介する本から学んでみてください。
伊藤聡『神道とは何か-神と仏の日本史-』(中公新書)
この本でも解説したように、神道は仏教の存在なしに語れないものです。この本では神道の歴史を日本史とともに説明されていて、とても分かりやすいです。前提知識ゼロから学ぶのにオススメです。
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小林正弥『神社と政治』(角川新書)
この記事では触れませんでしたが、現在の神道は政治活動しておりそれが批判されたことがあります。この本はコミュニタリアリズムという政治哲学の立場に立つ著者が、神社の現代における役割や政治活動について詳しく論じています。非常に面白いです。
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森和也『神道・儒教・仏教─江戸思想史のなかの三教』 (ちくま新書)
この本はある程度の神道の知識がないと難しいかもしれませんが、日本を支えた神道、儒教、仏教について詳しく論じられています。日本の宗教を理解する上でとてもいい本です。
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最後に、書物を電子版で読むこともオススメします。
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数百冊の書物に加えて、
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などの特典もあります。学術的感性は読書や映画鑑賞などの幅広い経験から鍛えられますので、気になる方はお試しください。
まとめ
最後にこの記事の内容をまとめます。
- 神道は、日本古来の民族的・原始的信仰が外来宗教である仏教などの影響を受けて、展開していったもの
- 神道は、古代から仏教徒神仏習合してきた
- 神道は、古代は祭政一致していたものの、その後「国家の祭祀」となり、その後明治に入って再び祭政一致が目指された
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