邪馬台国論争とは、『魏志』倭人伝に記された倭の女王・卑弥呼の所在地=邪馬台国の所在地をめぐって歴史学・考古学を巻き込んで交わされている議論のことです。
中国の歴史書『魏志』倭人伝には、3世紀ごろの日本(倭国)の様子が描かれています。その記述のなかに登場するのが、当時の日本における女王・卑弥呼と彼女が都を置いたとされる邪馬台国です。
『魏志』倭人伝には、朝鮮半島の帯方郡から邪馬台国に至るまでの道のりも記録されていました。しかしながら、その記述の通りに進むと、途中から日本列島を大きく外れ遥か南方の海上に至るといわれています。そこで、「邪馬台国の真の所在地はどこか?」といった疑問が沸き上がったのです。
江戸時代に始まったこの邪馬台国論争は、主に「畿内説」「九州説」に分かれて現在でも続いており、決着をみていません。さらに、現代では『魏志』倭人伝の記述だけでなく考古学(=「モノ」から歴史を探る学問)の成果も議論の俎上に挙げられるなど、議論にはさらに拍車がかかっています。
そこで、この記事では、
- 邪馬台国論争の経緯
- 「畿内説」「九州説」について
- 考古学的成果からみた邪馬台国論争
- 「卑弥呼の墓」についての議論
をそれぞれ解説していきます。
好きな箇所から読み進めてください。
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1章:邪馬台国論争の経緯と論点
1章では、邪馬台国論争が起こった原因と、その論争の展開について紹介するとともに、有力な説とされる「畿内説」「九州説」について解説します。
邪馬台国と考古学的な研究のかかわりについては2章以降で解説しますので、関心のある順に読み進めてください。
このサイトでは複数の文献を参照して、記事を執筆しています。参照・引用箇所は注1ここに参照情報を入れますを入れていますので、クリックして参考にしてください。
1-1:邪馬台国論争の歴史
中国三国時代の魏国の歴史について記した『魏志』には、「東夷伝倭人条(=倭人伝)」と呼ばれる記述が残されています。そこに登場するのが倭(当時の日本)の女王・卑弥呼と、彼女が都とした邪馬台国です。
邪馬台国および卑弥呼は3世紀当時の日本に実在した勢力とみられるものの、所在地まではわかっていません。なぜなら、『魏志』倭人伝に記された「邪馬台国への行き方」は不十分なものだったからです。
ここで、『魏志』倭人伝に記された「朝鮮半島の帯方郡から邪馬台国に至る旅程」についての略図をご覧ください。
(筆者作成)
このように『魏志』倭人伝の記述を読む限り、
- 帯方郡を出発後→狗邪韓国→対海国→一大国を経て北部九州に上陸する
- その後、末廬国→伊都国→奴国→不弥国→投馬国→邪馬台国
に至っていることがわかります。
このうち、奴国までは北部九州の各地に比定されてきました。ただし、その先を記述通りに進むと、邪馬台国は太平洋上に立地することになります。
卑弥呼が南方の海上から倭国の統治を行っていたとは到底考えられません。したがって、奴国から先、不弥国→投馬国→邪馬台国と至る旅程の記述に誤りがあるものとされました。
ここで、旅程の記述の解釈をめぐる論争が起こったのです。日本の法制史について邪馬台国時代まで遡る研究を行った上野利三は『魏志』倭人伝の問題点を次のようにまとめています2上野利三「邪馬台国の位置に関する覚書―日本国家史研究の一齣」『法学研究』第69巻12号 慶應義塾大学法学研究会, 238頁。
これまでの邪馬台国論争において、大和説は里程においては有利であるが方角で不利とされ、北九州説はその逆で里程に分がなく、方角では有利とされてきた。これは、倭人伝の文章に読み取りにくい部分があって、その解釈の仕方によっては幾通りかに読める余地があるからである。
そんな「邪馬台国論争」のはじまりは江戸時代にまで遡ります。江戸時代中期ごろ、儒学者・新井白石や国学者・本居宣長らによって『魏志』倭人伝の解釈が試みられ、主義主張こそ異なるものの、ともに邪馬台国九州説にたどり着きました。
※国学に関してはこちらの記事→【国学とは】純粋な日本人の思想の追求と神道秩序への挑戦をわかりやすく解説
もう一方の有力仮説である邪馬台国畿内説も江戸時代には起こっています。後の明治期には九州説をとる白鳥庫吉(東大)と、畿内説をとる内藤湖南(京大)の間で激しい論争が起こります。
以降、古代史学者・考古学者の間で広く邪馬台国の所在地をめぐる学術的な論争が交わされ始めたのです。この件については、邪馬台国論争の経緯をまとめた考古学者の西谷正が簡潔に述べています。少し長いですが、引用します3西谷正「邪馬台国最新事情」『石油技術協会誌』第75巻第4号 石油技術協会, 279頁。
その後,20 世紀に入って,明治43年(1910)に白鳥庫吉(1865~1942)が「倭女王卑弥呼考」(『東亜之光』5 –6・7)を,また,内藤虎次郎(1866~1934)が「卑弥呼考」(『芸文』1 – 2・3・4)をそれぞれ発表して,邪馬台国論争に新たな展開を見せることになった。白鳥は,倭人伝の史料的価値の高さを評価した上で,里程・日数・方位や地名を検討したが,その中で不弥国を太宰府付近に,そして,邪馬台国を肥後国の内に求め,さらに狗奴国を九州南部に当たる熊襲の可能性を示唆した。…(中略)…,内藤虎次郎は,倭人伝の史料批判をはじめて本格的に行ったことで知られる。その上で,宣長以来の邪馬台国九州説を批判するとともに,畿内説を主張した。ちなみに,その論拠として,中国の『隋書』と『北史』に,「倭国は,……邪靡堆に都す,即ち魏志の所謂邪馬台なる者なり」と見える記事を,隋の時代には大和を邪馬台とみなしていた証とした。そして,奴国から投馬国までと,投馬国から邪馬台国までの距離観に無理がないことや,邪馬台国七万余戸とする大国は辺境の筑紫より王畿の大和に求める方が穏当であるとした。
こうした状況に加えて、戦後以降は考古学の進展もめざましく、邪馬台国時代の遺跡の発掘調査の成果などが続々と挙げられました。その代表的な例が1970年代から80年代にかけて調査の進んだ佐賀県・吉野ヶ里遺跡や奈良県・纏向遺跡です。
吉野ヶ里遺跡
纏向遺跡の風景(筆者撮影)
発見当初、これらは共に九州説・畿内説における邪馬台国の有力候補地とされ、ここにプロ・アマ問わず「邪馬台国ブーム」と呼ばれる現象が発生します。
これらの成果に加えて、古墳時代初期の遺跡の調査結果や2章で解説する「炭素14年代測定法」の利用などによって、古墳時代・ヤマト王権の開始時期が古く遡っていることも見過ごせません。
これまで、高校日本史の教科書などでは邪馬台国にまつわる事象を弥生時代の出来事として紹介していましたが、近年では、数々の考古学的な成果から邪馬台国時代と古墳時代とが隣接・重複するとみられています。
考古学者の白石太一郎は、九州の吉野ヶ里遺跡公園でなされた講演イベント資料のなかで次のように述べました4白石太一郎「考古学からみた邪馬台国と狗奴国」『吉野ヶ里遺跡公園特別企画展「よみがえる邪馬台国―狗奴国の謎」講演資料』吉野ヶ里遺跡公園, 1頁。
従来、定型化した大型前方後円墳の出現年代は、3世紀末葉ないし4世紀初頭頃とされてきた。そのため古墳の出現やそのあり方は、3世紀前半の邪馬台国の所在地問題に直接関係しないと考えられていた。ところが最近20年あまりの間に、出現期の古墳に多数副葬されている三角縁神獣鏡の年代研究などが著しく進展し、出現期の前方後円墳の中でも古い段階のものは、3世紀中葉ないし中葉すぎに遡ると考えられるようになってきた。
また、近年、「邪馬台国」「卑弥呼」が地域おこしのキーワードとしても用いられるケースが増えています。いわば、「わが街こそ邪馬台国」といったブランディングです。
このようにみると、『魏志』倭人伝の分析に止まらず、考古学・科学・地域振興をも巻き込みながら、邪馬台国論争はより一層複雑化しているといっても過言ではありません。
1-2:邪馬台国畿内説
邪馬台国畿内説とは、邪馬台国が現在の近畿地方に所在していたとする仮説です。
その根拠として、
- 「邪馬台」は「ヤマタイ」ではなく「ヤマト」と読める→奈良県域=大和国に相当
- 邪馬台国の家の数は「七万余戸」とされている→土地の広い大和盆地にふさわしい
が主に挙げられています。
これらの『魏志』倭人伝の記述に基づく見解に加え、畿内説では以下のような考古学的な成果をよく取り入れてきました。
- 卑弥呼が魏から受け取ったとされる鏡=「三角縁神獣鏡」が畿内の古墳を中心に分布する
- 奈良県桜井市の「纏向遺跡」は、邪馬台国時代の日本で最大の集落(=都市)といえる
- 纏向の地に位置する箸墓古墳は、卑弥呼の墓に相当する古墳である(2章で解説)
箸墓古墳(筆者撮影)
つまり、邪馬台国時代(弥生時代末~古墳時代前期初頭?)にかけての日本の中心は畿内(の纏向周辺)であり、その畿内の勢力こそ邪馬台国にふさわしい、というのです。
1-3:邪馬台国九州説
一方の邪馬台国九州説とは、邪馬台国を北部九州に所在するものとみなす仮説です。
その根拠は、
- 『魏志』倭人伝に登場する地名の多くが北部九州に対応する(奴国・伊都国など)
- 『魏志』倭人伝の旅程記事は伊都国から先を放射状に読むもので、その場合は問題なく九州島内に邪馬台国が存在することになる
- 北部九州と中国大陸との交流の歴史を考えれば、邪馬台国は九州にあったと考えるのが妥当
といった説などが挙げられています。
北部九州の海(筆者撮影)
また、九州説では「畿内説に対する反論」が盛んになされていることも見逃せません。たとえば、以下のようなものがあります。
- 畿内説①に対する反論→三角縁神獣鏡は中国で1面も出土しておらず、魏の鏡である可能性は低い
- 畿内説②に対する反論→邪馬台国が当時の日本列島で最大の勢力である必要はない
しかしながら、邪馬台国畿内説と比べると、「有力候補地が定まっていない」点に九州説の弱点があります。1980年代に調査を受け、一時は邪馬台国の候補地とされていた吉野ヶ里遺跡も、ピークの時期が邪馬台国時代より古い段階とされるなどして有力候補地の座を降りてしまいました。
1-4: その他の説
「畿内説」「九州説」のほかにも、これまでプロ・アマ問わずさまざまな場所が邪馬台国として挙げられています。ただし、そういった有象無象の説はおろか、畿内説・九州説でも確定的な証拠は見つかっていません。
また、こうした論争をみていく上で注意すべき点として、卑弥呼は「邪馬台国の女王」ではない、といった意見にも目を向ける必要があります。これは、奈良大学で長年考古学の研究に従事した水野正好の意見です5水野正好「女王国論(二)」『奈良大学大学院研究年報』第2号 奈良大学大学院 65頁。
倭国女王卑彌呼の宮都が邪馬臺国にあることは『三国志』魏志の明記するところである。從前、この邪馬臺国は、魏志に頻出する女王国と混同され、同一視される場合が多いが、邪馬臺国と女王国は区別されるべき、別個の存在であることは魏志を熟読することで理解される。女王国の謂いは「女王の統治する国」の意であり、「女王の都する国」の意をもたぬことは歴然と窺えるところである。
すなわち、水野は邪馬台国をあくまで卑弥呼の居住地とみており、卑弥呼が統治した範囲は「女王国」≒倭国としました。このように、邪馬台国の所在地をめぐる論争においては、このような視点も重要になってきます。
- 邪馬台国論争とは、『魏志』倭人伝に記された倭の女王・卑弥呼の所在地=邪馬台国の所在地をめぐって歴史学・考古学を巻き込んで交わされている議論のことである
- 奴国から先、不弥国→投馬国→邪馬台国と至る旅程の記述に誤りがあるとされ、その解釈を巡り論争がおきた
- 有名な説に、「畿内説」「九州説」がある
2章:邪馬台国論争と考古学
次に、2章では考古学的な調査の結果明らかになりつつある邪馬台国時代の歴史像をみていきます。
2-1:考古学からみた3世紀前半の日本
邪馬台国の所在地を探る上では、邪馬台国時代(2世紀末~3世紀前半)の日本の状況を詳しく知っておく必要があります。
しかし、次の理由から文献の読解は当時の歴史を探る最適な手段とはいえません。
- 邪馬台国時代の日本の状況を示した『魏志』倭人伝や『後漢書』東夷伝の記述は、不十分な箇所が多い
- 『古事記』『日本書紀』といった日本の文献には、神話的な要素が強い
そのため、ここで注目すべきは、遺跡やそこで出土するモノから歴史を探る学問である「考古学」の研究方法です。
「伊都国」の記事でも触れている通り、邪馬台国時代の直前・弥生時代後期末にあたる2世紀後半ごろまでは、倭国の中心が北部九州・伊都国であったとされています(→【伊都国とは】弥生時代の北部九州に実在した王国について簡単に解説)。
これは、伊都国内に位置する平原1号墓と呼ばれる墳丘墓から、当時の日本でも最高級といえる副葬品類が出土したからです。
平原1号墓
その後、邪馬台国時代の直後、3世紀中ごろ~後半にかけて畿内を中心に前方後円墳を規範とする社会が成立します。これが古墳時代のはじまりであり、ヤマト王権のはじまりです。
平原1号墓や「最初の前方後円墳」は、邪馬台国時代に一部重なる可能性もあります。ただ、邪馬台国の時代が北部九州に日本の中心があった時代と畿内に日本の中心があった時代のちょうど「間」であることは間違いありません。
その「間の時期」には、伊都国の中心地である三雲・井原遺跡やその時代に新たなる奴国の中心となったとみられる博多遺跡群など、北部九州も栄え続けています。中国大陸や朝鮮半島との交流も活発なままです。
その一方で、3世紀前半の畿内にはそれらをはるかに凌駕する巨大な集落が建設されました。これが纏向遺跡です。
纏向遺跡の特徴
- かねてより、纏向遺跡からは畿内系の土器だけでなく北陸系・東海系・吉備系・北部九州系の土器がみつかるなど、他地域との交流が多い場所とみられてきた
- さらに、平成21年には3世紀前半の日本で最大となる大型建物跡が検出された
纏向遺跡大型建物跡(筆者撮影)
大型建物復元(桜井市教育委員会『纏向考古学通信』Vol.2, 5頁より引用)
加えて、日本最古の巨大前方後円墳(後述)といわれる箸墓古墳や、箸墓古墳の前段階にあたる未発達段階の前方後円墳群(いわゆる「纏向型前方後円墳」)も纏向遺跡内に所在しています。
纏向遺跡を長年研究してきた考古学者の寺沢薫は、次のような評価をまとめました6寺沢薫『王権誕生』日本の歴史02 講談社, 250-251頁。
(纏向遺跡は)規模が巨大なだけでなく、北部九州のイト倭国の時とは比較にならないほどの広域な交流の輪を広げ、周辺に前方後円墳が築造され、古墳時代につながる諸々の祭祀が行われるなど、三世紀の日本列島でこれに匹敵する政治的、祭祀的な遺跡を他に探すことはできない。だから、この時期の「ヤマト」に権力の中枢を置く、倭国の新しい政体が誕生したことはもはや動かし難いのだ。私はそれをヤマト王権と呼ぶ。
「纏向型前方後円墳」の分布(寺沢 薫『王権誕生』日本の歴史02 講談社, 261頁)
これはすなわち、邪馬台国時代の日本で最大の勢力を誇っていたのは九州の勢力ではなく纏向の勢力であったことを意味しています。また、その後の展開から考えると、ヤマト王権成立前夜または初期ヤマト王権の所在地が纏向であったことは確定的です。
ただし、これはあくまで「3世紀前半=邪馬台国時代の日本で最大の勢力は畿内に存在した」事実を示すものであって、邪馬台国の所在地はまた別の場所である可能性は大いにありえます。
2-2:「卑弥呼の墓」を巡る論争
『魏志』倭人伝によれば、卑弥呼は西暦247年または248年ごろに亡くなり、「径百歩の塚」に葬られたといいます。
ただ、邪馬台国の所在地が不明である以上は、卑弥呼が葬られたとされる「墓」の位置もわかりません。しかし、十数年の間にとある古墳が「卑弥呼の墓」の有力候補として挙げられるようになりました。
その古墳こそが、奈良県桜井市の箸墓古墳です。箸墓古墳は、
- 前方部が撥型に広がる
- 埴輪の前段階にあたる「特殊器台」や古いタイプの土器が見つかっている
といった特徴から、考古学的に日本最古の巨大前方後円墳とされています。
また、以下のことを踏まえて、考古学的には、箸墓古墳=古墳時代のはじまり・ヤマト王権のはじまりを告げる古墳と解釈されてきました。
- 前方後円墳が全国に拡散する⇒古墳時代
- 大王の墓として巨大前方後円墳を築く伝統が続く⇒ヤマト王権
そんな箸墓古墳が「卑弥呼の墓」の有力候補に挙げられる理由には、主に以下の2点があります。
1つは、『魏志』倭人伝における「卑弥呼の墓」についての記述です。『魏志』倭人伝は、卑弥呼の墓の大きさを「径百歩の塚」と表現しており、これを現代の数値に直すと「直径およそ150mの墓」となります。
奇妙なことに、箸墓古墳の後円部(丸い部分)は直径およそ150mで、『魏志』倭人伝の記述と一致するのです。しかしながら、この説が盛んに取り沙汰された当時は、以下の点から批判を集めました。
- 古墳時代の開始は4世紀からで、卑弥呼の死亡年代(西暦250年ごろ)と合わない
- 箸墓古墳は当初から前方後円墳であり、その大きさを「直径」で示すような墓ではない
さらに、箸墓古墳が「宮内庁に陵墓として管理されている」ことも、箸墓古墳=卑弥呼の墓説に対する批判が根強い理由の一つでした。なぜなら、宮内庁の管理下であるがゆえに調査の手が入りにくく、批判を覆すような発見が長らくできなかったからです。
箸墓古墳は宮内庁の管理下にある(筆者撮影)
そこで、科学の力が援用されます。箸墓古墳の真横に広がるため池から出土した土器の年代を「放射性炭素14年代測定法」と呼ばれる方法で測定した結果、「西暦240~260年ごろの土器である」とのデータが得られたのです。
この研究を報告した論文は、次のように締められています。長いですが、引用します7春成秀爾ほか「古墳出現期の炭素14年代測定」『国立歴史民俗博物館研究報告』第163 集 国立歴史民俗博物館 172-173頁。
古墳開始期にかかわる桜井市纏向遺跡群出土試料などの炭素14年代測定を系統的に実施した。
測定結果は日本産樹木年輪の炭素14年代測定に基づいて較正し,土器型式および出土状況からみた遺構との関係による先後関係から,箸墓古墳の周壕の「築造直後」の年代を,西暦240~260 年と判断した。
この年代は厳密にいうと,周壕が完成した時を示している。しかし,周壕完成後に古墳の築造を始めたわけではないだろうから,この年代幅のなかに,箸墓古墳の築造年代の下限を含んでいると考えてよいだろう。墳丘の長さ280m,後円墳の高さ27mの箸墓古墳の築造に何年間を要したかは測り難いが,仮15年とすると,築造直後の年代が西暦260年に近ければ開始年代は西暦240年に近くなるし,築造直後の年代が西暦240年に近ければ開始年代はそれ以前にさかのぼる可能性もでてくるだろう。
箸墓古墳の年代は,前方後円墳の出現とその後につづく築造の意義についても,あらためて多方面からの検討を迫るものである。
古墳がつくられた年代を探るには、土器の年代観も重要なヒントの一つです。したがって、このデータを素直に解釈すれば、「箸墓古墳が築かれたのは卑弥呼の死亡年代(西暦247年前後)に限りなく近い時期」といえます。この科学的な検証結果は、箸墓古墳=卑弥呼の墓説を補強する2つ目の理由となりました。
当然ながら、科学的な測定方法には疑問の声も大きく、測定結果について100%の信頼が得られていないのも事実です。また、箸墓古墳の築造年代がいくら卑弥呼の死亡年代に近かろうと、箸墓古墳やその周辺から「確実に卑弥呼の墓である証拠(=名前の書かれたモノなど)」が見つからなければ卑弥呼の墓であると断言することはできません。
いずれにせよ、卑弥呼の死亡年代と箸墓古墳の年代=古墳時代の開始とが重なる可能性は大いにありえます。その場合、女王・卑弥呼の邪馬台国連合とその後のヤマト王権につながりがあったのか・なかったのか、は極めて重要な視点です。
もしも、
- 邪馬台国畿内説を取るならば、纏向遺跡および箸墓古墳をスタートラインとするヤマト王権は邪馬台国連合から発達したものと考えてもよい
- 一方で、邪馬台国九州説をとるならば、邪馬台国連合が勢力を失った可能性を考えなければなりらない
です。
しかし、いずれの証拠も見つかっていないのが現状です。
3世紀段階の日本では、文字使用の度合いが後の時代と比べてまだまだ発展段階でした。すなわち、「ここが邪馬台国です」と記した文献や考古遺物が見つかる可能性は限りなく低いものと思われます。
そのため、邪馬台国論争はいわば「悪魔の証明」のようなもので、非常に決着がつきにくい議論なのです。
- ヤマト王権成立前夜または初期ヤマト王権の所在地が纏向であったことは確定的である
- 研究の結果、箸墓古墳が築かれたのは卑弥呼の死亡年代(西暦247年前後)に限りなく近い時期とされる
3章:邪馬台国論争についてわかるオススメの本
邪馬台国論争について理解が深まりましたか?
この記事で説明した内容は邪馬台国論争のごく一部を紹介したに過ぎませんので、もっと知りたい方は参考文献やその他の書籍をご覧ください。
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まとめ
最後にこの記事の内容をまとめます。
- 邪馬台国論争とは、『魏志』倭人伝に記された倭の女王・卑弥呼の所在地=邪馬台国の所在地をめぐって歴史学・考古学を巻き込んで交わされている議論のことである
- 奴国から先、不弥国→投馬国→邪馬台国と至る旅程の記述に誤りがあるとされ、その解釈を巡り論争がおきた
- 研究の結果、箸墓古墳が築かれたのは卑弥呼の死亡年代(西暦247年前後)に限りなく近い時期とされる
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