『カラマーゾフの兄弟』はドストエフスキーの最後の作品で、古今東西の作家に影響を与え、世界の文学史上、欠かすことのできない作品といわれています。
『カラマーゾフの兄弟』は淫蕩のかぎりをつくし、欲望のままに生きる父親フョードル・カラマーゾフのもとに生まれたカラマーゾフ三兄弟を中心とした物語です。
父親のフョードルが何者かに殺されるという「父親殺し」事件が軸となって展開されますが、推理・犯罪小説という側面がありつつも、全体としてその過程で提起されるテーマは多岐にわたっています。
この記事では、
- 『カラマーゾフの兄弟』の背景とあらすじ
- 『カラマーゾフの兄弟』の学術的考察
をそれぞれ解説しています。
好きな所から読み進めてください。
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1章:『カラマーゾフの兄弟』のあらすじ
1章では『カマラーゾフの兄弟』を「背景」と「あらすじ」から概観し、2章では学術的な考察を解説します。
このサイトでは複数の文献を参照して、記事を執筆しています。参照・引用箇所は注1ここに参照情報を入れますを入れていますので、クリックして参考にしてください。
1-1:『カラマーゾフの兄弟』の背景
『カラマーゾフの兄弟』はドストエフスキーの最後の作品で、1879年〜1880年にかけて発表されました。
ドストエフスキーの代表作で、長編五大作品として知られる作品群のうちの一作品です。
- 『罪と罰』(1866年)(→『罪と罰』に関してはこちらの記事)
- 『白痴』(1868年)(→『白痴』に関してはこちらの記事)
- 『悪霊』(1871〜72年)(→『悪霊』に関してはこちらの記事)
- 『未成年』(1875年)
- 『カラマーゾフの兄弟』(1879年〜80年)
原卓也訳『カラマーゾフの兄弟』(新潮文庫、1978年)でいえば、上・中・下巻合わせて1800ページを優に超え、内容・分量ともに文字通りの大著といえます。
ロシア文学者の沼野充義は、『カラマーゾフの兄弟』について次のように概括しています2沼野充義「解説」(沼野充義編『ドストエフスキー』集英社ヘリテージシリーズ、2016年)。
- すべてを呑み込むような「全体小説」である。ここには愛と憎しみ、淫蕩と純潔、金銭欲と殺人、悪と恥辱、無神論と信仰、国家と教会、人間の低劣さと高潔さが詰まっており、その作品世界ははるか後に生きる私たちさえ射程に入れている
- 奔放な情熱といかにもロシア的な善良さを兼ね備えた長男ドミトリー、神の存在を否定する虚無的な思想の持ち主である次男イワン、そしてイワンとは対照的に宗教者としての生きかたを探る清らかな精神の持ち主である三男のアリョーシャの三兄弟、さらにフョードルの私生児であるらしい下男のスメルジャコフを加えた四兄弟とみてもいいが、彼らが描き出す人間の心のあり方は信じがたいほど多様である
1-2:大まかなあらす
前置きはここまでにして、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の大まかなあらすじを紹介しましょう。
フョードル・カラマーゾフは好色家で、淫蕩の限りを尽くし、自堕落な生活を送りながらも、地元の貴族の娘と結婚したことをきっかけとして財産を築き、小貴族となりました。小貴族となったフョードルは、以下のような人生を送ります。
- フョードルは最初の妻との間に長男・ドミトリーを、2番目の妻との間に次男・イワン、三男・アレクセイ(アリョーシャ)をもうける
- 最初の妻はフョードルと喧嘩別れ後に別の男と逃げ出すが、ある日突然亡くなった
- 2番目の妻もフョードルの女性遊びや毎日の乱痴気騒ぎにより気がおかしくなってしまい、亡くなってしまう
そして、残された兄弟は父親からその存在をすっかり忘れられ、見捨てられ、育児放棄されてしまいます。
残された兄弟は、その後、親戚や縁あってある県の篤実家に育てられます。しかし、父親から離れ成人となるに及んで、兄弟は父親のいる街へと帰ってきました。
- 退役軍人の長男・ドミトリーは母親の資産をめぐって父親と争っていた
- モスクワの大学で学び、一人生計を立てていた次男・イワンは、兄に呼び出されるようにして、その調停者として戻ってきた
- そして一方の三男・アレクセイは、その約一年前に彼らより早くこの街に戻っており、ロシア全土にも名が知れているゾシマ長老のもとで信仰生活を送るため、修道院に暮らしていた
その頃、長男・ドミトリーには婚約者である絶世の美女・カテリーナ(カーニャ)がいましたが、この街に暮らしているグルーシェニカに熱烈に恋してしまいます。
彼はそこで、カテリーナから借りていた金を返済し、彼女との関係を清算するため、なんとか自らの財産分ほどの金額、三千ルーブルを手に入れ、グルーシェニカと一緒になろうと企てます。
しかしちょうどその頃、父親であるフョードルもグルーシェニカを自らのものにしようと画作し、彼女を例の三千ルーブルで釣ろうとしていました。財産と女性を巡る彼らの葛藤は、日に日に激しくなっていました。そうしたある日の晩、次のような事件が起きます。
- フョードルの家に忍び込んだドミトリーは、敷地内から逃げる途中で彼の姿を見たフョードルの老僕・グリゴーリイの頭を殴り、瀕死の怪我を負わせてしまう
- そしてまた、その同じ日にフョードルの家から三千ルーブルの金が消えていることがわかり、フョードルも死体となって発見された
父親殺しの罪に問われたドミトリーは裁判にかけられます。三兄弟は、フョードルの私生児とも噂されるカラマーゾフ家の従僕・スメルジャコフが犯人であると主張しますが、スメルジャコフは裁判の前日に自殺していまいます。
裁判中、ドミトリーは父親の金を奪ったこと、そしてその血を流したことに対する無実をあくまでも主張してゆずりませんでした。そうして、一時はドミトリー有利で裁判が進んでいたものの、結果的に、最終的な判決は裁判官や陪審員に委ねられることとなります。
そして、当初から有罪を望んでいた検察側と法廷全体の思惑もあり、結果は有罪、ドミトリーは懲役20年のシベリア流刑の判決を受けました。
判決後、婚約者であったカテリーナやイワンはドミトリーの無実を信じ、彼に脱走を勧めます。しかし、ドミトリーは思い悩み、自らの十字架を背負うべきか、アリョーシャに自らの想いを吐露するのでした。
- ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』は、彼の最後の作品で、古今東西の作家に影響を与え、世界の文学史上、欠かすことのできない作品である
- 愛と憎しみ、淫蕩と純潔、金銭欲と殺人、悪と恥辱、無神論と信仰、国家と教会、人間の低劣さと高潔さが詰まっている
2章:『カラマーゾフの兄弟』の学術的考察
『カラマーゾフの兄弟』は、ドストエフスキーの最後の作品(遺作)であり、彼が経験した事柄や考えてきた思想などが豊富に反映されていると言われています。
こうしたことから、彼の生涯を振り返って、物語にどのように反映されているかを確認していく作業も多くなされています。
ただし、2章では『カラマーゾフの兄弟』という物語やその小説の技法、それ自体をめぐって、どのようなことがこれまでに文芸批評家や研究者によって語られてきたのか、そこに焦点を絞って解説をしていきます。
2-1:『カラマーゾフの兄弟』の多義性
まず、ここでは『カラマーゾフの兄弟』という物語全体がどのように語られ、評価されてきたのかについて確認しましょう。だがその前にひとつここで、『カラマーゾフの兄弟』について知っておきたい情報があります。それは、この小説が未完の作品であることです。
- 小説の冒頭に挿入されている「作者の言葉」では、小説が三男・アリョーシャの伝記であり、全部で「第一の小説」と「第二の小説」という二部からなることが述べられている
- そして、「第一の小説」では作品発表の13年前である1860年代半ば、「第二の小説」では現代(1880年代)における出来事が描かれると述べられている
- にもかかわらず、現在知られている『カラマーゾフの兄弟』は「第一の小説」のみからなっているのである。これは作者が「第一の小説」を完成させた3ヶ月後に亡くなってしまったためであり、そのためにこの小説が未完で終わってしまったのである
しかし、未完にもかかわらず、この作品は多くの文芸評論家・研究者から高い評価を受けてきました。
なぜなら、ここでは聖書で説かれている神を中心として、愛とは何か、罪とは何か、また人間のさまざまな欲望についての鋭い考察が展開されており、人間の生に関する根源的な問題が扱われているためです。
そのため、読む人はそれぞれに何らかのメッセージを得ることになります。この意味で、ドストエフスキーの小説は多義的なのです。
では、文芸評論家・研究者による評価の一例として、小林秀雄(1902〜1983)の評論を詳しくみていきましょう(「カラマアゾフの兄弟」(『ドストエフスキイの生活』新潮文庫、1964年)収録)。
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ちなみに、小林秀雄は、戦前から戦後にかけて活躍した日本の文芸評論家で、日本における文芸評論の第一人者として知られています。小林が『カラマーゾフの兄弟』について語っていることは多岐にわたりますが、そのいくつかを取り出してまとめると次のようになります。
- ドストエフスキーは「第一の小説」よりも結果的に発表されることのなかった「第二の小説」の方が重要であると「作者の言葉」中で述べている
- だが、現在知られている「第一の小説」のみの『カラマーゾフの兄弟』が「凡そ続編という様なものが全く考えられぬ程完璧な作と見えるのは確かと思われる」
一体、そのような指摘をしたのはなぜでしょうか?
同作をほとんど書き上げてしまったころ、ドストエフスキーはある女性宛の手紙に次のようなことを書いています3エカテリーナ・ユンゲ宛書簡(1890年4月11日付)、引用は『ドストエフスキイの生活』291頁。
彼(哲学者ウラジミイル・ソロヴィヨフ)が言うには、自分の深い確信によれば、人類は、今日まで学問や芸術で説き得たところより遥かに多くのことを知っている、と。僕にも同じ考えがあるのです。自分が今日まで作家として説き得たものより、ずっと多くの秘(ひそ)やかな事柄が、自分のうちにあるのを感じています。
ここから作品を書いても書いても、ドストエフスキーの心のうちにはある問題が残った、ということがうかがい知れます。端的にいえば、それは一つの汲み尽くすことの出来ぬ問題、すなわちキリストという問題であり、神の存在、愛、信仰への飢えといった問題です。
つまり、次のようなことがいえます。
- ドストエフスキーが書くことなすこと、全てがその問題につながっているため、これまでの作品でもその問題が追究され、おそらく「続編」が書かれていても、その問題に固執し、その問題が書かれ続けるだろう
- ドストエフスキーが固執した問題というものに注目すると、同作は彼がかつて書いた小説と同様、「続編」が考えられぬほど行くところまで行っている。「完全な形式が、続編を拒絶」している4『ドストエフスキイの生活』290頁
事実、同作にはこれまでの作品を下敷きにした作者の創作上の円熟、技巧の円熟がみられます。その一端は次のようなところからうかがえます5『ドストエフスキイの生活』296頁。
- たとえば『白痴』では、誰にでも胸の内を明かして対していくムイシュキンという一人の人物を通じて、謎めいた周囲の人物たちの姿が次第に明らかになっていくという手法がとられていた
- 同作では、そのムイシュキンの役割を三男のアリョーシャがつとめている。アリョーシャはあらゆる世界を往来する。同作の画面は二つに区切られており、下の方では父と子の間で展開される狂気のような劇が、上の方ではアリョーシャが敬拝するゾシマ長老の静まりかえった僧院がある
- こうしたあらゆる世界の往来、人間劇の重層的な交錯を巧みに描きえた同作は、作者の才能の円熟を表すとともに、作者の思想の円熟を物語っている
加えて、ドストエフスキーは、何もかもを自己の体験から得た人物でした。
生活で骨までしゃぶった人のする経験、人生が売ってくれるものを踏み倒したり、値切ったりしなかった人のする経験、自己防衛術を少しも知らず、何事にものめりこめた人のする経験、そういうものから自分は、何もかもを得たのだ6『ドストエフスキイの生活』287頁
ドストエフスキーはおよそ考えられる限りで可能な方法をことごとく利用して、神や、精神、肉体、人間について考え尽くしたのです。こういう人にとっては、謎から解決に一筋に向かうように論理的に思考していくことは、一種のお遊びのようなものでした。
むしろ彼は、正解らしく見える安易な方法を選択し、解答へと逃れず、謎を謎のままにおいておくことで、何らかの問いを喚起していったのです。言い換えると、「謎を解かず、却ってそれを深め、これを純化する」7『ドストエフスキイの生活』317頁のでした。
2-2:代表的な論考の紹介:精神分析学的考察
『カラマーゾフの兄弟』をめぐっては、これまでに多くの論考が書かれ、さまざまな解釈が提示されてきました。そしてまた、今なお盛んに世界中で研究がなされています。
ここでは、そのなかでも特に著名で、その後のドストエフスキー研究や文学研究に影響を与えた論文、ジークムント・フロイト「ドストエフスキーと父親殺し」(1928年)を紹介します。
- 注意してほしいのが、この論考で提示されたことが「一般的な解釈」であるとか「定説」であるというわけではないことです
- この論考は、たくさんの研究者に引用・参照されることで、いわば批判の対象として多くの後続の研究を促してきました。そのような意味で影響を与えてきたものです
ジークムント・フロイト(1856〜1939)はオーストリアの精神分析学者で、精神分析学という学問の確立に最も貢献したといわれています。(→フロイトの代表的な理論に関しては、こちらの記事)
さて、フロイトの「ドストエフスキーと父親殺し」という論文ではドストエフスキーの伝記や作品を材料としながら、ドストエフスキーを「神経症患者」として扱い、彼はどのような人だったのか、どのような精神疾患を患っていたのか、といったことが論じられています。
ドストエフスキーの作品に精神分析学的アプローチを用いた先駆的な論文であり、この論文のなかでも、特に『カラマーゾフの兄弟』と関連の深い考察がなされている箇所のみを概説していきましょう8日本語訳は、中山元訳『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの』(光文社古典新訳文庫、2011年)。
フロイトは、『カラマーゾフの兄弟』において父親を殺害したのがフョードルの私生児であるらしい下男のスメルジャコフだとした上で、次のように作品を読み解いていきます。
- 父親のフォードルを殺したのは、長男のドミトリーではなく、自らもフォードルの息子かもしれない下男のスメルジャコフ。フロイトは、スメルジャコフをフョードルの息子と断定している
- ここで注目すべきは、スメルジャコフが癲癇の持病を持っていたということ。ドストエフスキー自身も癲癇患者であった。ドストエフスキーは現実における父親との関係において、父親を殺したいという願望があったが、その願望を彼のうちでうまく処理できずにいた
- また同時に、そこには父親を殺すことに対する罪悪感も生じていた。つまりドストエフスキーのうちでは、その願望と罪悪感が混じった葛藤があったのである
- フロイトは、ドストエフスキーのうちでその葛藤の解消をしようとして、心身のバランスを保とうとした結果、癲癇の症状が現れるようになった、というようにみていた
つまり、ドストエフスキーはスメルジャコフに自己を投影し、父親を殺させていました。それによって自らの葛藤の充足を行ったかのようであったのです。
心理学的に見た場合、カラマーゾフの三兄弟、また下男のスメルジャコフもあわせたフォードルの血を分けた全ての兄弟たちは、全員有罪です。それは物語中では、全ての兄弟たちが何らかの形で、自堕落で放埒な父親に対して死を望んでいたからです。
そして、実際にスメルジャコフによってこの犯罪が実行された際には喝采を送りました。そのため彼ら全ては、心理学的な観点から見ると、皆同罪だったのです。
- 聖書で説かれている神を中心として、愛とは何か、罪とは何か、また人間のさまざまな欲望についての鋭い考察が展開されており、人間の生に関する根源的な問題が扱われている
- 心理学学的にいえば、全ての兄弟たちが何らかの形で、自堕落で放埒な父親に対して死を望んでいた
3章:『カラマーゾフの兄弟』を学ぶ本
ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』に関して理解を深めることはできましたか?ぜひ、この記事をきっかけに原著に挑戦してみてください。以下、参考となる書物です。
米川正夫訳『カラマーゾフの兄弟』全4巻(岩波文庫、1957年)
原卓也訳『カラマーゾフの兄弟』上・中・下(新潮文庫、1978年)
亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』全5巻(光文社古典新訳文庫、2006年〜2007年)
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オススメ度★★★ ミハイル・バフチン『ドストエフスキーの詩学』(筑摩書房)
ミハイル・バフチンによれば、ドストエフスキーは彼以前の作家たちとは全くちがった芸術思想を打ち立てたとされる。この研究において、バフチンはドストエフスキーの著作全体に言及しながら、「ポリフォニー」や「カーニバル」を提唱した。ドストエフスキー研究の新たな方向性を提示しただけでなく、文学全般の研究においても、大きな影響を与えた研究。
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オススメ度★★★ V・ローザノフ、神崎昇訳『ドストエフスキイ研究————大審問官の伝説について————』(彌生書房)
ロシアの文芸批評家のV・ローザノフ(1856〜1919)によって1891年に書かれた論考で、『カラマーゾフの兄弟』についてのいわば古典的な研究である。ロザーノフは、作品の第5篇5章「大審問官」をこの小説の核であるとする。『カラマーゾフの兄弟』に対する20世紀的な解釈に道を開いた。
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岩下博美『カラマーゾフの兄弟(まんが学術文庫)』(講談社、2018年)
一部の書籍は「耳で読む」こともできます。通勤・通学中の時間も勉強に使えるようになるため、おすすめです。
最初の1冊は無料でもらえますので、まずは1度試してみてください。
また、書籍を電子版で読むこともオススメします。
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などの特典もあります。学術的感性は読書や映画鑑賞などの幅広い経験から鍛えられますので、ぜひお試しください。
まとめ
最後にこの記事の内容をまとめます。
- ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』は、彼の最後の作品で、古今東西の作家に影響を与え、世界の文学史上、欠かすことのできない作品である
- 愛と憎しみ、淫蕩と純潔、金銭欲と殺人、悪と恥辱、無神論と信仰、国家と教会、人間の低劣さと高潔さが詰まっている
- 聖書で説かれている神を中心として、愛とは何か、罪とは何か、また人間のさまざまな欲望についての鋭い考察が展開されており、人間の生に関する根源的な問題が扱われている
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