ロシア文学

【ドストエフスキーとは】伝記的情報から学術的な評価までわかりやすく解説

ドストエフスキーとは
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 フョードル・ドストエフスキー(Fyodor Dostoevskyとは、19世紀のロシア文学を代表する作家です。代表作に『罪と罰』(1866年)、『白痴』(1868年)、『悪霊』(1871年〜1872年)、『カラマーゾフの兄弟』(1879年〜1880年)などがあります。

その作品は独特な世界観を持ち、殺人、幼児虐待といった現代にも通じる陰惨な社会問題を含み、肉欲や金銭欲など、人間のさまざまな欲望についての鋭い考察が展開されています。そして、それらの作品は、古今東西の作家に多大なる影響を与えてきました。

この記事では、

  • ドストエフスキーの伝記的情報
  • ドストエフスキーの代表的な作品
  • ドストエフスキーの評価と影響

をそれぞれ解説していきます。

あなたの関心に沿って読み進めてください。

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1章:ドストエフスキーとは

まず、1章ではドストエフスキーを「ロシア文学史」「略年譜」から紹介します。2章以降ではドストエフスキーの作品や与えた影響を説明しますので、用途に沿って読み進めてください。

このサイトでは複数の文献を参照して、記事を執筆しています。参照・引用箇所は注1ここに参照情報を入れますを入れていますので、クリックして参考にしてください。

1-1:ロシア文学史

フォードル・ドストエフスキー(1821〜1881年)は、トルストイと並んで19世紀のロシア文学を代表する作家です。後述しますが、代表作に『罪と罰』(1866年)、『白痴』(1868年)、『悪霊』(1871年〜1872年)、『カラマーゾフの兄弟』(1879年〜1880年)などがあります。

また、ドストエフスキーは、プーシキン、ゴーゴリらの影響下に登場した作家であるといわれています。そこで19世紀のロシア文学史を簡単に振り返りながら、ドストエフスキーがどのようなところから創作を開始したのか、簡単に説明していきます。

1-1-1: 前期(1830年代ごろまで)

大きくいえば、19世紀(1800年代)はロシア文学史的に大きく二つの時期に分けられます。まず、1830年代までの「前期」と呼ばれる時期に活躍した作家の功績が、のちのドストエフスキーらの創作を方向付けることとなりました2参照:「第四章 十九世紀」藤沼貴・小野理子・安岡治子『ロシア文学案内』(岩波文庫、2000年)

具体的に、ドストエフスキーが活躍する少し前の時期、1830年代ごろまでに活躍した作家として、プーシキン、ゴーゴリらがいます。この時期、「ロマンティシズム」から「リアリズム」へ、物語詩から散文(小説のような自由な形式の物語)へという流れが見うけられます。

この時期の特徴をまとめると、以下のようなことがいえます。

前記の特徴

  • プーシキン(1799〜1837年)がロシアのフォークロアを取り入れつつ民衆の話し言葉で造形したロマンチックな物語詩『ルスランとリュドミーラ』(1820年)で登場
  • その後、プーシキンによって小説『エヴゲーニイ・オネーギン』(1825〜32年)が書かれる。これまでの古い時代や異国の物語が描かれるのではなく、正面から同時代のロシアが描かれた。「ロマンティシズム」から「リアリズム」への転換点となった作品
  • プーシキンの影響を受け、ゴーゴリ(1809〜52年)が登場。『外套』(1842年)など、同時代のペテルブルクを舞台とした都会の庶民の生活を克明に描いた一連の「ペテルブルクもの」を著した

1-1-2: 後期(1840年代以降〜)

そして、ドストエフスキーが活躍した同時期の作家として、トルストイやツルゲーネフがいます。この時期の特徴として、資本主義の発達により職業作家としての生計の道が開かれたこと、貴族以外の人々が文学の世界に参入してきたことなどがあげられます。

この時期の特徴は、次のとおりです。

後期の特徴

  • プーシキンやゴーゴリらによる「リアリズム」の影響のもと、ドストエフスキーが登場
  • 貴族男子の専有物であった文学界に、貴族以外の階級の人物や女性が参入してくる。トルストイやツルゲーネフは貴族出身であったが、ドストエフスキーは貴族以外の階級出身とみなされる
  • 資本主義の形成とともに全国的に出版業が発達。印税が入ってくるようになり、作家一本で生活する道が開かれる。ドストエフスキーはロシアにおける最初の職業作家

ロシア文学史におけるドストエフスキーの立ち位置を理解することができましたか?次にドストエフスキーの生涯をみていきましょう。



1-2: ドストエフスキーの略年譜

以下ではドストエフスキーの生涯を、彼の作品の背景となった事柄に言及しながら、略年譜形式で紹介していきます3略年譜の作成にあたっては以下の文献を参照しています。工藤精一郎訳『罪と罰』下(新潮文庫、1987年)・江川卓訳『悪霊』下(新潮文庫、2004年)・原卓也訳『カラマーゾフの兄弟』下(新潮文庫、1978年)の各巻「解説」、高橋知之「ドストエフスキー 年譜」(沼野充義編『ドストエフスキー』(集英社文庫ヘリテージシリーズ、2016年)

1-2-1: 1821年

ドストエフスキーは、モスクワのマリヤ慈善病院の医師・ミハイルとマリヤの間に次男として生まれます。彼が10歳の時、父ミハイルはモスクワの南西150キロのところにあるダーロヴォエ村を購入し、以後、ドストエフスキーは毎夏をここで過ごすことになります。

この時代、ドストエフスキー以外の多くの作家は大地主・貴族出身でした(たとえば、トルストイやツルゲーネフなど)。ドストエフスキーはといえば、父ミハイルが領地を得るなどして名目上「地主貴族」になったとはいえ、他の作家と比べ物にならないほど貧しかったといいます。これが、地主・貴族階級以外から生まれた新しい作家であるといわれる所以です。

1-2-2: 1837年(16歳)

13歳の頃からモスクワのチェルマーク寄宿学校に入れられ、一日8時間の勉学に勤しんでいきました。2月、母親が死去し、3月、当時心酔していた作家のプーシキンが死去すると、衝撃を受けることとなります。5月、父親に連れられ兄と共にペテルブルクへ移り、1838年1月、ペテルブルクの陸軍中央工兵士官学校に入学することとなりました。

この頃、文学により強く惹かれるようになり、プーシキン、ゴーゴリ、シェイクスピア、ホフマン、バルザック、ヴィクトル・ユゴーなどの作品を読みふけったといいます。

1-2-3: 1839年(18歳)

この年の6月、父親が領地で百姓たちに惨殺されるという事件が起こります。『カラマーゾフの兄弟』の「父親殺し」の主題はこの事件を土台として生まれたという見解もあります。

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また、父親の事件がきっかけとなり、はじめてドストエフスキーの持病となった癲癇の発作が起こったともいわれています。

『白痴』の主人公ムイシュキンや『カラマーゾフの兄弟』のスメルジャコフなど、ドストエフスキー作品の主要人物のなかには癲癇持ちが少なからずいます。

1-2-4: 1845年(24歳)

工兵士官学校を卒業後に工兵廠製図局に配属となりますが、1844年に小説執筆に専念するため辞表を提出しました。ロシアではじめての職業作家となります。

デビュー作となった『貧しき人びと』(1846年)の原稿は知人の手を介して、ロシアにおける著名な批評家・ベリンスキーの手にわたります。

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ベリンスキーは、この作品をゴーゴリ『外套』に連なる写実的で、人道主義的色彩を持つ作品と絶賛しました。すると、翌1846年、華々しく文壇デビューを飾ることとなります。



1-2-5: 1847年(26歳)

この時期、友人を通じて知り合った社会主義者ペトラシェフスキーの主宰するサークルに出入りします。このサークルは革命行動を企てるようなものではなく、フーリエ、サン・シモンなどの空想的社会主義の理論的研究会という性格のものだったとされています。

※空想的社会主義に関しては以下の記事を参照ください。→【空想的社会主義とは】マルクス主義との違い・各思想家の議論をわかりやすく解説

1-2-6: 1849年(28歳)

前年2月、フランスで二月革命が勃発します。この影響を危惧したロシア当局は警戒を強め、4月にペトラシェフスキー・サークルのメンバーを反動分子として逮捕しました。

ドストエフスキーらは8ヶ月間ペトロパヴロフスク要塞監獄で過ごした後、12月に死刑の判決が下ります。12月22日、銃殺刑の執行直前で皇帝の恩赦がなされ、刑が減刑されると、ドストエフスキーには懲役四年とその後の兵卒勤務が命じられました。

死刑判決は革命分子に対する見せしめであり、当時のロシア皇帝・ニコライ1世が仕組んだ芝居であったとされています。この時の死を目前にした体験が『白痴』の中で語られています。

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1-2-7: 1850年〜54年(29〜33歳)

シベリアのオムスク監獄において流刑生活を経験すると、さまざまな囚人と生活を共にすることとなります。この時の体験が『死の家の記録』(1861〜62年)に描かれています。

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1-2-8: 1857年(36歳)

出獄後、税関役人の妻であったマリヤ・イサーエワと知り合い、恋に落ちます。彼女の夫が亡くなったことから必死にアプローチを続け、ついに結婚に至ります。1859年から妻マリアとペテルブルクに戻り、兄ミハイルと雑誌『時代』を創刊しました。



1-2-9: 1864年(43歳)

この時期、妻マリヤと兄ミハイルがともに急死します。兄の負債と兄の残された家族を養うために借金まみれの生活となりました。

それ以前からドストエフスキーは一文無しになるほど賭け事に熱中していました。基本的に、賭博で一文無しとなっては知人に借金、もしくは原稿料を前借りして、借金と期限に追われるようにして小説を書く、という生活を続けていたのです。

65年〜66年にかけて『罪と罰』を執筆中、借金返済のために無茶な契約を出版社とし、長編をもう一編書かなければならなくなりました。そのため、女速記者アンナ・スニートキナを雇い、『賭博者』(1866年)を口述させます。この出会いがきっかけとなり、アンナと1867年に結婚するに至ります。

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1-2-10: 1867年(46歳)

アンナと結婚後、債権者から逃れて執筆に取り組むため、この年から1871年までスイス・ドイツ・イタリアなどで暮らしはじめます。この間、賭博熱にとりつかれルーレット場に入り浸り、お金がなくなって婚約指輪まで質屋に預けるほどだったといいます。

また、この年から1868年まで『白痴』の執筆に取り組んだといわれています。

1-2-11: 1871年(50歳)

この年の7月、賭博に明け暮れ、金銭面での苦労がたえなかった海外生活を終え、ペテルブルクに戻ります。その後約10年間、若干の金銭面での不安を除き、ドストエフスキーの全生涯においてもっとも安定した日々を送るようになります。

1869年に起きた「ネチャーエフ事件」から着想を得て、1870年〜72年にかけて『悪霊』を執筆しましたが、ロシア国内の進歩的陣営からは革命運動を誹謗するものであるとの批判を受けました。

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1-2-12: 1878年(57歳)

『カラマーゾフの兄弟』の執筆を開始した時期です。海外滞在中から自らの思想・宗教上の問題に向き合い、あたためてきた一部が『カラマーゾフの兄弟』となって結実しました。同作は、ドストエフスキーが1881年(60歳)に死去したため、未完成に終わっています。

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また、個人雑誌『作家の日記』を1873年から1881年にかけて断続的に刊行しました。

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政治・社会問題に関する評論、いくつかの短編作品、1880年にモスクワのプーシキン像除幕式で行った講演『プーシキンについて』などをおさめています。これは晩年のドストエフスキーの思想を理解する上で重要な文献となっています。

1章のまとめ
  • フョードル・ドストエフスキーとは、19世紀のロシア文学を代表する作家である
  • ドストエフスキーが活躍したのは、19世紀の後期である

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2章:ドストエフスキーのおすすめ作品

さて、ドストエフスキーの代表作と呼ばれる4作品を以下で簡単に概説しましょう。詳細は、それぞれの作品紹介ページで詳しく解説しています。

2-1: 『罪と罰』(1866年)

『罪と罰』は、

1860年代の夏のペテルブルクを舞台とし、ある一つの殺人事件をめぐる群像劇が、主人公・ラスコーリニコフの心理的葛藤を中心に描かれたもの

です。

当時のロシアは、1861年に農奴解放令が出されるなど、近代国家へと脱皮する社会変動の時期でした。『罪と罰』には、当時のペテルブルクの社会の様子が書き込まれているとともに、ドストエフスキー自身のこれまでの経験や女性関係が反映されているといいます。

→【ドストエフスキーの『罪と罰』とは】あらすじ・学術的な考察をわかりやすく解説

2-2: 『白痴』(1868年)

『白痴』では、

白痴と呼ばれる主人公・ムイシュキン公爵と二人の女性をめぐる物語を中心として、ロシアの上流社会における群像劇が展開されているもの

です。

ドストエフスキーは同作において、キリストのような「本当に美しい人」を描こうとしていました。トルストイはこの作品を読んで、「これはダイヤモンドだ。その値打ちを知っている者にとっては何千というダイヤモンドに匹敵する」と絶賛しています。

→【ドストエフスキーの『白痴』とは】あらすじ・学術的考察をわかりやすく解説

2-3: 『悪霊』(1871年〜1872年)

『悪霊』は、

1869年のモスクワで起こった「ネチャーエフ事件」という秘密結社による学生殺害事件をそのモデルとし構想されたもの

です。

ツルゲーネフ『父と子』(1862年)で示されたような父と子世代の対立やヴ・ナロード(ナロードニキ)といったロシア社会の状況、無神論、有神論、社会主義などが錯綜した思想的状況が反映されています。

また、ニーチェの思想形成に影響を与えるなど、思想史上も重要な作品として評価されています。

→【ドストエフスキーの『悪霊』とは】あらすじ・学術的考察をわかりやすく解説

→【ニーチェの実存思想とは】特徴・影響・著作からわかりやすく解説

2-4: 『カラマーゾフの兄弟』(1879年〜1880年)

『カラマーゾフの兄弟』とは、

淫蕩のかぎりをつくし、欲望のままに生きる父親フョードル・カラマーゾフのもとに生まれたカラマーゾフ三兄弟を中心とした物語

です。

父親のフョードルが何者かに殺されるという「父親殺し」事件が軸となって展開されます。

推理・犯罪小説という側面がありつつも、聖書で説かれている神を中心として、愛とは何か、罪とは何か、また人間の様々な欲望についての鋭い考察を含んでおり、全体としてその過程で提起されるテーマは多岐にわたっています。

→【カラマーゾフの兄弟とは】あらすじ・学術的考察からわかりやすく解説

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3章:ドストエフスキーの評価と影響

では、これまで紹介してきたドストエフスキーの作品はいかに評価されてきたのでしょうか?3章ではドストエフスキーの学術的な評価を紹介します。

3-1:ドストエフスキーの評価

ドストエフスキーの作品は時代に応じて多様な評価がなされ、ロシアだけでなくヨーロッパ・日本など、世界中でさまざまな多くの読者を獲得してきました。

ここでは、ロシア・ソ連の批評・研究状況を中心に、ドストエフスキー批評史・研究史を大雑把に三つの時期に分けて紹介します。4ルネ・ウェレック/大橋洋一「ドストエフスキー論の系譜」(『現代思想』7(11)、1979年9月)、沼野充義「さまざまな声のカーニバル」(大江健三郎ほか『21世記 ドストエフスキーがやってくる』集英社、2007年)

3-1-1: 同時代的評価・批評(19世紀後半〜20世紀前半)

ゴーゴリ以後、庶民の日常生活をありのままに描く文学は「生理学」もしくは「生理学的スケッチ」と呼ばれ、そうした作風の作家は「自然派」とみなされてきました。ロシア最初の文学評論家であるベリンスキー(1811〜41年)はこれを「写実派」と呼び、肯定的に評価しています。

ドストエフスキーのデビュー作『貧しき人びと』(1846年)は、ベリンスキーによってゴーゴリに連なる写実的ヒューマニズムの傑作と熱狂的賛辞を持って迎えられ、一躍、注目されました。しかし、そのような評価はすぐに変わることとなります。

  • 『貧しき人々』の1ヶ月後に発表された『分身』(1846年)以降の初期作品には、異常心理への病的な関心とリアリズムからの逸脱が見られるようになる
  • すると、ベリンスキーは「(幻想的なものが)場所を占め得るのは精神病院の中だけであって、文学の中ではない。それは医者の職務であって、詩人とは関係ない」5ルネ・ウェレック/大橋洋一「ドストエフスキー論の系譜」(『現代思想』7(11)、1979年9月)204頁と批判
  • 「不安な夢見る人」、「病める魂の外科医」というような見方がなされ流ようになった

その後、当初の名声は、シベリアへ追放された時期(1849〜59年)に次第に色あせていくようになります。1860年を前後して文壇に復帰すると、スラヴ主義的61840年代、ロシアの知識人たちは、ロシアの現状をめぐってスラヴ主義者と西欧主義者とに分かれて論争していた。西欧主義者は西欧文明を取り入れながら近代化することを目指した一方、スラヴ主義者は、ロシアにおける17世紀後半〜18世紀前半以後の農奴制や官僚制を欧化政策の悪しき結果と見て、スラヴ古来の農村共同体に回帰し、これを基盤とした平等な社会を作ろうとした。(藤沼貴・小野理子・安岡治子『ロシア文学案内』(岩波文庫、2000年、193頁)。な政治的見解が色濃い作家とみなされるようになります。

加えて、『悪霊』(1871年〜1872年)から『カラマーゾフの兄弟』(1879年〜1880年)を発表する頃になると、ロシア正教の思想を取り入れた描写から宗教的・政治的保守勢力の代弁者とみなされるようになります。

このように、ドストエフスキーへの評価は必ずしも一定のものではありません。



3-1-2: 20世紀中盤

スターリンの時代、ドストエフスキーの評価には以下二つの大きな区別が設けられた。

  1. 『罪と罰』を含む初期作品群の作家としてのドストエフスキー=「進歩的啓蒙主義者である「良き」ドストエフスキー」
  2. 『悪霊』や『カラマーゾフの兄弟』などの後期作品群の作家としてのドストエフスキー=「反動主義的宗教家である「悪しき」ドストエフスキー」

ドストエフスキーはほとんど禁制品でしたが、初期の作品だけは大量消費に向けて再販が繰り返されました。また、ドストエフスキーの書簡の収集・編纂といった実証的な研究が進みますが、検閲などが厳しく、あまり自由に論じることができない作品もありまいた。

3-1-3: 1960年代以降〜

ミハイル・バフチン『ドストエフスキーの詩学』(1963年)が20世紀後半のドストエフスキー研究に決定的な影響を与えることとなります。具体的に、『ドストエフスキーの詩学』では、「ポリフォニー小説」と「カーニバル文学」が提起されました。

  • ポリフォニー小説…ドストエフスキーの言葉そのものの持つ不思議な作用に注意を向け、文体・言語論的なアプローチをとった(→「『罪と罰』の記事の2章を参照ください。
  • カーニバル文学…ドストエフスキーの小説では、異質な人間同士の接触、常軌を逸した振舞い、高尚なものが汚らわしものになる、といったカーニバル的な世界の諸特徴が見受けられる

特に、ドストエフスキーや古くはフランスのヴォルテールなど「カーニバル文学」につらなる系列の文学では、「聖と俗、真面目さと不真面目さ、高級な文体と卑俗な文体」といった諸々の位相における混じり合いが生じています。

それを通じて、「社会の規範が相対化される」と同時に、さまざまな極限状況の中であらゆる思想が試みられています7解説」(ミハイル・バフチン/望月哲男・鈴木淳一訳『ドストエフスキーの詩学』ちくま学芸文庫、1995年)577頁

また、他にも、精神分析学的アプローチ、記号学的アプローチ、構造主義など、多様なアプローチがなされている。



3-2:ドストエフスキーと日本

ドストエフスキーの作品の日本語訳がはじめて出たのは、1892年のことです。『罪と罰』の英語訳を読んで衝撃を受けたことから、内田魯庵が英語訳『罪と罰』より日本語に訳して出版しました。

それから現在までの約100年以上もの間、日本語でなされた研究だけでも膨大な数にのぼっています。また、ドストエフスキーの作品を内面化し、自らの創作に生かしてきた日本の作家も少なくないです。

ここでは、沼野充義は、埴谷雄高(1909〜97年)、大江健三郎(1935年〜)、村上春樹(1949年〜)という三人の作家を取り上げ、戦後の日本文学におけるドストエフスキー受容の流れを次のように描いています。

埴谷雄高(1909〜97年)…重いドストエフスキー(観念的)

形而上学的な側面を好んで論じた。ドストエフスキー作品のなかの観念的な部分を極度に増幅させ、戦後日本文学史に残る『死霊』(1945〜死去直前まで断続的に執筆された)という作品を著した

大江健三郎(1935年〜)…深いドストエフスキー(方法論的)

ドストエフスキー作品における創作上の方法論に着目した。バフチンの理論に影響を受けながら、『洪水はわが魂に及び』(1973年)、『さようなら、私の本よ!』(2005年)といった長編小説においてドストエフスキーの『悪霊』の影が見受けられる

村上春樹(1949年〜)…軽いドストエフスキー(ポストモダン的)

  • アメリカ現代文学の影響が大きいように考えられがちだが、初期の頃からロシア文学に親しんできていた。ドストエフスキーとその登場人物の固有名を大衆文化のオブジェのように、自らの作中に散りばめる
  • 『1973年のピンボール』(1980年)には、「ドストエフスキーが予言し、僕が固めた」という一節がある8村上春樹『1973年のピンボール』(講談社文庫、2004年)40頁。その方法がポストモダン的な遊びの手法のようである

他にも、日本におけるドストエフスキーの受容史に関する書籍は以下のものがおすすめです。

  • 松本健一『ドストエフスキイと日本人』上・下(レグルス文庫、2008年)
  • ・井桁貞義『ドストエフスキイと日本文化————漱石・春樹、そして伊坂幸太郎まで』(教育評論社、2011年)
3章のまとめ
  • ドストエフスキー批評史・研究史を大雑把に三つの時期に分けて考察することができる
  • 日本では埴谷雄高、大江健三郎、村上春樹が影響を受けてきた

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3章:ドストエフスキーの学び方

ドストエフスキーに関して理解を深めることはできましたか?

以下は深く学ぶためのオススメ本です。ぜひ読んでみてください。

おすすめ本

オススメ度★★★ 小林秀雄『ドストエフスキイの生活』(新潮文庫)

小林秀雄は、戦前から戦後にかけて活躍した日本の文芸評論家です。日本における文芸評論の第一人者として知られています。本作品ではドストエフスキーの思想の変遷が、彼の人柄とあわせて、鮮明に描かれています。

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オススメ度★★★ 藤沼貴・小野理子・安岡治子『ロシア文学案内』(岩波文庫)

同時代的な社会状況がふまえられながら、ロシア文学史における重要作品が丁寧に解説されています。ロシア文学初心者におすすめです。

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オススメ度★★ F・ドストエフスキー 『ドストエフスキー』(集英社文庫ヘリテージシリーズ)

ドストエフスキー作品をはじめて読む人も楽しめますが、作品を一通り読んで、ドストエフスキーについてもっと知識を深めたい人におすすめです。巻末には、ドストエフスキー研究に関する主要文献案内もあり、研究にも有用です。

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などの特典もあります。学術的感性は読書や映画鑑賞などの幅広い経験から鍛えられますので、ぜひお試しください。

まとめ

最後にこの記事の内容をまとめます。

この記事のまとめ
  • フョードル・ドストエフスキーとは、19世紀のロシア文学を代表する作家である
  • ドストエフスキーの代表的な作品として『罪と罰』『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』がある
  • ドストエフスキー批評史・研究史を大雑把に三つの時期に分けて考察することができる

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