ルイセンコ学説(Lysenkoism)とは、ソビエト連邦の農学者トロフィム・ルイセンコによって1930年代に唱えられた独自の進化理論のことです。
1930年代当時すでに科学的に常識となっていた遺伝子の存在を否定するなど突飛な面があるにもかかわらず、スターリンの庇護のもと、この疑似科学的な学説はソ連において唯一正統な進化理論として受け入れられていました。
科学と政治権力の関係、あるいは、ソ連における自然科学の進展を考察にするにあたって、ルイセンコ学説は格好の事例として知られています。
そこでこの記事では、
- ルイセンコ学説の興亡
- ルイセンコ学説の世界的な広がり
について解説します。
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1章:ルイセンコ学説の興亡
1章ではルイセンコ学説がいかにしてソ連の正統な進化理論として受け入れられ、そして、急速に忘れ去られていったかを解説します。
ここで重要なのは、ルイセンコ学説の興亡を把握するにはルイセンコという人物だけに注目していたのでは不十分だということです。
その全体像は、1920/30年代当時のソ連の政治・経済・文化状況、あるいは、そのなかでの科学科学の位置づけを考慮に入れることではじめて見えてきます。
こうした観点から以下ではまず、ルイセンコの登場を準備したソ連の政治・経済・文化状況を確認していこうと思います。
このサイトでは複数の文献を参照して、記事を執筆しています。参照・引用箇所は注1ここに参照情報を入れますを入れていますので、クリックして参考にしてください。
1-1:ソ連の政治・経済・文化——弁証法的唯物論——
ソ連の政治・経済・文化状況を語るためには何よりも、マルクスとエンゲルスに起源をもつ「弁証法的唯物論」という思想に触れておく必要があります。
なぜなら、ロシア革命を主導した共産党内部、あるいは、当時のソ連の知識人のあいだではこの思想が絶対視され、そのことがあらゆる活動に影響を与えていたからです。
弁証法的唯物論とは簡単に言えば、以下のようなことを指します。
弁証法的唯物論とは
- 土地や作物といった物質、あるいは、そうした物質と身体的・肉体的に直接関わりをもつ労働者(プロレタリアート)こそが根源的な存在であり、あらゆる思弁や観念は本来、労働者と物質の関わりのなかでのみ生成すると考える哲学的立場のことである
- この思想は思弁や観念のみを重視し、さらにはそうした観念をこねくり回すことで、自分たちに有利な社会構造を構築してきたブルジョワジーや宗教家への批判に結び付いた
- その後、彼らによって不当に搾取されているが、本来あらゆる観念の根拠となるべきプロレタリアートを中心とした社会、すなわち共産主義社会の出現の必然性を唱える理論(この理論は一般に「唯物史観」と呼ばれています)の発展を促すことになった
そして、こうした思想によって建国されたソ連では、党本部の指導にもとづき、これまでブルジョワジーによって作られてきた「間違った」社会制度や文化や、これらによって無意識的に「洗脳」されてきた人間の思考を矯正していきます。
そして、プロレタリアートの価値観や生活様式(=あらゆる思弁や観念の基礎)に根ざした「正しい」社会や文化を構築しようとする運動があらゆる領域で急速に進められます。
マルクス主義に関しては、こちらの記事でも詳しいです。
【科学的社会主義とは】マルクスの問題意識から理論までわかりやすく解説
【上部構造・下部構造とはなにか】マルクスの議論をわかりやすく解説
また、マルクスの理論についてはこちらの書物がわかりやすいです。
たとえば、ソ連では「社会主義リアリズム」や「プロレタリア科学」が実施されました。
- 社会主義リアリズム・・・文学や絵画など芸術活動は社会主義・共産主義社会のすばらしさを賛美し、労働者の革命思想を開花させるものでなければならないと定められていました
- プロレタリア科学・・・自然科学の領域において、支配層である資本家の視線からなされてきた旧来の「ブルジョワ科学」に代わって、より根源的な思考が可能であるとされた労働者が主体となった「プロレタリア科学」の必要性が説かれた
こうした背景のもと登場したのが、ルイセンコ学説です。
ルイセンコが自説のマルクス主義的な正しさを宣伝した結果、科学理論としての整合性を著しく欠いていたにもかかわらず、ルセインコ学説がソ連国内で唯一正統な進化理論になるという非常に錯綜した事態が生じました。
以下では、ルイセンコという人物、ならびに、彼の進化理論について詳しくみていこうと思います。
1-2:ルイセンコ学説の登場
トロフィム・ルイセンコはウクライナの農村出身の農学者、遺伝学者です。
ルイセンコ独自の疑似科学的な進化理論がソ連で唯一正統な理論として地位を獲得した経緯を把握するにはまず、彼が普及させた「春化処理」という農法に注目する必要があります。
春化処理(バーナリゼーション、ヤロビザーツィア)とは、
秋播き性の穀物(秋播きコムギなど)を一定期間低温にさらすことで、それらに春播きに適した性質を付与する農業技法のこと
です。
穀物の収穫量を増大させるとして春化処理は当時世界的なセンセーションを巻き起こしましたが、実際にはいくつかの問題をはらんでいたため、穀物の増産という観点からはそれほど大きな成果を上げることはありませんでした。
また、この処理自体は数多くある農法のひとつであり(現在でも一部で利用されています)、当初はいかなる政治性も持ち合わせていませんでした。
しかし、1930年代前半に、当時オデッサの遺伝学研究所に所属したいたルイセンコのもとへプレゼントという人物が訪れたことから事態は急速に動き出します。
- 共産党内部で生物学研究のあり方の指導していたプレゼントは、当時、党内での自らの影響力を高めようとしていた
- そのために注目したのが、穀物の春化処理についての研究に従事し、そうした研究の結果として、独自の進化理論を導き出していたルイセンコであった
ルイセンコの進化理論(=ルイセンコ学説)では、低温にさらすことで本来秋播き性であった穀物が春播きにも対応する春化現象を、穀物が外部の環境(低温)に合わせてその性質を変化させた結果であると解釈し、さらには、こうした獲得した性質は次世代に遺伝するとしていました。
そして、こうした理論は、以下のように、当時の社会にとても重要な意味をもっていました。
- 1930年代初頭のソ連を襲った大規模な飢饉への対処として、効率的に増産可能な穀物種の獲得を必要としていた党指導部にとって都合が良かった
- 前述したプレゼントは、ルイセンコ学説をうまく利用すれば党内で自らの影響力を拡大できると考えていた
ここで重要なのは、当時世界的にスタンダードであった進化理論を学び、その第一線で活躍している科学者から見て、ルイセンコ学説は理論的に稚拙というほかなかったということです。
たとえば、穀物が外部の環境に合わせて比較的すぐに新しい形質を獲得し、それが次世代に遺伝するというルイセンコの主張は、ダーウィンの理論とメンデル遺伝学に依拠し、変化に乏しい遺伝子の存在を中心にした最先端の進化理論において受け入れられるものではありませんでした。
その結果としてルイセンコの進化理論は、理論的に欠陥があるとして、ソ連農業科学アカデミー総裁であったヴァヴィロフをはじめ多くの正統派の遺伝学者によって激しく批判されることになります。
しかし、これに対してルイセンコとプレゼントは、マルクス主義の観点から反論を試みます。彼らの反論の要点は以下のとおりです。
反論の要点
- 弁証法的唯物論を正しく理解していれば、生物が環境に合わせて自発的に進化するというルイセンコ学説に行き着くはずである
- ヴァヴィロフらの遺伝理論が基礎とする「遺伝子」などはきわめて形而上学な観念(現在では「遺伝子」はむしろ物質であることが判明しているが、当時は理論的仮説にとどまっていた)であり、プロレタリアート的ではない
その後、ソ連の最高指導者であったスターリンの後ろ盾のもと、ヴァヴィロフに代わって農業科学アカデミーの総裁に就任ルイセンコは、
- 「観念論的である」
- 「形而上学的である」
- 「ブルジョワジーの価値観を反映させた旧世代の科学である」
- 「反動的であり革命の阻害している」
- 「人民の敵である」
など共産主義国家に典型的なレトリックを多用し、ヴァヴィロフらルイセンコ学説の批判者を大量に粛清します。
そしてその結果として、ルイセンコ学説がソ連における唯一正統な進化理論として認定されるようになります。
以上が、ルイセンコ学説が登場し、国家的に認められるに至った経緯です。要するに、ルイセンコは科学的・学術的な議論を政治的な議論を意図的にすり替えることで、自説を広く普及させることに成功したのです。
さて、こうして成立したルイセンコ学説は、以後、ソ連においてどのように扱われたのでしょうか。以下では、その歴史を辿って見たいと思います。
1-3:ルイセンコ学説の終焉
繰り返しになりますが、1930年代後半に確立したルイセンコ学説は政治権力と結びつくことでソ連の学会を席巻しました。そして、その批判はプロレタリア革命に水をさす「ブルジョワ的行為」であるため固く禁じられていました。
しかし、こうした状況は1942年の独ソ戦の開始をきっかけにして徐々に変わりはじめます。
状況の変化
- ナチス・ドイツへ対抗するためイギリスやアメリカといった国々と協力関係を築いたことをきっかけに、内心ではルイセンコ学説に批判的であったソ連の科学者は、これらの国々の科学者と交流することができるようになった
- また同時に、ソ連の科学状況を嘆いていたイギリス・アメリカの科学者も、ソ連国内の良識ある科学者を支援するため反ルイセンコのキャンペーンを開始した
こうした動きはたしかに、ソ連国内でルイセンコ学説に批判的であった学者にある程度有利にはたらきました。これに対して、ルイセンコはソ連の最高指導者であったスターリンならびにフルシチョフの政治的支援を引き出し、たくみに自説の影響力をたもち続けます。
しかしながら、1950年にDNAの二重らせん構造が明らかになり物質としての遺伝子の存在が確定的になると、ソ連国内でさえ遺伝子の存在を否定するルイセンコ学説の支持者はいなくなりました。
そして、1964年には農業科学アカデミーがルイセンコ学説を唯一正統な進化理論とみなす方針を取り消すに至ります。こうしてついにルイセンコ学説は学会から消滅することになりましたが、その被害は甚大でした。
ルイセンコと彼の支持者は正統派の遺伝学者を大量に粛清したため、ソ連の農業技法と遺伝学は致命的な停滞と後退を余儀なくされたのです。
- ルイセンコ学説とは、ソビエト連邦の農学者トロフィム・ルイセンコによって1930年代に唱えられた独自の進化理論のことである
- ルイセンコは科学的・学術的な議論を政治的な議論を意図的にすり替えることで、自説を広く普及させることに成功した
2章:ルイセンコ学説の世界的な広がり
さて、以上がルイセンコ学説の興亡の概要ですが、その影響は実のところ、ソ連のみではなく世界中に及んでいました。
つまり、ルイセンコ学説の支配は基本的にはソ連を中心にした出来事でしたが、共産主義の世界的普及にともない、その影響は東欧などの共産主義国家を中心にして世界各国にも及んでいたのです。
以下では、アメリカとイギリスおよび日本を取り上げ、ルイセンコ学説がどのように受け入れられたかを確認してみたいと思います。
2-1:アメリカとイギリス
マルクス主義の普及と相まって、欧米でも社会主義・共産主義者を中心にしてルイセンコ学説は「マルクス主義的に正しい科学」として賞賛されていました。しかし、すでに述べたように1942年の独ソ戦の開始をきっかけに状況は変わりはじめます。
科学者間の交流が進んだ結果、ソ連国内で正統派の遺伝学者が弾圧されていることが明らかになり、これを受けて、アメリカとイギリスの科学者は反ルイセンコ・キャンペーンを開始します。
キャンペーンにはマルクス主義にシンパシーを抱いていた科学者も多く参加したため、結果としてアメリカとイギリスの共産主義者のあいだでは、次の二つの勢力で激しい論争を生じました。
- あくまでルイセンコ学説を「プロレタリア科学」の出現として歓迎する勢力
- ルイセンコ学説を科学的・学術的観点から批判する勢力
共産主義者内部にあってもルイセンコ学説への批判勢力が存在した点で、アメリカとイギリスにおける状況は、ソ連あるいは共産主義国家における状況と異なっていたと言うことができます。
2-2:日本
日本においても戦後すぐルイセンコ学説が紹介され、主に共産主義者や社会主義への憧れをいだく左翼系知識人によって好意的に受容されました。
しかしながら欧米でルイセンコ学説への批判が強まると、日本でも正統派の遺伝学者を中心にして、ルイセンコ学説を支持する左翼系知識人にたいして科学的・学術的視点から批判が加えられるようになります。
- アメリカ・イギリスでは共産主義内部においてもルイセンコ主義への批判が高まったのに対し、日本の共産主義者や左翼系知識人においては、マルクス主義的には理にかなっているルイセンコ学説を無批判的に受け入れる傾向が強かった
- 共産主義者でありながらルイセンコ学説を批判していた人物はほぼ例外なく、党の方針にしたがって自説を撤回している
アメリカやイギリスと違い、日本の共産主義者においてなぜこうした傾向が強かったかについては、現在に至るまでさまざまな議論が交わされています。
さて、ここまでがルイセンコ学説の概要になります。端的に言えば、ルイセンコ学説とは政治権力が科学研究を歪ませた事例のひとつであったと言うことができるでしょう。
- アメリカとイギリスの共産主義者のあいだでは、ルイセンコ学説を巡って二つの勢力で激しい論争になった
- 日本の共産主義者や左翼系知識人においては、マルクス主義的には理にかなっているルイセンコ学説を無批判的に受け入れる傾向が強かった
3章:ルイセンコ学説を知るためにおすすめの本
ルイセンコ学説について理解することはできたでしょうか?ルイセンコ学説は難解ですが、今でも読む意義のある本です。時間をかけても挑戦してみることをおすすめします。
関連書と共に読んでみてください。
ジョレス・メドヴェジェフ『ルイセンコ学説の興亡』(河出書房新社)
本書の著者は、ソ連の農学者としてルイセンコ学説の興亡を実際に目の当たりにした人物であり、当時の状況がとてもリアルに記述されています。ルイセンコ学説を知るためには必読の書と言えます。
藤岡毅『ルイセンコ主義はなぜ出現したか——生物学の弁証法化の成果と挫折——』(学術出版会)
本書ではルイセンコ学説の興亡が、とりわけソ連共産党内部の哲学的な路線対立と関連させて論じられています。また、ルイセンコ学説が日本に与えた影響についてもかなり詳しく記述されています。
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まとめ
最後にこの記事の内容をまとめます。
- ルイセンコ学説とは、ソビエト連邦の農学者トロフィム・ルイセンコによって1930年代に唱えられた独自の進化理論のことである
- ルイセンコは科学的・学術的な議論を政治的な議論を意図的にすり替えることで、自説を広く普及させることに成功した
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