ジャパンバッシング(Japan bashing)とは「日本叩き」のことで、特に1980年代に対日赤字が増大したアメリカが、経済の好調だった日本に対して行った一連の反発と抗議のことを言います。バッシング(Bashing)とは、特定の人・組織・国などに対して激しく批判することです。
ジャパンバッシングは1980年代のことで、今さら何を学べるんだ?と考えるかもいるかもしれません。
しかし、現在のアメリカと中国の関係をみると、ジャパンバッシングはそれほど遠い現象ではないことがわかります。(決して同列で語ることはできませんが)
そこで、この記事では、
- ジャパンバッシングの背景
- ジャパンバッシングの具体的な例
- ジャパンバッシングの日本側の原因
をそれぞれ解説していきます。
あなたの好きな箇所から読み進めてください。
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1章:ジャパンバッシングとは
まず、1章ではジャパンバッシングを「背景」と「具体例」から紹介します。2章では日本側の原因を紹介しますので、あなたの関心に沿って読んでみてください。
1-1: ジャパンバッシングの背景
結論からいえば、ジャパンバッシングが行われることになった背景には、アメリカの経済状態、財政状態、主力産業の一つである自動車産業の衰退がありました。それぞれ解説していきます。
1-1-1: スタグフレーション
まず、当時のアメリカの経済はスタグフレーションという状態に陥っていました。
- スタグフレーション(stagflation)とは、景気後退とインフレーション(物価上昇)が同時に進行する経済現象を意味する
- 英語の「stagnation」(停滞)と「inflation」(インフレーション)の合成語
アメリカは、1965年に本格的にベトナム戦争に介入するとインフレ傾向が顕著となり、その後の15年間はインフレの状況が続くことになります。さらに1979年の第2次オイルショックの影響からも、この時代、スタグフレーションがさらに深刻化していきました。
具体的には、景気が後退して失業したり、賃金が減少したりする中、物価が上昇して生活コストが上昇していったことから、国民生活が苦しいものになっていったのです。
このような時代背景の中、1981年にはロナルド・レーガン大統領が就任し、減税や規制緩和など、レーガノミクスと言われる政策を実施しました。
レーガノミクスの成果やFRB議長であったポール・ボルカーの金融引き締め政策によってインフレを抑え込むことには成功するものの、10%に迫る失業率を生み出してしまいました。
レーガノミクスに関してより詳しくは、以下の記事を参照ください。
1-1-2: 双子の赤字
このころのアメリカは「双子の赤字」という問題も抱えていました。
双子の赤字とは、
- 財政収支と経常収支(貿易収支)の両方が赤字になること
- 英語では「double deficit」や「twin deficits」と呼ばれるもの
です。
より詳しくいえば、財政収支の赤字とは国家の運用資金が足りなくなり、借金をしている状況のことを指し、経常収支(貿易収支)の赤字とは、自国の輸出額よりも他国からの輸入額の方が多い状態のことを意味します。
1970年代からアメリカは国際競争力が低下し、輸出産業の低迷が顕在化していきました。そこで、1981年に就任したレーガンは新自由主義的な政策を実行します。
- 市場に対する政府介入を抑え、民間企業が市場に参入する機会を増やすことや、社会保障費を減らすこと
- つまり、財政負担を減らしつつ、かつ民間企業の活動を活性化させることで、景気を回復させること
しかし、結論を言えば、レーガンの新自由主義的政策は、逆に財政赤字を拡大させることになりました。
レーガン大統領就任時は9090億4100万ドルであった累積債務が、ジョージ・ブッシュ(George Bush)が大統領に就任した1989年には2兆6011億400万ドルと膨れ上がってしまったのです(2.8倍以上の債務増加)。
1-1-3: 自動車産業の衰退
さらに、「ビッグスリー」(Big 3)の衰退もジャパンバッシングの背景として重要です。
日本語では「御三家」を指すこの用語は、20世紀におけるアメリカ自動車業界のビッグスリー、「GM(ゼネラル・モータース)」「フォード」「クライスラー」の三社を指します。
- 1910年代のビッグスリーの自動車年間生産台数は20万台
- 1920年代には200万台を超し、さらには400万台を超えるまでに成長
- その結果、1937年のアメリカ市場では、これらビッグ3合計のシェアは9割を超えた
- 1950年代には500万台、1960年代には800万台に達し、順調に米国の自動車業界は発展していった
ビッグスリーを中心としたアメリカの自動車産業は、国内で多くの雇用を創出していました。
しかし、1973年になると第2次オイルショックに突入し、価格が高く大型で燃費が悪い米国車から、小型で廉価・燃費の良い日本車へ需要は移っていきました。
この変化から打撃を受けたビッグスリーの各社は大量の従業員を解雇していきました。また各社のトップたちはアメリカ市場での国際競争が激しくなると海外に販路を求めるようになり、コストを削減する必要もあったことから、拠点をデトロイトの外へ移していきました。
この結果、アメリカにおける産業の空洞化が顕著になっていきました。産業の空洞化とは、国内企業の生産拠点が海外に移転することで、国内産業が衰退していく現象のことをいいます。
そんな中、憤った失業者たちは日本車をハンマーで叩き潰す行為を起こし、この光景は全米だけでなく全世界のテレビで放送されました。この光景は、ジャパンバッシングとして教科書等でもよく紹介されているものです。
1-1-4: ドル高・円高への反発
加えて、ジャパンバッシングの背景には、ドル高・円高への反発の背景にありました。歴史を振り返りながら説明していきます。
まず、1970年代まで内容をまとめると以下のようになります。
- 現在の為替相場は1ドルが110円前後で推移しているが、50年ほど前までは1ドル360円という固定相場制が採用されていた
- アメリカが変動相場へ移行したのは、1970年代のニクソン政権の時代のこと
- アメリカは1965年ごろからベトナムへの軍事介入を強化しており、軍事費が大きく拡大していた(1967年、ベトナムへつぎ込む軍事費は年間で200億ドルを超え、国防費の半分を占めるまでに)。
- ベトナムへの軍事費がかさむことは同時に、アメリカの輸入が増加、つまり米ドルが流出し、諸外国のドル準備高が増える状況を作り出していった
- ドルがこれ以上過剰に他国へ供給されると金との交換ができなることを不安に感じたアメリカ政府は、今まで保証していた金とドルとの交換を廃止し、ドル円の交換率を固定性から変動制に変更した(ニクソンショック)
- 変動制に移行した後は、1ドル約290円前後で相場は推移していった
しかし、貿易赤字の拡大とインフレ上昇が顕著になり、米国ドル売りが大きくなり、他国通貨に対してドル安は加速していきました。
1米ドル約290円前後で推移していた米ドルが180円をつけた1978年11月、カーター政権ではこれ以上のドル安は好ましくないと判断し、ドル防衛策として政府の協調介入を強化するために300億ドルの介入資金を調達したのです。
つまり、アメリカ政府自身が米ドル買いをして価格の下落を食い止めようとしたのです。さらに、公定歩合を1%引き上げたり、預金準備率を2%引き上げるなどの対応も講じられました。
しかし、米国の経済成長率は1979年から落ち込みはじめ、1980年には、マイナス成長となり、不況が深刻化していきました。
同じ品質なのに廉価な物品が市場に入ってきたら人々はどうするでしょう?基本的には、以下のようなことが起きました。
- アメリカ企業はコストの高い自国製の鉄鋼や部品ではなく、安い日本製の部品を購入するようになる
- アメリカの家庭でも、価格の安い日本製の電化製品や車を購入するようになっていった
一方で、米ドル金利は20%にまで達し、世界中の投機マネーが米ドルや米国債購入に集中していきました。投資家が多くの利息が得られる金利の高い通貨を購入しようと考えるのは自然なことです。
1980年代に入り、アメリカの巨額の財政赤字と高金利を背景にしていた米ドルの独歩高や対外不均衡の構造は、アメリカと日本間で調整できる範囲を超えるようになり、1985年のドル高是正の先進5各国G5のプラザ合意を迎えることになります。
1-2: 日本に対する具体的なバッシング
そんな1980年代、アメリカの日米貿易摩擦を原因としたジャパンバッシングは最高潮に達します。
1-2-1: 日米貿易摩擦における一連の要求・制裁
具体的には、
- 1986年・・・アメリカから日本市場における外国製の半導体のシェアを拡大するように要求があり、日米半導体協定が締結される
- 1987年・・・アメリカの包括通商法301条によって、日本製のカラーテレビ、コンピュータ、電動工具の3品目について100%の報復関税がかけられるようになる
といったことが起きます。
そもそも、日米を含め多くの国がGATT(関税及び貿易に関する一般協定)に加盟し、加盟国間で定められた関税率に基づき貿易を実施していました。
報復関税とは、貿易相手国がGATTに違反した場合に報復として高関税を設定する規定です。アメリカが輸出した物品を日本が輸入した際に規定を逸脱する高関税をかけたため、アメリカは対抗としてこれらの製品に報復関税を課すと結論付けたのです。
さらに、アメリカは1988年に、包括通商法にスーパー301条を新たに加え、公正でない貿易慣行国に対しては、関税の引き上げや数量制限を求めるようにする法案を可決しました。
そして、1989年、米国は日本をスーパー301条における不公正貿易国として特定したのです。
GATTは戦後の国際経済を理解する上で非常に重要です。GATTについて詳しくは以下の記事で解説しています。
1-2-1: 民間レベルで反日感情が最高潮を迎えた1980年代
また、アメリカ国内では日本を閉鎖的な国であると非難し、現在の生活が苦しくなっているのは、日本のせいであるという論調も高まっていきました。
そんな中、デトロイトでは、1982年に中国系アメリカ人の技師が日本人と間違えられ3人の白人に撲殺される事件も起きました。
また、アメリカ議会では日本への報復措置についての審議がされていた1987年、貿易違反が焦点となった東芝ココム事件がアメリカで放送されるほど反日感情は高まっていったのです。
東芝ココム事件を発端として、アメリカ議会において日本製品を議員が破壊するというパフォーマンスはあまりにも有名です。
日本の商業捕鯨が環境保護団体に非難された際には、便乗するかたちで、自動車産業団体や農業生産者なども参加して、日章旗を燃やしたり、日本製の車をハンマーで叩き潰すというパフォーマンスも行われました。
- ジャパンバッシングとは「日本叩き」のことで、特に1980年代に対日赤字が増大し、アメリカが経済の好調だった日本に対して行った一連の反発と抗議のことを指す
- ジャパンバッシングの背景には、アメリカの経済状態、財政状態、主力産業の一つである自動車産業の衰退があった
- ジャパンバッシングとして、報復関税の措置や日本製品の破壊といったパフォーマンスが有名である
2章:ジャパンバッシングで叩かれた日本側の原因
では一体、日本側にはどのような原因があったのでしょうか?日本側がとった対応を含めて紹介していきます。
2-1: 円安ドル高傾向
2020年現在のドル・円為替レートは1ドル110円近辺で推移していますが、1980年代前半の平均為替レートは1米ドルあたり200円-250円台程度でした。つまり、約2倍も米ドルの価値は高かったのです。
ひとつ例を挙げると、税金や輸送費や現地の販売費用などを考慮しなかった場合に、日本の店頭で200万円で販売されている自動車は、以下の価格でで購入できたことになります。
- 2020年・・・為替レートを適用すると約18,000ドル(1ドル110円として計算)
- 1980年代・・・為替レートを適用すると約9,000ドル(1ドル220円として計算)
もちろん、現在と80年代では多くの環境が異なりますが、同じ品質や性能の物品であれば、消費者としては安く買いたいものです。
ですから、アメリカの工場で努力して作り上げられた同等な商品が日本ではかなり安く買えるのだと思った人もいたでしょうし、日本は不当に値段を下げてアメリカに輸出しているのだと思い込んだ人もいるかもしれません。
この現象を円安ではなくドル高と表現した理由は、
- 79年の第二次オイルショックなどの影響を受けてインフレ率が13.5%にも上昇していた
- 10年物アメリカ国債の金利は10%を超えてた
ためです。
単純に言うと、このままの状況で進めば、10,000ドルで購入できた車が1年後には11,350ドルに値上がりしてしまう状況だったのです。
インフレ率が高くて、同じように給料も上がっていけば問題はありませんが、給料は上がらない状況になっていました。そのため、通貨取引に携わっている人は、他の通貨を売って米ドルや米国債を購入することに集中しました。
1985年になると、このままアメリカ財政赤字が増え続けると世界通貨であるドルの信頼度が低下し、世界経済が悪化すると懸念が生じ始めます。
そこで、日米を含めた先進5か国(G5)の中央銀行総裁や首相などは、
- 1985年ニューヨークのプラザホテルに集まり、自由貿易を守るためにドル安路線をとっていくことで合意した
- プラザ合意翌日の1985年の9月23日には1米ドル235円であった為替レートは、20円のドル安になった
- その後、さらに現在のような為替レートに到るまでにはかなりの年月を要したが、プラザ合意の1年後には、1ドル150円で取引されるようになった
という動きがありました。
2-2: 貿易障壁とわれた規制や取引慣行
日本の対米輸出額の超過である貿易不均衡に対して、アメリカ側は単にアメリカ製品の競争力の低下や金利高による投資家の米ドルへの投資過剰だけが原因だとは考えていませんでした。
貿易不均衡を引き起こした原因は日本独自の規制や取引慣行も一因であると指摘しました。
ここでは、アメリカが指摘した内容を紹介しましょう。
- 日本では親会社・子会社、グループ会社、系列会社など関連企業間において、相互に入り組んだ系列関係が存在しており、公正な市場取引を阻害している
- 官僚と日本企業とは密接な協議を重ねており、行政指導も存在している
- 政府の経済規制や規制の運用において不透明なものも多く、自由取引を妨げている
また政府の見解の他にも、アメリカ民間のレベルでは日本はダンピングして物品をアメリカに輸出しているという見方も拡がっていきました。
ダンピングとは、自己市場やメインのテリトリーで値くずれを起こさないように、メインでない販売市場に、他国との競争に打ち勝つために、商品価格を自国の市場価格よりも不当に低く設定して売ることです。
2-3: ジャパンバッシングに対して日本がとった対応
アメリカからの要求・指摘に対して、日本政府はGATT(関税貿易一般協定)や1995年に設立されたWTO(世界貿易機関)のルールを順守していることを訴え反論してきました。
そして、アメリカとの貿易不均衡や貿易摩擦の解決に向けて官民それぞれが、政策や対応を実施していきます。
たとえば、アメリカの要求に応えて、
- 1950年代から1970年に実施した綿製品や鉄鋼やカラーテレビの輸出自主規制
- 1980年代における自動車の対米輸出自主規制
を実践しました。
今では日本製の自動車の現地生産は当たり前になりましたが、アメリカに自動車工場を建設し日本車を作り出し始めるのが、ちょうど1980年代なのです。これには現地での雇用を増やすという目的もありました。
また、1980年以前まで日本は輸出を増やすことで外貨を獲得することを目的にしてきましたが、これまでの外需主導型の経済から内需主導型への転換を目指すようになっていきました。
たとえば、政府は内需拡大のために、10年間で総額430兆円の予算をとり公共事業や公共投資の予算を組みました。その他に以下のような施策をおこないました。
- アメリカからの指摘に基づき、企業買収などの企業活動を妨げると考えられる株式の持ち合いの規制を強化
- 取引慣行の点については、談合や系列取引を見直すと共に、独占禁止法の実施の強化に努めることに
- 1991年には、牛肉・オレンジの輸入自由化を皮切りに、同年アメリカと新半導体協定を結び、アメリカ製半導体の日本市場のシェアを20%とする数値目標を定めた
- そして、1999年には米(こめ)の自由化にも踏み切った
これらの対応から、日本側がいかにジャパンバッシングに対応したのかよくわかると思います。
- ドル高に対する対策が日米を含めた先進5か国(G5)の中央銀行総裁や首相で議論された
- アメリカ側は単にアメリカ製品の競争力の低下や金利高による国際投資家の米ドルへの投資過剰だけが原因とは考えなかった
- 日本はアメリカの主張に反論しつつも、アメリカとの貿易不均衡や貿易摩擦の解決に向けて官民それぞれが、政策や対応を実施した
3章:ジャパンバッシングを学ぶための本
どうでしょう?ジャパンバッシングの概観を掴むことはできましたか?
最後に参照した書物を提示します。ここで書かれた内容をさらに深掘りするために、ぜひ以下の書物を当たってみてください。
James S. Olson, Susan Morgan『アメリカ経済経営史辞典』(創風社)
榊原胖夫・加藤一誠『アメリカ経済の歩み』(文眞堂)
中本 悟・宮崎礼二(編)『現代アメリカ経済分析 - 理念・歴史・政策』(日本評論社)
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萩原伸次郎『新自由主義と金融覇権 現代アメリカ経済政策史』(大月書店)
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中臣久『現代アメリカ経済論 アメリカにおける資本主義の精神』(日本評論社)
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地主敏樹・村山裕三・加藤一誠(編)『現代アメリカ経済論』(ミネルヴァ書房)
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山田敏夫(著)『ベーシック経済政策』(同文館出版)
一部の書籍は「耳で読む」こともできます。通勤・通学中の時間も勉強に使えるようになるため、おすすめです。
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また、書籍を電子版で読むこともオススメします。
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などの特典もあります。学術的感性は読書や映画鑑賞などの幅広い経験から鍛えられますので、ぜひお試しください。
まとめ
最後にこの記事の内容をまとめます。
- ジャパンバッシングとは「日本叩き」のことで、特に1980年代に対日赤字が増大し、アメリカが経済の好調だった日本に対して行った一連の反発と抗議のことを指す
- ジャパンバッシングの背景には、アメリカの経済状態、財政状態、主力産業の一つである自動車産業の衰退があった
- 日本はアメリカの主張に反論しつつも、アメリカとの貿易不均衡や貿易摩擦の解決に向けて官民それぞれが、政策や対応を実施した
このサイトでは、他にも経済史に関するテーマを解説していますので、ぜひブックマークしてください。