考古学

【埴輪とは】古墳の墳丘上に並べられた素焼きの土器について解説

埴輪とは

埴輪とは、主に古墳の上に立て並べられた素焼きの土器のことです。

およそ3世紀なかごろから7世紀の終わり頃に至るまで、日本列島では16万基ともいわれる多数の古墳が築かれました。土や石を盛ったお墓が流行したその時代のことを、今日の我々は古墳時代と呼んでいます。

「埴輪」は、そんな古墳を構成する要素の一つです。古墳の誕生当初から古墳時代が終わりに近づいていく時期まで、古墳の上には不思議な形で赤茶色の土器=埴輪が並べられるのが一般的でした(時期や場所によっては埴輪が並べられなかった古墳も多数みられます)。

今回の記事では、

  • そもそも埴輪とは何か
  • 土偶との違いは
  • 埴輪を研究する意義

などについて解説します。興味のあるところからお読みください。

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1章:「埴輪」とは何か

1章では、そもそも埴輪とは何で作られ、どのように用いられたのかについて、埴輪の種類や縄文時代の土偶との違いに触れながら解説します。埴輪の起源や分析など、埴輪の研究状況について詳しく知りたい方は2章もあわせてご覧ください。

このサイトでは複数の文献を参照して、記事を執筆しています。参照・引用箇所は注1ここに参照情報を入れますを入れていますので、クリックして参考にしてください。

1-1:埴輪の種類

「踊る男女」の埴輪はご存じでしょうか。

踊る埴輪踊る埴輪(フリー画像)

キョトンとした顔と腕を上下に動かしているかのような姿が可愛らしく、「踊る男女」は多数のゆるキャラのモデルにもなってきました。

この「踊る男女」の埴輪も、元は古墳に並べるために作られたものと考えられています(実際には踊っているのではなく馬を引いている人物と言われているのですが……)。埴輪といえば「踊る男女」を想像する方も多いはずです。

しかしながら、埴輪の中で最も数が多いのは「円筒埴輪」と呼ばれる土管のような形状をした地味なものでした。

それに対して、「踊る男女」のようにモノや場面をある程度写実的に形づくった埴輪を「形象埴輪」といいます。まず埴輪は円筒埴輪と形象埴輪でざっくり別れるのです。

円筒埴輪と形象埴輪

これをさらに細かく分類することもできます。

円筒埴輪の中での分類

  • 一般的な円筒埴輪である普通円筒埴輪
  • 壺と円筒埴輪が一体化した形の朝顔形埴輪

普通円筒埴輪と朝顔形埴輪は一定の間隔で古墳の各段の輪郭線上を取り囲み、埴輪列を成していました。

奈良市富雄丸山古墳で検出された埴輪列奈良市富雄丸山古墳で検出された埴輪列(フリー画像)

高槻市今城塚古墳の外堤上に復元された埴輪列高槻市今城塚古墳の外堤上に復元された埴輪列(筆者撮影)

形象埴輪もさらに三種類程度に区分可能です。一つは、武器や武具・馬具や建物等を模した「器財埴輪」、もう一つは人物を模した「人物埴輪」、そして動物を模した「動物埴輪」が挙げられます。

犬型埴輪犬型埴輪(フリー画像)

器財埴輪の中でも、たとえば太刀を模した埴輪は太刀形埴輪、家を模した埴輪は家形埴輪といったように区分することができます。

人物も「巫女」「武人」「馬を引く人」といったような分類が可能です。動物埴輪も同様で、水鳥や馬、牛や鶏といったように、種類はさまざまに存在します。

これらの形象埴輪は古墳ごとに一定のセットを成して、古墳の埋葬施設付近や造出部と呼ばれる場所など、なにか死者のための祭祀を執り行ったと考えられる場所に配列されていました。

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1-2:埴輪の原料と作り方

埴輪はすべて縄文土器や弥生土器と同じ「土器」の一種です。すなわち、埴輪の原料は土(細かく言えば「粘土」)であり、埴輪は土を整形して火にかけることで作られているのです。

とはいえ、子供が作る粘土細工とは違って、埴輪は格段にサイズが大きく、非常に規格的かつ丁寧に作られていました。以下では、埴輪の中でも最も数の多い「円筒埴輪」の作り方を箇条書きで紹介します。

  • 粘土を捏ねてヒモ状にする(粘土紐)
  • 粘土紐を輪積みにする
  • 表面をユビ・ヘラ・木の板で平滑にする(ナデ・ユビオサエ・ケズリ・ハケ)
  • さらにその上から粘土のヒモを数段分貼り付ける(=突帯)
  • 乾燥させる
  • 焼く(野焼き or 窯)
  • 古墳の上に配列する

※注意:以上の「作り方」は埴輪の作り方を一般化したものです。古墳によって、もっといえば埴輪を作る職人ひとりひとりによって作り方はそれぞれ異なります。また、実際に埴輪づくりの様子をタイムスリップして見てきたわけではなく、埴輪を観察・分析して復元された「作り方」であることをご承知おきください。

日本最大の全長を誇る大仙陵古墳(大阪府堺市・仁徳天皇陵)には、このような方法で作られた円筒埴輪が約3万本も並べられたと推定されています。

大仙陵古墳に並べられた埴輪大仙陵古墳に並べられた埴輪(ジオラマ:筆者撮影)

したがって、古墳の造営において埴輪づくりも非常にコストのかかる分野だったといえるのです。



1-3:埴輪の用途と意義

多大なる労働力を消費して製作された埴輪は、主に古墳の墳丘上や外提上に立て並べられました。

  • 特に、円筒埴輪(朝顔形を含む)は墳丘の輪郭を取り囲むように並べられ、「埴輪列」を形成する場合が多いことが発掘調査の成果からわかっている
  • 一方で、形象埴輪は遺体を納める埋葬施設の上を取り囲むように家形埴輪や蓋形(きぬがさがた)埴輪、柵形埴輪が並べられたり、造出と呼ばれる墳丘上の祭祀エリアに人物埴輪が並べられたりしていた

ここで疑問として浮かぶのは、「なぜ埴輪が並べられたのか」です。ただし、考古学研究で人の心に踏み込むことは難しく、埴輪のような祭祀的な土器の用途や意義を確定することは難しいとされています。

以上のような前提を踏まえた上で、古墳時代の葬送儀礼の復元研究に挑む立命館大学の考古学者・和田晴吾は、埴輪のもつ祭儀的な意味について次のように述べています。少し長いですが、お読みください2和田晴吾「古墳の他界観」『国立歴史民俗博物館研究報告』第152集、国立歴史民俗博物館 257頁

1.段築で造られた墳丘は,その後,葺石を施し,埴輪を立て並べ,周濠をめぐらせて一つの模造された世界として仕上げられた。古墳を他界とする考えは古墳時代の当初からあったと推定されるが,それが一つの様式として完成してくるのは前期後葉から中期前葉のことである。

2.そこでは,後円部頂上の方形埴輪列内に配置された一群の家形埴輪を中心に,周囲にそれを護り権威づける蓋・盾・靫・甲冑・大刀形埴輪などを配し,墳丘の各平坦面には,墳丘を取り巻くように円筒埴輪や朝顔形埴輪からなる埴輪列が結界を示すものとして樹立され,時には「木の埴輪」を中心とする木製品類が加えられた。

円筒埴輪が飲食物を入れた食器の台で,それに酒類や食物の入った壺をのせたものが朝顔形埴輪である。また,壺形埴輪だけで埴輪列が構成されている場合もあれば,墳頂の方形埴輪列では時には円筒埴輪に高杯を載せた例も認められる。墳丘下に密封された棺・槨内には飲食物,あるいはそれを入れる食器の類は認められないが,墳丘上に表現された世界には飲食物が充ち満ちている。

つまり、和田は古墳の墳丘上の埴輪・葺石等の設備を「死後の世界をあらわしたもの」と捉えているのです。

加えて、大阪府高槻市今城塚古墳の外提で検出された「埴輪祭祀区」も、埴輪の用途や意義について考える重要な素材となっています。いくつかの区画に分かれた今城塚古墳の埴輪祭祀区には、人物埴輪や器財埴輪がなんらかの意味をもって整然と並べられていたのです。

今城塚古墳の埴輪祭祀区今城塚古墳の埴輪祭祀区(筆者撮影)

今城塚古墳は6世紀前半のヤマト政権の大王・継体大王の墓とされており、埴輪祭祀区では継体の死に際して執り行われた葬送儀礼、すなわち葬式の様子を表しているのではないかとも考えられています。

古墳の祭祀における埴輪の意味は正確にはわかりません。しかしながら、先に触れた労働力の件も併せて、古墳時代には埴輪が重要な役割を果たしていたことは間違いないといえます。

ちなみに、『列島の考古学 古墳時代』(河出書房)は埴輪がつくられた古墳時代に詳しいです。初学者におすすめです。

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1章のまとめ
  • 埴輪とは、主に古墳の上に立て並べられた素焼きの土器のことである
  • 古墳の墳丘上の埴輪・葺石等の設備を「死後の世界をあらわしたもの」と捉えている

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2章:埴輪にかんする考古学研究

1章では、埴輪の種類や製作方法、用途などから、埴輪が古墳の設備のなかで重要な役割を果たしていたことを紹介しました。次に、2章では埴輪についての考古学的な研究について代表的なものを紹介します。

2-1:埴輪の起源

埴輪は古墳を構成する重要な要素の1つです。埴輪抜きには古墳の歴史的意義が語れないといっても過言ではありません。しかしながら、そんな埴輪の起源についてはほんの数十年前まではっきりしていませんでした。

埴輪の起源をめぐる問題を複雑にしたのは、『古事記』『日本書紀』といった日本最古の歴史書です。『記紀』には少なからず史実が載っているものの、神話的な記述も多分に含まれています。実は、『記紀』にも埴輪の起源にかかわるエピソードが記されていました3『日本書紀』巻第6 垂仁天皇より引用、現代語訳

卅二年秋七月甲戌朔己卯、皇后日葉酢媛命薨。臨葬有日焉、天皇詔群卿曰「從死之道、前知不可。今此行之葬、奈之爲何。」於是、野見宿禰進曰「夫君王陵墓、埋立生人、是不良也、豈得傳後葉乎。願今將議便事而奏之。」則遣使者、喚上出雲國之土部壹佰人、自領土部等、取埴以造作人・馬及種種物形、獻于天皇曰「自今以後、以是土物更易生人樹於陵墓、爲後葉之法則。」天皇、於是大喜之、詔野見宿禰曰「汝之便議、寔洽朕心。」則其土物、始立于日葉酢媛命之墓。仍號是土物謂埴輪、亦名立物也。

垂仁天皇32年秋7月6日、皇后である日葉酢媛命が亡くなられた。葬るまでの間、天皇は家臣に対して「殉死がよくないことは以前わかった。日葉酢媛命の葬儀はどうしようか」とおっしゃった。すると、家臣の野見宿祢は~(中略)~、土師部たちに埴土で人や馬など種々の器物を作って天皇に献上し~(中略)~よって、この土物を埴輪と呼んだ。

日葉酢媛命の墓として管理される佐紀陵山古墳日葉酢媛命の墓として管理される佐紀陵山古墳(筆者撮影)

この記述が正しいとすれば、人物埴輪や形象埴輪などの「形象埴輪」が埴輪の起源であり、殉死=人を生き埋めにするかわりに生まれたことになります。しかし、考古学の立場からすれば、以上の記述は2つの根拠をもって比定できるのです。

  • 古墳時代の日本列島に殉死の風習はみられないこと
  • 初期の古墳が円筒埴輪のみを有するなど、形象埴輪の誕生は円筒埴輪に後続すること

つまり、形象埴輪は古墳の周りに人を埋める伝統が姿を変えて生まれたものではなく、あくまで円筒埴輪の誕生が「埴輪の起源」4近藤義郎・春成秀爾「埴輪の起源」『考古学研究』第13巻第3号、考古学研究会  13-35頁であり、円筒埴輪から形象埴輪が生まれていったと考えるのが自然といえます。

とはいえ、円筒埴輪が生まれるのにもなにか理由があったはずです。ただし、残念ながら『記紀』にはそのヒントになるような記述が見当たりません。

このことが戦前の研究者を大いに惑わせていました。そんななかで、円筒埴輪の起源を明らかにしたのが、近藤義郎と春成秀爾の二人の考古学者です。彼らは岡山県周辺=吉備地域の「墳丘墓」から出土した土器の研究を進めることで、埴輪の起源にたどり着きました。

  • この「墳丘墓」とは弥生時代の墓であり、同じく土や石を盛って造られた古墳とは時代の面で区別されている
  • 簡単に言えば、墳丘を持つ墓について、考古学では「弥生時代=墳丘墓」「古墳時代=古墳」と呼び分けている

近藤と春成は、吉備地域の墳丘墓から「特殊器台」「特殊壺」と呼ばれるやや特殊な形状・文様の施された土器の出土が多く見受けられることを発見しました。

特殊器台・特殊壺特殊器台・特殊壺(フリー画像)

吉備地域におけるこれらの土器の出土例はほぼ墳丘墓に限られており、壺に飲食物を入れて器台に乗せ、亡き王に捧げるような葬送儀礼が行われたことが推測できます。

衝撃的だったのは、特殊器台や特殊壺の時期的な変化です。2人によれば、

  • 特殊器台・特殊壺の形状や文様は立坂型→向木見型→宮山型→都月型と時期によって形骸化・簡略化されていく
  • 最終的には近畿地方の初期の古墳に立て並べられた円筒埴輪につながる

といいます。すなわち、円筒埴輪は吉備地域の葬送儀礼が近畿地方に伝わってきてうまれたことになります。

近年ではなんと、日本列島初の巨大前方後円墳である箸墓古墳(奈良県桜井市)にも吉備地域由来の特殊器台が並べられていたことも明らかになってきました。

箸墓古墳箸墓古墳(筆者撮影)

最初期の古墳に立て並べられていたのが定型化した埴輪でなく、吉備地域の特殊器台に近いものであったことは、吉備地域の勢力が大型前方後円墳の誕生、ひいてはヤマト政権の成立に大きく寄与した可能性が高いとも考えられるのです。



2-2:埴輪の変化

一口に埴輪といっても種類がさまざまであることは1章で述べました。さらに細かく見ていくと、同じ種類の埴輪でも時期や地域によって変化していくこともわかっています。

  • 土器などにおける「時期ごとの変化」は「種類の違い」よりも微細なものである
  • たとえば製作方法や製作に使用する道具、サイズの変化が挙げられ、考古学ではこれらの変化が「型式変化」と呼ばれてきた
  • 冒頭に触れたように、埴輪も時期によって型式変化が進行する
  • 重要なのは、型式変化を追うことで「その埴輪がいつごろ作られたのか」がわかるところである
  • 考古学では型式変化を時期順に並べたものを「編年」と呼び、出土遺物の年代決定の根拠になる

現在の埴輪編年を最初に大成させたのは川西宏幸です。川西はさまざまな種類のある埴輪のなかで円筒埴輪を取り上げ、編年の基準としました。

なぜなら、埴輪のなかで最も多いのが円筒埴輪だからです。埴輪をもつ古墳で円筒埴輪をもたない古墳はほぼ存在しません。それゆえ、時期による形の変化が追いやすいといえます。

川西が着目したのは、円筒埴輪の「突帯(円筒埴輪の突出部)」「ハケメ(木の板で表面を撫でて成形した痕跡)」「スカシ孔(円筒埴輪に開けられた孔)」「焼成方法(焼き方)」などです。

たとえばハケメの場合、

  • 出現期の埴輪は「タテハケ(木の板で縦方向に撫でつけた痕跡)のみ」
  • 「タテハケのちヨコハケ(横方向に撫でつけた痕跡)」をもつようになる
  • 再度「タテハケのみ」に戻る

といった経過をたどります。また、埴輪の焼き方は当初の「野焼き」から、より高い温度でムラなく埴輪を焼くことのできる「窖窯焼成(あながましょうせい)」に変化していきます。

関本優美子「百舌鳥・古市古墳群と埴輪研究」『百舌鳥・古市の陵墓古墳 巨大前方後円墳の実像』大阪府立近つ飛鳥博物館関本優美子「百舌鳥・古市古墳群と埴輪研究」『百舌鳥・古市の陵墓古墳 巨大前方後円墳の実像』大阪府立近つ飛鳥博物館

このような各部の情報の組み合わせ関係から、川西は近畿地方の円筒埴輪をⅠ~Ⅴ群に区分しました5川西宏幸「円筒埴輪総論」『考古学雑誌』第64巻第2号、日本考古学会 95-164頁。この編年研究によって、破片の状態で出土した円筒埴輪であっても、おおまかな年代を推察できるようになったといえます。



2-3:埴輪生産と社会の変化

以上のような経緯で、埴輪の起源が判明し、製作技法から埴輪の年代観が決定されました。したがって現在では、古墳の発掘調査を行った際に埴輪が出土すれば、その古墳のおおまかな築造時期がわかるようになっています。

すると改めて問題になってきたのは埴輪の「地域差」「共通性」です。川西が行った埴輪編年の作成は近畿地方の埴輪に広く応用可能とされていたものの、近畿地方のなかでも地域ごとに埴輪の特徴が違うようなことも徐々にわかってきました。

また、逆に地域を飛び越えて別の古墳どうしからよく似た埴輪が出土するようなケースもみられます。そこで、埴輪生産がいかにして行われ、いかにして情報が共有されていったか、改めて検討する必要性が浮かび上がってきたのです。

この問題に正面から対峙したのが、埴輪研究者の高橋克壽でした。彼は近畿地方の埴輪を主に取り上げ、関東地方の埴輪とも比較しながら、「埴輪生産の展開」6高橋克壽「埴輪生産の展開」『考古学研究』第41巻第2号、考古学研究会 27-48頁を論じました。高橋の理解によれば、

  • 埴輪出現期:1古墳の造営ごとに埴輪生産組織が集められる「一回性の生産」
  • 4世紀後半:埴輪生産をリードする専業集団が大和盆地北部に出現し、鰭付円筒埴輪と形象埴輪を創出
  • 5世紀前半:河内地域を中心に新たな専業集団が出現。各地の豪族に埴輪製作技術を拡散
  • 5世紀中ごろ:窯を築いて埴輪を焼く「窖窯焼成」の導入。埴輪生産地が固定化され、各地で地域色が発現される
  • 6世紀以降:近畿地方では埴輪生産地の集約化が起こる。関東では埴輪を各生産地から広域的に輸送するようになる

高橋の研究の優れた点は一口に埴輪といっても、時期によって「生産のありかた」が異なることを導き出すと同時に、王権が埴輪生産体制にも関与していたことを示した点です。

すなわち、ヤマト政権の大王墓が大和盆地北部の佐紀古墳群に営まれた4世紀後半段階には大和北部地域に強い埴輪生産集団が生まれ、大王墓が河内・和泉の百舌鳥・古市古墳群に移動した5世紀以降には河内地域が埴輪製作技術を主導した……といったように、大王権力と埴輪づくりの関係性が改めて浮き彫りになったといえます。

ゆるキャラ的な印象が強い埴輪も、古墳時代研究の重要な1ピースです。今回の記事で紹介したように、埴輪から古墳時代の社会・権力を復元することも十分に可能といえます。

2章のまとめ
  • 日本列島初の巨大前方後円墳である箸墓古墳(奈良県桜井市)にも吉備地域由来の特殊器台が並べられていた
  • 時期によって「生産のありかた」が異なることを導き出すと同時に、王権が埴輪生産体制にも関与していた

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3章:埴輪についてわかるおすすめの書籍

埴輪について理解が深まりましたか?

さらに深く知りたいという方は、以下のような本をご覧ください。

おすすめ書籍

若狭徹『もっと知りたいはにわの世界―古代社会からのメッセージ』(東京美術)

明治大学の考古学者・若狭徹が埴輪をわかりやすく解説した入門書です。イラストや写真がたくさん使われていて、初学者にも埴輪の種類や並べ方などが理解しやすい本といえます。

右島和夫・千賀久『列島の考古学 古墳時代』(河出書房)

古墳時代全般について、カラー写真等を交えながら詳しく解説した一冊です。埴輪についてはもちろん、埴輪をつくった古墳時代の社会の様相までしっかりと理解できます。

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まとめ

最後にこの記事の内容をまとめます。

この記事のまとめ
  • 埴輪とは、主に古墳の上に立て並べられた素焼きの土器のことである
  • 古墳の墳丘上の埴輪・葺石等の設備を「死後の世界をあらわしたもの」と捉えている
  • 時期によって「生産のありかた」が異なることを導き出すと同時に、王権が埴輪生産体制にも関与していた

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