公孫竜は春秋戦国時代に活躍した諸子百家の一人で、名家に分類される思想家です。その著作『公孫竜子』は、紛失してしまいほとんど確認することはできませんが、『列子』や『荘子』の中にその一部をみることができます。
公孫竜は史料上記録が少ないことから、その思想や活動について、不明な点が多い人物です。
今回はそんな公孫竜について、
- 公孫竜とはどんな人物だったか
- 公孫竜の著作『公孫竜子』について
- 名家の故事・成語について
解説をしていきます。
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1章:公孫竜とは
冒頭でも紹介した通り、公孫竜とは春秋戦国時代に活躍した諸子百家の一人で、紀元前320年~紀元前250年頃の人物と考えられています。
趙国の人で各地を遊説して歩いたと言われ、諸子百家の中では名家に分類されました。名家とは、名(言葉と概念)と実(事実)の一致や不一致について論じたことからその名が付きました。中国では論理学が発達しなかった中で、公孫竜を初めとする名家は論理学の萌芽とも言われています。
1-1:公孫竜の人物
公孫竜の事績として知られていることは、燕の昭王や趙の恵文王に戦を止めるように説き、後に趙の恵文王の弟である平原君の食客となりました。
■食客とは
食客とは君主が才能のある人物を客分の扱いとして厚遇し、食客はその君主を助けるという関係を指します。戦国時代に流行し、任侠的な結束を誇り、私兵としても機能しました。
趙が秦の侵攻を受けた際に、平原君は魏の信陵君に援軍を求め、秦を撃退することに成功します。趙の虞卿はこの功績を称え、趙王に平原君の領地加増を進言しますが、公孫竜は反対しました。才能や功績があった訳ではないのに、王の親戚(平原君は趙の孝成王の叔父)というだけで褒美を受け取ってはいけない、というのがその理由でした。また、虞卿にも借りができてしまうと主張しました。
平原君はこれを受け入れ、領地加増を断り、公孫竜はますます重用されるようになりました。
しかし、平原君のもとに陰陽家の鄒衍が食客として来ると状況が一変します。鄒衍は陰陽五行説を説き、万物は陰陽の二気から構成されると捉えました。
平原君はこの鄒衍の言を重く用いる様になり、公孫竜の言は退けられてしまいます。その後の公孫竜の詳細は不明ですが、平原君の元を去り間もなく没したと考えられています。
1-2:公孫竜が生きた時代背景
公孫竜が生きた時代は中国では戦国時代と呼ばれる時代でした。戦国時代では中央の周の権力が弱体化し、軍事力の強い強国が弱小国を併呑していく戦乱の時代です。いかに国家を統治して運営するか、各国が模索するようになります。
諸子百家はそのニーズを受ける形で誕生します。諸子百家とは知識人であり各国を遊説する浪人でもありました。彼らの説く治国用兵の術は様々な国から求められ、重用されていきます。公孫竜もそんな諸子百家の内の一人だったのです。
- 公孫竜は春秋戦国に活躍した思想家の一人で、論理学の萌芽であったと言われる「名家」に分類される
- 趙の国の食客だったが、陰陽家である敷衍が来たことで影響力をなくした
2章:公孫竜が書いた『公孫竜子』とは
公孫竜は唯一著作物の一部が現存する名家の代表的人物です。その著作は『公孫竜子』と呼ばれていますが、厳密に彼の著作なのかはっきりしていません。その内容は『荘子』天下篇や『列子』仲尼篇にわずかながら見ることができます。
『漢書』芸文志では、『公孫竜子』は十四巻と著述されていますが、現存するのは「跡府」「指物」「堅白」「白馬」「通変」「名実」の六巻となっています。
思想としては、人には超能力が備わってない以上、概念同士を区別して、物事を見極める重要性を説いたものです。
しかし、後世の評価は決して高くなく、白馬論等は「詭弁」の代名詞的な扱いになってしまっています。ここでは、そんな『公孫竜子』の六巻の内容について、ご紹介していきます。
2-1:跡府篇
跡府篇は公孫竜の弟子によって書かれたと考えられています。師である公孫竜の事績について、記述されたもので、概念論や意味論が中心になっています。
主に孔子の子孫である孔穿との白馬非馬論についての議論と、それを通じて公孫竜の思想や概念が書かれています。『公孫竜子』の現存する六巻の内の一つですが、思想的にはその他の五巻に記されることの概論になっています。
2-2:指物論
指物論は、対象物と指示する行為について論じたものです。その趣旨は「物はすべて指でないものはない」と「指は指ではない」という二つに要約されています。
ここで出てくる「指」とは、実際の手指の指ではなく、対象物を指示する行為、つまり認識作用のことを指します。対象物は指で指し示されて初めて認識されるため、全てのものは指(認識作用)を通じて認識されると考えました。
一方で認識作用(指)そのものは認識されないとも説きました。そして、指(認識作用)はそれ自体が独立して存在しているのであり、対象物の存在があって初めて存在するものではないと主張しました。
『荘子』の中にも「指馬論」と呼ばれる論が収録されており、「指物論」をさらに発展させたものと解釈されています。「指馬論」では、認識作用(指)が認識されないことを、認識作用(指)そのものによってではなく、認識作用以外によって明らかにしようとします。
2-3:堅白論
堅白論は公孫竜の思想を代表する理論の一つです。別の名称を「離堅白」とも呼び、この理論から「堅白同異」という四字熟語も生まれました。
内容としては白くて堅い石を認識する際に、「堅い」という概念は手で触って認識するものであり、「白い」という概念は見て認識するものなので、違う概念を両立している白くて堅い石は存在しないというものです。
これらは全てそれぞれの感官が機能している時(手で触っている時、目で見ている時)にしか認識されないため、同時には認識され得ないものと主張しました。そして、人の感官によって認識されている時以外に対象物が存在している間の方が、物の世界にとっては独立正当なものと論じました。
■詭弁の代名詞「堅白同異」
白くて堅い石は存在しないという名家の理論は評価されることはなく、詭弁という扱いを受けました。結果、「堅白同異」など詭弁という意味の四字熟語が生まれています。「堅白同異」は辻褄の合わない無茶な理論を展開することという意味です。
2-4:白馬論
公孫竜と聞いて、一般的に思い浮かぶ言葉は間違いなく「白馬は馬に非ず」という言葉でしょう。「白馬論」と言われるこの理論は公孫竜を初めとする名家を代表するものです。
白馬という概念は狭い範囲に適用される概念であり、馬は白馬よりも広い範囲に適用される概念です。白馬を馬であると考えると、狭い概念を広い概念と等置することになるため成立しないと考えました。結果、「白馬は馬である」は成り立たないため、「白馬は馬ではない」とするのが正しいと説きました。
また、色の取捨が関係してくる「白馬」と、単に形をとる「馬」と異なる概念と捉えました。その上で、色は馬だけでなく万物に現れるものであって、馬はその万物の一つであると考え、次元の違う概念の「白」と「馬」は並び立たないと考えました。
2-5:通変論
通変論とは「二」の中に「一」は含まれないという理論を徹底して証明しようとしたものです。その分かりやすい事例として、通変論では「左右」という概念について掘り下げられていきます。
通常では「一」は「二」の中に含まれますが、これを「左右」に例えると、「左」は「右」の中に含まれず、逆も然りとなります。しかし、「左右」はセットであり「二」であります。
ここから、「二」は「一」を含まないという理論が生まれました。
通変論は他の論とは一線を画する数学的思想の色合いが強く、春秋戦国時代ではあまり注目されていなかった数の概念について、掘り下げた内容になっています。
2-6:名実論
名実論は公孫竜の思想が最も色濃く表れている論になります。
そもそも、名家の思想は「名」を正すことによって、世の中を治めようとする思想でした。そのため、白馬論や堅白論など、認識論を中心に展開されています。
名実論はそれらを包括する理論になっており、物(物体)を構成するものを実(物質・内容)と捉え、実を制約するものを位(形式)と考えました。
名はその実と位に対して従属的であり、名の元に実や位を従わせるものではないと説きました。この名を実と位に合わせて正すことが、名実論のテーマとなっています。
この「名」を正すという思想は、孔子の説く「正名論」と共通するものであり、実態と認識の差異を正すことが名家の政治的思想であったと考えられています。
■孔子の「正名論」
孔子は人から「政治を始めるなら、まず何を行いますか?」と聞かれ、「名を正すことを行います」と答えました。
孔子の「正名論」は、君・臣・父・子などの名分を明らかにすることで、本分(役割)を尽くすようにするためのものでした。
3章:公孫竜が分類される「名家」の逸話
春秋戦国時代に登場した名家は公孫竜に代表されるように、認識論を展開していきましたが、実は公孫竜よりも早い時期、または同時期に登場する名家も存在しています。ここでは、公孫竜以外の名家のエピソードや思想を紹介していきます。
3-1:通行税と白馬
公孫竜の説いた白馬論は詭弁の代名詞として有名ですが、彼より少し先に兒説(げいせつ)という人物が白馬論を展開していました。『韓非子』外儲說左上には、関所の通行税を取り締まる役人に対して、兒説が白馬論を展開しますが、却下されて白馬分の通行税を徴収されたと記録されています。
3-2:恵施が説いた歴物十事
恵施は荘子と同じ宋国の人で、荘子と交流があった名家の一人です。彼の得意とした論題が『荘子』天下篇に収録されており、十題にわたることから、「歴物十事」と呼ばれています。
その内容については、紛失して今に伝わりませんが、大まかに列挙すると、下記の通りとなります。
■「歴物十事」の概要
- 無限の大きさのものに外側はなく(大一)、無限の小さなものに内側がない(小一)
- 厚みのないものは、積み重ねても厚みがないが、千里の広さをもつ
- 天地、山沢は同じ高さにある
- 太陽は中天にあると同時に東西どちらかに傾いている
- 万物は一体であると同時に、個別には異なるものである
- 南方は果てがないと同時に果てがある
- 今日、越国に出発したということは、昨日、越国に到着したということである
- 鎖のように繋がった知恵の輪は、ほどくことができる
- 世界の中央の土地は、越国の南にあり、燕国の北にある
- 万物を博愛すれば、全て一体である
3-3:墨家的思想を説いた名家たち
名家の思想は当時から「詭弁」と扱われ、後世の評価も決して高いものではありませんでした。しかし、恵施は非戦論を説いたとされ、公孫竜も各地を遊説して燕の昭王に「非戦」を、恵文王に対しては「兼愛」を主張しました。
墨家は天意に適った平等な愛(兼愛)と、戦争による人材・経済への打撃を無くす不戦論(非戦)を説きました。
名家の恵施や公孫竜が何を考えて「兼愛」と「非戦」を説いたのか、知る術はありませんが、名家を墨家思想の系統を引くと捉える見解もあります。
- 名家の一人兒説(げいせつ)は、公孫竜に先んじて「白馬論」を論じていた
- 墨家は天意に適った平等な愛(兼愛)と、戦争による人材・経済への打撃を無くす不戦論を説いた
4章:なぜ名家が栄えなかったのか
名家は春秋戦国時代の当時、画期的な思想で、識論や論理学のパイオニアにも位置付けられることがありますが、中国に定着し発展をすることがありませんでした。
その理由としては、当時の学問は政治的な色合いが強かったことが挙げられます。儒家や墨家に代表されるように、世を治める治国用兵の術が重きをなした時代に、純粋な論理学が発達する土壌はありませんでした。
恵施や公孫竜自身も自我の説を主張するための手段、弁論としての娯楽と捉えていた向きもあると言われています。実際に『荘子』天下篇には恵施が、自己の論法を弁者達に示して、互いに論じ合って楽しんだ」と記録されています。
結果として名家の理論は単なる弁論術として捉えられ、「詭弁」と一蹴されるようになってしまったのです。
5章:公孫竜の思想が学べるおすすめ本
公孫竜について理解を深めることはできたでしょうか?
公孫竜や『公孫竜子』についてより深く知りたい場合は、これから紹介する書籍から学んでみてください。
オススメ度★★★浅野裕一『古代中国の言語哲学』(岩波書店/2003年)
東洋思想が専門の浅野裕一氏の著作です。数少ない名家についての専著で、荀子等の各思想と対比させながら紐解いています。名家の中でも公孫竜を中心に書かれているため、公孫竜について理解を深めることが可能です。
オススメ度★★★浅野裕一『諸子百家』(講談社/2004年)
前述した『古代中国の言語哲学』の著者である浅野裕一氏が諸子百家について書いたものになります。公孫竜の専著ではありませんが、出土史料などを元に丁寧に中国思想について書かれています。
一部の書籍は「耳で読む」こともできます。通勤・通学中の時間も勉強に使えるようになるため、おすすめです。
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まとめ
最後にこの記事の内容をまとめます。
- 公孫竜は春秋戦国に活躍した思想家の一人で、論理学の萌芽であったと言われる「名家」に分類される
- 名家は論理学的な議論をしたが、まだ純粋な論理学が成立する土壌がなく政治的な色合いが濃い思想であったため、発展することがなかった
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