政治史

【桜田門外の変とは】背景から影響まで簡単に解説

桜田門外の変とは

桜田門外の変とは、安政7年(万延元年)3月3日に水戸・薩摩浪士が江戸幕府の大老・井伊直弼を暗殺した事件のことです。

桜田門外の変の後、安政の大獄にて処罰された人々の復権も果たされていくことになり、一橋慶喜や松平慶永などが復活することで文久期の政治は動いていきます。そのため、重要なターニングポイントの一つです。

この記事では、

  • 桜田門外の変の背景・内容
  • 桜田門外の変の影響

について詳しく解説します。

ぜひ読みたい所から読んで勉強に役立ててみてください。

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1章:桜田門外の変とは

まず、1章では桜田門外の変を概説します。2章では桜田門外の変の影響に関して詳しく解説しますので、用途に沿って読み進めてください。

このサイトでは複数の文献を参照して、記事を執筆しています。参照・引用箇所は注1ここに参照情報を入れますを入れていますので、クリックして参考にしてください。

1-1:桜田門外の変の背景

井伊直弼が暗殺される背景としては、井伊自身が指揮を執った「安政の大獄」が要因でした。

安政の大獄とは

  • 江戸時代を通して幕府の特権であった外交政策(通称「鎖国」)がペリー来航以降の条約問題によって揺らいでいったことにより、幕府自体が「征夷大将軍」を頂く政権としての正当性が壊れていくことになった
  • 井伊直弼が大老となったのは、通商条約締結のタイミングで、さらに将軍継嗣問題・戊午の密勅の降下などが重なっていた
  • 井伊直弼は秩序を回復させるために「安政の大獄」を行った

※ここまでの話は、「安政の大獄」の記事に詳しく記してあるのでご参照ください→【安政の大獄とは】背景・受刑者とその内容・影響をわかりやすく解説

井伊直弼は幕府の内外を問わず、苛烈な処罰を繰り返していきます。こうした事態に、憤激していたのが特に水戸藩と薩摩藩の人々でした。

水戸藩は、「戊午の密勅」を受け取ったことで家老まで切腹させられており、その怒りは大きいものでした。水戸藩の金子孫二郎・高橋多一郎らは、脱藩してでも井伊直弼の暗殺・幕政改革を目指し、江戸にいた薩摩藩士と連携を画策します。



1-2:井伊直弼暗殺を狙う者たち―薩摩藩の場合―

大弾圧を行なった井伊直弼を暗殺しようとする者たちが出現するのは当然の成り行きでした。薩摩藩では、後に「誠忠士之面々」と称されることになる、西郷隆盛や大久保利通などの若い藩士たちのグループが井伊直弼暗殺を目指していました。

西郷隆盛は、安政の大獄の影響で奄美大島での潜伏を余儀なくされており、直接は関与できない立場でした。しかし、鹿児島にいる大久保利通や江戸にいる同志たちが井伊直弼を暗殺することで政治情勢を一変させようと計画していました。

脱藩して井伊直弼を暗殺することを彼らの間では「突出」と称していました。安政6年(1859)3月29日、江戸にいる有村雄助・樺山三円・堀仲左衛門らは、鹿児島にいる大久保利通へ次のような書簡を出しています2「安政6年3月29日付き大久保正助宛て有村雄助・樺山三円・堀仲左衛門書簡」立教大学日本史研究室編『大久保利通関係文書 一』(吉川弘文館、1965年)3頁

終ニ其期に至り候而は其許は勿論越、因、長江直ニ差立度存慮之趣義御坐候、就而は当分此内ゟ之取引旁ニ而拝借金迚も難致一同別而困窮之砌ニ御坐候得は外ニ才覚之手順も出来兼、尤最早一日ニ而も早目ニ手当致置時節と存候間、銘々突出之用意無之而は殊ニ纔之人数存分之事も出来申間敷存候付、近頃御相談申上兼候儀ニ御坐候得共、六拾両丈ケ森山方江諸君被仰談御都合被成下間敷哉、右等之訳ニて別段工夫も出来兼候処より不得止御相談申上候間何分可然御取計被下度偏ニ奉願候

書簡の内容を要約すると、「其期」(突出の時期)になったら、「其許」(鹿児島)や越前・因幡・長州にすぐに知らせを差し向ける、「突出」のために60両だけ「森山方」が用意できないか、というものです。

つまり、江戸で井伊直弼暗殺を準備していた有村らは、「突出」の時期が来たら、知らせを差し向けることを約束しています。さらに、「突出」計画のための金の工面を依頼しています。

「突出」の実行は、一見すると無謀に見えますが、井伊直弼の打倒を目指した者たちは本気で実行しようとしていました。

たとえば、安政6年9月4日に出された江戸の同志に向けた大久保利通・有村俊斎(後に海江田信義)書簡には、次のようにあります3「安政6年9月4日付き堀仲左衛門・有村雄助宛て大久保正助・有村俊斎書簡」『大久保利通文書 一』20-21頁

この節之御左右奇妙ニ目を覚まし水戸人事を尽して天運に任すとのこと誠ニ以て奇妙之如、最も諸方手廻し届き候由次第、旁感服この事ニ御座候

ここには、届いた「御左右」(知らせ)に目が覚める思いであること、水戸藩との井伊直弼暗殺計画の準備が整いつつあることに「感服」していることが記されています。

さらに、この文章のあとには、日にちの段取りが決まって知らせがあれば「突出」して順聖公(前薩摩藩主島津斉彬)の意志を継いで天朝(朝廷)を守るという段取りになることを皆が待望していること、そして、井伊直弼と間部詮勝(老中)の首を討ち取ってきてほしいことを伝えています。

つまり、安政6年9月段階で薩摩藩の若い藩士たちの間では「突出」の実行が秒読みとなっていました。

「突出」計画に参加した吉井仁左衛門(後に吉井友実)は、家族に対して別れの手紙を書き残しています。その書簡では生きて再び帰らないという悲壮な決意を記すと共に、家族を気にかけている言葉も残しています。

さらに、「突出」については、「同盟四拾余人堅申合候」と40人余りの同志と共に立ち上がることを伝えています。そして、最後には武士である若人たちの心情が伝わってくる言葉を残しています4「安政6年9月付き父宛て吉井仁左衛門書簡」『大久保利通文書 一』



1-3:井伊直弼の暗殺

「突出」の準備が整った大久保利通らは、薩摩藩主に宛てて上申書を提出し、「天朝」(朝廷や日本自体を意味する)の危機に薩摩藩主の命令を待たずに行動を起こす意思を伝えます5「安政6年9月付き薩摩藩主宛て「誠忠組」上申書」(『大久保利通文書 一』26-29頁)

大久保らの「突出」は時間の問題でしたが、こうした若き藩士たちの「突出」計画に対して、薩摩藩政府は黙って見ている訳ではありませんでした。

  • 今にも「突出」計画が実行されそうであった11月に薩摩藩主島津茂久の名で思いとどまるようにとの命令が出る
  • 命令には「突出」を計画していた者たちを「誠忠士之面々」と称し、順聖院(前薩摩藩主島津斉彬)の「深志」を貫き「天朝」に「忠勤」を励む心得であるので、その際に自分を助けて忠誠を尽くしてほしい旨があった6「安政6年11月5日付き島津茂久諭告書」(『鹿児島県史料 忠義公史料一』85頁)

このように、藩主自らがお願いするかたちで命令は出されました。

この藩主の言葉に感激した大久保利通らは「突出」計画を一旦中止することになります。しかし、「突出」計画は完全に中止されたわけではなく、一方で水戸藩士による井伊直弼暗殺計画は依然として進行していました。

安政7年(1860)2月21日、江戸に滞在していた薩摩藩士・田中直之進が鹿児島に到着し、水戸浪士高橋多一郎の書簡をもち帰ってきました。

高橋書簡の内容は、井伊直弼の暗殺・横浜商館の焼き討ちなどを行なって幕政改革を迫るので薩摩藩も呼応してほしいという内容でした。

大久保利通らは水戸浪士に協力するため、実権を握りつつあった薩摩藩主の父である島津久光に対して率兵上京を主張しますが、拒否されてしまいます。その後も大久保は再度主張し、島津久光は事変が起こった場合にはすぐに薩摩藩も出兵するということを約束します。

しかし、結局は水戸浪士には呼応できませんでした。そんな中で、3月3日、水戸浪士たちと一人の薩摩藩士が井伊直弼の暗殺を実行しました。これが桜田門外の変でした。

大久保利通らの薩摩藩「誠忠組」については、佐々木克『幕末政治と薩摩藩』(吉川弘文館、2004年)が詳しい研究です。ぜひ一読をおすすめします。

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1章のまとめ
  • 桜田門外の変とは、安政7年(万延元年)3月3日に水戸・薩摩浪士が江戸幕府の大老・井伊直弼を暗殺した事件のことである
  • 西郷隆盛や大久保利通などの若い藩士たちのグループが井伊直弼暗殺を目指していた

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2章:桜田門外の変の影響

さて、2章では桜田門外の変の影響を解説していきます。

2-1:井伊直弼の暗殺の影響

井伊直弼襲撃の指揮をとったのは、水戸藩の金子孫二郎でした。安政7年(1860)3月3日、雪の降る中、井伊直弼の乗った駕籠が屋敷を出て、桜田門に行列が向かっていくところを襲撃しました。

水戸浪士は17名であり、襲撃当日に水戸藩へ累が及ばないように全員が脱藩しています。薩摩藩からは有村治左衛門ただ一人が参加しています。襲撃は成功し、井伊直弼は暗殺されました。

宮地正人は『幕末維新変革史 上』(岩波書店、2012年)にて、政治風刺という観点から桜田門外の変が閉塞していた国内の政治的雰囲気を転回させ、幕政批判が噴出した契機と見ています。

世の中に出回った「風説留」はユニークな史料です。宮地はそのなかで次のような狂歌を紹介しています7宮地正人『幕末維新変革史 上』(岩波書店、2012年)227~228頁

首は飛び 桜田騒ぐ 世の中は 何とて町は さびしかるらん

しまったり 当主がえらい めにあうみ 孫ひまご迄 恥のかきあげ

このような作品は全国に流布していきます。大老井伊直弼の暗殺を皮肉った内容です。内憂外患の幕末ですが、人々の政治への好奇の目が感じられる事例と言えるでしょう。



2-2:桜田門外の変は何を変えたのか

では一体、桜田門外の変は歴史的に何を変化させたのでしょうか?

上記したように、井伊直弼が大老に就任したのは、日米修好通商条約の締結直前でした。井伊直弼の方針は、徳川家を中心とした従来通りの秩序を守り通すことでした。

勅許を得てから条約調印を行なうべきだという立場であった井伊でしたが、結局は幕府が「違勅調印」(勅命を違えて外国と条約を調印した状況)したことになってしまいます。こうして、秩序を壊してしまったかたちになった外交担当者を処罰することになります。

しかし、こうした強権的な政治は当然反発を巻き起こすものでした。その結果、井伊直弼暗殺を目指す者たちが登場してきます。井伊直弼を暗殺することで幕政改革を行なおうとした水戸藩や薩摩藩の者たちの論理は「尊王」(朝廷・天皇を尊ぶ思想)でした。

尊王とは

  • 日本はもとを糺せば天皇の土地であり、最も尊ばれるのは天皇であり、徳川家は天皇を蔑ろにしているという主張である
  • 幕府の「違勅調印」や「戊午の密勅」への弾圧などが尊王思想の者たちを刺激した
  • 井伊直弼は、徳川家の秩序を守ろうとすることで敵を多くつくってしまったと言える

桜田門外の変によって井伊直弼が暗殺されたことで、幕政改革の必要性が出てきました。これは、険悪になってしまった朝廷と幕府を再び一体化させることで国内を安定させようという「公武合体」が最大の政策事項になります。

孝明天皇の妹である和宮が将軍徳川家茂と結婚することで朝幕関係の安定化を図りますが、反対にこの政略結婚は「尊王攘夷」を目指す人々からは朝廷から人質をとる行為であると批判されてしまいます。

また、安政の大獄にて処罰された人々の復権も果たされていくことになり、一橋慶喜や松平慶永などが復活することで文久期の政治は動いていくことになります。

このように、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されたことで、新しい政局が展開されていくことになります。

井伊直弼の暗殺は確かに徳川家の威光に傷をつけることになりましたが、それがすぐさま幕府崩壊には至らず、それから約10年間をかけて徳川の世が終末を迎えていくことになります。

2章のまとめ
  • 桜田門外の変が閉塞していた国内の政治的雰囲気を転回させ、幕政批判が噴出した
  • 安政の大獄にて処罰された人々の復権も果たされていくことになり、一橋慶喜や松平慶永などが復活することで文久期の政治は動いていった

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3章:桜田門外の変について学べるおすすめ本

桜田門外の変について理解が深まりましたか?

この記事で紹介した内容はあくまでもきっかけにすぎませんので、下記の書籍からさらに学びを深めてください。

おすすめ書籍

松岡英夫『安政の大獄』(中央公論新社)

桜田門外の変の背景を知るうえで、おすすめの一冊です。井伊直弼とその腹心である長野主膳の立場からみた「安政の大獄」という大弾圧事件の諸相を学ぶことができます。

宮地正人『幕末維新変革史 上』(岩波書店)

幕末維新の通史を叙述した大作であり、現在は文庫版も出ています。幕末維新史を万遍なく学べ、安政の大獄・桜田門外の変についても詳しく記されています。両出来事が歴史的にどういう位置づけになるのか、考察しながら学んでいくといいでしょう。

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井上勝生『開国と幕末変革』(講談社)

幕末史を通史的に学ぶならば、この一冊です。「桜田門外の変」自体の記述は少ないですが、戊午の密勅や安政の大獄に関する記述と併読することで同事件の歴史的意義を考察していくと有意義な勉強になります。

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まとめ

最後にこの記事の内容をまとめます。

この記事のまとめ
  • 桜田門外の変とは、安政7年(万延元年)3月3日に水戸・薩摩浪士が江戸幕府の大老・井伊直弼を暗殺した事件のことである
  • 桜田門外の変が閉塞していた国内の政治的雰囲気を転回させ、幕政批判が噴出した
  • 安政の大獄にて処罰された人々の復権も果たされていくことになり、一橋慶喜や松平慶永などが復活することで文久期の政治は動いていった

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