弥生時代の稲作とは、大陸から稲作文化が伝来したことで始まった、日本で最初の米づくりのことを指します。
縄文時代に続く弥生時代は、日本ではじめて「米」が主食となった時代です。つまり、現在の日本人の食生活の源流は弥生時代に求められます。
しかしながら、弥生時代の日本の様子について記した書物は非常に少なく、特に稲作が開始された時期のことを書いた文字資料は全く存在していません。
したがって、弥生時代の生活は遺跡から出土する住居跡・水田跡や土器・農工具などの遺構・遺物から「考古学的に」研究を行うことで実態に迫るほかはないのです。
近年では、従来行われてきた考古学的な検討に加え、科学的な分析や経済学的な知見からも弥生時代研究が進行しています。それにより、弥生時代の稲作の本来の姿が明らかとなってきました。
この記事では、
- そもそも「弥生時代」の定義とは
- 稲作の開始時期と稲作文化の拡散
- 弥生時代の稲作の様子
についてそれぞれ解説します。
好きな所から読んでみてください。
このサイトは人文社会科学系学問をより多くの人が学び、楽しみ、支えるようになることを目指して運営している学術メディアです。
ぜひブックマーク&フォローしてこれからもご覧ください。→Twitterのフォローはこちら
1章:弥生時代の定義とは
1章では、稲作が始まった時代である「弥生時代」について、その定義や特徴についての研究動向をみていきます。弥生時代の稲作の具体像については2章で詳しく解説しますので、用途に沿って読み進めてください。
このサイトでは複数の文献を参照して、記事を執筆しています。参照・引用箇所は注1ここに参照情報を入れますを入れていますので、クリックして参考にしてください。
1-1:「弥生時代」の区分と定義
はじめに、「弥生時代」の用語的な定義に関する学術上の議論をみていきます。
そもそも、「弥生時代」の「弥生」は東京都文京区の地名です。そして、その地名が時代名を表す用語として定着したのは、そこから出土した土器がきっかけです。
初の弥生土器が見つかった場所は、現在東京大学の構内(フリー画像)
具体的には、以下のような過程を通して「弥生時代」を呼ばれるようになります。
- 明治時代の1887年、弥生の地でいわゆる「縄文土器(当時は「貝塚土器」などと呼ばれた)」とは異なる姿かたちの土器が出土する
- この土器は、当時の人類学者らによる検討の末に縄文時代に続く時代の土器とされ、「弥生式土器」の名称を与えられた
- したがって、その土器を使用していた時代が徐々に「弥生時代」と呼ばれるようになった
しかしながら、これでは矛盾が生じてしまいます。すなわち、「弥生時代とは弥生式土器の使用された時代である」との定義と、「弥生式土器とは弥生時代の土器である」との定義が同居する状態が長らく続き、学界でも混迷が続きました。
そして、昭和に入ると弥生土器と特殊な石器・金属器やイネの籾殻の痕跡がともに出土する事例が多数知られるようになります。
その結果、「弥生文化は農耕社会であった」「弥生時代に稲作が大陸から持ち込まれた」との認識が広がりを見せ始めます。これについて、日本の縄文時代研究の礎を築いた山内清男は次のような定義を示しました2山内清男「日本遠古之文化 縄文土器の起源」『ドルメン』1-5頁 岡書院。
日本内地の住民の文化は、第一に大陸との交渉が著名でなく、農業の痕跡のない期間、第二は大陸との著名な交渉を持ち、農業の一般化した時代である…(中略)…後者の段階が弥生式の文化である。
ただし、弥生時代の定義を農耕(特に稲作)と結びつける考えが浸透したのは戦後のことです。弥生時代研究をリードする考古学者・佐原真と金関恕によって、弥生時代を以下のように定義づけています3佐原真・金関 恕「米と金属の世紀」『稲作の始まり』古代史発掘 4 弥生時代 1 23頁, 講談社。
日本で食糧生産が始まってから前方後円墳が出現するまでの時代
この理解が継続し、現在に至っています。
1-2:弥生時代の開始についての議論
ところが、近年ではこうした「農業(稲作)の開始をもって弥生時代とする」といった時代区分にも疑問が投げかけられています。
戦後まもなく、北部九州地域での発掘調査によって「縄文土器は縄文時代、弥生土器は弥生時代」との従来的な認識が変化を余儀なくされました。
なぜなら、発掘では縄文土器とされていた土器と、弥生土器とされていた土器が混在する地層から水田跡が検出され、その後「縄文土器」だけが出土する地層からも水田跡が発見されたからです。
初期の水田の設備も現代とそん色ないものだった
こうした発見は、北部九州の一部にだけみられるものでした。その結果、以下のような状況が生まれました。
- 稲作が北部九州で始まったとの従来の見方が立証される
- 同時に、縄文土器も含まれるようなごく初期の段階を「弥生時代」と呼んでいいのかについての議論も起こしている
ごく最近では縄文時代にも仕組みの整った農耕が存在したとの説も浮かび上がってきており、土器や農耕の有無をもって縄文時代と弥生時代を区分するのはさらに難しくなりました。(→詳しくは、縄文農耕論の記事へ)
こうした状況を解決する一つの案として、東京大学の考古学者・設楽博己は弥生時代の農耕の特徴を次のようにまとめています4設楽博己「縄文時代から弥生時代へ」『岩波講座 日本歴史』第2巻古代2 岩波書店。
- 米をはじめとする穀物、主食的食糧が生産される
- 一つの遺跡で、多量に栽培穀物が出土する場合がある
- 一つの遺跡で、複数の栽培穀物が出土する場合がある
- 拡大再生産の性格を内在させた灌漑型の水田稲作を基軸としたうえで、畠作による雑穀栽培を取り込んだ農耕文化複合が地域的な変異をみせながら展開した
設楽の考えに従うならば、農耕が生活のごく一部にとどまっていたか、生活の中心を占めていたかによって縄文時代と弥生時代が区分されます。
このように、弥生時代は「何を基準とするか」によってずいぶん定義が変わってくるものです。いずれの場合も、稲作によって縄文時代から弥生時代へと急激に変化したわけでは無く、弥生時代は穏当に始まったものと言えます。
- 弥生時代の稲作とは、大陸から稲作文化が伝来したことで始まった、日本で最初の米づくりのことを指す
- 弥生時代の定義を農耕(特に稲作)と結びつける考えが浸透したのは戦後のことである
- 稲作によって縄文時代から弥生時代へと急激に変化したわけでは無く、弥生時代は穏当に始まったもの
2章:弥生時代の稲作について
従来、弥生時代は稲作の開始・拡散をもって定義されてきました。しかしながら、近年では弥生時代の稲作についての認識は大きく改まりつつあります。
結論からいえば、それは以下のような理由によります。
- 科学の力でイネのルーツがわかってきたこと
- 日本における稲作の開始期が思ったよりも古い年代まで遡ること
- 縄文農耕論の進展により、単に「農耕の有無」で縄文時代と弥生時代を区分できなくなったこと
それぞれ、詳しく解説していきます。
2-1:弥生時代の稲作の具体像と現代との違い
北部九州で開始され全国に拡散した弥生時代の稲作は、いわゆる「水田稲作」で現在でも行われている型式と大きく変わらないものです。たとえば、福岡県板付遺跡で発見されたごく初期の水田跡について、考古学者の寺沢薫は次のように述べています5寺沢薫『王権誕生』日本の歴史02 講談社。
その水田は集落が営まれた低台地の縁辺にそって掘られた用水路に、水を止めて別の水路に流すための井堰を備えた高度な技術をもつものだった。杭で補強された畔の間隔から、水田の一区画が四百平方メートルに及ぶこともわかった。現代の村落周縁に見る景観とさほど変わらぬ水田の姿が二千四百年前のそこにあったのである。
このほかにも、さまざまな農耕具の面で弥生時代の稲作の先進性が指摘されてきました。しかし一方で、その収穫方法や収穫量は現代とずいぶん異なっていたといいます。
第一に、収穫を行うための道具が現代と弥生時代とで同じではありません。
- 現代・・・どんなに古い方法でも鉄製の鎌で根元からイネを刈り取る方法を採る
- 弥生時代・・・「石包丁」でイネの実が付いた穂の部分だけを刈り取る(=穂首刈り)
(石毛直道「日本稲作の系譜 (上) : 稲の収穫法」『史林』第51巻第5号 139頁 京都大学文学部史学研究会)
また、イネ自体の姿も現代とは大きく異なっており、背は高いが非常に倒れやすく、そのため収穫量もそれほど多くはなかったと考えられています。
加えて、農薬の概念が無く雑草が生えやすいうえに、栽培過程が全て手作業だったことを考慮すると、少なくとも最初段階では稲作=「効率的な主食の栽培」と表すのは難しい状況だったのかもしれません。
(筆者作成)
しかし、弥生時代や続く古墳時代を経て稲作は徐々に効率を増していきました。そこで、日本人の主食といえば「米」といった概念が成立したものと考えられます。細部に違いはあるものの、現代の稲作とその精神性はまさしく弥生時代から脈々と続くものです。
2-2:稲作文化の伝来
古く遡ると、東アジアにおける稲作は中国の長江中・下流域で始まりました。あくまで一説に過ぎないものの、紀元前一万年前にはイネの栽培が既に行われていた可能性も決して低くはありません。
日本に伝わってきたイネのルーツも長江中・下流域で、朝鮮半島経由で日本に伝来したといわれています。朝鮮半島で出土する農工具と日本の稲作開始期の農耕具の高い共通性がその裏付けとなる大きな理由です。
一方で、このことはイネの遺伝子学的にも証明されています。特に、日本のイネ(=温帯ジャポニカ米)を遺伝子的に解析した佐藤洋一郎は、次のように述べています6佐藤洋一郎「日本のイネの伝播経路」『日本醸造協会誌』第87巻第10号 734頁 公益財団法人 日本醸造協会。
温帯japonicaは数千年前に長江(揚子江)の中,下流域で, japonica型の野生イネから起源 したと考えられ, 現在ではおもに長江流域一帯から朝鮮半島, 日本など温帯地域に分布す る。
ただし、佐藤はこのほかにも弥生時代の北日本に温帯japonicaとは異なるイネ=熱帯japonicaの存在を発見しています。
また、それとは別に多数の研究者が「弥生時代の農耕には稲作に限らず畑作の要素も含まれている」と指摘しているのも事実です。
これについては、現在、「朝鮮半島から稲作だけが単体で伝来したのではなく、中国北部の畑作と長江中・下流域の稲作が朝鮮半島で融合し、それが日本にもたらされた」と考えられるようになりました。
こうした今日的な指摘は、弥生時代の稲作が複雑なルーツを持っていることを如実に示すものとして解釈されています。
2-3:稲作文化の開始と拡散
中国大陸・朝鮮半島に由来する稲作は、日本では北部九州地域にて開始され、そこから全国に拡散しました。近年、この「稲作の開始時期」については、考古学だけでなく科学も巻き込んだ論争が起こっています。
2003年、国立歴史民俗博物館で福岡県板付遺跡・佐賀県菜畑遺跡などのごく初期の稲作集落遺跡から出土した土器の年代を科学的に測定した結果、稲作の開始時期が紀元前10世紀にまで遡るとのデータが得られました。
これは稲作の開始時期を紀元前5世紀前後とする従来の通説を500年以上遡るもので、賛否両論をもって考古学者に知られました。年代測定を担当した国立歴史民俗博物館の坂本稔は、次のように述べています7坂本稔「弥生時代の開始年代―AMS14C法のはたす役割」『真空』第50巻第7号 29-31頁。
土器の内外面には,その使用にともなう物質が付着していることがある.土器付着物の起源物質が調理に用いた陸上生物や薪などの燃料材とすれば,その炭素14年代は土器の使用年代をほぼ反映したものとなると考えられる.…(中略)…九州では2,800 14C BP,その他の地域でも2,500 14C BP には弥生時代を設定することができる.…(中略)…九州ではほぼ紀元前10世紀に相当する.
結局のところ、弥生時代の開始をいつとするかは研究者の見解によって異なります。
上記の数値を踏まえて「北部九州における稲作の開始をもって弥生時代が口火を切る」とする意見もあれば、当該遺跡における縄文土器の出土状況から「ごく初期の稲作は北部九州の一部に限られるもので、縄文時代の文化の範疇に含まれるべき」との意見もあるのが現状です。
いずれにせよ、この北部九州における稲作の開始から間もなく列島各地に稲作文化がもたらされたのは間違いありません。地域的な条件によって稲作の受容度合いは全く異なるものの、稲作は弥生時代の前半期のうちに東北北部にまで達しました。
こうした稲作の拡散は渡来系の人々による半ば強引なものであったと考えられがちです。しかし、縄文時代以来の石棒祭祀・土偶祭祀・屈葬(手足を曲げて遺体を葬る行為)などは弥生時代にも形を変えながら継続しています。
近畿地方における弥生時代の石棒の出土例を分析した、考古学者の秋山浩三は次のように述べました8秋山浩三「弥生の石棒」『日本考古学』第9巻第14号 日本考古学協会。
弥生開始期は, 縄文・弥生系両集団の接触・共生(共存状態)・融合という, 過渡的様相の複雑性に象徴される。その最中にありながら, 両系集団の間にはおおむね当初段階からかな り密接な関係が, 保有土器や集落形態, 経済的基盤などの違いをこえて達成されていた, と 石棒類から想定できる.これは, 縄文・弥生系集団による隣接地内における共生の前提であ り背景であった。…(中略)…弥生文化の担い手の主体的な部分が在来の縄文系集団に依拠・由来していたことによる, という見通しを得ることができよう。
つまり、北部九州に始まった稲作文化は、初期には縄文文化との平和的な共存・融合をもって日本全国に展開したと考えることができるのです。
ただし、この農耕文化がやがて社会の階層形成へと発展し、やがてヤマト王権や国家の概念を成立させるような革命的な出来事であったことも見逃せません。今日の日本社会は食料の面以外でも様々な文脈で弥生時代にルーツがあると言えます。
- 細部に違いはあるものの、現代の稲作とその精神性はまさしく弥生時代から脈々と続くものである
- 朝鮮半島から稲作だけが単体で伝来したのではなく、中国北部の畑作と長江中・下流域の稲作が朝鮮半島で融合し、それが日本にもたらされた
- 北部九州に始まった稲作文化は、初期には縄文文化との平和的な共存・融合をもって日本全国に展開したと考えることができる
3章:弥生時代の稲作について知れるおすすめの本
弥生時代の稲作に関して理解を深めることはできましたか?
さらに学びを深めたい方に向けて、おすすめ本を紹介します。ぜひ読んでみてください。
オススメ度★★★ 藤尾慎一郎『弥生時代の歴史』(講談社)
放射性炭素年代測定による新たな「弥生時代の開始時期」についての議論をふまえつつ、筆者の弥生時代に対する見解をまとめた一冊です。稲作の拡散と受容にも触れる。
オススメ度★★★ 設楽博己『縄文社会と弥生社会』(敬文舎)
著者が提唱する「農耕文化複合」の具体像から縄文時代と弥生時代の違いを探った意欲的かつ説得力のある一冊です。
(2024/11/09 15:48:37時点 Amazon調べ-詳細)
一部の書籍は「耳で読む」こともできます。通勤・通学中の時間も勉強に使えるようになるため、おすすめです。
最初の1冊は無料でもらえますので、まずは1度試してみてください。
また、書籍を電子版で読むこともオススメします。
Amazonプライムは、1ヶ月無料で利用することができますので非常に有益です。学生なら6ヶ月無料です。
数百冊の書物に加えて、
- 「映画見放題」
- 「お急ぎ便の送料無料」
- 「書籍のポイント還元最大10%(学生の場合)」
などの特典もあります。学術的感性は読書や映画鑑賞などの幅広い経験から鍛えられますので、ぜひお試しください。
まとめ
最後にこの記事の内容をまとめます。
- 弥生時代の稲作とは、大陸から稲作文化が伝来したことで始まった、日本で最初の米づくりのことを指す
- 弥生時代の定義を農耕(特に稲作)と結びつける考えが浸透したのは戦後のことである
- 北部九州に始まった稲作文化は、初期には縄文文化との平和的な共存・融合をもって日本全国に展開した
このサイトは人文社会科学系学問をより多くの人が学び、楽しみ、支えるようになることを目指して運営している学術メディアです。
ぜひブックマーク&フォローしてこれからもご覧ください。→Twitterのフォローはこちら