歴史学

【冊封体制とは】成立の歴史・日本の議論などをわかりやすく解説

冊封体制とは

冊封体制(さくほうたいせい/さっぽうたいせい)とは、歴代中国王朝が諸外国に対してとった外交体制と、それによって構築された国際秩序を指します。

具体的には、中国の皇帝が他国の統治者を臣下とする→他国の統治者が名産等を皇帝に献上→皇帝はこれに対して慰労し、褒美を与えるという体裁をとります。

しかし、「冊封体制」という制度が当時にあったかというと答えは「否」です。そこで、今回は「冊封体制」の歴史や思想との関わり合いに触れながら、解説をしていきたいと思います。

特にこの記事では

  • 冊封体制とは
  • 冊封体制と儒教
  • 冊封体制の歴史

について、詳しく解説をしていきます。

教科書で名前は知っているけど内容はよく分からない、なぜそういう体制が生まれたのか理解できない、という人は是非読んでみてください。

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1章:冊封体制とは

先にお話した通り、冊封体制とは中国の歴代王朝が周辺諸国と結んだ君臣関係であり、その国際秩序を指します。

1-1:冊封体制の意味

冊封体制の「冊」とは皇帝の命令書を指し、土地などを臣下に与える際には冊書によって、命じられました。つまり、「冊封」とは皇帝からの冊書により、土地に封じられるという意味になります。

本来は国内の土地に封じる(領地を与え臣下とする)際に行っていたものなのですが、冊封体制はこれを国外まで拡大して適用しようとしたものになります。

諸外国の統治者は必ず皇帝よりも下位の爵位が与えられました。また統治者の臣下は基本的には冊封された者の臣下となり、直接皇帝の臣下となることはありませんでした。

この冊封体制は確かに君臣関係を結ぶものではありましたが、一部地域を除けば中国王朝の支配は限定的であり、基本的には諸外国の統治者の自治が認められた形式上の関係でした。

冊封された国は毎年の朝貢(朝廷に貢物を送ること。中国との貿易は朝貢以外認められなかった。)を行い、中国の元号などの使用を求められます。影響力が強い地域だと、軍事的な協力を求められることもありました。

しかし、実際には軍事的な協力や年号の強制などは殆どの国では見られませんでした。

むしろ冊封された国が侵略をした場合は、中国に救援を要請でき、経済的には中国からの返礼の品等を貰えるため、冊封体制の傘下に入ることには大きなメリットもありました。

私たちの住む日本などは中国の先進的な制度や文化、学問を取り入れるため、また中国のバックアップを得られるということもあり、この冊封体制下に入っています。

しかし、中国はなぜ通常の交易ではなく、君臣関係を結び取引を行う「冊封体制」を選んだのでしょうか。そこには、中華思想と儒教が大きく関係していました。



1-2:冊封体制と中華思想

冊封体制を支える根幹的な考え方に中華思想があります。

中華思想とは、中国を文化・技術・思想等が進んだ世界の中心であり、中国以外の国家を夷狄(非文化・非文明)と位置づける思想です。

(中華思想 概略図)

冊封体制の図

中国では漢の武帝(紀元前141年~87年)の時代から儒教が国教化され、役人になる際の基準は儒教の価値基準が定められます。この儒教的な価値基準の上に郡県制や郡国制といった統治制度、更には律令制などが定められ、国内に施行されます。

この様な儒教の「礼」を基盤に置いた制度が定められ、統治されている国が文明国であり、そうでない国は非文明的であるとの認識がされるようになります。

冊封体制はこうした思想が形成される過程で生まれたと考えられています。

中国の視点からすると、冊封体制に入るという事は皇帝の徳に感化されて改心し、儒教的な「礼」を受容して文明国の中に入ることを意味するのです。そして冊封された国の数が多ければ多いほど、それは皇帝の徳の素晴らしさの裏付けになるのです。

この様に、「冊封体制」は中国の歴史を紐解く重要なポイントになるのですが、実は「冊封体制」という言葉自体は中国の史料上見ることができません。

1-3:冊封体制の議論

「冊封体制」という言葉自体は、中国から生まれたのではなく、何と日本で誕生した言葉でした。

日本の東洋史研究者の西嶋定生氏は、10世紀頃に東アジア諸国が相次いで滅亡に至った事象について研究し、各国に相互関係があると提唱しました。その関係性について論じる際に、「冊封」に目をつけ中国を中心とした東アジアの国際秩序が形成されていたと結論付けます(『岩波講座日本歴史』第2 六-八世紀の東アジア)。

この西嶋氏の論説を軸に賛否両論がおこり、中国の外交政策などの研究がされるようになります。

旗田巍 主に唐と日本との関係性に着目し、東アジアにおける冊封体制の構造について批判。その存在を否定。
掘敏一 冊封体制の構造が存在すると支持。画一的な関係性ではなく、中国皇帝と諸外国の統治者と関係性によって、羈縻(きび)・冊封・朝貢・会盟など様々な形態をとると主張。
鬼頭清明 冊封体制を諸々の政治関係を考慮して考えるべきと主張。権力の変化や軍事的なバランスの変化などによって、起こる現象の原因を冊封体制に結び付けることを批判。
藤間生大 冊封体制について、国際社会を規制するものではないと主張。あくまで形式的なものであり、規制の弱さこそ東アジアの形成に大きく作用したと述べた。

このように、冊封体制の実態は論者によって評価が分かれているのです。

1章のまとめ
  • 冊封体制とは、歴代の中国王朝が周辺国の統治者を臣下とする関係を結ぶ体制だったが、諸外国には基本的に自治が認められていた
  • 冊封体制は中華思想の成立とともに生まれた
  • 冊封体制という言葉は日本で生まれたもので、日本でも実態がいかなるものだったのか議論が分かれている
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2章:冊封体制の歴史

ここまで、冊封体制について概要と、研究者間の議論について解説をしてきました。2章では冊封体制に着目し、各時代でどのような出来事があったのか、またどのように関係性が変化していったのか解説をしていきます。

2-1:最初の冊封と各国の郡県化

冊封の事例の始めとして、南越国に対するものと衛氏朝鮮に対するものが挙げられます。この二国はそれぞれ前漢より「南越王」・「朝鮮王」に封じられ前漢の藩国となりました。

南越国・衛氏朝鮮は前漢の八代皇帝武帝により滅ぼされ、前漢の直轄領として組み込まれました。朝鮮の土地には楽浪郡・玄菟郡・真番郡・臨屯郡が、南越の土地には南海郡・交阯郡などが置かれます。ここに藩国は消滅し、冊封体制が一時的に消滅します。

漢委奴国王印漢委奴国王印

その後、再び匈奴・高句麗などの周辺国に対して再び冊封が行われるようになり、後漢の光武帝の時代になると、倭(今の日本)の奴国の王が「漢倭奴国王」に封じられます。

前漢の初期は皇帝の直轄領として郡・県が置かれる一方で、親族の王が統治する国も置かれ、二元支配の時代でした。そのため、冊封も盛んに行われました。しかし、国を統治する王の権力が強大化し、反乱が起きたため武帝の時代に郡国制は廃止され、全てを皇帝の直轄領とする郡県制が施行されました。そのタイミングで一部冊封されていた地域も郡県化されてしまいます。

2-2:卑弥呼への冊封と分裂の時代

三国志で有名なが後漢を滅ぼして以降、中国では統一王朝が現れず、分裂の時代を迎えます。

そのとき日本では、まず西暦239年頃に邪馬台国の女王卑弥呼が魏に対して使者を送ります。その際に魏の二代皇帝明帝より「親魏倭王」の爵号を受けています。

また朝鮮半島では372年頃に百済の近肖古王が東晋(魏を滅ぼした王朝)に朝貢を行い、鎮東将軍領楽浪太守に封じられます。

中国の北と南に王朝が分裂して覇権を争う時代になると、百済は南朝の宋から冊封を受けました。一方で百済と敵対していた高句麗は北朝の北魏に朝貢して冊封を受け、百済に対抗しました。

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2-3:隋による冊封と唐の羈縻政策

冊封体制の図6世紀の梁朝における職貢図

589年に中国を統一したによって、これまで北朝と南朝の二元的に行われた冊封体制は再び一元的なものとなりました。

高句麗・百済は581年にすぐに隋の冊封を受けましたが、新羅はすぐには冊封を受けず、594年に初めて隋の冊封を受けました。

一方で高句麗は敵対する粟末靺鞨(ぞくまつまつかつ)や契丹(きったん)などに対する軍事行動を活発にさせていきます。粟末靺鞨・契丹は次第に隋に服従する動きを見せるようになり、隋と高句麗の関係は悪化してしまいます。そしてついに隋は高句麗への遠征を強行しました。

倭国は、隋に対しては、遣隋使を送るようになります。これは、隋の二代皇帝煬帝に対し、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々」と書いた国書を送ったことで有名です。この時二代皇帝煬帝は国書に対して憤慨したと記録されています。

ただ、憤慨したポイントとしては、「日出ずる処」、「日没する処」ではなく、唯一無二の「天子」という言葉を、倭国の長にも使っているという点でした。

倭国が「天子」の語句を敢えて用いた理由として、自国が国家として成熟し、中国の冊封体制から独立して運営していこうと表明したかったのではないかと考えられています。

隋は高句麗への遠征が失敗におわり、僅か30年ほどで滅亡してしまいます。隋に代わって天下を統一した唐は、これまでの冊封だけではなく、羈縻(きび)政策によりアジア諸国との関係構築を進めていきます。

羈縻(きび)政策とは、国王・首長を選び、中国の官吏として都督・刺史・県令などに任命し、統治権を認めた政策です。これらの地域は羈縻州とされ、形式上は唐の一地方官吏とされました。冊封体制よりも直接支配に近いと評価されることも多いですが、冊封の一形態とも捉えられています。

■羈縻州設置地域

安西都護府 トルファン・クチャ
安北都護府 外モンゴル
単于都護府 内モンゴル
安東都護府 朝鮮・満州
安南都護府 ベトナム・その他の南海諸国支配
北庭都護府 新疆ウイグル自治区昌吉回族自治州



2-4:唐から宋にかけての冊封体制

唐は羈縻(きび)政策だけではなく、冊封も同時に行っていきました。

冊封体制の図7世紀唐における百済、高句麗、新羅からの使者

624年に高句麗・百済・新羅を冊封しています。しかし、唐と新羅との関係がより強くなると、唐は新羅と敵対する高句麗・百済に対して攻撃を行い、660年に百済、668年には高句麗を滅ぼします。

ライバルの二国(高句麗・百済)がいなくなった新羅は、高句麗・百済の旧領を吸収し、拡大した支配領域のまま新羅は冊封を受けました。

またこの頃の倭国は遣唐使により唐との交流を深めました。これは朝貢の形式で行いましたが、皇帝から何かしらの地位を与えられることはなく、ただの朝貢関係で終始しています。

唐滅亡後、中国を統一した(北宋・南宋)は文化的には高度に発展しましたが、軍事的は隣国の遼や金に圧迫されていました。

1004年に遼と結ばれた澶淵の盟や、西夏との慶暦の和約などは、形式上では宋が上位に立ってはいますが、実質的には宋が遼や西夏に財貨を送る代わりに和平が保証されるという内容でした。

  • 澶淵の盟
    1004年、北宋と遼の間にて結ばれた盟約。宋を兄、遼が弟として宋から遼に絹20万匹・銀10万両を送り、歳幣(毎年、贈与すること)とした。
  • 慶暦の和約
    1044年に西夏と宋の間で結ばれた条約。西夏が宋の臣下となるかわりに、歳賜という形で毎年、銀5万両、絹13万匹、茶2万斤が宋から送られた。

2-5:冊封体制の崩壊

宋の後を受けたの時代になると、李氏朝鮮や日本などが冊封されています。特に14~15世紀の日本は、南北朝時代であり、南朝の懐良親王が「日本国王」として明の冊封を受け、後に室町幕府の足利義満も交易による富の独占を狙い、同じく「日本国王」として冊封を受けました。

また、明の時代より琉球王国が冊封国となり、中国と琉球の冊封関係はおそよ500年あまり続いたと言われています。

明滅亡後の清代では冊封体制の範囲はさらに広がり、これまで東アジアに留まっていたものが、東南アジアや北アジアにまで及んでいきます。しかし、19世紀にイギリスをはじめとする西欧のアジア進出によって冊封体制はほころびを見せ始めます。

1840年のアヘン戦争や、1883年の清仏戦争、更には1895年の日清戦争で敗北を重ねていしまいました。清は西欧各国との不平等条約で多くの冊封国を西欧各国の植民地として認め、日清戦争により朝鮮半島を独立国と認めることで、冊封体制は崩壊していきました。

2章のまとめ
  • 前漢のころからはじまった冊封は、王朝によって強く実践されたり消滅したりしたが、後漢の時代には倭の奴の王も冊封体制に組み込まれた
  • 日本は卑弥呼や南朝・懐良親王、足利義満らによっても冊封が受けられた
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3章:冊封体制について学べるおすすめ本

冊封体制について理解を深めることはできましたか?冊封体制について理解を深めるためには、中国やアジアの歴史とともに学ぶことをおすすめします。ぜひこれから紹介する本を手に取ってみてください。

オススメ書籍

オススメ度★★★西嶋定生『秦漢帝国』(講談社学術文庫)

冊封体制論の提唱者である西嶋定生の著作です。冊封体制ばかり書かれている訳ではありませんが、最後に冊封体制について書かれているセクションがあり、初学者におススメの一冊です。

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オススメ度★★石井正敏『東アジア世界と古代の日本』 (山川出版)

薄くてサクッと読める内容になっていて、初学者でも通学・通勤時間で読めてしまいます。国家や社会といったマクロな視点ではなく、当時の人の交易や交流などについて書かれています。

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まとめ

最後にこの記事の内容をまとめます。

この記事のまとめ
  • 冊封体制とは、中華思想とともに成立した、周辺国の統治者を臣下として封じる秩序のこと
  • 日本も後漢のころから中国の王朝によって冊封体制に組み込まれた
  • 冊封体制は、イギリスをはじめとする西欧のアジア進出によって崩壊した

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