考古学

【伊都国とは】弥生時代の北部九州に実在した王国について簡単に解説

伊都国とは

伊都国(イト国)とは、現在の福岡県糸島平野に実在した弥生時代の「国」のことです。

弥生時代(特に中期後半~後期)の日本には、地域ごとに小国が存在していました。その中でも大きな力を持っていた「国」1本記事では、現在の日本・中国・アメリカのような「国家」と弥生時代に存在した地域ごとの小国を区別するため、後者は括弧書きで「国」と呼称します。の一つが、北部九州の伊都国です。

そんな伊都国は、かの有名な邪馬台国への道のりや当時の日本(倭国)の情勢を記した中国の書物である『魏志』倭人伝にも登場します。

さらに言えば、『魏志』倭人伝に記載がある「国」の中でも、地理学的・考古学的にその所在地が明らかになっている数少ない例の一つでもあります。したがって、当時の日本における社会構造や「国」のありかたを知る上で、伊都国についての学術的な研究は欠かせません。

そこで、この記事では、

  • 伊都国についての記録と所在地
  • その他の「国(奴国・邪馬台国など)」との関係性
  • 伊都国についてわかっている考古学的な成果

についてそれぞれ解説していきます。

好きな箇所から読み進めてください。

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1章:伊都国とは

1章では、まず伊都国の所在地と伊都国についての情報が記された文献について紹介すると共に、伊都国の周辺や同じ文献に記されている「国」との関係性について解説します。

具体的な遺跡・出土遺物やそれらを通して得られた情報については2章で解説しますので、関心に沿って読み進めてください。

このサイトでは複数の文献を参照して、記事を執筆しています。参照・引用箇所は注2ここに参照情報を入れますを入れていますので、クリックして参考にしてください。

1-1:伊都国についての記録と所在地

伊都国は、中国の歴史書『魏志』倭人伝3『魏志』倭人伝は通称で、正確には『三国志』のなかの『魏書』に記された東夷伝倭人条を指します。本記事内ではわかりやすさを重視し、通称を使用しました。に登場する弥生時代の「国」の一つです。まずは『魏志』倭人伝の記述をみていきます4(『魏志』倭人伝より引用)

東南陸行 五百里 到伊都國 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐

東南に陸行すること五百里。伊都国に到る。官は爾支といい、副は泄謨觚、柄渠觚という。千余戸有り。世、王有り。皆、女王国に統属す。郡使往来し常に駐する所

筆者訳:(先に登場した末盧国から)東南の方向に陸上を五百里進むと伊都国に到着する。伊都国の長官は爾支といい、副官は泄謨觚、柄渠觚という。千余戸の家々がある。代々、王がいた。みな女王国に従属している。帯方郡からの魏の使者が往来し、常に滞在する国である

このように、同書の中での伊都国は、

  • 魏の支配領域である朝鮮半島の帯方郡から倭の女王・卑弥呼の邪馬台国までの道中に位置づけられていた
  • 加倭国にやってきた魏の使者が滞在する場所が伊都国であった

ことが示されています。

また、「世、王有り」も重要な記述です。邪馬台国時代に王が存在したかは不明であるものの、それ以前の伊都国に王がいたことは間違いありません。

後述する「一大率」のような重要な役職が伊都国に置かれたこと、伊都国が魏の使者の滞在地だったことの背景には、かつての王の存在が関与していたとみる見解は根強く存在します。この点について、九州大学の東アジア史研究者・川本芳明は次のように述べました5川本芳明「倭国における対外交渉の変遷について : 中華意識の形成と大宰府の成立との関連から見た」『史淵』143号 九州大学大学院人文科学研究院, 33-34頁

ところで、『魏志倭人伝』には、その前原の地に比定される伊都国について、「伊都国……世有王。」とあって、伊都国には卑弥呼の段階、あるいはその直前まで「王」が代々存在したとする記載が見出される。このことは三雲遺跡の段階からすでに大陸との強い絆をもっていた伊都国の勢力が、倭国の覇権は邪馬台国に握られたとはいえ、三世紀の段階となってもなお、有力な勢力として存続していたことを示していることになる。

ここで気になるのは、伊都国の所在地です。実を言うと、同じ『魏志倭人伝』に記された「国」のなかで、卑弥呼の邪馬台国をはじめ多くの国々の所在地が不明とされています。

しかし一方で、(朝鮮半島に近い順から)

  • 対海国(ツシマ国)
  • 一大国(イキ国)
  • 末盧国(マツロ国)
  • 伊都国(イト国)
  • 奴国(ナ国)

は北部九州の各地に比定されてきました。それは現在でも各国に相当する「地名」が残っていたからです。

たとえば、対海国は現在の対馬、一大国は現在の壱岐島、末盧国は現在の松浦市(いずれも長崎県)に当てはまります。

このように考えた場合、伊都国は北部九州の“糸”島平野(福岡県糸島市)が所在地候補として妥当です。遺跡の発掘等で得られた考古学的な成果も伊都国の所在地=現在の福岡県糸島市域を保証しています。

伊都平野の地図

つまり、伊都国の存在および所在地は、中国の文献・現在も残る地名・考古学的な調査の成果の3点から確かめられているのです。



1-2:伊都国と奴国・邪馬台国との関係性

次に、伊都国と邪馬台国・奴国との関係性をみていきます。

  • 邪馬台国・・・倭の女王・卑弥呼が都をおいた国
  • 奴国・・・現在の福岡平野を拠点とした国

邪馬台国時代以前の奴国は、中国・後漢の光武帝から「漢委奴国王」の金印を受け取った国としても知られています。

1-2-1: 伊都国と邪馬台国のつながり

最初に注目すべきは、『魏志』倭人伝の時代における伊都国と邪馬台国のつながりです。『魏志』倭人伝には、邪馬台国への道程を示す記述以外にも伊都国と邪馬台国について書かれた部分があります6『魏志』倭人伝より引用

自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯

女王国以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず」

筆者訳:女王国より北には、特に一大率を置いて検察し、諸国はこれを恐れはばかっている。大率は常に伊都国で政務を執っている。魏の国中における州の長官のような存在である。女王が使者を派遣し、魏の都や帯方郡、諸韓国に向かうとき、及び帯方郡の使者が倭国へやって来たときには、毎度大率が伊都国から港に出向いて取り調べを行う。大率は文書や授けられた贈り物を伝送して女王のもとへ届ける役割を担っており、数の違いや間違いがあってはならない

この記載からわかるのは、邪馬台国で倭国統治を行っている女王・卑弥呼が伊都国に検察官・外交官である「一大率」を置いたことです。当時の女王の都である邪馬台国に対して、伊都国はいわば外交拠点であったことがうかがえます。当時の倭国の政治上、伊都国が邪馬台国に次ぐ重要な地位を占めていたと言っても過言ではないのです。

1-2-2: 伊都国と奴国のつながり

一方で、伊都国と奴国の関係については『魏志倭人伝』の記述から伺い知ることはできません。「一大率」などの詳細な記載が残る伊都国に対して、奴国のついては官の名前や戸数などわずかな情報が記されている程度だからです7『魏志』倭人伝より引用

東南至奴国 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸

東南、奴国に至る。百里。官は兕馬觚と曰い、副は卑奴母離と曰う。二万余戸有り。

筆者訳:(伊都国から)東南、奴国に至る。百里。長官は兕馬觚といい、副官は卑奴母離という。二万余戸が有る

ただし、遺跡や遺物などの「モノ」から歴史を探る考古学の成果からは、両国は位置的に隣り合っており(糸島平野と福岡平野)、両国の成立時期についても弥生時代中期後半と一致しているほか、その段階では両国の勢力がほぼ同等であったとみられています。

とはいえ、各時期に応じて伊都国と奴国の間に差があったのも事実です。

  • 奴国王が「漢委奴国王」の金印を収受した時期には奴国に外交のイニシアティブがあった
  • その後は邪馬台国時代に向かうにつれて対中国・対朝鮮外交の中心が伊都国(および伊都国王)に移っていった可能性は高いとされる

邪馬台国・伊都国・奴国の関係性現代の感覚でみると、伊都国と奴国はライバル関係のように思えます。ただし、両国には戦乱の形跡が見つかっていないばかりか、共に邪馬台国連合に属するなど、今のところわかっていることからすると平和的に共存していたと言えそうです。弥生時代を主に研究する考古学者の寺沢薫は、弥生時代中期後半の伊都国と奴国の関係を次のようにまとめています8寺沢薫『王権誕生』日本の歴史02 講談社 163-164頁

二人の王がどういう関係にあったかを推測してみよう。ともに、前期以来、クニグニの戦争を経てイト国とナ国の王の座を勝ち得てきた共同体の末裔だ。それが彼らの代になって倭を代表するほどの王の中の王に成長した背景には、楽浪郡の設置による漢王朝との外交関係や交易、金属器生産の掌握などによる富の蓄積、軍事力の強化があったろう。そのどれもが彼らの王としての権威と威信を高めていった。だが、この二大国家が互いに激しく戦い合ったという形跡はない。

伊都国は、北部九州を拠点に外交を担う中で周辺諸国や邪馬台国とうまく関係性を築き、政治・外交上の大きな権力を得た国でした。その非常に大きな権力の様相は糸島平野における発掘調査の事例からも明らかになっています。

1章のまとめ
  • 伊都国(イト国)とは、現在の福岡県糸島平野に実在した弥生時代の「国」のことである
  • 遺跡の発掘等で得られた考古学的な成果は伊都国の所在地=現在の福岡県糸島市域を保証している
  • 当時の女王の都である邪馬台国に対して、伊都国はいわば外交拠点であった
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2章:伊都国についての考古学的研究

さて、2章では、発掘調査でわかった伊都国にかかわる遺跡・遺物の情報を整理し、『魏志』倭人伝に描かれた「国」である伊都国の実際の様子について解説します。

2-1:伊都国のはじまりと展開

伊都国の歴史は、1章でみてきたような文献による研究だけでなく、遺跡の発掘調査とそこから出土した遺構・遺物の研究によっても解明されつつあります。

伊都国についての考古学的研究の発展は古く、江戸時代にまで遡ります。1822年、糸島市三雲南小路にて甕棺(土器の「甕」でできた棺)とともに大量の宝物が発見されたのです。

その際に黒田藩の国学者・青柳種信が出土した遺構・遺物を詳細に記録していた(『柳園古器略考』)こともあり、近現代の考古学の発展に伴って三雲南小路の遺跡が弥生時代中期後半の「偉大な王の墓」であることが判明しました。

三雲南小路遺跡の王墓跡地三雲南小路遺跡の王墓跡地(フリー画像)

驚くべきはその宝物=副葬品の内容です。江戸時代に発見された「1号甕棺」には約30面、1974年の追加調査で見つかった「2号甕棺」からは約20面もの銅鏡が見つかったといいます。これは同時代の日本において同時に副葬された鏡の数としては群を抜いて多いものです。

弥生時代を主に研究する考古学者の藤尾慎一郎は、三雲南小路遺跡の王墓から出土した副葬品について、次のようにまとめています9藤尾慎一郎『弥生時代の歴史 』(講談社現代新書) (Kindle の位置No.1354-1358). 講談社

一号甕棺に副葬されていた品々のなかで注目すべきがガラスの璧、金銅製四葉座飾金具、 そして三五枚をこえる中国の大型の鏡である。いずれも交易で入手できるものではなく、 前漢王朝から楽浪郡を介して直接下賜されたものである。

藤尾が述べたように、銅鏡を含め副葬品の多くが中国製であったことからは、三雲南小路遺跡に葬られた王が大陸と密な対外交渉を行っていたこともわかりました。

つまり、この三雲南小路遺跡の発見によって、

  • 『魏志』倭人伝にみえる伊都国が既に弥生時代中期には存在していたこと
  • その王が非常に大きな権力を持っていたこと

が判明したのです。

その後の時代である弥生時代後期前半にも、伊都国王は大きな権力を有していました。三雲南小路遺跡と同じく江戸時代に発見された井原鑓溝遺跡の王墓からその様相がわかっています。

弥生時代後期前半は、銅鏡の流通量が比較的少ない時代でした。にもかかわらず、井原鑓溝遺跡からは大量の中国製銅鏡が出土したのです。そのほかにも、大陸との交流を示す品々が数多く見つかったようで、これも『柳園古器略考』に詳しく掲載されています。

加えて、この井原鑓溝遺跡に葬られた王については、邪馬台国時代の前段階の日本について記された『後漢書』東夷伝に登場する倭国王・帥升(すいしょう)との説も生まれました。この点について、『後漢書』東夷伝の内容および東アジア史学者の川本芳明10川本芳明「倭国における対外交渉の変遷について : 中華意識の形成と大宰府の成立との関連から見た」『史淵』143号 九州大学大学院人文科学研究院 34-35頁と考古学者の寺沢薫11寺沢薫『王権誕生』日本の歴史02 講談社 224頁の意見を紹介します。

安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見

安帝永初元年、倭國王帥升等、生口百六十人を献じ、謁見を願う

筆者訳:安帝の永初元年に倭国王の帥升が奴隷160人を献上し、皇帝への謁見を懇願した

倭国王帥升と伊都国との関連を追求すると、伊都国王の系譜は、『後漢書』に見える倭国王帥升に発したものだったのではないか、との想定を生む。…(中略)…こうして成立した倭国は、現在までの出土遺物、『魏志倭人伝』に伊都国のみに世々王がいたとする記述が見えることから推して伊都国王を盟主とする諸国連合国家であったと想定され、…(後略)…

後期前葉のこの時期の倭国王としてふさわしい人物と国、それはイト国の福岡県前原市(現・糸島市)井原鑓溝遺跡で、江戸時代の店名年間に発見された王墓をおいてほかない。…(中略)…(井原鑓溝遺跡から出土した豊富な副葬品は)まさに、この時の朝貢の再に下賜されたにふさわしい品々だといえよう。

当時の「倭国王」を名乗る帥升が実際に伊都国王であったかどうかについては断言できません。しかし、この時期の伊都国が当時の日本=倭国のなかでもトップクラスの権力を有していたことはおそらく事実と思われます。

さらに言えば、これらの王墓は『魏志』倭人伝における「世、王有り」の記述とも一致するものです。三雲南小路遺跡・井原鑓溝遺跡の2つの王墓と大規模かつ豊かな集落遺跡を含む糸島市「三雲・井原遺跡」は伊都国の王都と目されており、そこからは伊都国の長きにわたる繁栄ぶりがうかがえます。



2-2:伊都国の発展とその後

弥生時代後期後半に入ると、伊都国の勢力は益々増大しました。その証拠となるのが、糸島市平原遺跡(ひらばるいせき)の王墓=平原1号墓です。

平原1号墓平原1号墓(フリー画像)

平原1号墓の副葬品は三雲南小路遺跡・井原鑓溝遺跡の王墓と比べても段違いに豪華で、同時代の日本国内でもトップクラスともいえる内容を誇るものでした。

特に、銅鏡の枚数は40面以上と、弥生時代では最多の数となるほか、古墳時代まで含めても全国で二番目の枚数となります。また、青銅製・鉄製の武器が少なく、装飾品にあたる玉類・耳飾りなどの出土が多かったことから、平原1号墓の被葬者は「女性」とされています。

さらに、平原1号墓の周辺からは巨大な柱穴や祭殿の痕跡が見つかったことも見逃せません。これは、伊都国王の死を弔う儀式が盛大に催されたことを示すものであり、同時に、当時の権力者の葬送儀礼の様相を示すものとして非常に重要です。このような弥生時代の墳墓と柱・祭殿の関係性について研究した設楽博己は次のように述べています12設楽博己「独立棟持柱建物と祖霊祭祀」『国立歴史民俗博物館研究報告』第149集 83頁

平原遺跡1号墓や西谷3号墓などの木槨墓,あるいはそれに類する施設と副葬品をもった首長墓に限って墓坑に上屋をもつ。これも居住域における首長の隔絶化と同様,祖霊祭祀が首長にまつわる個人的な祭祀として権威を帯びてきたことを物語る。

伊都国の強大な勢力を如実に示す平原1号墓が築かれたのは、(研究者によって見解は異なるものの)概ね2世紀末前後であろうと言われています。『魏志』倭人伝によれば、2世紀末はまさに卑弥呼が倭の女王として共立された時代です。

つまり、平原1号墓に葬られた王の次段階から、伊都国の権威が邪馬台国連合の中に取り込まれることになったと考えられます。以降、その時代の倭国(日本)の中でも突出した規模をもつ王墓が伊都国の領域に築かれる例はなくなりました。

片や伊都国の王都と目される三雲・井原遺跡の繁栄ぶりは邪馬台国時代~古墳時代前期になっても比較的長く続きます。弥生時代終末期から古墳時代にかけて徐々に近畿地方が倭国(日本)の中心となっていくなかで、外交を担う伊都国の役割も一定程度重視された結果なのかもしれません。

古墳時代前期後半の糸島平野に築かれた一貴山銚子塚古墳は、まさにその証拠といえる古墳です。

一貴山銚子塚古墳の墳丘一貴山銚子塚古墳の墳丘(筆者作成)

この全長103mと大型の前方後円墳からは、当時のヤマト政権が各地域の支配者に配布したとされる三角縁神獣鏡を含む10枚の銅鏡が見つかっています。往時の権威こそ失ったものの、ヤマト王権から認められるほどの実力と勢力が古墳時代の糸島平野に残っていたのです。

その後の糸島平野は、1つの郡に過ぎない「怡土郡(いとぐん)」として、かつて倭国(日本)の中でも抜きん出ていた時代とは別の歩みを始めました。しかしながら、その地中には伊都国の栄光の歴史が誰も知らぬままに眠っている可能性はまだまだ捨てきれません。

特に近年では、三雲・井原遺跡から出土した石製品が文字を書くために墨をする「硯」とみなされるなど、(諸説あるものの)弥生時代当時の北部九州における文字文化の定着と発展が議論されるようになりました。

弥生時代における板石硯国内初出例となった田和山遺跡での発見から、三雲・井原遺跡番上地区における出土まで15年の期間を要した。しかし、本例の確認以降、上述したように北部九州で陸続して確認例が増加している。これらは三雲・井原遺跡における出土を契機とし、北部九州の主要遺跡に板石硯が存在する可能性を示すものとして研究者および自治体の文化財担当職員等に広く認識された結果といえよう。このように数年前まで抱かれていた弥生時代社会のイメージを大きく変えるひとつの要因として本書で報告した板石硯の出土があり、本例を含む一連の硯の確認とそれに付随する研究の進展は弥生時代研究における一つの画期として位置づけられよう。

平尾和久編『三雲・井原遺跡Ⅺ―三雲番上・石橋地区の調査―』糸島市文化財調査報告書 第21集 糸島市教育委員会 p.199および巻頭写真より引用(平尾和久編『三雲・井原遺跡Ⅺ―三雲番上・石橋地区の調査―』糸島市文化財調査報告書 第21集 糸島市教育委員会 199頁および巻頭写真より引用)

このように、『魏志』倭人伝の記録と考古学の成果を組み合わせることで、今後も新たな発見が続くものと思われます。

2章のまとめ
  • 伊都国が当時の日本=倭国のなかでもトップクラスの権力を有していた
  • 平原1号墓に葬られた王の次段階から、伊都国の権威が邪馬台国連合の中に取り込まれることになった
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3章:伊都国についてわかるオススメの本

伊都国について理解が深まりましたか?

この記事で説明した内容は伊都国のごく一部を紹介したに過ぎませんので、もっと知りたい方は参考文献やその他の書籍をご覧ください。

オススメ書籍

オススメ度★★★ 柳田康雄『伊都国を掘る―邪馬台国に至る弥生王墓の考古学』(大和書房)

長年糸島平野の遺跡発掘に携わった柳田が、考古学から伊都国の内実に迫った一冊です。本記事では触れられなかった細かな遺構・遺物から伊都国の全体像を見渡しています。

オススメ度★★★ 森浩一『倭人伝を読みなおす』(筑摩書房)

戦後の考古学の発展に寄与した森浩一による、『魏志』倭人伝やその時代の遺跡の解説書です。邪馬台国時代の研究に求められる視点が詳しくわかります。

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まとめ

最後にこの記事の内容をまとめます。

この記事のまとめ
  • 伊都国(イト国)とは、現在の福岡県糸島平野に実在した弥生時代の「国」のことである
  • 遺跡の発掘等で得られた考古学的な成果は伊都国の所在地=現在の福岡県糸島市域を保証している
  • 伊都国が当時の日本=倭国のなかでもトップクラスの権力を有していた

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