人間の安全保障(Human security)とは、一人ひとりの人間が尊厳ある生活を送り、生命を全うするために、貧困や紛争などの欠乏や恐怖から守られるべきであるという考え方です。
現在、国際社会において共通の開発目標である「持続可能な開発目標(SDGs)」があります。このSDGsは、「誰一人取り残さない」をスローガンに2015年に国連が発表したもので、その根本には「人間の安全保障」の理念があります。
日本の政府開発援助(ODA)においても中心にあるこの「人間の安全保障」の考え方を理解することは、開発途上国支援を考える上で欠かせないものです。
そこで、この記事では、
- 人間の安全保障が提唱された背景
- 人間の安全保障の理念
- 人間の安全保障にかかわる取り組み
について解説していきます。
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1章:人間の安全保障とは
1章では、人間の安全保障が議論され始めた背景、人間の安全保障の考え方について解説していきます。
このサイトでは複数の文献を参照して、記事を執筆しています。参照・引用箇所は注1ここに参照情報を入れますを入れていますので、クリックして参考にしてください。
1-1:議論の背景にある時代の変化
人間の安全保障が議論され始めたのは、1990年代初めの冷戦が終焉した頃の時代でした。
それまでの国際社会は、ソ連を中心とする東側の社会主義国と、アメリカを中心とする西側の資本主義国の冷戦が続いていました。そのため、外敵からの領土の侵略から国家を守ることや国家間の戦争への対処を指す「国家の安全保障」が議論の中心となっていました。
冷戦後の世界に関する学術的な議論には、以下のような記事があります。
その後、冷戦が終結すると平和が戻ると期待されていました。しかし、実際には以下のような世界が待っていました。
- 冷戦後、民族同士の争いや国内紛争が勃発
- アフリカの一部の国々では内戦や大量虐殺に発展し、政府はそれを統制することができず、混乱状態が続いた(その中で一番の犠牲者となったのは市民)
- 紛争地では市民が貧困に苦しみ、食料不足や感染症が流行し、国内外に避難する難民も大量に発生した
もはや既存の「国家の安全保障」の考え方では市民の平和を守ることが難しくなり、一人ひとりの個人に焦点を当てる「人間の安全保障」の必要性が叫ばれるようになったのです。
その後、国際社会のグローバル化によって、脅威はさらに拡大していきます。インターネットなどの通信技術の発展も助け、人々だけでなく資本も国境を越えて移動するようになり、安全保障上の脅威は世界中に拡散することになりました。
たとえば、
- 感染症の流行
- 環境破壊
- 難民の移動
- 国際テロ
といった新たな課題が認識され始めました。
これらの問題が大きくなることで最終的に被害をこうむるのは、やはり一人ひとりの人間です。
人間の安全保障は、こうしたグローバル化による新たな問題の解決法として、さらに注目を浴びるようになります。そして、2001年9月11日、アメリカで起きた同時多発テロは、人間の安全保障の重要性に対する認識をさらに加速させる事件となりました。
この事件によって、軍事力や経済力などのハードパワーだけでは平和や安定を維持することは難しいことが顕在化してきます。ハードパワーだけでなく、友好関係や人道支援などのソフトパワーもあわせた、ハードとソフト両面からの安全保障を考えるきっかけとなりました。
1-2:人間の安全保障とはどういう考え方か
次に、人間の安全保障の理念について解説していきます。人間の安全保障(Human Security)という考え方が最初に提唱されたのは、国連開発計画(UNDP)が1994年に発表した『人間開発報告書』でした2国連開発計画(1994)「人間開発報告書1994」 http://www.undp.or.jp/HDR_J/HDR_light_1994_Japanese_Version.pdf (最終閲覧日:2020年7月6日)。
この中で、人間の安全保障について4つの特徴を挙げています。
- 世界共通・・・富裕国や貧困国に関わらず共通の課題であること
- 相互依存・・・世界のどこかでその安全が脅かされれば、その危機が全ての国に及ぶ可能性があること
- 早期予防・・・予防することでより効果を発揮すること
- 人間中心・・・常に人々がどのような状態であるべきかという人間を中心に置いた考え方であること
このように1994年の報告書をきっかけとして始まった議論は、その理解が深まっていく中で、人間の安全保障の主要な構成要素として以下の3つが確立されていきました。
- 恐怖からの自由
- 欠乏からの自由
- 尊厳ある人間生活
「恐怖」は紛争やテロ、人権侵害、難民、感染症の蔓延、環境破壊、災害、経済の危機などを指し、「欠乏」は貧困や飢餓、教育や保健医療の社会サービスの欠如などを指します。
これらの恐怖や欠乏から人々の生活を守ることこそ、人間の尊厳を守ることにつながるという考え方が人間の安全保障における根幹であるという認識が確立されていきます。このような幅広い課題が含まれる考え方は、人間の安全保障の広義の定義です。
これに対して、人間の安全保障の問題は、武力紛争からの人やコミュニティからの暴力に焦点を絞るべきだという狭義の定義を主張する立場もありました。
たとえば、カナダやノルウェー政府は、人間の安全保障について狭義の定義で捉え、紛争や大量虐殺、民族浄化、暴力、テロなどの恐怖に対して、法律や武力行使によって保護しようとしました3福島安紀子(2007)「いま新たに『人間の安全保障』を考えるー『人間の安全保障』は21世紀のグローバル・ガヴァナンスの理念になるかー」『慶應法学』第8巻,1-74頁。
加えて、狭義の定義を支持する学者の中には、広義の定義では問題を拡大解釈しすぎる傾向にあり、定義の曖昧となることを懸念する者もいました。アンドリュー・マックは、『人間の安全保障報告2005』の中で、人間の安全保障の対象範囲を個人への暴力的な脅威に限定するべきであると述べています4Andrew Mack “Human Security Report 2005: War and Peace in the 21st Century” Die Friedens-Warte, Vol. 80, No. 1/2, Schwerpunktthema: Friedenskonsolidierung in Nachkriegsgesellschaften 177-191頁。
一方で、狭義の定義に対しても国家の安全保障の域を出ないため現在の安全保障をカバーできないとの批判がありました。たとえば、アマルティア・センは、著書『人間の安全保障』において、身体的暴力はあくまで人間の安全保障が脅かされる方法の一つでしかないと、協議の定義の立場に対して反論しています5アマルティン・セン,東郷えりか訳『人間の安全保障』(集英社新書)10頁。
このように、それぞれの立場の間でしばしば定義論争が起こっていました。ただし近年においては、どちらの考え方も人間に焦点を当てていることは共通しており、互いに補完し合う形で進めていくことが重要という意見に収束しつつあるようです。
さらに、石井は次のように人間の安全保障に意義を見出しています6石井秀明「『人間の安全保障』の今日的意義―軍縮・開発・平和を中心として―」『創大平和研究』,第28巻, 1-43頁。
人間の安全保障の重要な意義の一つは、開発と安全保障を結びつけたことにある
つまり、それまで人間の安全保障が提唱される前までは、開発問題は安全保障とは別々の問題として扱われていました。しかし、実際は人々の安全が脅かされるような状況で開発を推進することは極めて難しく、そのような脅威は開発を後退させてしまいます。
また、紛争などの要因の一つには貧困や格差があることも明らかであり、開発と安全保障は相互に関連していることが明らかになっていきました。
したがって、現在国際社会が掲げる開発の目標SDGsにおいても、人間の安全保障の考え方を抜きに議論して推進していくことはできないのです。
- 人間の安全保障とは、一人ひとりの人間が尊厳ある生活を送り、生命を全うするために、貧困や紛争などの欠乏や恐怖から守られるべきであるという考え方である
- 冷戦構造崩壊後、一人ひとりの個人に焦点を当てる「人間の安全保障」の必要性が叫ばれるようになった
- 恐怖や欠乏から人々の生活を守ることこそ、人間の尊厳を守ることにつながるという考え方こそ人間の安全保障における根幹である
2章:人間の安全保障に関する取り組み
さて、2章では、人間の安全保障に関する国際社会の取り組み、そして日本の取り組みについて解説していきます。
2-1:国際社会の取り組み
まずは、国際社会における人間の安全保障の取り組みについて見ていきましょう。
2-1-1: ミレニアム開発目標(MDGs)
人間の安全保障の理念が、世界全体の取り組みとして初めて掲げられたきっかけとなった会議が2000年に行われた国連ミレニアム・サミットでした。
ここで宣言された「ミレニアム開発目標(MDGs)」は、人々に対するさまざまな脅威や欠乏状態を取り除くことを目指した内容であり、人間の安全保障を推進するための土台となるものでした。
MDGsは、以下の8つの目標を掲げており、それぞれに具体的なターゲットと指標を設定し、2015年までに達成すべき目標として定められました。
- 極度の貧困と飢餓の撲滅
- 普遍的な初等教育の達成
- ジェンダー平等の推進と女性の地位向上
- 幼児死亡率の引き下げ
- 妊産婦の健康状態の改善
- HIV/エイズ、マラリア、その他の疾病の蔓延防止
- 環境の持続可能性の確保
- 開発のためのグローバル・パートナーシップの確立
石井(2013)は、このMDGsに関して、
目標それ自体は必ずしも新しいものではないが、先進国と発展途上国双方の首脳一同が達成期限と具体的な数値目標を定め、その実現を公約したことに大きな意義がある
と述べています7石井秀明「『人間の安全保障』の今日的意義―軍縮・開発・平和を中心として―」『創大平和研究』,第28巻, 1-43頁。
そして、この人間安全保障の理念は現在、「持続可能な開発目標(SDGs)」へと受け継がれ、政府や国際機関だけでなく、世界中の人々一人ひとりが取り組むべき目標となっています。
2-1-2: 人間の安全保障委員会の設立
2001年には「人間の安全保障委員会」が設立されました。この委員会は、人間の安全保障に対する理解の促進、その実現に向けた活動の発展を目的に発足され、緒方貞子とアマルティア・センが共同議長を務めました。
人間の安全保障委員会ではさまざまな議論が重ねられ、2003年には最終報告書「安全保障の今日的課題」が国連に提出されました。
この中で、人間の安全保障の取り組みのための具体的なアプローチとして、
- 最も脆弱な人々に焦点を当てること
- 個人だけでなくコミュニティを対象にすること
- 保護と能力強化(エンパワーメント)」の双方の手法をとること
などが示されています。
その後、国際機関や各国政策の取り組みに大きな影響を与えることになります。
2-2:日本の取り組み
続いて、日本政府の人間の安全保障の取り組みを紹介していきます。日本は、これまで人間の安全保障に積極的に取り組んできた国家の一つです。
特に、上述した2000年の国連ミレニアム・サミットでは、森総理(当時)人間安全保障委員会の創設を呼びかけ、人間の安全保障を日本外交の柱にすることを宣言しました。
2-2-1: 人間の安全保障基金
日本政府による人間の安全保障への取り組みは、1998年に設立された「人間の安全保障基金」に始まります。小渕総理(当時)が政策演説の中で設立を宣言し、5億円を拠出する形で同基金を国連に設立しました。
この人間の安全保障基金の目的は、
現在の国際社会が直面する貧困・環境破壊・紛争・地雷・難民問題・麻薬・HIV/エイズを含む感染症など、多様な脅威に取り組む国連関係国際機関の活動の中に人間の安全保障の考え方を反映させ、実際に人間の生存・生活・尊厳を確保していくこと
とされています8外務省(2007)「人間の安全保障基金 21 世紀を人間中心の世紀とするために」(最終閲覧日:2020年7月8日)。
2016年までに累計約453億円が日本政府から拠出されており、「カンボジアのストリートチルドレンに対する基礎教育・職業訓練支援」や「ジンバブエのHIV/AIDS予防の促進支援」などに使われています。
2-2-2: 草の根・人間の安全保障無償資金協力
1989年に始まった「草の根・人間の安全保障無償資金協力」(2003年に同名に改称)は、開発途上国のNGOや地方公共団体が行う開発を資金面で支援するための枠組みです。
原則的に小学校の建設や病院の医療機材の整備などのハード面の整備への支援が中心です。基本的には、衣食住などの基礎生活(Basic Human Needs)分野や教育、保健などの人間の安全保障の観点から重要な分野を優先的に支援しています。
開発途上国の人々に直接支援が届くきめ細かい援助であり、迅速な支援を可能としている点が特徴と言えるでしょう。142の国と地域を対象にしており、2019年までに27000件以上のプロジェクトを実施してきました。
具体例としては、以下のようなものがあります。
- 2013年のパキスタンで行われた小学校建設プロジェクト
- 2014年のケニアで行われた診療所病棟の改築プロジェクト
- 対人地雷の対策
- 日本の消防車やゴミ収集車などの中古機材の寄贈
- 貧困層に奨学資金を融資して経済的自立を促すマイクロ・クレジット支援
- 国際社会の取り組みには、「ミレニアム開発目標(MDGs)」や「人間の安全保障委員会」がある
- 日本の取り組みには、「人間の安全保障基金」や「草の根・人間の安全保障無償資金協力」がある
3章:人間の安全保障に関するおすすめ本
人間の安全保障について、理解できましたか?
さらに深く知りたいという方は、以下の本をご覧ください。
オススメ度★★★ 長有紀枝『入門 人間の安全保障 – 恐怖と欠乏からの自由を求めて』(中公新書)
開発途上国における現場の最前線で活動を行ってきた著者が、人間の安全保障について解説する一冊です。
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オススメ度★★★ セン・アマルティア『人間の安全保障』(集英社)
緒方貞子氏とともに人間の安全保障委員会の議長を務め、現在の人間の安全保障の理念の基礎を作ったセン氏の著書です。
オススメ度★★ 緒方貞子『私の仕事 国連難民高等弁務官の10年と平和の構築』(朝日文庫)
女性初・日本人初の国連難民高等弁務官になった緒方貞子氏の難民支援の活動を綴ったエッセイです。
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一部の書籍は「耳で読む」こともできます。通勤・通学中の時間も勉強に使えるようになるため、おすすめです。
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まとめ
最後にこの記事の内容をまとめます。
- 人間の安全保障とは、一人ひとりの人間が尊厳ある生活を送り、生命を全うするために、貧困や紛争などの欠乏や恐怖から守られるべきであるという考え方である
- 冷戦構造崩壊後、一人ひとりの個人に焦点を当てる「人間の安全保障」の必要性が叫ばれるようになった
- 人間の安全保障のために、国際社会や日本社会はさまざまな取り組みを行っている
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引用・参考文献
- 福島安紀子(2007)「いま新たに『人間の安全保障』を考えるー『人間の安全保障』は21世紀のグローバル・ガヴァナンスの理念になるかー」『慶應法学』,第8巻,1-74頁
- 上田秀明(2010)「『人間の安全保障』の発展」『産大法学』,第44巻,第2号,1-22頁
- 外務省HP「ODA(政府開発援助)」『人間の安全保障 実績』(最終閲覧日:2020年7月8日)
- 外務省HP「ODA(政府開発援助)」『人間の安全保障 日本の取組』(最終閲覧日:2020年7月8日)