国際問題

【コロンボプランとは】背景から日本との関係までわかりやすく解説

コロンボプランとは

コロンボプラン(Colombo plan)とは、南・東南アジアの経済開発を目的に、1950年に当時のイギリス連邦の国々が中心となって設立された国際機関のことです。

日本のODA(政府開発援助)の始まりと位置付けられている出来事が、日本のコロンボプランへの加盟です。

そのため、コロンボプランが現在の日本のODAにどう繋がっているのかを知ることは、日本の現在の開発援助のより深く理解することにつながります。

この記事では、

  • コロンボプランとは何か
  • コロンボプラン設立の背景
  • 日本とコロンボプランの関係

について解説していきます。

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1章:コロンボプランとは

まず、1章ではコロンボプランの設立の背景やその役割、現在に至るまでの取り組みの歴史について解説します。

このサイトでは複数の文献を参照して、記事を執筆しています。参照・引用箇所は注1ここに参照情報を入れますを入れていますので、クリックして参考にしてください。

1-1:コロンボプラン設立の背景・役割

コロンボプランが設立されたきっかけとなった出来事が、1950年にスリランカのコロンボという都市で開かれたイギリス連邦の外相会議です。当時の国際社会は、第二次世界大戦からの復興が共通の課題でした。

そのような中で開かれたこの会議では、参加国同士が経済の発展や人々の生活水準向上のために協力していくことが合意されます。とくに、開発途上国と呼ばれる国々の経済・社会開発は優先的に取り組む課題とされました。

その中でも、とくに貧しい南アジア・東南アジアの国々の経済開発を行うことを目的としてコロンボプランという機関が誕生しました。

※当時のコロンボプランの正式名称は、「南アジア・東南アジア経済協力開発のためのコロンボ計画」でした。

コロンボプランの目的について、国際政治学の山口(2007)は、イギリスが「東西対立が深まるなか南アジア・東南アジア地域の政治的安定をはかり、西側志向を維持することであった」2山口育人(2007)「コロンボプランの成立とアトリー労働党政権のスターリング政策」『史林』第90巻(6),800頁と述べています。

コロンボプランの背景

  • 当時はソ連をはじめとした東側の社会主義諸国とアメリカやイギリスを中心とした西側の資本主義諸国との間で対立が激化しており、冷戦の真っ只中であった
  • つまり、イギリスが南アジア・東南アジア地域を支援し、人々の生活の質を向上させ、西側につくことのメリットを実感させることで、西側諸国の自由経済圏に引き込みたいという思惑があった

ちなみに、アメリカ合衆国も第二次世界大戦後のヨーロッパに対して、共産主義の侵攻を抑え込むために経済的な支援をおこなっています。こちらは「マーシャル・プラン」と呼ばれています。(→マーシャル・プランに関してより詳しくはこちら記事

さらには、南アジア・東南アジアには世界の1/4にあたる人口が生活しており、豊富な原料や食料資源もありました。

このことから、同地域の経済開発を推進していくことで、その地域だけでなく世界の政治的安定ももたらすのだという認識がコロンボプランの設立を後押ししました。



1-2:コロンボプランの歴史と具体的な援助と成果

コロンボプランの設立は当初、オーストラリア、イギリス、カナダ、ニュージーランド、インド、パキスタン、スリランカの7つのコモンウェルス国家で設立された国際機関でした。

コモンウェルス国家とは、「イギリス連邦」とも呼ばれ、旧イギリス帝国を前身とする国家を中心とした連合体です。その後、1951年にコモンウェルス国家ではない国として、初めてアメリカが、そして1954年には日本が援助国として合流しました。

コロンボプランで行われた経済支援の対象国もやはりコモンウェルス国家、または直轄の植民地だった国・地域でした。

  • 初めに開発計画をした国・地域
    →インド、パキスタン、セイロン(スリランカ)、マラヤ(マレーシア)、シンガポール、北ボルネオ/サラワク(マレーシア)
  • その後、非コモンウェルス国家の参加
    →インドシナ(カンボジア、ラオス、ベトナム)、タイ、ビルマ(ミャンマー)、インドネシア

このように、コロンボプランは南・東南アジア全域を巻き込んだ開発計画になっていきます。

そして、コロンボプランの運営は、以下の3つの組織から成っていました。

  • コロンボプラン諮問会議
  • 技術協力審議会
  • コロンボ技術協力事務局

コロンボプランの基本方針として、被援助国から提出される六ヵ年の開発計画をもとに、援助国が協議を行い、援助計画を決定していく方針がとられました。援助内容は、各国でやや異なる部分はありますが、大きく「技術者確保」「資本援助」に分かれていました。

それぞれの支援の内容

技術者確保

  • 技術指導者養成施設の設立
  • 海外への留学生の派遣
  • 海外からの技術指導者の受け入れ

資本援助

  • 道路や空港、鉄道、ダムなどのインフラ整備

このような支援の背景について、国際関係史を専門とする渡辺(2010)は以下のように述べています3渡辺昭一(2010)「戦後アジア国際秩序再編とコロンボ・プランの指針―1950年第二回コモンウェルス諮問会議報告書分析―」『歴史と文化』第46号,124頁

順調な生産力拡大とそれに見合った安定した市場の確保が不可能となると、開発プログラムが頓挫する恐れがあり、アジア諸国の政治的不安定を生み出す危険性も予想されたことから、急激な成果よりも長期的な経済発展を見据えた基盤整備づくりに重点が置かれた

加えていえば、当初の資本援助には、スターリング・バランスが使われていました。スターリング・バランスとは、戦前・戦中にイギリスが植民地から借り入れた借金のことです。

つまり、本来は旧植民地国に返済すべきものを、コロンボプランの資金源として流用し、あたかもイギリスの援助のように使っていたことになります。

しかし、このスターリング・バランスも1957年ごろには底をつき、資本援助は縮小していき、技術協力中心の援助へと変わっていきました。それでも、1971年までの20年間で約15億2360万米ドルもの資金が技術協力事業へと注がれました。

その後、コロンボプランの目的は、先進国から開発途上国への開発援助から、参加国どうしの経済的・社会的活動におけるさまざまな分野の取り組みについての経験や知識の共有へと変わっていきます。

1977年には、コロンボプランの名称が「アジア及び太平洋の共同的経済社会開発のためのコロンボプラン」に変更され、参加国もアジアに限らず大洋州地域にも拡大していきました。

現在、コロンボプランの目的は以下のように示されています。

  • アジア・太平洋の経済的および社会的発展の支援をすること
  • 技術協力を促進し、加盟国間での技術の移転や共有を支援すること
  • 加盟国政府、国際機関、および他の機関との間の技術協力に関して情報交換すること
  • 南南協力の概念に重点を置いて、加盟国間での開発経験の移転や共有を促進すること

そして、2020年8月の時点で加盟国は27カ国であり、主に以下の4つのプログラムに取り組んでいます。

  • 薬物諮問プログラム(DAP:Drug Advisory Programme)
  • 能力強化プログラム(CBP:Capacity Building Programmes)
  • ジェンダープログラム(GAP:Gender Affairs Programme)
  • 環境と気候変動のためのプログラム(ENV:Programme for Environment and Climate Change)

それぞれのプログラムを簡単に説明すると、次のとおりです。

薬物諮問プログラム(DAP)は、1973年に始まった現在行われているプログラムの中では最も古い取り組みです。具体的な取り組みとして、薬物需要と供給の削減を目的に、会議やリーダー人材の育成、研修、ワークショップなどを世界各地で行っています。

能力強化プログラム(CBP)では、各国における人材育成を目的に、研修やワークショップの機会や、修士号獲得のための奨学金などを提供しています。

ジェンダープログラム(GAP)では、加盟国のジェンダー問題の解決を目的に活動しています。主に、ジェンダーによって脆弱な立場に置かれている人々の能力開発や教育プログラムの機会の提供や、市民に対するジェンダー問題について啓発する取り組みを行っています。

環境と気候変動のためのプログラム(ENV)では、よりよい未来の地球環境を構築するために、ワークショップや研修、講演などによる啓発活動を各国で実施しています。

1章のまとめ
  • コロンボプランとは、南・東南アジアの経済開発を目的に、1950年に当時のイギリス連邦の国々が中心となって設立された国際機関のことである
  • 本来は旧植民地国に返済すべきものを、コロンボプランの資金源として流用し、あたかもイギリスの援助のように使っていた

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2章:コロンボプランと日本

さて、2章ではコロンボプランと日本の関わりについて解説していきます。

2-1: 日本の開発援助の背景

日本の政府開発援助(ODA)は、戦後賠償から始まりました。1951年に締結されたサンフランシスコ平和条約によって、関係国への戦後処理的な賠償が定められ、日本も戦争責任の贖罪行為として賠償を行うことになります。

※ODAに関しては、次の記事で詳しく解説しています。→【ODA(政府開発援助)とは】意味・歴史・問題点をわかりやすく解説

ただし、このサンフランシスコ条約で求められていたのはあくまで「損害に対する賠償」のみであり、経済協力は求められてはいませんでした。この頃の日本は、戦争の敗戦により、経済も一からのスタートという状態であり、請求された賠償額を支払う能力はありませんでした。

そのため、東南アジア諸国との間に経済的な協力関係を結び、自国の貿易を拡大したいという強い思いがありました。当時、アジアに存在した経済圏は、大きく以下の2つです。

  • アメリカを中心としたドル経済圏
  • イギリスを中心としたポンド経済圏

特に、ポンド経済圏は、コモンウェルス国家どうしで行われる非常に閉鎖的なものであったため、非コモンウェルス国家である日本が貿易を行うためには何か特別なきっかけが必要でした。

そこで日本政府は、イギリスを中心とした国際機関であるコロンボプランへの参加を足掛かりに経済を拡大しようと考えたのでした。こうして、1954年、日本はコロンボプランに援助側として参加することになります。

※ちなみに、コロンボプランに加盟した1954年10月6日は日本のODAがスタートラインに立った日として、10月6日を「国際協力の日」とされています。

このようにみると、戦後賠償やコロンボプラン加入がODAのはじまりと言われる一方で、日本側としては経済復興・発展をしていくための手段としても期待していたのです。

これについて、法政大学名誉教授の下村(2014)は、次のように述べています4下村恭民(2014)「日本の援助の源流に関する歴史比較制度分析」『国際開発研究』第23巻第1号,117頁

コロンボプラン加盟や戦後賠償の実績は、日本の援助の生成過程で大きな役割を持った。しかしながら、これらを日本の援助の源流とすることには難点がある。重要な点は、経済協力・援助との関わりで見る限り、いずれも個別の政策手段に過ぎない



2-2: 具体的な援助

このようにして、日本の戦後賠償と経済協力が同時並行で始まっていきました。1954年11月に、日本とビルマとの間で戦後賠償と経済協力に関する協定を結んだのを皮切りに、フィリピン、インドネシア、ベトナムと次々に協定が結ばれていきます。

当時、日本が行った賠償の特徴は、生産物(資本財や消費財の供給やインフラ建設)を中心とした支払いとなっており、以下の3つの要素から構想されていました。

  1. 賠償を受ける国は、必要な資金や技術協力を日本から取得する
  2. 賠償にあたる資金や技術協力は、日本の企業または個人が納入する
  3. 日本政府が2にかかる代金を日本の企業・個人に支払う

日本から調達するという条件があったこの仕組みは、「タイド(ひもつき)」と呼ばれました。日本にとっても輸出促進、貿易拡大につながり、大きく経済的に成長する要因となりました。

このように援助国・被援助国の両者にメリットのあることから、当時の日本政府はこれらを決して「援助」とは呼ばず、「経済協力」と呼んでいました。これを一因として、1960年から70年代にかけて高度経済成長が起こり、日本は経済大国となっていきます。

それに伴って、日本はODAの拡大を国際社会から求められるようになり、1964年に約1.15憶ドルだったODAは、1976年には約11.05億ドルに増加し、世界トップクラスのODA供与国となっていきます。

また、日本の経済成長に伴い、タイド援助についても批判を浴びるようになり、1980年代には円借款のアンタイド化(タイド撤廃)されました。

このようにみると、

  • 日本にとってコロンボプランへの加盟は、今に続くODAが始まったきっかけとなる出来事の一つであること
  • 戦後賠償の意味合いだけでなく、日本の戦後の経済復興の切り札としても機能してきたこと

が明確になったと思います。

1章で述べたように、現在のコロンボプランは、設立当初の経済協力を中心とした取り組みではなく、より世界規模の課題解決に向けたプログラムへと変化しています。

今もなお日本は加盟国としてリーダーシップを発揮し続けており、コロンボプランは今後も、アジア・太平洋諸国をつなぐ重要な国際機関の一つとして期待されています。

2章のまとめ
  • 1954年、日本はコロンボプランに援助側として参加した
  • 戦後賠償やコロンボプラン加入がODAのはじまりと言われる一方で、日本側としては経済復興・発展をしていくための手段としても期待していた

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3章:コロンボプランに関する本

コロンボプランについて、理解できましたか?

さらに深く知りたいという方は、以下のような本をご覧ください。

おすすめ書籍

オススメ度★★★ 渡辺昭一『コロンボ・プラン: 戦後アジア国際秩序の形成』(法政大学出版局)

コロンボプランがもたらしたアジアの経済発展と安定した秩序の形成を分析した一冊です。コロンボプランが設立の背景と当時の世界情勢について知りたい方におすすめです。

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オススメ度★★★ 大海渡桂子『日本の東南アジア援助政策:日本型ODAの形成』(慶應義塾大学出版会)

コロンボプランをきっかけに発展していった日本型ODAと呼ばれる援助について解説している一冊です。戦争からの復興、そして冷戦とODAがどのように関わってきたかを知りたい方におすすめです。

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まとめ

最後にこの記事の内容をまとめます。

この記事のまとめ
  • コロンボプランとは、南・東南アジアの経済開発を目的に、1950年に当時のイギリス連邦の国々が中心となって設立された国際機関のことである
  • 本来は旧植民地国に返済すべきものを、コロンボプランの資金源として流用し、あたかもイギリスの援助のように使っていた
  • 戦後賠償やコロンボプラン加入がODAのはじまりと言われる一方で、日本側としては経済復興・発展をしていくための手段としても期待していた

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