政治史

【日米和親条約とは】背景・内容・影響をわかりやすく解説

日米和親条約とは

日米和親条約(Convention of Kanagawa)とは、嘉永7年(安政元年/1854)3月3日に締結された日本とアメリカ合衆国の条約です。

日米和親条約の締結は、それまでの江戸時代の在り方(いわゆる「鎖国」体制)に大幅な変化を加え、「開国」への政治過程を進んでいくことになりました。そのため、日本史の大きな分岐点としてとても重要です。

この記事では、

  • 日米和親条約の背景・内容
  • 日米和親条約の影響

について詳しく解説します。

ぜひ読みたい所から読んで勉強に役立ててみてください。

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1章:日米和親条約とは

まず、1章では日米和親条約を概説します。2章では日米和親条約の学術的な議論に関して詳しく解説しますので、用途に沿って読み進めてください。

このサイトでは複数の文献を参照して、記事を執筆しています。参照・引用箇所は注1ここに参照情報を入れますを入れていますので、クリックして参考にしてください。

1-1:日米和親条約の背景

嘉永6年(1853)6月3日、ペリー率いるアメリカ東インド艦隊が浦賀沖(現・神奈川県横須賀市)に到着します。

「水野家記録」嘉永6年6月5日の条では、以下のようにペリー艦隊がやってきたことで江川太郎左衛門(英龍)が出張することになったと記録されています2下田市教育委員会『下田市史 資料編三 幕末開港 上』(1990年)145頁

一昨三日已ノ上刻、豆州下田湊五里程沖合字神子元島辺卯之方向、異船四艘相見候付、江川太郎左衛門様御出張ニ而・・・・

ペリーはアメリカ大統領の国書を提出したいことを、幕府側に伝えます。幕府は、外交問題の直接交渉はこれまで長崎で取り扱ってきたということを理由に長崎へ向かうように指示をしました。

しかし、ペリーはこの指示に反発し、江戸で国書を渡すことを主張し、結局は久里浜にて浦賀奉行戸田氏栄らに国書を渡すことになりました。

アメリカ大統領フィルモアの国書には、次のように記されていました3大久保利謙編『近代史史料』吉川弘文館、1965年、7~8頁。(※覚える必要はありません)

  • 北亜墨利加(アメリカ)合衆国は、大西洋より大東洋に達するの国にして、就中其オレゴン州及び角里伏爾尼亜(カリフォルニア)の地は、正に貴国と相対す、我が蒸気舶角里伏爾尼亜を発すれば、十八日を経て貴国に達することを得るなり、我角里伏爾尼亜の大州は、毎年凡金六千万ドルラル、銀若干、水銀若干、宝石若干種及び其他諸種貴種の物件を産す、日本も亦豊富肥沃の国にして、幾多貴種の物品を出す、貴国の民も亦諸般の技芸に長せり、予が志、二国の民をして、交易を行はしめんと欲す、是を以て日本の利益となし、亦兼て合衆国の利益と為さんことを欲してなり
  • 殿下若し外邦の交易を禁停せる古来の定律を、全く廃棄するを欲せざるときは、五年或は十年を限りて允準し、以て其利害を察し、若し果して貴国に利なきに於ては、再び旧律を回復して可なり、凡合衆国他邦と盟約を行ふには、常に数年を限りて約定す、而して其事便宜なるを知るときは、再び其盟約を尋ぐこととす
  • 合衆国の舶、毎歳角里伏爾尼亜(カリフォルニア)より支那に航するもの甚多し、又鯨猟の為め、合衆国人、日本海岸に近づくもの少からず、而して若し颶風あるときは、貴国の近海にて往々破船に逢ふことあり、若し是等の難に逢ふに方つては、貴国に於て、其難民を撫䘏し、其財物を保護し、以て本国より一舶を送り、難民を救ひ取るを待たんこと、是予が切に請ふ所なり
  • 日本国に石炭甚多く、又食料多きことは、予が曽て聞知れる所なり、我国用ふる所の蒸気船は、其大洋を航するに当て、石炭を費すこと甚多し、而して其石炭を亜墨利加より搬運せんとすれば、其不便知るべし、是を以て予願はくは、我国の蒸気舶及ひ其他の諸舶、石炭食料及ひ水を得んが為に、日本に入ることを許されんことを請ふ、若し其償ひは、価銀を以てするも、或は貴国の民人好む所の物件を以てするも可なり、請ふ、殿下、貴国の南地に於て、一地を択ひ、以て我が舶の入港を許されんことを、是予が深く願ふ所なり

要約してみるとアメリカの目的は、以下の4点になります。

  1. アメリカと日本の通商を希望すること
  2. 日本側が「古来の定律」(鎖国の慣習)を廃止したくなければ、5年~10年間に様子をみて、日本側にとって不利であれば鎖国に戻しても問題ないこと
  3. もし日本近海でアメリカ船が遭難したら救助してほしいこと
  4. アメリカ船のために石炭・食料・水を補給するため、日本の南方に入港することを許してほしいこと

主に、この4点がアメリカ大統領から江戸の徳川将軍へ向けられた国書の内容です。ペリーはこの国書を幕府へ渡した3日後に江戸湾から退去し、再度の来航を予告して一旦日本を去っていきます。

そして、幕府内では鎖国政策の堅持と開国政策による避戦で揺れ動きます。黒船という巨大な軍事力を見せつけたアメリカの要求を突き返せば戦争になるかもしれなかったからです。

  • 海岸防禦御用掛(通称:海防掛)の川路聖謨は、限定的な通商によって対外戦争を回避することを主張した
  • 一方で、幕府の海防政策に参与する前水戸藩主徳川斉昭は、攘夷主義によってアメリカの要求を受け入れるべきではないと主張した

幕府は、ひとまず朝廷にペリー来航について報告します。さらに、当時の老中首座阿部正弘は今後の対策について諸大名にも意見を募ります。

この2つの出来事は、江戸時代を通じて外交政策を独占していた幕府の立場が危うくなっていく契機となりました。



1-2:ペリー来航の影響

上記のように、明確な対応策を打ち出せないでいる幕府でしたが、ペリー来航は幕府のみならず、さまざまな人物についても大きな影響を与えた出来事でした。

たとえば、勝海舟はペリー来航に際して開国論を主張します。当時の慣習であった鎖国政策を幕臣が覆す意見を行なうことは、かなり稀有な事例でした。

後に、勝海舟の弟子としても行動するようになる坂本龍馬がいます。

  • 坂本龍馬は、海岸防備として土佐藩の持ち場で警備に参加していた
  • その役目が終わった頃の書簡には、来年の警備にも加わりたいこと、戦争も近づいていると思うので、そのときは外国人の首を打ち取りたいこと、などが記されている4「嘉永6年9月23日坂本八平宛坂本龍馬書簡」平尾道雄監修『坂本龍馬全集』光風社書店、1978年、5頁
  • その後の坂本龍馬は外国とも取引を促進する開明的な人物像が有名ですが、ペリー来航に際しては若き日の「武士」としての一面が垣間見える

ペリーが去った後に、今度はロシア使節プチャーチン率いる極東艦隊が長崎に来航しています。

幕府は、品川台場の建造を進め、大船建造の許可を出すなど出来る限りの海防政策を行ないますが、財政難もあり順調には進みませんでした。

さらに、開国を選択するのか、鎖国を維持するのか、というアメリカへの対応策はペリーの再来航までには明確に打ち出せませんでした。

嘉永7年(安政元年/1854)1月16日、ペリーが再び来航します。幕府は漂流民の保護・薪水給与を承認し、通商条約は拒絶する方針を固めます。2月10日、横浜応接所で日米会談が開始されます。

そして、日本とアメリカの間で日米和親条約(神奈川条約)が締結されることになります。

ペリー来航に関する新書もありますので、こちらから理解を深めることもおすすめです。

1-3:日米和親条約の内容

日米和親条約は応接掛林復斎・井戸覚弘らとペリーの間で話し合いが行われ、結ばれます。結ばれた内容は、以下のとおりです5「日米和親条約」アジア歴史資料センター18540331001.pdf (jacar.go.jp。(※覚える必要はありません)

  1. 日本と合衆国とは其人民永世不朽の和親を取結ひ、場所人柄の差別無之候事
  2. 伊豆下田、松前地箱館の両港は、日本政府に於て、亜墨利加船薪水、食料、石炭、欠乏の品を日本人に而調候丈は給候為め、渡来の儀差免し候。尤下田港は約条書面調印之上即時相開き、箱館は来年三月より相始候事。給すへき品物直段書之儀は、日本役人より相渡可申、右代料は金銀銭を以可相弁候事
  3. 合衆国の船、日本海浜漂着の時扶助致し、其漂民を下田又は箱館に護送致し、本国の者受取可申所持之品物も同様に可致候。尤漂民諸雑費は、両国互に同様の事故不及償候事
  4. 漂着或は渡来の人民取扱の儀は、他国同様緩優に有之、閉籠め候儀致間敷、乍併正直之法度には伏従致し候事
  5. 合衆国の漂民其他の者とも、当分下田箱館逗留中、長崎に於て唐和蘭人同様閉籠窮屈の取扱無之、下田港内の小嶋周り凡七里の内は勝手に徘徊致し、箱館港の儀は追て取極め候事
  6. 必用の品物其外可相叶事は、双方談判の上取極め候事
  7. 合衆国の船、右両港に渡来の時、金銀銭並品物を以て入用の品相調候を差免し候。尤日本政府の規定に相従可申、且合衆国の船より差出候品物を日本人不好して差返候時は、受取可申候事
  8. 薪水、食料、石炭、並欠乏の品を求る時には、其地の役人にて取扱、すへて私に取引すへからさる事
  9. 日本政府、外国人え、当節亜墨利加人え不差免候廉相免し候節は、亜墨利加人えも同様差免し可申、右に付談判猶予不致候事
  10. 合衆国の船、若し難風に逢さる時は、下田箱館両港の外、猥に渡来不致事
  11. 両国政府に於て、無拠儀有之候模様により、合衆国官吏の者下田に差置候儀も可有之、尤約定調印より十八ヶ月後に無之候而は、不及其儀候事
  12. 今般の約条相定候上は、両国の者堅く相守可申。尤合衆国主に於て長公会大臣と評議一定の後、書を日本大君に致し、此事今より後十八ヶ月を過き、君主許容の約条取替し候事

第1条では永世の和親を明記し、第2条では下田・箱館の開港を明記しています。下田の開港は即時に、箱館の開港は翌年3月からになっています。さらに、石炭・食料・欠乏品を供給することも取り決められています。

第3条・第4条・第5条・第10条は、遭難した人々や日本に渡来した人々の待遇についての取り決めです。第2条と共に、第6条・第7条・第8条では欠乏品取引の際の方法が具体的に記されています。

第9条では、日本がアメリカ人より有利な待遇を他の外国人に与えた場合はすぐにアメリカ人にも適用するように明記しています。これが、いわゆる「片務的最恵国待遇」と言われるものです。第11条では下田にアメリカ領事官を駐在させることも記されています。

1章のまとめ
  • 日米和親条約とは、嘉永7年(安政元年/1854)3月3日に締結された日本とアメリカ合衆国の条約である
  • 日米和親条約では、片務的最恵国待遇が認められた

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2章:日米和親条約の影響

さて、2章では日米和親条約の影響を解説していきます。

2-1:日米和親条約の影響

日米和親条約の締結は、それまでの江戸時代の在り方(いわゆる「鎖国」体制)に大幅な変化を加え、「開国」への政治過程を進んでいくことになります。

麓慎一は、『開国と条約締結』にて、当時の老中首座であった阿部正弘が日米和親条約締結後に辞意を表明していたことを指摘しています6麓慎一『開国と条約締結』(吉川弘文館、2014年)152~154頁

  • 阿部は、ペリー来航の前年には、オランダ商館長カピタンからの情報でアメリカ船が来航することを知っていた
  • しかし、海防政策などの手立てが十分に出来ず、対応も穏便なものにしてしまい、それまでの「御国法」が崩れた責任を感じ、自身の罷免を求めた

阿部正弘の罷免は、将軍徳川家定によって却下されていますが、江戸時代を通して保たれてきた「御国法」が崩れたという意識は当時の政界にとっては大きなことでした。

このあと、伊豆・下田にて日米和親条約付録13条が結ばれます。これは通称「下田条約」とも言われます。安政年間は諸外国と次々に条約が結ばれていき、結果的には通商条約が締結されるようになり、「開国」に至ります。



2-2:ペリーに対峙した男・中島三郎助

井上勝生は、『日本の歴史18 開国と幕末変革』にて、ペリー来航の際にアメリカ側と最初に応対した浦賀奉行与力・中島三郎助の外交姿勢について記しています。

中島は、番船を漕いでアメリカ旗艦サスケハナ号に向かい、アメリカが日本側高官との直接交渉を要求するのに対して、外国船がやってきても高官が直接交渉することは「日本の国法」では適わないとし、高官同士の直接交渉を目指すアメリカ側から譲歩を引き出します。

こうした中島の「国にはその国の法があり、外国が犯すことはできない」という立場は、アメリカ側が外交交渉で論拠とした近代国際法にも合致するものであったと指摘されています7井上勝生『日本の歴史18 開国と幕末変革』(講談社、2009年)170~174頁

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3章:日米和親条約について学べるおすすめ本

日米和親条約について理解することはできたでしょうか?もっと深く学びたい場合は、以下の本を読んでみてください。

おすすめ書籍

井上勝生『日本の歴史18 開国と幕末変革』(講談社)

開国に至る外交交渉をはじめ、民衆運動や幕末政争など幅広い分野を射程にした政治外交史が描かれています。幕末の多様な情景が理解できる一冊です。

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講談社
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麓慎一『開国と条約締結』(吉川弘文館

ペリー来航からアメリカ総領事ハリスの着任までを描いた開国と条約締結をめぐる通史です。ロシアやイギリスなどへの対応も詳細に記されているのでおすすめです。

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西川武臣『ペリー来航』(中央公論新社)

ペリー来航を主題とした新書です。日米和親条約の締結に至る前後関係も詳しく記述されています。この時期の歴史を知りたいと感じたら、まずはこの一冊から扉を開いていけるでしょう。

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まとめ

最後にこの記事の内容をまとめます。

この記事のまとめ
  • 日米和親条約とは、嘉永7年(安政元年/1854)3月3日に締結された日本とアメリカ合衆国の条約である
  • 日米和親条約では、片務的最恵国待遇が認められた
  • 日米和親条約の締結後、「開国」への政治過程を進んでいった

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