契約理論(Contract theory)とは、非対称情報・不完備契約の下でのインセンティブ(誘因)設計の経済理論です。今日では価格理論、ゲーム理論と並ぶミクロ経済学の第3の理論となっています。
契約理論は非常に広範な分野に応用され、現実に沿いながら理論的な議論を可能にしました。そのため、その理論を体系的に理解することが大事です。
この記事では、
- 契約理論の前史・概要
- 契約理論の学術的意義
などをそれぞれ解説していきます。
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1章:契約理論の概要
まず、1章では契約理論を概説します。2章以降では契約理論の前史や学術的意義を解説しますので、用途に沿って読み進めてください。
このサイトでは複数の文献を参照して、記事を執筆しています。参照・引用箇所は注1ここに参照情報を入れますを入れていますので、クリックして参考にしてください。
1-1:情報の非対称性の理論
ここでは、効率なインセンティブ設計を具体例とともに考えていきましょう。
1-1-1:エージェンシー(プリンシパル=エージェント)関係
この記事の冒頭で、契約理論とはインセンティブ(誘因)設計の経済理論と定義しました。もう少し分かり易く説明すれば、「アメ(=期待)とムチ(=恐れ)」という仕組みにより、契約を交わした相手が期待通りに動いてくれるような契約内容を作るための理論です。
このことを理解するためには、まずはエージェンシー(agency)関係(もしくはプリンシパル(principal)=エージェント(agent)関係)について理解しなければなりません。
エージェンシー関係とは、
主たる経済主体(プリンシパル)とその主たる経済主体のために活動する代理人(エージェント)の間に結ばれる契約関係のこと
を指します。
つまり、経済主体Aが自らの目的を遂行するために経済主体Bに何らかの用役を依頼し、Bがこれを引き受けた場合、経済主体Aはプリンシパル、経済主体Bはエージェントということになります。
たとえば、企業の上司と部下、メーカーと商社、学校と教師、お母さんとお使いを頼まれた子供などは、いずれもエージェンシー関係にあるのです。エージェンシー関係を説明するときに、よく引き合いに出されるのが、企業の株主と経営者との関係です。
- オーナー企業などの場合を除いて、通常、株式会社では企業を所有している株主と、株主から経営を委託されている経営者とが分離している(経営学でよくいう「所有と経営の分離」)
- この場合、企業の所有者である株主がプリンシパルで、経営を代行している経営者がエージェントになる
つまり、株主と経営者のこのような関係は、典型的なエージェンシー関係、もしくはプリンシパル=エージェント関係です。
1-1-2:情報の非対称性
ここで、問題となるのは、プリンシパルとエージェントの利害が必ずしも一致しないということです。株主と経営者の例で考えてみましょう。
- 経営者は会社の経営実務に深く関わっているから、当然、株主よりも会社の内部情報や経営に関する専門知識を多く持っていることになる
- このことを一般に「情報の非対称性」(information asymmetry)という→詳しくは【情報の非対称性とは】経済学の議論から実生活での例までわかりやすく解説
- そのため、経営者が株主の利益を犠牲にして自己の報酬を最大化するような経営判断を行ったとしても、果たしてそれが正しい経営判断なのか、株主は評価することが困難となる
ここでいう株主の利益とは、企業価値(株価、配当)の増加に他なりません。
経営者は自己利益のために、企業価値を増加させない、もしくは損なうような経営判断を行う危険性があります。いわゆるモラルハザードです。
このような経営者のモラルハザードを誘発しないためには、株主と経営者の利害をできるだけ一致させるような効率的な報酬体系を設計し、株主の富の増加をもたらす行動を経営者に促すことが必要となります。
それでは、どのような報酬契約を結べば、両者の利害を一致させることができるのか、具体的に見てゆきましょう。
1-1-3:固定給と変動給
報酬には、通常、固定給と変動給のボーナスがあります。固定給は企業の業績とは無関係に一定額支払われ、ボーナスは業績に連動して金額が上下します。
ここで、仮に経営者の報酬が固定給のみで支払われる場合を考えてみましょう。
固定給の場合
- 経営者は自らの手腕を振るって企業の業績拡大にどれだけ尽力したところで、毎月決まった額の報酬しかもらえないことになる
- これでは、頑張るインセンティブはなくなってしまい、その結果、経営者が経営に手を抜くモラルハザードが生じる恐れも出てくる
- 「情報の非対称性」により、株主にはそれがわからない
それでは、報酬が業績連動給のみで支払われる場合はどうでしょうか?
変動給の場合
- 経営者は業績を上げなければ報酬がなくなってしまうので、大いに頑張るが、うまくいかない場合がある
- たとえば、投資判断の局面などにおいて、将来的な企業価値増大のために、経営者は思い切った投資判断を下すことも不可欠で、株主はそのような判断を経営者に期待している
- しかし、経営者にしてみれば、もし判断を誤って業績が落ち込んだりしたら報酬がなくなってしまうので、極力リスクのある投資は避けたい
- その結果、経営者はリスクの少ない経営に終始してしまうことになり、将来的な企業価値を損なってしまう
つまり、報酬が業績連動給だけの場合、経営者には強いインセンティブが与えられているものの、同時に過度なリスク負担を強いられるのです。
1-1-4:インセンティブとリスク・シェアリング
以上のことから、効率的なインセンティブ契約の設計では、インセンティブの提供とともに経営者と株主がどの程度リスクを分担するかというリスク・シェアリング、この両者を上手く調和させることが重要であることが分かります。
言い換えれば、固定給と業績連動型ボーナスを組み合わせることが、企業にとって最も好ましい報酬体系なのです。このことを初めて理論的に解明したのが、ベント・ホルムストローム(Bengt R. Holmstrom)とポール・ミルグロム(Paul R. Milgrom)が1987年に発表した論文でした2Holmstrom and Milgrom, “Aggregation and Linearity in the Provision of Intertemporal Incentives,” Econometrica, Vol. 55, No. 2 , Mar.1987, pp. 303-328。
経営者報酬の決定では、さらに短期・長期のインセンティブを調和すること、経営者の努力を測定する尺度を適切に選択することも重要です。
短期インセンティブの調和について
- 単年度の業績指標に基づいて報酬額を決定するボーナス制度とストック・オプションなどの複数年の企業業績にまたがるインセンティブを併用することによって、長期的な収益性を考慮した経営判断を促すことができる
- 初期に莫大な費用が掛かる研究開発費など、短期的には利益を押し下げるものの、長期的には重要な支出がこれに当たる
また、経営者努力の測定尺度については、会計利益と株価という二つの特徴の異なる業績指標を併用することが望ましいとされています。会計利益は経営者の努力との相関が高いのですが、恣意的な利益操作が行われる危険があります。
それに対し、株価は経済環境の変化などの影響を受けるため努力との相関は低いものの、恣意的操作は困難です。このように、複数の業績測定尺度を適宜併用すると、経営者のインセンティブを上手く設計することができるのです。
1-2:不完備契約の理論
以上は、業績指標をどのように利用して、インセンティブを設計するかという議論で、業績指標が利用可能な契約、すなわち「完備契約」(complete contract)に関する研究は、ホルムストロームが大きな貢献を果たしました。
しかし、一般社会では業績指標が利用できず、不確実な将来に向けて契約を結ぶという場面も多く見られます。このような不確実な情報の下での契約について大きな功績を残したのが、オリバー・ハート(Oliver S. D. Hart)の「不完備契約」(incomplete contract)の理論です3Hart, Firms, Contracts, and Financial Structure, Oxford University Press, 1995. 鳥居昭夫訳『企業 契約 金融構造』慶應義塾大学出版会、2010年。
そこで、ハートの不完備契約の理論についても、報酬契約という視点から考えてみましょう。
1-2-1:不確実な将来
ここでも、よく引き合いに出されるのが、企業のために新技術の開発を行う研究者の報酬契約です。
- 研究開発は成功するとは限らず、結果は不確実なことが多い
- そのため、新技術の開発が成功するか否か、事前に明文化しておくことができないのは勿論、事後的にも新技術の質や企業の収益に与える影響を正確に計測することは困難である
- つまり、企業も研究者も将来の報酬が事前に分からないことが原因で、研究者の意欲が低下してしまったり、企業側が研究開発への投資に消極的になってしまう危険性がある
これを避けるためには、どのような契約を結べばよいかが問題です。
1-2-2:財産権の配分
ハートは、このような不確実な将来に向けての契約では、財産権をあらかじめ決めておき、また決定権の所在を明らかにしておくことが重要であると結論付けました。
財産権の配分を軸にすると、大きく二つの契約方法が考えられます。
- 新技術の知的財産権を企業が保有し、研究者は固定給で働くという契約
→この場合、企業は研究開発への投資リスクが小さくなるため積極的な投資を行うよう動機付けられますが、反面、研究者は開発へのインセンティブが低下する - 新技術の知的財産権を研究者が保有するという契約
→この場合、研究者は自分が開発した新技術を企業に高く売ることができるため、大きなインセンティブを得ることができる。しかし高く売れるような技術の開発に目が向く余り、所属企業の目的に合致した研究開発から逸れてしまうという企業側のリスクが増加する
実際には、やはり両者をバランスさせることが重要となりますが、ハートの研究の真価は、財産権の配分を適切に行うことにより、業績指標によらずにインセンティブを設計できることを示した点にあるといえます。
- 契約理論とは、インセンティブ(誘因)設計の経済理論である
- 効率的なインセンティブ契約の設計では、固定給と業績連動型ボーナスを組み合わせることが、企業にとって最も好ましい報酬体系であある
2章:契約理論の前史
さて、2章では契約理論が生まれるまでの前史を解説していきます。
2-1:企業の本質
契約理論の前史は、1937年に発表されたロナルド・コース(Ronald H. Coase)の論文、「企業の本質」に遡ります(宮沢健一他訳『企業・市場・法』東洋経済新報社に所収)。
コースがこの論文を中心とする業績でノーベル経済学賞を獲るのが1991年になります。日本では、オリバー・ウィリアムソン(Oliver E. Williamson)の評価もあり、1970年代には「企業の本質」は人気を博していました4Williamson, Markets and Hierarchies, Analysis and Antitrust Implications : A Study in the Economics of Internal Organization, Free Press, 1975. 浅沼萬里・岩崎晃訳『市場と企業組織』日本評論社、1980年。
コースの問題意識は明快で、「なぜ企業は存在するのだろう?」ということです。新古典派の価格理論では、物理学、数学でいう質量のない点、大きさのない点と同様、企業は単なる点でした。
しかし、コースはそこに疑問を持ちました。以下のような状況を考えてみてください。
- 今、ある経営者が事業を行うに際し、労働者を市場から集めるとする
- 新古典派の価格理論では、労働需要と労働供給は賃金(労働価格)を介して労働市場で自動的に一致(均衡)している
- ところが、現実にはどこにどういう資質・能力の労働者がどれくらいいるかわからない
- そこで、経営者は、逐一労働者を検索し、調査し、交渉し、契約し、監視するなどの必要に迫られる
このように、新規事業の度ごとに逐一労働者を検索・契約するのは大変です。これらのことを行うのには、市場を利用するコストがかかるからです。これを一般に「取引費用」(transaction cost)といいます。
それならば、初めから選りすぐった労働者と長期雇用契約を結び、組織化してしまったほうがコスト(組織化費用)も安く付くかもしれません。組織化費用<取引費用のとき、市場は組織化されます。これが「企業」です。
市場と組織の「企業の境界」は、まさにそこにあります。このとき、市場を「外部組織」(external organization)、そして企業を「内部組織」(internal organization)といいます。
2-2:企業の行動理論
リチャード・サイアート(Richard M. Cyert)とジェームズ・マーチ(James G. March)の共著、『企業の行動理論』は、契約理論の系譜からは少し外れるかもしれません5Cyert and March, A Behavioral Theory of the Firm, Prentice-Hall, 1963. 松田武彦・井上恒夫訳『企業の行動理論』ダイヤモンド社、1967年。
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しかし、この本も新古典派の企業理論への批判に立脚しており、企業組織を重視しています。手探りしながら前へ進む生身の企業の姿がそこにはあり、非常に現実的な理論です。
当時の経営組織論は、大きく「組織的意思決定論」と「モチベーション(動機付け)理論」とに分かれていました。前者は主にカーネギー・メロン大学の学者が唱えており、彼らをカーネギー学派(Carnegie School)と呼びます。
※モチベーション理論に関してはこちらの記事が詳しいです。→【モチベーション理論とは】意味・代表的な理論からわかりやすく解説
新古典派理論では人は合理的に行動しますが、カーネギー学派理論を特徴付ける最も重要な前提は「限定された合理性(bounded rationality)」です。一般に、この概念はハーバート・サイモン(Herbert A. Simon)によって唱えられたとされています6Simon, Administrative Behavior, Macmillan, 1947. 松田武彦他訳『経営行動』ダイヤモンド社、1965年。
限定された合理性と『企業の行動理論』
- 人は合理的に意思決定するが、その認知能力・情報処理能力には限界があるというもの
- 『企業の行動理論』は、サイモンらの開発した組織的意思決定の諸概念7合理性、認知の限界、満足化基準、プロセスの重視、サーチ(探索)、アスピレーション(業績目標)などを用いて、実際に企業がいかに商品の価格や生産量を決めているかを生々しく描き出し、そのプロセスをコンピュータ・シミュレーションモデルとして提示している
しかし、『企業の行動理論』以降、カーネギー学派の理論に大きな進展は見られません。逆にいえば、それだけ同理論の完成度が高いともいえます。
- 契約理論の前史は、1937年に発表されたロナルド・コースの論文、「企業の本質」に遡る
- 新古典派理論では人は合理的に行動するが、カーネギー学派理論を特徴付ける最も重要な前提は「限定された合理性(bounded rationality)」である
3章:契約理論の学術的意義
以上の内容は、報酬契約という視点からの説明ですが、契約理論はこの他にもさまざまなものがあります。
- 雇用契約
- 保険契約
- 医療や教育などの公共サービス
- 官僚体制や政治組織
- コーポレート・ファイナンス(企業金融)
- コーポレート・ガバナンス(企業統治)など
このように、契約理論は非常に広範な分野に応用され、現実に沿いながら理論的な議論を可能にしました。
また、契約理論は経済学史の上でも非常に重要で、その重要性については、伊藤秀史の論文、「契約理論:ミクロ経済学第3の理論への道程」に非常に詳しく丁寧にまとめられているので、興味のある方は同論文を参照してください8伊藤「契約理論:ミクロ経済学第3の理論への道程」、経済学史学会『経済学史研究』49巻2号、2007年所収。
この論文によれば、契約理論の学史的な意義は以下の3点に総括されます。
- 契約理論は、「非対称情報・不完備契約の下でのインセンティブ設計の経済理論」であること
→それは、価格理論とゲーム理論の両方と関連性を持ちながら、しかしそれらの理論とは区別して位置付けられるべきミクロ経済学の「第3の」理論として、現代のミクロ経済学の重要な柱となっている - 契約理論の確立時期を明確に規定することは難しいこと
→ゲーム理論とは対称的で、非対称情報による市場の失敗、およびブラックボックスとして扱われる企業という新古典派理論の2種類の問題点を克服しようとする一連の研究成果が次第に統合されて、「契約理論」と呼ばれるようになった点が特徴にある - 契約理論が経済学にもたらした最大の変化は、経済学を分析対象(たとえば、市場)から解き放ち、インセンティブの分析を行う学問であることを明確にしたことにある
→その際に、エージェントの反応をプリンシパルの最適化行動の制約条件として扱えるエージェンシー(プリンシパル=エージェント)モデルが、分析ツールとして重要な役割を果たしたといえる
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4章:契約理論のおすすめ本
契約理論は深まりましたか?
この記事で紹介した内容はあくまでもほんの一部にすぎませんので、ここからはあなた自身の学びを深めるための書物を紹介します。ぜひ読んでみてください。
伊藤秀史『契約の経済理論』(有斐閣)
契約理論に関しては、現在のところ手軽な文庫や新書の類いがないので、日本における契約理論の第一人者である伊藤秀史教授の本書がおすすめです。本書は初学者には少し難しいかもしれませんが、本書を読めば契約理論について必要十分な知識が得られます。
一部の書籍は「耳で読む」こともできます。通勤・通学中の時間も勉強に使えるようになるため、おすすめです。
最初の1冊は無料でもらえますので、まずは1度試してみてください。
また、書籍を電子版で読むこともオススメします。
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まとめ
最後にこの記事の内容をまとめます。
- 契約理論とは、インセンティブ(誘因)設計の経済理論である
- 契約理論の前史は、1937年に発表されたロナルド・コースの論文、「企業の本質」に遡る
- 契約理論が経済学にもたらした最大の変化は、経済学を分析対象から解き放ち、インセンティブの分析を行う学問であることを明確にしたことにある
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