MENU
国際経済学

【APECとは】理念・役割から日本が主導した歴史までわかりやすく解説

APECとは

APEC(Asia-Pacific Economic Cooperation/アジア太平洋経済協力)とは、アジア太平洋の21か国による政府間協議の枠組みで、「開かれた地域主義」という理念から発足したものです。

APECと言えば毎年会議が報道されるわりに「何を決めているのかわからない」というイメージの方が多いのではないかと思います。

しかし、APECは実際にビジネストラベルカードの発効や、貿易・投資ルールの枠組み(FTA)としてFTAAPの構想など、経済活動の円滑化のために行動しています。また、APEC設立にあたって日本政府が非常に大きな影響力を持ったことも、あまり知られていません。

そこでこの記事では、

  • APECの理念、加盟国、会談内容や機能
  • 日本が主導したAPECや「開かれた地域主義」というアイディアの歴史

について詳しく解説します。

関心のあるところから読んでみてください。

このサイトは人文社会科学系学問をより多くの人が学び、楽しみ、支えるようになることを目指して運営している学術メディアです。

ぜひブックマーク&フォローしてこれからもご覧ください。→Twitterのフォローはこちら

Sponsored Link

1章:APECとは

もう一度確認しますが、APEC(アジア太平洋経済協力)とは、アジア太平洋の21か国による政府間協議の枠組みのことです。

まずは、APECとはどのような実態を持つものなのか詳しく説明します。

このサイトでは複数の文献を参照して、記事を執筆しています。参照・引用箇所は注1ここに参照情報を入れますを入れていますので、クリックして参考にしてください。

1-1:APECの意義

APECの目的は「経済協力」であり、具体的には以下の2つの活動を軸にしています。

  1. アジア太平洋の持続可能な成長と繁栄に向けて、貿易・投資の自由化と円滑化を通じた地域経済統合推進、質の高い成長の実現、経済・技術協力などの活動。
  2. ビジネス界とも緊密に連携。APECビジネス諮問委員会(ABAC)が、ビジネス界が重視する課題を首脳に直接提言2外務省「APECの概要」最終閲覧日2019年12月9日

つまり、経済面の交流を増大させることで各国の成長につなげていくことが目指されているのです。また、ビジネス界の動向が重視されていることは2章で説明する、APEC設立以前の動きを見ればうなずけることです。

なぜ「アジア太平洋」という地域なのかと言うと、この地域が「世界の成長センター」であり世界人口の約4割、世界の貿易量の約5割、世界のGDPの約6割を占める地域だからです。

つまり、日本としてはこの地域との経済的結びつきを高めることで、日本経済の成長につなげることができると考えられるのです。

1-2:APEC加盟国

APECの参加国は「エコノミー」と言われ、アジア太平洋地域の21エコノミーが参加しています。参加エコノミーは以下の通り、徐々に増えてきた経緯があります。

発足時1989年:12エコノミー

  • 日本
  • オーストラリア
  • ニュージーランド
  • アメリカ
  • カナダ
  • インドネシア
  • ブルネイ
  • マレーシア
  • フィリピン
  • シンガポール
  • タイ
  • 大韓民国

1991年:+3エコノミー

  • 中華人民共和国
  • 中華台北(中華民国/台湾)
  • 香港(当時イギリス領)

1993年:+2エコノミー

  • メキシコ
  • パプアニューギニア

1994年:+1エコノミー

  • チリ

1998年:+3エコノミー

  • ロシア
  • ベトナム
  • ペルー



1-3:APECの理念「開かれた地域主義」

さて、APECの大きな特徴は「開かれた地域主義(Open regionalism)」という理念です。

地域主義というのは、特定の地域に何らかの秩序を作り出す政治的な試みのことであり、代表的なのは欧州のEUです。しかし、地域主義的な秩序は域内で特別な協定を作り、域外に対して何らかの差別化をすることになってしまいます。

そのため、第二次世界大戦の原因となった「ブロック経済」、たとえば日本が戦前・戦中に構想した「大東亜共栄圏」のような試みにも結びつきかねないものです。

→【地域主義】について詳しくはこちら

日本は、アジア太平洋地域において経済的な結びつきを強めたい一方で、地域主義的試みはアジアやアメリカらの国から反発を招く可能性がありました。

そこで、

  • 「開かれた地域主義」という理念を打ち出し、地域主義だが域外にも「開かれた」オープンな試みであることを主張
  • アジアだけでなくアメリカも加え、日米関係やアジアに配慮

ということをしたのです。

こうした経緯について、詳しくは2章で説明します。

この経緯から、APECは今でもゆるやかな地域協力の枠組みであり、首脳会議も非公式のものとされています。また、台湾を国家として認めるのかどうかの政治的問題を回避するため、国家ではなく参加国は「エコノミー」と呼ばれます。

1-4:APECの組織

APECは1989年に閣僚会議として開始し、1993年から首脳会議もはじまりました。そして、首脳会議をトップに、以下のような組織となっています。

APECの組織引用:外務省「APECの組織」

首脳会議と閣僚会議(外務相、経済担当相が参加)が年1回開催され、常設の事務局はシンガポールに置かれています。

事務局長は開催国から1年任期で選出されます。

APECについて基本的な情報を説明しましたが、APECが実は日本政府の主導によって開催されたものであることはあまり知られていません。また、APECは、実はより強固な地域統合につながる構想も持っています。

設立の経緯については2章で、今後の構想について3章で説明します。

1章のまとめ
  • APECは、アジア太平洋地域の21エコノミーによる経済協力の枠組み
  • APECは、「開かれた地域主義」を理念にもつゆるやかな、非公式の協議だが、いずれはより強い統合が目指されている
Sponsored Link

2章:日本が主導したAPEC設立の歴史

これからAPEC開催までの詳しい経緯を解説しますが、要点をまとめると以下のようになります。

  • 60年代から永野重雄を中心とした、財界による経済外交が行われる
  • 70年代には大来を中心としたメンバーによる、アジア太平洋の協力の枠組みが蓄積
  • 70年代末からより公的な動きがはじまり、PCCやPECCという枠組みが開始される
  • 80年代、アメリカからの日米FTAの打診をきっかけに通産省がレポートを提出し、それを骨格にAPEC設立に向けて本格的に動き出す
  • APEC設立に向けて、日本の通産官僚が各国を説得に回り、アジアや日米関係への配慮からアメリカもメンバーに加わる
  • 表向きはオーストラリア政府が発表し、APEC閣僚会議が開始(1989年)

結論から言えば、「アジア太平洋」の「開かれた地域主義」というアイディアは、日本が戦後の禍根が残るアジアと、特別に重視された日米関係の両方に配慮したために作られたものと言えます。

これから詳しく解説します。

2-1:民間から始まったアジア太平洋地域協力

1960年代、長期的な資源獲得のためには獲得先の現地の対日感情に配慮しなければならないことが課題とされて、財界人を中心とした民間経済外交がはじまりました。その中心となったのが、戦後の財界四天王の一人と言われた富士製鉄社長(当時)の永野重雄です。

永野が中心となって、以下のように民間におけるアジア太平洋協力がはじまりました。

  • 「日豪経済合同委員会」を設立し、1963年5月に第1回会議を開催
  • 1967年には日豪経済合同委員会にアメリカ、カナダ、ニュージーランドをメンバーとして加えた「太平洋経済委員会(PBEC)」が東京で発足、68年5月に第1回総会を開催

また、同時期に一橋大学教授であった小島清も、太平洋協力構想を提唱しました。

  • 1965年11月、大来佐武郎の日本経済研究センターの会議の場で、アメリカ、日本、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドからなる太平洋自由貿易圏(PAFTA)が必要と訴えた
  • 1966年12月〜1967年2月にかけて外務大臣にあった三木武夫は、小島の構想に関心を示し、小島と大来に太平洋協力の構想を検討することを頼んだ

永野や小島の構想が「太平洋地域」での構想であったのに対し、三木武夫が考えていたのは「アジア太平洋」の構想でした。三木は以下のように考えていました。

  • アジアでは途上国の開発問題があるため、日本がアジア唯一の先進国としてイニシアティブを取らなければならないが、日本一国で行うことは不可能
  • そこで、アジア太平洋という枠組みで、アメリカを含む太平洋の先進国の協力を得る必要がある

つまり、まだ戦後20年程度しか経過していない時代で、アジアで地域秩序を作るような動きを見せたら大東亜共栄圏の再来と考えられてしまうため、その配慮が必要だったのです。

また、この時期に「開かれた地域主義」という概念も提唱されます。

1950年代から60年代にかけての時代は、日本は国際経済体制(GATTなど)に加盟してグローバルな貿易ルール作りに参加しようとしていました。

そのため、アジア太平洋に何らかの秩序を作ろうとする意思を見せると、グローバルなルール作りに反して地域的な秩序を作ろうとしているように考えられる恐れがありました。そこで、GATTとアジア太平洋における地域協力が矛盾しないことをアピールするために、「開かれた地域主義」というアイディアを提起したのです3寺田貴「日本のAPEC政策の起源:外相三木武夫のアジア太平洋圏構想とその今日的意義」『アジア太平洋研究』第23号、2002年

こうした民間を中心としつつ、日本政府も関わったアジア太平洋地域における外交、構想が、その後のAPECのベースとなりました。

永野が行った民間経済外交について、これらの本に詳しく書かれています。

created by Rinker
¥770
(2024/11/20 22:45:36時点 Amazon調べ-詳細)

created by Rinker
¥31
(2024/11/20 22:45:37時点 Amazon調べ-詳細)

また、アジア太平洋地域協力に欠かせない重要人物である、大来佐武郎に関わることは以下の本に詳しいです。

created by Rinker
¥1,338
(2024/11/20 22:45:38時点 Amazon調べ-詳細)



2-2:大来佐武郎を中心としたアジア太平洋協力の推進

70年代に入ると、政府による経済外交とやや別の動きとして、大来佐武郎を中心としたアジア太平洋協力の動きが活発に行われました。

大来佐武郎(1914年-1993年)は、日本の著名な元官僚のエコノミストで、独自の外交を行った人物です。

1960年代末に行われたことが、大来を中心とした準政治的な外交です。

  • 三木武夫外相から太平洋協力についての依頼を受けた小島清と大来は、太平洋先進5カ国の学者・研究者を集め、1968年、太平洋貿易開発会議(PAFTAD)の第1回会合を開く
  • PAFTADは各国持ち回りで行われ、その中では太平洋貿易開発機構構想(OPTAD)もあった
  • 一連の太平洋協力の蓄積は、太平洋地域における学者・研究者の人的ネットワークを形成し、この人的ネットワークが70年代、80年代のアジア太平洋協力の基盤となり、APECへとつながった

こうして太平洋協力は徐々に「アジア太平洋」協力となり、通商問題から開発も含めたものへ、小島・大来を中心に変化していったのです。

大来は太平洋協力の人的ネットワークの中心に位置して、数々の国際会議の場で太平洋協力の必要性を訴えました。

1976年、インドネシアのペナン島で開かれたウイリアムズバーグ会議の席上では、太平洋貿易開発機構構想(OPTAD)について説明し、参加者であったASEAN諸国の有力者に理解を求めました。その結果、タイ政府はOPTADのようなものを開催したいと述べ、大来の目論みは成功し、アジアを巻き込んだ太平洋協力への一歩となったのです。

こうした動きはまだ民間もしくは準政治的と言えるものでしたが、70年代末ごろから公式なものに変質していきました。

Sponsored Link



2-3:大平正芳政権下のアジア太平洋協力

アジア太平洋地域協力における政治的な動きは、大平正芳からはじまりました。

大平は1978年自民党総裁選に立候補するときに、大来らの研究を踏まえて太平洋協力を掲げました。

  • 1979年3月、私的諮問機関の一つとして大来を座長とする「環太平洋連帯研究グループ」を設置
  • 1979年の11月、中間報告「環太平洋連帯構想」が提出される

このレポートで開かれた地域主義が謳われています。

一、太平洋地域外に対して排他的で閉ざされた地域主義ではなく、「開かれた地域主義」を原則とする。二、太平洋地域内においても、あくまでも「自由で開かれた連帯」を目指す。三、既に存在する地域内の二国間あるいは多国間の協力関係(例えば、ASEAN)と対立、競合するものではなく、むしろ相互補完関係にたつものである4小野善邦 『わが志は千里に在り 評伝大来佐武郎』 日本経済新聞出版社、2004年

大来は1979年、第二次大平内閣の外務大臣に就任し、公的な立場からアジア太平洋協力に動きました。

太平洋共同体セミナーの開催

  • 1980年1月、環太平洋連帯構想を実現させるため、大平と大来は共にオーストラリアを訪れ、その構想について説明。フレーザー豪首相はこれに賛同。
  • 1980年9月15日〜18日にかけて、太平洋共同体セミナーがキャンベラで開かれる
    (参加国は日本、ASEAN5カ国(タイ、フィリピン、インドネシア、マレーシア、シンガポール)、オーストラリア、ニュージーランド、アメリカ、カナダ、韓国、南太平洋の独立諸国(まとめて1グループ)の12の国・地域)
    ※各国の代表者は産・学・官の三者だが、官は個人の資格で参加し、政府代表の立場で参加するのではないという立場だった。
  • 参加する主要な学者はPAFTADメンバー、産業界の主要なメンバーはPBECが中心で、大来が中心となったネットワークのメンバーがベースとなった
  • キャンベラ・セミナーでは政府のサポートする民間組織「太平洋協力委員会(PCC)」の設置が合意

こうした設置された太平洋協力委員会(PPC)は、後に太平洋経済協力会議(PECC)へと発展しました。

  • PCCの第1回キャンベラ・セミナーの終了後、大来が委員長である「太平洋協力日本委員会」が設置
  • 81年5月PECCの骨格となる「環太平洋構想に関する見解」という書簡を関係国に送付し、それを受けて1982年5月からバンコクで第2回セミナーが開催
  • この第2回セミナーからPECCの名称が使われる
  • その後第3回バリ(1983年)、第4回韓国(1985年)、第5回バンクーバー(1986年)で開催される

第6回大阪(1988年)では、議長となった大来は、下記のように、これまで積み重ねてきたアジア太平洋における地域協力をより公的なレベルに引き上げることを提唱しました。

太平洋協力への政治的関与を確保するために将来、PECC参加国を中心とする『太平洋サミット』とも言うべき各国政府のハイレベル会議の開催を検討するよう要請する5小野・前掲書



2-4:中曽根政権・竹下政権のアジア太平洋地域協力

APECの実現に向けて政府が大きく動きだしたのは、中曽根政権とその次の竹下政権からです。

2-4-1:中曽根政権

中曽根康弘による動きも80年代に活発でした。中曽根は、下記のように太平洋を重視した関係構築を行っていました。

  • 1983年、日本が東南アジアを軽視しているという誤解を解くために東南アジア訪問
  • 1985年、環太平洋連帯を重視する認識から大洋州を訪問
  • アメリカのレーガン政権との関係構築の中で太平洋協力構想が浮上し、通産省内に太平洋構想に関する委員会が設置され、外務省、経済企画庁も委員会、私的諮問会を設置
  • 1988年1月には、田村通産大臣(当時)が、第4回アジア太平洋貿易会議にて、アジア太平洋経済開発協力構想を提唱

しかし、中曽根政権下では実現に至らず、実現に向けて動き出すのは次の竹下政権になってからでした。そして、その背景には80年代の通産省(現在の経産省)内での、これから紹介するような研究がありました。

2-4-2:通産省内での研究と日米FTA

1980年代末ごろ、通産省内では一部の官僚たちがアジア太平洋での地域協力の必要性を感じて非公式の勉強会・研究会を開始していました。

  • 通産官僚坂本吉弘は1987年から通産省の国際経済部長として、アメリカがカナダとの間でFTA(自由貿易協定)締結を進め、欧州でECが統合を進める中、日本が孤立することに危機感を抱いていた
  • また、同時期に通産官僚細川恒は、日米貿易摩擦等の問題から、アメリカが日本から離れて大西洋側での結びつきを強めるのではないか、と懸念し省内で議論
  • こうした議論や研究が通産省内の研究会のレポートに反映された(「新たなアジア太平洋協力を求めて−コンセンサス・アプローチによる多層的、漸進的協力の推進−」)6坂本『目を世界に心を祖国に-「国益とは何か」を問い続けた通商交渉の現場から-』(財界研究所)や畠山『通商交渉を巡るドラマ』(日本経済新聞社)など

こうした研究が実現に向かって動き出すのは、アメリカから日米FTA(自由貿易協定)締結の打診を受けたからです。

日米FTAは以下のように日本に対して打診されていたようです。

  • 元通産審議官であった畠山襄によると、畠山は1987年12月、マンスフィールド駐日大使から日米FTAの可能性を示唆された
  • 1988年1月に訪米していた竹下登は、ロバート・バード上院議員から、日米FTAの交渉開始による利害得失を日米で別々に検討することを提案される

トランプ政権に入ってから新たに日米FTAが構想され日本政府も検討し出していますが、アメリカからのFTA締結の要求は80年代にも存在したのです。

アメリカの動きから通産省内ではアジア太平洋協力を実現させるために行動が開始されました。



2-5:通産省主導によるAPEC設立

通産省の官僚やJETRO(日本貿易振興会)の職員は、APEC実現に向けて関係国に説明に回りました。

  • JETROに出向していた奥村裕一産業調査員は、オーストラリアに対し通産省の構想を説明
  • 70年代産業政策の立案などで内外に知られた天谷直弘が、当時JETRO所員としてシドニー事務所に在籍していたため、天谷もオーストラリアの経済界とAPEC実現に向けて接触

こうした日本の提案にもっとも強く反応したのがオーストラリアで、オーストラリアのホーク首相(当時)は、1989年1月、訪問先のソウルでの「地域協力−韓国およびオーストラリアの挑戦−」演説で、政府間で太平洋地域協力を行う構想を発表しました。

さらに、ASEAN各国やアメリカも日本政府が説得しました。

「なぜここでアメリカが出てきたの?」と思われるかもしれませんが、当時アジア太平洋の構想を「アメリカ抜き」で行うことが難しかったからです。

それは、日米関係を重視してきた日本の政治の伝統でもありますし、日本が中心とした構想だとアジアの各国が戦争の記憶から反発し、実現できない可能性があったからです。

  • 1989年4月、村岡審議官と鈴木直道通商政策局長が訪問し、さらに4月末には三塚博通産大臣が訪米して、この構想について議論
  • オーストラリアのエバンス外務貿易大臣も訪米したが、このときアメリカがホーク案でメンバーとされていなかったことに抗議したことから、徐々に参加国の間でアメリカ参加のコンセンサスが固まった

こうした経緯で徐々にAPECの構想や参加メンバーが固まっていき、実現に向けて一気に動きました。

  • 1989年6月26日、ジム・ベーカー国務長官はホーク豪州首相の提案にのって、新しい太平洋機構の展開として、閣僚会議を開くことについて演説
  • 1989年8月には、オーストラリアのホーク首相によって、日本、韓国、ASEAN6カ国、アメリカ、カナダ、ニュージーランド、オーストラリアの12カ国での閣僚会議の開催について、招待状が送られる
  • 1989年11月6日、7日に第1回閣僚会議が開かれ、新しいアジア太平洋地域協力の動きが、APECとして動き出した

最終的な表だった動きはオーストラリアやアメリカによるものが強かったのですが、その背景には長年にわたる日本の財界や政府による外交、研究の積み重ねがあり、官僚による根回しがあったのです。

APECの設立時には、GATT・WTO体制(国際貿易体制)とも矛盾しないことにも配慮されました。GATTについて詳しくは以下の記事で説明しています。

【GATTとは】WTOとの違いや日本との関係をわかりやすく解説

2-6:日本政府がAPEC設立を主導した理由

日本がAPECを設立しようとしたのは、

日本がAPECを構想し実現へと動いた背景には、以下の理由が考えられます。

  1. 日米貿易摩擦におけるアメリカからの圧力の回避
  2. 欧米の地域主義に対して、成長するアジア・太平洋にも地域秩序を形成する必要性

また、アメリカをメンバーに入れたことは、以下の理由が考えられます。

  1. 日米FTAなどのアメリカの二国間主義を多国間の枠組み形成で対応するため
  2. アジアでの実態上の統合がブロック形成でないことのアピール

特に重要なのが②の点で、日本は戦後のアジアにおける微妙な立場と日米関係重視という政治上の特性から、「地域主義だが閉じられていない」という「開かれた地域主義」を理念に掲げたのです。

2章のまとめ
  • 60年代以降民間や非公式のアジア太平洋地域協力の積み重ねから、80年代になって公的なアジア太平洋地域協力がはじめられた
  • 80年代末から通産省の研究や各国の説得から、APEC設立が実現した
  • アメリカやアジアへの配慮から「開かれた地域主義」という理念が打ち出された
Sponsored Link

3章:APECとFTAAP構想

APECがゆるやかな地域協力の枠組みであることは、これまでも繰り返し説明した通りです。

しかし、実は将来的にはより強い地域統合的なつながりに発展させられることが構想されています。これを「FTAAP(エフタープ/Free Trade Area of the Asia-Pacific)」と言います。

3-1:ブッシュ政権での検討

まず、1994年の第6回APEC首脳会議で、「ボゴール宣言」が採択されました。

ボゴール宣言は、以下の期限で自由で開かれた貿易・投資を域内で実現する目標です。

  • APECの先進エコノミーである日本、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ)は2010年まで
  • その他の途上エコノミーである香港、台湾、シンガポール、マレーシア、メキシコ、ペルー、韓国、チリ)は2020年まで

そしてボゴール宣言をより実現に向かわせるものとして構想されたのがFTAAPです。

FTAAPは、APEC21エコノミーでFTA(自由貿易協定)を締結し、自由な貿易・投資を実現する構想です。

FTAAPは、下記の経緯でアメリカのブッシュ大統領(当時)によって提唱されました。

  • 2004年頃、アメリカの国際経済研究所のバーグステン教授が発案し、それをAPECに参加している民間組織APECビジネス諮問委員会(ABAC)が検討
  • ABACは2004年のサンチャゴ・APEC首脳会議にてFTAAPの検討について合意するようAPECに要請、またブッシュ政権にもFTAAP構想を提案
  • 2006年11月16日、東南アジア訪問中、シンガポール大学でFTAAP構想をブッシュ大統領が発表
  • 2006年ハノイ・APECの首脳宣言で、FTAAPの研究を各国関係閣僚に指示し、政府レベルでの協議がはじまる

つまり、アメリカ政府内での構想がブッシュの宣言によって実現に向かっていったのです。

3-2:FTAAPとTPPの関係

こうして構想されたFTAAPですが、21エコノミーで一つのFTAを締結するのは壮大で困難が予想されます。

そこで、アメリカ政府はTPPの活用を検討し始めます。

TPP(Trans-Pacific Partnership Agreement/環太平洋パートナーシップ協定)とは、2010年から日本も参加した広域FTAで、現在はアメリカが離脱し11カ国で署名されています。

TPPはもともと中小国の間で構想されていたものにアメリカが参加し、日本への参加を迫った枠組みです。

そこに、アジアや日本を含んだFTA締結をもくろんだアメリカが参加し、日本に交渉を迫るようになった経緯があります。

また、同時期には日本と中国がそれぞれ別の地域的なFTAの構想を行っており、日本は「CEPEA」、中国は「EAFTA」というFTAを検討していました。

このように複数の構想が乱立していたことから、日本のTPP交渉参加の意思表明が行われた翌月の2010年11月8日、APEC高級実務者会合では、アジア太平洋における地域構想は、FTAAPが最終的なゴールであり、それを実現するためにTPP、ASEAN+3FTA(EAFTA)、ASEAN+6FTA(CEPEA)の3構想を土台にしていく方向で各国が一致しました。

まとめると、FTAAP構想の実現を最終ゴールとし、現在はTPP(アメリカ離脱)、RCEPの2つのFTAが現在進められている状態なのです。さらにアメリカは日本に二国間の日米FTAを迫るなど、状況は複雑になっています。

RCEPという構想について詳しくは以下のページで解説しています。

【RCEPとは】構想の具体的内容と現在までの経緯をわかりやすく解説

また、FTA(自由貿易協定)について詳しくはこちらをご覧ください。

【自由貿易協定(FTA)とは】EPAとの違いからわかりやすく解説

APECやFTAなどについて研究する国際政治学の分野が「国際レジーム論」です。

【国際レジーム論とは】定義から3つの立場の説明までわかりやすく解説

3章のまとめ
  • FTAAPはAPEC21エコノミーでのFTA(自由貿易協定)締結を目指す構想
  • FTAAPはブッシュ政権によって提唱され、アジア太平洋地域の他の構想はFTAAPを最終ゴールにして整理された

4章:APECに関するおすすめ本

APECはこれからも日本を取り巻く秩序形成を考える上で重要なテーマですので、より学問的な研究を勉強してみることもおすすめします。

おすすめ書籍

大屋根聡『国際レジームと日米の外交構想ーWTO・APEC・FTAの転換局面ー』(有斐閣)

大屋根聡は日本の代表的な国際政治学者で、FTAやAPECに関する論文、著作も多数あります。APECについては、まずはこの本から学ぶべきです。

この記事では通産省官僚らの著作を複数参照しました。以下の本は、現場の当事者としてAPECに関わった官僚の回顧録です。読み物としても面白いです。

created by Rinker
¥2,799
(2024/11/20 22:45:40時点 Amazon調べ-詳細)

created by Rinker
¥338
(2024/11/20 22:45:40時点 Amazon調べ-詳細)

Amazonプライム

最後に、書物を電子版で読むこともオススメします。

Amazonプライムは1ヶ月無料で利用することができますので、非常に有益です。学生なら6ヶ月無料です。

Amazonスチューデント(学生向け)

Amazonプライム(一般向け) 

数百冊の書物に加えて、

  • 「映画見放題」
  • 「送料無料」
  • 「書籍のポイント還元最大10%(学生の場合)」

などの特典もあります。学術的感性は読書や映画鑑賞などの幅広い経験から鍛えられますので、気になる方はお試しください。

まとめ

この記事の内容をまとめます。

この記事のまとめ
  • APECとは1989年の閣僚会議から始まったアジア太平洋地域における経済協力の枠組み
  • APECの開始には、日本政府や財界等の役割が大きかった
  • APECは、FTAAPという広域FTAをゴールにしている

このサイトは人文社会科学系学問をより多くの人が学び、楽しみ、支えるようになることを目指して運営している学術メディアです。

ぜひブックマーク&フォローしてこれからもご覧ください。→Twitterのフォローはこちら