大和朝廷とは、古墳時代の畿内地域(現在の奈良県・大阪府・京都府・兵庫県など)に存在した当時の日本=倭国の中心的な政治権力を指します。
日本に現存する最古の神話・歴史書である『古事記』『日本書紀』(以下『記紀』)には、神々から代々続く天皇家が古くから日本を統治していた様子が描かれています。
そして、それらの記述は現実に残る「古墳」、特に畿内を中心とする「前方後円墳」の成立・拡散の歴史とうまく対応していました。
したがって、古墳時代の畿内に当時の倭国(日本)を統治していた強大な政治権力が存在したことは事実であり、その政治権力が「大和朝廷」と呼ばれ始めたのです。
ところが、近年では「大和」「朝廷」といった語句の定義に問題が生じ、「大和朝廷」の呼び名は「ヤマト政権」「ヤマト王権」に置き換わりつつあります。
この記事では、
- 「大和」「朝廷」といった歴史用語の意味と解釈
- 現代の国家とのつながりや違い
- 「大和朝廷(ヤマト政権)」の成立と展開の歴史
について解説します。
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1章:大和朝廷とはなにか
まず1章では、大和朝廷について、歴史用語としての意味合いや現代とのつながりについてみていきます。2章以降でその具体像について解説しますので、用途に沿って読み進めてください。
このサイトでは複数の文献を参照して、記事を執筆しています。参照・引用箇所は注1ここに参照情報を入れますを入れていますので、クリックして参考にしてください。
1-1:大和朝廷の意味
冒頭の確認となりますが、大和朝廷とは、
古墳時代の畿内に存在した政治権力のこと
です。
まずは、なぜその権力が大和朝廷と呼ばれるのかを、「大和」「朝廷」といった用語の意味から紹介します2三省堂『大辞林』第三版より引用。
「大和」
① ◇旧国名の一。奈良県全域に相当。五畿内の一。平安遷都以前は歴代の皇居のあった地方。もと「倭」と書いたが、元明天皇の時、「倭」に通じる「和」の字に「大」の字を付けた「大和」を用いることが定められた。
② ◇〔① に都があったことから〕 日本国の別名。やまとの国。おおやまと。和州。
「朝廷」…君主が政治をとるところ
『記紀』には、君主にあたる天皇家が大和に宮を置き、それ以降大和を中心に政治を行ったことが以下のように記されています(著者意訳)。
日向から東征した神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)は、敵対する勢力を倒して大和に入り、宮を築いて初代天皇(=神武天皇)となった。
『記紀』にみる大和朝廷の成立(筆者作成)
さらに、『記紀』では、初代・神武天皇以降の君主である天皇も相次いで大和に宮を置いたことが示されています。
つまり、『記紀』によれば、
日向から天皇家がやってきたことに始まり、奈良時代が終わるまでの数百年もの間、大和は政治権力の中心
でした。こうしたことから、辞書における②の意味が生まれたと言えます。
したがって、「大和」と「朝廷」の2つの語句を組み合わせた歴史用語である「大和朝廷」は、「旧制大和国 (現在の奈良県)に存在した、君主が政治をとる場所」と定義できるのです。
1-1-1: 「大和」と「朝廷」の厳格化
しかしながら、現在「大和朝廷」を学術的な用語として使用する学者はほとんど存在しません。それは歴史学・考古学の進展にともなって「大和」と「朝廷」のそれぞれの用語の意味が厳格に定まったためです。
以下は、学術用語の厳格化の例です。
- 「大和」=律令制成立以降の旧制大和国。現在の奈良県に対応
- 「倭(国)」=国名が改まる以前の日本国(漢書地理志~律令制成立前夜)
古墳時代の畿内政治権力の中心地は、旧制大和国域に止まらないことが明らかになる(例:百舌鳥・古市古墳群)。そこで、古墳時代の政権の呼び名については「大和を中心とする諸地域」「倭国」を包括的に表す「ヤマト」とするのが通例に。
「朝廷」=律令制成立以降の、天皇を中心とする政治権力
- そもそも、「天皇」号の成立は飛鳥・奈良時代以降。それ以前のヤマトのリーダーは「王」または「大王」と呼ばれていた(例:大分県江田船山古墳出土銀錯銘大刀・埼玉県稲荷山古墳出土金錯銘鉄剣)
- また、大王個人の権力は律令制以降の天皇の権力と比べて小さいモノと考えられるため(諸説あり)、古墳時代の政治権力については「政権」「王権」と呼びならわすのが通例に
このように、歴史学や考古学では「大和」と「朝廷」はそれぞれ飛鳥・奈良時代における律令国家成立以降の事象を表す用語と定義されました。そこで近年では、古墳時代の畿内政治権力については「ヤマト政権」「ヤマト王権」などと呼ぶようになっていきます。
そして、現在では、日本史の教科書の記述でも「ヤマト政権」「ヤマト王権」と表記されています。
- 本記事では、『記紀』の神話的記述により想像される畿内地域の政治権力を「大和朝廷」とし、歴史学・考古学によって定義される現実の畿内政治権力を「ヤマト政権」と便宜的に区別する
- また、『記紀』に登場する天皇(大王)については〇〇天皇と呼び、「ヤマト政権」の指導者全般を指す場合は「大王」とする
1-2:「大和朝廷」「ヤマト政権」にかんする学術的な議論
『記紀』の記述に基づく「大和朝廷」の姿は、『記紀』が成立したころの律令国家の姿をよく反映したものとされています。したがって、『記紀』の記述通りならば、ずいぶんと立派な国家権力が古墳時代の日本に存在していました。
しかしながら、『記紀』には神話的要素が多く、古墳時代当時の日本の姿を知るための文献史料としてはあまり参考になりません。そこで、実際の「ヤマト政権」の姿を探るには、現実世界に残る「モノ」から歴史を探る考古学のアプローチが重要です。
ただし、考古学の世界においても、「ヤマト政権」をどのような政治権力とみるかについては意見が分かれています。具体的には、「現代的な国家の定義に照らした際に、古墳時代の日本=倭国は国家であるか否か」が戦後以降盛んに議論されてきました。
そのなかでも、
- マルクス主義の共同体論にのっとって「古墳時代の政権は部族連合政権であった」と主張した岡山大学の故・近藤義郎の意見
- 人類学の定義にのっとって「古墳時代の社会は初期国家段階にあたる」と主張した大阪大学の都出比呂志の意見
- 政治構造や観念領域の研究から「古墳時代の政権は国家段階と言える」とした国立歴史民俗博物館の広瀬和雄の意見
は有名です。
しかし、いずれの意見においても、ヤマト政権が「前方後円墳」を活用して統治を行ったと考える点は一致しています。
そのため、結局のところ、古墳時代の日本に想定できるのは『記紀』に描かれた「(成熟国家としての)大和朝廷」というよりも、前方後円墳を活用した権力の相互承認に基づく「ヤマト政権」と考えるのが妥当でしょう。
前方後円墳の拡散(筆者作成)
「ヤマト政権」の社会は、前方後円墳に頼らずとも法令・租税・身分・秩序による支配が可能となった律令国家や、国民主権を基礎とする近現代の国家とは全く異なるものでした。
しかしながら、国を一つにまとめあげるような強大な権力が存在しなかった弥生時代以前の社会と比べると、古墳時代の社会は十分に発達した段階です。そのため、「ヤマト政権」は日本が現代のような国家へと成長し続ける最初のきっかけとみることもできます。
- 大和朝廷とは、古墳時代の畿内地域(現在の奈良県・大阪府・京都府・兵庫県など)に存在した当時の日本=倭国の中心的な政治権力を指す
- 実際の「ヤマト政権」の姿を探るには、現実世界に残る「モノ」から歴史を探る考古学のアプローチが重要である
- 古墳時代の日本に想定できるのは『記紀』に描かれた「(成熟国家としての)大和朝廷」というよりも、前方後円墳を活用した権力の相互承認に基づく「ヤマト政権」と考えるのが妥当である
2章:「大和朝廷」「ヤマト政権」の歴史
「大和朝廷」「ヤマト政権」の歴史については、「①『記紀』神話からの解釈」「②東アジア各国の文献史料」「③考古学的な成果」の3つの側面から研究が進められています。
ただし、それぞれ①はいわゆる国文学・歴史学、②は日本史学・東洋史学、③は考古学と、学術的な専門分野が分かれており、①②③の3つを包括した形での「大和朝廷・ヤマト政権の歴史の全体像」は未だに明確になっていません。
その点を踏まえて、本記事ではなるべく広い視野から簡潔に解説をしてきます。
2-1:大和朝廷とヤマト政権の成立過程
『記紀』における大和朝廷の成立についての記述は、冒頭に述べた「神武東征」の伝説がメインです。
ただし、初代・神武天皇にはあまりにも神話的なエピソードが多いこと、第2代天皇である綏靖天皇から第9代開化天皇にいたるまでの歴史的な記述が欠如していること(欠史八代)から、『記紀』に描かれた大和朝廷成立期の姿はほぼ創作とみなされています。
また、東アジア各国の文献史料においてもヤマト政権の成立にかかわる記述は見当たりません。中国の史書である『魏志倭人伝』『後漢書東夷伝』『晋書』には邪馬台国や卑弥呼にかかわる記述は見受けられるものの、それらとヤマト政権の関係性は不明確です。
そればかりか、『晋書』における西暦266年の記事以降、約150年以上にわたって倭国にかんする文献史料の記述は存在しないのです(「空白の4世紀」)。
そこで、ヤマト政権の成立については専ら考古学によって語られています。考古学的な見解としては、以下のことが多くの研究者間で一致している点です。
- 初期ヤマト政権の王都は、奈良県桜井市の纏向遺跡である
- 定型化された最初の大型前方後円墳は、同遺跡内に位置する箸墓古墳(写真1)である
(写真1「箸墓古墳」筆者撮影)
具体的には、国立歴史民俗博物館研究報告によって、以下のような言及がされています。
前方後円墳に代表される古墳の出現は,日本列島における国家形成の過程できわめて重要な位置を占める歴史的出来事と認識され,これまで多方面から追究されてきた。その結果,吉備地方に起源をもつ特殊器台と都月型埴輪の型式変遷,壺形土器の編年,墳丘形態の変遷などから,奈良盆地の東南部に所在する桜井市箸墓古墳が最古最大の古墳として広く認められるに至っている。3春成秀爾・小林謙一・坂本 稔・今村峯雄・尾嵜大真・藤尾慎一郎・西本豊弘「古墳出現期の炭素14年代測定」『国立歴史民俗博物館研究報告』第163集(国立歴史民俗博物館)134頁
纏向遺跡からは、畿内だけでなく全国各地の土器が見つかっています。これはひとえに纏向遺跡における交流の活発さを示すものです。
加えて、纏向遺跡で見つかった3世紀前半代の宮殿跡は当時の日本で最大規模であったとされ、これもまたヤマト政権の本拠地にふさわしいと言えます。
(写真2「纏向遺跡の巨大宮殿跡」筆者撮影)
纏向遺跡の内部に位置する全長280mの前方後円墳である箸墓古墳は、考古学的な検討のほか、科学的な年代測定によっても日本最古の大型前方後円墳(およそ3世紀中ごろ)であることが明らかになっています。
そして、箸墓古墳以降、定型化された前方後円墳や「三角縁神獣鏡」と呼ばれる特殊な銅鏡が全国に拡散されました。三角縁神獣鏡には、以下のような学術的指摘があります。
三角縁神獣鏡は、前方後円墳の成立当初から古墳時代前期全般にわたり数多く古墳に副葬されており、政治的に重要な意義をもつと考えられ、前期古墳を論じる上で重要な役割を果してきている。すなわち等しい鏡背文様をもつ同笵鏡が多く認められ、この分有関係が畿内を中心として各地の古墳に及ぶことから、弥生時代の集団関係をこえた広範な政治的連合が、畿内優位の下に成立したことを如実に示しているからである。4岸本直史「三角縁神獣鏡製作の工人群」『史林』72巻第5号(史学研究会)1頁
これが、ヤマト政権が全国各地の有力者と手を結んだ証拠とされています。3世紀中ごろから4世紀後半にかけてのヤマト政権は、前方後円墳を軸にさまざまな器物・情報を介して国内外の交流を深め、支配を拡大したのです。
残念ながら、考古学が「モノ」を対象にする学問である以上、ヤマト政権成立の具体的なストーリーを描くのは容易ではありません。しかしながら、ヤマト政権の成立時期と支配領域拡大の様相などは考古学で明らかになってきました。
2-2:「大和朝廷」「ヤマト政権」の展開
4世紀末ごろから5世紀にかけて、「大和朝廷」「ヤマト政権」は大きな発展を遂げます。
この時期の倭国を語る上で、「倭の五王」の存在は見過ごせません。中国の史書である『宋書倭国伝』に記された讃・珍・済・興・武の5人の倭王はヤマト政権の大王であるとされており、それぞれ中国南朝と活発に交流を行っていたことがわかっています。
ここで問題になってくるのが、『記紀』に登場する古代天皇と「倭の五王」との対応関係です。以下のは、その対応関係を表した図です。
『宋書倭国伝』と『記紀』の対応関係」(筆者作成)
このように、「興=安康天皇」「武=雄略天皇」との見解は古代史研究者の間でも概ね一致しているところですが、讃・珍・済については未だ確定していません。
また、それら「倭の五王」も葬られたとみられる畿内の前方後円墳はさらなる巨大化を果たしていました。世界文化遺産にも登録された百舌鳥・古市古墳群の巨大な前方後円墳は「倭の五王」の時代のモノです(写真3)。
(写真3「百舌鳥古墳群に所在する日本最大の前方後円墳である大仙陵古墳」筆者撮影)
巨大前方後円墳の造営の背景には、国内の被支配層や海外の使者に政治序列や技術力の高さを示す狙いもあったとされています。
巨大前方後円墳を中核に,中小前方後円墳・円墳・方墳などで構成された佐紀・馬見・古市・百舌鳥古墳群の 4 大古墳群は,中期大和政権の政治序列を内外の人びとにたいして視覚的に訴える観念装置でもあった。5広瀬和雄「古墳時代像再構築のための考察 前方後円墳時代は律令国家の前史か」『国立歴史民俗博物館研究報告』第150集(国立歴史民俗博物館)77頁
一方で、このころには国内の支配体制も強化されました。熊本県の江田船山古墳、埼玉県の稲荷山古墳(ともに5世紀後半)からは、それぞれ「ワカタケル大王」の名が記された刀剣が見つかっています。
「ワカタケル大王」は一般的に『記紀』に見える雄略天皇のこととされ、「倭の五王」の武にあたる人物です。大王の名前が畿内から遠く離れた地域にも轟いていたことを考えると、その権力の大きさがうかがえます。
このように、4世紀後半~5世紀にかけて、ヤマト政権は巨大前方後円墳を頂点とする国内統治と対外交渉の活発化を図っていたと言えるのです。
2-3:律令国家へ向けて
6世紀に入ると、「ヤマト朝廷」「ヤマト政権」に大きな変化が起こりました。そのきっかけの一つが、越の国(現在の北陸地方)からやってきた新たな大王である継体天皇の即位です。
加えて、続く欽明天皇の代に伝来した仏教や蘇我氏の台頭は、前方後円墳を中心とする支配体制に大きな変化をもたらしました。その点を、考古学者の白石は以下のように指摘しています。
3世紀後半以来部族同盟的な連合政権としての初期ヤマト政権ないしヤマト政権を構成する各地の豪族層の同盟のシソボルであり,その政治秩序の維持に一定の役割をはたした前方後円墳と,大王家も諸豪族もそろって決別したものである。これは前方後円墳に代表される古墳が,もはやヤマト政権の連合秩序の維持に機能をはたさなくなったことを示すものとして,確かに古墳の終末の一つのメルクマールになる現象であった。それはおそらくこの段階では開明的な立場をとっていた蘇我氏の主導のもとになされたものであろう。6白石太一郎「畿内における古墳の終末」『国立歴史民俗博物館研究報告』第1集(国立歴史民俗博物館)119頁
最後の巨大前方後円墳である奈良県五条野丸山古墳(筆者撮影)
その後、推古天皇・厩戸王・蘇我馬子による改革、中大兄皇子らによる大化の改新、天武天皇による飛鳥浄御原令の制定、文武天皇の時代の大宝律令公布を経て、「天皇」の呼び名と律令国家体制が誕生します。
律令制を築いた天武・持統天皇のお墓=野口王墓古墳の遠景(筆者撮影)
律令国家の範囲(筆者作成)
- 「大和朝廷」「ヤマト政権」の歴史については、「①『記紀』神話からの解釈」「②東アジア各国の文献史料」「③考古学的な成果」の3つの側面からの研究がある
- ヤマト政権は、前方後円墳を軸にさまざまな器物・情報を介して国内外の交流を深め、支配を拡大した
3章:大和朝廷について学べるおすすめの本
大和朝廷に関して理解を深めることはできましたか?
以下の書物は、あなたの学びを深めるためのオススメ本です。ぜひ参考にしてください。
オススメ度★★★ 白石太一郎『古墳とヤマト政権 古代国家はいかに形成されたか』(文春新書)
考古学者である白石太一郎が、自身の考古学的な見地からヤマト政権の成立・展開についてまとめた著書です。時代・内容ともに幅広く扱っています。
オススメ度★★ 武光誠『古墳解読 古代史の謎に迫る』(河出書房新社)
こちらは古代史学者の武光誠が文献史学・考古学の成果を併せて広く古墳時代の政治権力についてまとめた一冊です。考古学をベースにした①の著書との読み比べが面白いかもしれません。
一部の書籍は「耳で読む」こともできます。通勤・通学中の時間も勉強に使えるようになるため、おすすめです。
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まとめ
最後にこの記事の内容をまとめます。
- 大和朝廷とは、古墳時代の畿内地域(現在の奈良県・大阪府・京都府・兵庫県など)に存在した当時の日本=倭国の中心的な政治権力を指す
- 「大和朝廷」「ヤマト政権」の歴史については、「①『記紀』神話からの解釈」「②東アジア各国の文献史料」「③考古学的な成果」の3つの側面からの研究がある
このサイトは人文社会科学系学問をより多くの人が学び、楽しみ、支えるようになることを目指して運営している学術メディアです。
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