大学の歴史は、ヨーロッパの12世紀ルネサンスの中から組合的な組織として生まれ、次に19世紀ドイツの近代的大学として成立し、それを基盤にして「大学院」「研究大学」といった形に発展してきたものです。
特に、現代の大学の直接の起源と言われるのが、19世紀ドイツに生まれた近代国家建設と付随して生まれた大学です。さらに日本の場合は、幕末から明治にかけての近代化を目的として、西洋の知識の翻訳やエリート養成のために大学が誕生しました。
現在の大学は、複雑化・多様化する社会の変化の中で、いかなる教育・研究をなす場であるべきか激しく議論されています。特に90年代以降、教養教育を骨抜き化してしまったことは問題です。
こうした現代の問題を理解するためにも、大学の歴史を知ることはとても大事です。
そこでこの記事では、
- ヨーロッパにおける大学の歴史
- 日本における大学の歴史
について詳しく解説します。
各ポイントにおいておすすめ書籍も紹介していますので、参考にしながら読んでみてください。
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1章:ヨーロッパの大学の歴史
それではさっそく大学の歴史について説明していきます。
大学が誕生したのはヨーロッパ世界ですので、まずはヨーロッパにおける大学の歴史を説明し、それを踏まえて2章で日本の大学の歴史について解説します。
このサイトでは複数の文献を参照して、記事を執筆しています。参照・引用箇所は注1ここに参照情報を入れますを入れていますので、クリックして参考にしてください。
先に、ヨーロッパの大学の歴史の要点を説明します。
- 古代ギリシャの学問はアラビア世界に移行し保存された
- 中世に入るとそのイスラム世界から、再びヨーロッパに古代ギリシャの学問が流れ、それをラテン語に翻訳する運動が行われる中で大学が誕生した
- ただし、中世の終わりごろから学問の中心は大学よりもアカデミー(学会)などに移行し、大学は古い存在となり学問の最先端を学べる場ではなくなった
- しかし、19世紀初頭のドイツにおいて、近代国家の成立と関連して注目されるようになり、学問の最先端を実践する場として現代の大学に繋がるものとして再び現れた
- さらに、その後高等教育の中心はアメリカに移行し、アメリカでははじめて「大学院」が設立され、現代にいたる
こうした歴史は、すでに多くの研究者によって明らかにされているものです。
そこでこの記事では、吉見俊哉『大学とは何か』(岩波新書)、中山茂『パラダイムと科学革命の歴史』(講談社学術文庫)、隠岐さや香『文系と理系はなぜ分かれたのか』(星海社)などの書籍を参考に、上記の流れをもう少し詳しく説明していきます。
1-1:中世大学の誕生
中世の大学は、12世紀ルネサンスと言われる古典古代学問を復興させようとする動きの中から生まれました。
1-1-1:12世紀ルネサンスと大学の誕生
そもそも、学問の起源は古代ギリシャにあったと言われますが、隆盛を極めた古代ギリシャ学問は、その後イスラム世界に保存されました(この点は詳述しませんが、多くの世界史や哲学史、学問史のテキストで解説されています)。
イスラム世界に保存された学問は、その後再びヨーロッパの人々によって学ばれ、翻訳されるようになりました。これは当時の学問世界において非常に大きなインパクトがあった出来事で、「12世紀ルネサンス」とも言われます。
こうした時代、イスラム世界の古代ギリシャ・ローマの知識を学ぶ中で結成された「組合」組織が大学の起源となったのです。
こうして生まれたのが、ボローニャ大学(1158年設立)やパリ大学(1231年)です。この後、多くの大学がヨーロッパで生まれましたが、それらはボローニャ大学やパリ大学をモデルとしました。
実は大学の起源とされるヨーロッパ中世の大学以前に、11世紀後半頃、イスラム世界で発展した「マドラサ」という教育機関がありました。マドラサは中世大学との類似点が多く見られることから、中世初期の大学の前身であったという議論もあります2中山茂『パラダイムと科学革命の歴史』(講談社学術文庫)99-103頁。
この時代に大学が生まれたのは、
- 商業の発展によって都市が発達し、一部の都市が自治権を獲得してある程度権力から自由になったこと
- 都市と都市の間を行き来する人々が増えたこと
- 11世紀後半から、ボローニャには著名な法学者から学ぼうとする人々が集まっていたこと
- ヨーロッパ社会、文化が広くキリスト教によって組織化されたこと
- 十字軍の遠征によってイスラム世界との交流が急拡大したこと
といった複数の要因が重なったためです。
注意が必要なのは、この時代は、大学とは言っても大きなキャンパスを持ち、教授に教えを受ける生徒がたくさん集まっていたようなものではなかったということです。教師と生徒は家族的な関係を持ち、やがて直接の契約関係となって移動しながら学ぶ組合的組織だったのです。
中山茂によると、ヨーロッパの大学は移動しながら学ぶことで、さまざまな価値に触れ、多様なものを「統一的に総合把握しようとする意志3中山 前掲書、110頁」が働いたために、一般化・抽象化に向かう学問的伝統が生まれたと考えられると言います。
1-1-2:初期の大学の学部構成
この時代(12世紀ごろ)の初期の大学では、下記のように早くも「リベラルアーツ」的な学部と専門学部が分かれていました。
■初期の大学の学部
- 上級学部:神学、医学、法学
- 下級学部:文法、修辞学、論理学の「三学(trivium)」と算術、幾何学、天文学、音楽の「四科(quadrivium)」
この「下級学部」の科目は7科目を合わせて「自由七科」もしくは「七自由学芸(seven liberal arts)」と言われましたと言われました4安酸敏眞『人文学概論 増補改訂版』222頁)。
この「自由七科」は、中世の教養教育の中核となっていき、現代の私たちも知っている「教養の重視」という伝統に繋がっているのです。
教養の考え方は、実は古代ギリシャの伝統です。そこにその後「円環(エンキュロス)」という概念がくっついて、七つの科目がすべて繋がって一つの教養を作る、といった意味になりました。
自由七科は教科書化されて中世に伝わり、それが中世の教養教育となっていったのでした。
15世紀に入ると、キリスト教的な世界観から脱し古典古代の文化(ギリシャ・ローマの文化)を復興させようとする「ルネサンス」がヨーロッパ世界を変化させましたが、そのルネサンスは「人文主義」という思想的特徴を持っていました。
ルネサンス期の人文主義は、
- キリスト教的な世界観に対する人間中心主義
- 抽象的な神学、スコラ哲学やそのベースにあったアリストテレス学への反発
- 人間性育成のための実践的知識の重視
という特徴を持つもので、「自由七科」の中でも「三学」を重視し、しかも抽象的な学問より実践的な知識を重視しました。
こうして、この時代に人文学(人文科学)の源流が生まれ、教養教育も人文学中心のものとして後の時代に影響していくのです。
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1-2:近代科学の誕生と大学の没落
このように、中世の大学は、自治都市の発達やイスラムからのギリシャ哲学の逆輸入の中で生まれ、やがて聖職者を中心にスコラ哲学を研究する場となりました。
1-2-1:大学の外での学問の発展
現代の常識からすると意外かもしれませんが、この時代、大学ではいわゆる「理系」の学問は重視されていなかったのです。
なぜなら、この時代、現在の「科学技術」「工学」と言えるようなものはなく、職人的技術に限られていたからです。また、医学も外科は上級の職ではなく職人的な仕事と考えられていませんでした。
しかし、
- 職人的技術や伝統に興味を持ち、彼らの仕事を研究する知識人(ガリレオ、ニュートンなど)が登場5中山、前掲書125頁
- 16世紀以降、コペルニクスの地動説やガリレオの天文学的発見などが起こった
- この時代、ようやく自然は数学によって解明できる、という観念が広まった
といった出来事から、ようやく自然科学を中心とした近代科学が展開していきます。
とはいえ、こうした自然科学系の分野は、大学では研究・勉強することができませんでした。まだまだ大学はキリスト教の影響が強く神学や哲学を中心的に行う場であり、逆に自然科学的な観察、実験を伴う研究は職人的領域で、大学とは関連のないことと考える観念があったからです6中山 前掲書など。
そして、この時代、自然科学を中心とした新しい学問的研究の場が、大学の外に形成されていったのです。具体的には、アカデミー(学会)と雑誌論文、学会誌がその中心となりました7中山 前掲書 第4章など。
- アカデミー(学会)
フランスの「アカデミー・フランセーズ」(1635年設立)、ロンドンの「ロイヤル・ソサエティ」(1662年設立)を中心に、実験、観察、数学の活用といった自然科学系の学会が生まれ、制度化された - 雑誌
グーテンベルク以降の印刷技術の革命によって、高速かつ安価に出版が可能になったため、学術雑誌、雑誌論文、学会誌などが発達し、知識の交換に役立った
こうして、学問の中心は大学の外に移行し、大学や学問の周縁へと追いやられていったのがルネサンス以降の特徴です。
1-2-2:大学の第一の死
吉見俊哉は、『大学とは何か』で中世の大学はルネサンス以降に衰退した(第一の死)のであり、現代の大学の直接の起源は19世紀にドイツで誕生した形態の大学だとしています。
簡単にまとめれば、中世の大学が衰退したのは以下の理由からです。
- 大学は自由な立場で発展してきたが、14世紀ごろから神学部、法学部を中心にカトリック教会と強く結びつき、カトリック教会の人材育成機関のようになっていく。
- 大学、学問はヨーロッパ間で国家を超えた存在だった(たとえば、大学で取った学位が国教を超えて広く認められた)が、15世紀ごろから各地の君主が独自に大学を乱立させ、国家と大学が結びついていった。そのため、国家を超えた統一性が崩れていった。
- 教会と強く結びついたことで、大学のカリキュラムは時代遅れのスコラ主義的なものとなり、真剣に学ぶ学生が減少。
- 16世紀以降、大学は自治権を失い君主の官僚機構の一部となり、本来の役割を失っていった。
近代科学の登場、アカデミー(学会)や学術雑誌などへの学問の中心の移行といった出来事に加えて、上記のような出来事が起こったことで、大学は緩やかに衰退していったのです。
このころの時代背景には、宗教改革やキリスト教が深く関わります。詳しくは以下の記事で解説しています。
1-3:近代における大学の再生
現代の大学の直接の起源となったのは、19世紀初期にドイツで再発明されたフンボルト理念に立脚した大学のことです。
カール・ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(Friedrich Wilhelm Christian Karl Ferdinand Freiherr von Humboldt/1767年-1835年)は、18世紀・19世紀のドイツを代表する言語学者、政治家でした。
先に結論を言えば、フンボルトの理念は大学を「教育」と「研究」を一体化させた機関として定義したもので、講義だけでなく「ゼミナール(演習)」「ラボ(実験室)」を重視したのが特徴です8安酸 前掲書 第6章。
つまり、大学を学問研究の場として強く位置づけたのが、フンボルト理念に立脚した大学の特徴なのです。そしてこのモデルが、現代にいたるまでの大学のモデルとなったのです。
1-3-1:ドイツにおける近代的大学の誕生
「近代的」大学の誕生と言っているのは、大学の第二の誕生が近代国家建設、国民統合(ナショナリズム)の問題と深く関わっているからです。
簡単に背景を説明すると、
- 19世紀初頭、プロイセン(当時のドイツ)はナポレオンに敗北し、ナポレオンからドイツを解放、復興することを問題意識としていた
- したがって、近代国家の建設と共に人づくりをする必要から、大学改革が求められた
- フランスは啓蒙思想を引き継いだ「文明」概念を掲げたため、ドイツはそれに対抗して「文化」の概念を掲げた大学を構想した
ということです。
つまり、近代国家建設とそのための人づくり、フランスへの対抗というナショナリズムから、フンボルト的な大学が構想、設立されていったのです。
ナショナリズムについて詳しくは下記の記事で解説しています。
1-3-2:フンボルトの理念とは
では、「フンボルトの理念」とはどういうものだったのでしょう。
フンボルトの理念は下記のようなものでした。
- 大学は教育と研究を一体的に行う場であり、学生も研究に従事する
- 大学では、学問・研究による人間性の「一般陶冶」
フンボルトは1810年、上記のような時代背景から自らの理念を実現するベルリン大学を設立し、このベルリン大学が現代の多くの大学のモデルとなったのです。
安酸敏眞は著書の中で、下記のようにフンボルトの理念を説明しています。
フンボルトは、近視眼的に実用主義的効用を重視する専門学校を軽視し、専門的な職業準備教育よりも一般陶冶をめざす教育を優先した。なぜかといえば、職業はどうしても人間を特定の領域に固定するので、人間を自由にしないからである9安酸 前掲書77頁。
このフンボルトの理念は、現代の教育でも軽視されがちな視点ではないでしょうか。
フンボルトはこうした理念を実現するために、大学では学生にも研究を行わせ、探求を通じて人間性を陶冶することを目指し、そのために「ゼミ」「ラボ」を重視したのでした。
ベルリン大学の設立後、ベルリン大学をモデルにした大学が各地に設立され、さらに世界各国が近代的な大学のモデルとして参照していきました。
1-4:アメリカにおける大学院の設立
フンボルト的な大学は、「教育と研究の一体化」を理念としたものでした。しかし、その後教育と研究は、アメリカにおいて分離します。それが「大学院」という制度の誕生です。
現代では、世界トップクラスの大学が数多く存在するアメリカですが、19世紀までのアメリカの大学は、ヨーロッパのモデルに従った保守的なものでした。そして、ヨーロッパ、特にドイツの大学に遅れているという認識があったため、様々な大学改革が試みられました。
そんな中、1876年にジョンズ・ホプキンズ大学で大学の上に研究を目的とした教育機関として「大学院(Graduate School)」が設置されます。これが世界初の大学院です。
そして、大学院の設立によって教育と研究は分離され、研究に重きを置いた「研究大学(Research university)」が誕生しました。
研究大学が成立したことで、世界の大学はこぞって研究の成果を競うようになりそれが近現代世界における様々な学術的成果を生み出したことは間違いありません。
一方で、人間性の陶冶を目的とした「教養教育」や、短期的成果を出しにくい文系(特に人文学系)学問は、軽視されるようになっていったのです。
文系、理系が区別されるようになり、文系が軽視されるようになった歴史にはさまざまな要素が関わります。しかし、その理由の一つが研究大学の設立であったことは間違いなさそうです。
文系軽視の潮流については、吉見『「文系学部廃止」の衝撃』に詳しいです。
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ここまで大学の歴史についてヨーロッパを中心に解説してきました。
こうしたヨーロッパの動きは、明治維新以降、近代国家の建設に向かった日本にも大きな影響を与えました。次の章では、日本における大学の歴史を解説します。
まずはヨーロッパの大学の歴史についてまとめます。
- 中世初期、12世紀ルネサンスの中で教師と生徒の組合的組織として大学が誕生
- 中世大学はカトリック教会と結びつきすぎたこと、知の中心が大学の外(アカデミー、雑誌)に築かれていったことにより衰退
- 19世紀ドイツは、フランスへの対抗から大学と研究を一致させ、研究を通じて学生を「一般陶冶」する大学を設立し、それがその後の世界の大学のモデルとなった
2章:日本の大学の歴史
日本の大学の歴史の要点を先にまとめます。
■日本の大学の歴史
- 近代国家建設のための人材育成機関の中から生まれた
- 設立されたさまざまな高等教育機関が、帝国大学として統合された
- 帝国大学以外にも存在した教育機関が、戦後占領期に大学として統合、私立大学は急増
- 「大綱化」「国立大学法人化」などの改革で、大学院生が急増、教養教育が骨抜きになる、などの問題が生まれた
明治期における帝国大学の誕生から説明します。
2-1:明治における帝国大学の誕生
日本においても、大学が誕生したのは近代国家建設と強く関わっていました。
日本は幕末から欧米列強を脅威に感じたことから、列強に対抗するための「文明開化」「富国強兵」を目指して、近代国家建設をしていくことになります。しかし、日本は欧米列強に対し、軍事力や工業技術など様々な面で劣っていました。
そのため、日本では近代化のために西洋の知識を吸収することがまず第一に考えられた10隠岐 前掲書 91頁などのです。
2-1-1:西洋知識の輸入のための機関の設立
すでに18世紀ごろから蘭学、洋楽が様々な層の人々によって広く学ばれていました。しかし、それが近代国家建設という目的のために、積極的に学ばれるようになったのが幕末だったのです。
こうした背景から西洋の知識を翻訳するために設立されたのが、
- 西洋の知識を翻訳する「蕃書調所」(1856年設立)
- 化学の研究を行う「精錬方」(1860年設立)
といった機関です。これらは、その後東京大学になっていきました。
また、他にも「適塾」「五月塾」といった蘭学を学ぶ私塾が複数開かれ、私塾の一部は後に私立大学に繋がりました。
加えて、この時期の学問の特徴として、近代化のために実用的な科学技術、化学、物理といったいわゆる「理系」的な学問が積極的に学ばれたことも重要な点です。
「蕃書調所」や「精錬方」が東京大学の前身となったことには触れましたが、その後、様々な教育機関が設立され、変化しながら東京大学が1877年に設立されます。
この東大設立の経緯はやや複雑なので、詳しくは吉見俊哉の『大学とは何か』をご覧ください。
ここではとりあえず、東京大学の設立によってますます西洋の知識が学習されていったことを知っておいてください。
2-1-2:工業系教育の重視
明治の時代、実は学問の中心は東京大学だけではありませんでした。日本の高等教育は、明治政府の官僚や軍部が人材育成を目的に設立した、官立専門学校でもあったのです。つまり、政府がエリート人材を育てるために、各省庁や軍が学校を作っていたのです。
それが、後の北海道大学である「札幌農学校」、東京大学工学部になる「工部大学校」などです。
特に「工部大学校」では、イギリスから大きな影響を受けて実学的な工業教育が行われました。これが、日本の実学・工業系重視の傾向を作る一つの要素となりました。
2-1-3:帝国大学の誕生
日本初期の高等教育は、前述のように東京大学が中心だったわけではなく、官立専門学校も高いレベルを持っていました。そのため、現代のように大学が学問の中心だったわけではありません。
しかし、1886年に「帝国大学令」が出され、
- 東京大学が帝国大学になる
- 官立専門学校が帝国大学に統合される
- 国家のエリート育成機関として帝国大学が位置づけられた
という大変化が起きます。つまり、政府による上からの改革によって、大学が学問の中心に位置づけられ、「国家のための大学」になったのでした。
さらに、1897年には京都帝国大学、1907年に東北帝国大学、1911年には九州帝国大学が設立されました。これらも、もともとあった様々な教育機関を統合して作られたものでした。
さらに吉見俊哉『大学とは何か』では、この時期帝国大学では下記のような変化があったと記載されています。
明治中期以降の帝国大学では、その中心部(東京帝大)では法科系ゼネラリストへの重心移動が起きており、その周縁部の地方帝大では理工系テクノクラートの養成システムが発達し、植民地の帝大はその両方の要素を併せ持つという重層的な故魚頭が形成されていたのである。もちろんこれは、帝国自身が、中心部からは社会の「管理」を、その周縁部では社会の「開発」を、植民地ではその両方を必要としていた構造に対応するものであった11吉見、前掲書150頁。(太字は筆者による)
2-2:戦後日本の大学
明治期から昭和初期にかけて、特に私立の大学や大学外での学術動向にも様々な興味深い論点があるのですが、ここでは割愛し、国立大学の流れに論点を絞って説明します。
2-2-1:高等教育機関の大学への統合
話を太平洋戦争での敗戦後に進めると、日本は占領期に再び大きな大学改革を行いました。戦前は、「帝国大学」以外にも「大学」「師範学校」「専門学校」「旧制高校」など多様な教育機関があったのですが、こうした高等教育を「大学」に統合したのが、戦後改革の要点です。
この改革によって、
- 国立大学は統合されて縮小(全国で70大学に)
- 私立の専門学校は大学に昇格し、数の上では私立大学が多数に
- 私立大学の設立が規制緩和され設立しやすくなった
といった変化が起こりました。
こうして、戦後、高度経済成長と共に私立大学が急激に増加していき、増加する学生の大半を私立大学が吸収していきました。こうして大学進学率は急上昇し、「大学全入時代」とすら言われるようになり、現在に至ります。
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2-2-2:大学設置基準の大綱化
その後も大学をめぐる改革にはさまざまなものがありました。しかし、その中でも現在の大学をめぐる議論に大きく関わってくるのが、「大学設置基準の大綱化」です。
大学設置基準の大綱化とは、文部省によって行われた、1991年に行われた大学の設置基準の改正のことです。
この改正は下記のようなことを引き起こしました。
- 改正前まで、大学では自然科学、社会科学、人文科学のの各12単位、合計36単位の履修が義務だったが、この義務がなくなった
- したがって、一般教養教育が重視されなくなり、大学では研究が重視されるようになった
- さらに大学院生の数が急激し、一方で大学のポストは増えなかったため「高学歴ワーキングプア」問題の要因となった
「大綱化」の影響としてよく言われるのが、一般教養教育が骨抜きになってしまったということです。
短期的に役立つ教育(例えばプログラミング、AI、会計、経営など)を重視する近年の風潮からすれば「教養教育なんて必要ないのでは?」と思われるかもしれません。しかし、教養教育には、学生に自ら考えさせる力を付ける、自らの専門を広い学問領域の中に位置づける、自分の専門分野を相対化してとらえる、といった様々なメリットがありました。
その教養教育を骨抜きにしたことは、長い目で見ると学力を低下させることに繋がる可能性があるのです。
現在の教養教育について危惧する専門家は多く、様々な著書でその問題が指摘されています。以下の本では、各分野の多くの専門家が教養教育の問題を論じています。
2-2-3:国立大学法人化
さらにその後、小泉政権下で2004年、国立大学が法人化しました。これは2001年ごろから政権内で議論・構想されていたものなのですが、結論から言うと、国立大学の法人化によって国立大学はより競争的な環境にさらされることになりました。
吉見俊哉は、この国立大学の法人化は新自由主義的政策の一環だったと説明しています。
国立大学の法人化によって、下記のようなことが起こりました。
- 国立大学法人の基盤的予算が「運営費交付金」のみにされ、交付金が毎年1%減額されていくこととなった
- つまり、各学部・研究科は定員を削減し続けなければならなくなった
- その結果、大学院生の増加や文系軽視、理系重視といった傾向が生まれた
文系の軽視、理系の重視という問題は、2015年には「文系学部廃止」という大きく報道される議論にも発展しました。以下の本では、とても分かりやすく「文系学部廃止」の議論について解き明かされていますので、ぜひ読んでみてください。
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日本の大学の歴史について、まとめます。
- 近代国家建設のための人材育成機関の中から生まれた
- 設立されたさまざまな高等教育機関が、帝国大学として統合された
- 帝国大学以外にも存在した教育機関が、戦後占領期に大学として統合、私立大学は急増
- 「大綱化」「国立大学法人化」などの改革で、大学院生が急増、教養教育が骨抜きになる、などの問題が生まれた
3章:大学の歴史が学べるおすすめ本
大学の歴史の要点が理解できたでしょうか。
冒頭でも説明したように、大学の歴史を理解することは、現代の大学を取り巻く「教育」「研究」の問題を考えるきっかけになります。そのため、下記に紹介している本を読んでみることをおすすめします。
吉見俊哉『大学とは何か』(岩波新書)
この本は、社会学者の吉見俊哉が大学の歴史や意義について分かりやすく解説しているとてもいい本です。1冊だけ読むのなら、この本をおすすめします。
隠岐さや香『文系と理系はなぜ分かれたのか』(星海社)
この本も初心者向けですが、特に「文系」「理系」という区分を軸に歴史や「産業」「ジェンダー」といった広い論点を取り上げている特徴があります。これもとてもいい本です。
一部の書籍は「耳で読む」こともできます。通勤・通学中の時間も勉強に使えるようになるため、おすすめです。
最初の1冊は無料でもらえますので、まずは1度試してみてください。
また、書籍を電子版で読むこともオススメします。
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まとめ
最後にこの記事の内容をまとめます。
- 大学の起源は12世紀ルネサンスにあるが、現代の大学に直接つながるのは19世紀ドイツで生まれた、フンボルトの理念に立脚する大学
- 日本では、大学は西洋の知識を吸収すること、官僚・エリートを育成することを目的にはじめて設立された
- 戦後、大学設立の規制緩和によって私立大学が急増、大学院生も急増し、高学歴ワーキングプアなどの社会問題を生み出した
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