清教徒革命(ピューリタン革命/Puritan Revolution)とは、チャールズ1世の絶対王政を倒し、クロムウェルによって共和政が樹立されたイングランドにおける革命のことです。
名誉革命と合わせて「イギリス革命」と言われることもあり、イギリス史だけでなく政治史としてもとても大きな出来事です。
そこでこの記事では、
- 清教徒革命(ピューリタン革命)とはどのような革命だったのか
- 清教徒革命(ピューリタン革命)の原因、背景、特徴など
- 清教徒革命(ピューリタン革命)の歴史
について詳しく説明していきます。
関心のあるところから読んでみてください。
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1章:清教徒革命(ピューリタン革命)
先に結論を言えば、清教徒革命(ピューリタン革命)は、
- ステュアート朝のチャールズ1世の専制政治により、国内の清教徒(ピューリタン)やスコットランド、アイルランドに反対勢力が発展
- チャールズ1世率いる国王軍と独立派の議会軍が対立し、クロムウェルが騎馬隊を率いて勝利
- クロムウェルが共和政を樹立し、改革で王権を制限し、護国卿として軍事独裁的政治を行った
という出来事でした。
このサイトでは複数の文献を参照して、記事を執筆しています。参照・引用箇所は注1ここに参照情報を入れますを入れていますので、クリックして参考にしてください。
1-1:清教徒(ピューリタン)とは
まずは言葉の意味から押さえておきましょう。清教徒(ピューリタン)とは、イングランド国教会の改革を唱えたプロテスタントのことです。プロテスタントとはローマカトリック教会の改革を唱え宗教改革を主導したキリスト教徒の勢力のことです。
プロテスタントはローマカトリック教会に対して下記のような主張をしている点に特徴があります。
- 『聖書』至上主義
→カトリック教会の教義や解釈より『聖書』に書いてあることを信じよう - 全信徒の祭司性
→聖職者だけでなく、誰もが祭司として『聖書』を解釈できる - 信仰義認説
→教会が命じるようなたくさんの宗教儀式は必要なく、必要なのはただ信じること
宗教改革はイングランドにも影響を及ぼし、イングランドではイングランド国教会がカトリック教会から独立する形で独自の体制を築きました。
しかし、もともとイングランド国教会はカトリック教会を改革し、『聖書』の教義に忠実であろうとする勢力ですので、イングランド国教会の体制も改善しようとする派閥も生まれます。
そして、イングランド国教会内には、
- 長老派:イングランド国教会から分離せず教会を改革しよう
- バプテスト、分離派など:国教会から分離して新たな宗派を作ろう
- 独立派:長老派、バプテストの中間
という勢力が生まれ、それぞれがさまざまな宗教問題で対立することになります2小笠原弘親ら著『政治思想史』157-159頁。
こうしたイングランド国教会の改革を唱えた者たちのことを、清教徒(ピューリタン)と言います。彼らは、イングランド国教会を重視する国王から弾圧されたことから、それに反発し清教徒革命の担い手となっていったのです。
1-2:清教徒革命と名誉革命の違い
清教徒革命の後には名誉革命が起こり、この2つの革命を合わせてイギリス革命と言うこともあります。
それぞれ以下のような違いがあります。
清教徒革命 | 名誉革命 | |
時代 | 1642-1649年 | 1688-1689年 |
原因 | チャールズ1世の専制政治、非イングランド国教会の教徒の弾圧、スコットランド、アイルランドへの弾圧 | ジェームズ2世による専制政治や親カトリック政策 |
革命の主体 | チャールズ1世率いる国王軍との争いに対し、議会の独立派を主導したクロムウェル | 議会の一部とオランダ総督ウィレム(後のウィリアム3世) |
意義 | 絶対王政を倒し共和政を樹立した | ジェームズの王政を倒し、ウィリアムの統治下で立憲君主制や言論の自由が保障された |
詳しくは2章で説明しますので、まずは清教徒革命(ピューリタン革命)の特徴を頭に入れておいてください。
1-3:清教徒革命(ピューリタン革命)の要約
清教徒革命(ピューリタン革命)の要点を簡単にまとめます。
- イングランド王、スコットランド王であったジェームス1世の統治に、国内の清教徒(ピューリタン)や国外にはスコットランド、アイルランドから不満を蓄積
- ジェームズ1世の息子チャールズ1世の統治はより専制的なもので、国内のピューリタンや、スコットランド、アイルランドへの弾圧を強めたため、国内外で反対勢力を生む
- スコットランドへの遠征費を議会で要求したチャールズ1世に対し、議会が反対し「長期議会」では国王の権力を制限する決定を行う
- これに反発したチャールズ1世率いる国王軍と、庶民院出身のクロムウェルが率いる独立派の議会軍が争い、クロムウェルが勝利
- クロムウェルは議会で国王に穏健な態度を取ろうとする「長老派」を逮捕し、残った議会(残部議会)と国務会議による統治「共和政」をはじめる
- クロムウェルは「護国卿」という立場に就任し、護国卿として軍事独裁的な統治(護国卿体制)を行うようになる
清教徒革命(ピューリタン革命)についてポイントを押さえることはできましたか?
2章はこれから順を追って解説していきますので、まずはここまでをまとめます。
- 清教徒革命(ピューリタン革命)とは、17世紀のイングランドで起こった絶対王政を倒して共和政を樹立した革命のこと
- 清教徒(ピューリタン)とは、イングランド国教会の改革を唱えた人々で、国王から弾圧されたことで革命の担い手になっていった
2章:清教徒革命(ピューリタン革命)の歴史
歴史を理解する上では、まずは全体像を知ることが大事です。そこでこれから、清教徒革命(ピューリタン革命)の歴史について、要点に絞って解説していきます。
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2-1:哲人王ジェームズ1世(6世)による合併の野望
ジェームズ1世(Charles James Stuart/1566-1625年)は、1603年から1625年までイングランド王として在位したステュアート朝の君主です。
同時代の多くの君主と同じように、王権神授説を信奉し強い権力をふるいました。
2-1-1:ジェームズ1世の合併への思い
もともとスコットランド王であったジェームズ6世は、エリザベス女王の死去によってジェームズ1世としてイングランド王にも同時に即位しました。議会は別でありながら、イングランドとスコットランドの両国の君主となったことから、二国の状態を「同君連合」と言います。
ジェームズ1世は、イングランド、スコットランド、アイルランドの3つの王国を政治的に統一し、言語や法律、議会、教会もすべて一つにしたい、という大きなビジョンを持っていました。
当時のブリテン諸島(現在のイギリス)は、民族、文化、宗教などが入り乱れた状態で、まったく独立している国家同士でも、統一された国家でもない状態でした。そのため、ジェームズ1世はブリテンを政治的に統一しようと考えたのです。
2-1-2:国内外で生まれた反対勢力
3国統一のために、ジェームズ1世はアイルランド北部に、イングランド、スコットランドのプロテスタントを入植させました。
しかし、これはアイルランド北部に住んでいた人々から土地を取り上げる行為であったため、強い反発を受けることになりました。
また、国内でも、
- ピューリタン(清教徒)…ピューリタンは国教会の改革を求めたものの、ジェームズ1世は国教会体制を堅持することを主張したため国王と対立
- ジェントリ(下層地主階級)…ジェントリは議会の庶民院に選出されることが多く、無給で治安判事を務めるなど、イギリスの統治において重要な役割を果たしていたものの、ジェームズ1世はそのジェントリの立場を軽視したため不満を持った
- ジェントリやヨーマン(自営農民)…イギリス産業の不況時に、国王が特定の産業や特権商人を保護するのみで、積極的に改革を行わなかったことに不満
というように、政治的・宗教的に、国内外に多くの反対勢力を生むことになりました。
2-2:チャールズ1世による統治
こうした国内外での反発は、ジェームズ1世の死去後に即位した、息子のチャールズ1世(Charles I)によってさらに強められることになりました。
チャールズ1世も、王権神授説を信奉し、議会を軽視して以下のような政策を行いました。
- 国王の行動に対して、議会が「権利の請願」を提出するも、議会を解散し11年間議会を開催せず専制政治を行った
- 側近をスコットランドやアイルランドにも強い支配をしたことから、スコットランド、アイルランドからの反発も招いた
- 財政難解決のために、関税強化、騎士強制金を新設、船舶税の拡大などを実施し、議会や庶民に強い反発心を生んだ
- ピューリタンを弾圧し、イングランド国教会を重視した政策を実施3君塚直隆『物語イギリスの歴史』11-16頁
こういった国王大権は国内外の不満を蓄積していきます。
2-2-1:スコットランドの反発
チャールズ1世はスコットランドの王にも即位していました。
スコットランドは、宗教改革でカルヴァン派の長老派の教会が体制となっていましたが、チャールズ1世はここにイングランド国教会のやり方を押し付けました。その結果、スコットランドではイングランドに対する反発を強めていきます。
2-2-2:アイルランドの反発
アイルランドでは、チャールズ1世の側近ウェントワース(Thomas Wentworth)が専制的な政治を行いました。議会はウェントワースの政治に強く反発し、ウェントワースはそれをきっかけに処刑されました。
アイルランドでは、入植政策で土地を奪われた人々が強い怒りを持っていたことから、カトリックへの信仰を強める「カトリック同盟」が結成され、その後アイルランドは自立への道を歩みます。
このようにして、英国王への不満、怒りが国内外で蓄積され、ピューリタン革命(清教徒革命)の準備が整っていったのです。
2-3:清教徒革命(ピューリタン革命)の勃発
清教徒革命(ピューリタン革命)の直接のきっかけになったのは、スコットランドへの遠征費を国王が議会で承認を求めたことでした。
2-3-1:短期議会
スコットランドへの英国教会的な信条、儀礼、制度の押し付けによって、エディンバラで暴動が起きたため、チャールズ1世は11年ぶりに議会を招集し、遠征費の支出を議会に要望しました。
しかし、議会、特に庶民院はチャールズ1世の専制政治によって不満を持っていたため、このような要求に応じるはずがありません。
そのため、チャールズ1世は議会をわずか3週間で解散しました。
これを「短期議会」と言います。
2-3-2:長期議会
スコットランドの進軍からチャールズ1世はスコットランドに停戦を持ちかけました。
停戦には5万ポンドの賠償金が必要だったため、チャールズ1世は再び議会を開いて賠償金の支出を求めました。この議会は1640年から1653年まで開かれたため「長期議会」と言われます。
長期議会では、
- チャールズ1世の側近として専制政治を主導した、ウェントワースとロードの弾劾
- 議会の同意のない課税の廃止
- 少なくとも3年に1度ずつ、1会期が50日以上の議会を開催する
- 了承のない議会の解散の禁止
といった国王の権限を削ぐ法が制定されていきましたが、これに反発したチャールズ1世は庶民院の改革派の議員を逮捕しようとしました。
ここに、イングランド国内は「国王派」と「議会派」に分裂し、内戦状態になってしまいます。
こうしたきっかけで起こった革命を、議会側の指導者には清教徒(ピューリタン)が多かったことから、「清教徒革命(ピューリタン革命)」と言われます。
2-3-3:チャールズ1世の処刑
こうして国王軍VS議会軍の内戦が勃発しましたが、
- 当初は国王軍優勢で、オックスフォードに独自の議会を開いた
- 議会軍はスコットランドの契約派(スコットランドの長老派の教会体制を3国に広めようとする勢力)と連携し「長老派」と呼ばれた勢力になり、国王軍と妥協しようとした
- 独立教会主義者たち(独立派)は、国王軍や長老派に反発して徹底抗戦の姿勢を取った
というように国王軍と議会軍、議会側はさらに妥協派(長老派)と抗戦派(独立派)に分かれて勢力争いしました。
独立派からは、庶民院の議員のオリヴァー・クロムウェル(Oliver Cromwell)が鉄騎隊を編成し、国王軍に勝利。その後チャールズ1世の手引きによるスコットランド軍の侵攻にも勝利しました。
議会では、チャールズ1世の責任追及に穏健な長老派と、責任追及を望む独立派が対立しましたが、独立派は議会で長老派を逮捕(プライドのパージ)します。
そして、チャールズ1世はウェストミンスター・ホールでの裁判で死刑判決を受け、処刑されました。この時、議会には独立派の議員のみしか所属していなかったため、「残部議会」と言います。
イングランドの歴史上、初の国王の処刑です。こうして、クロムウェルは英雄としてその後の統治を主導していくことになります。
2-4:クロムウェルによる共和政
チャールズ1世の処刑により、残部議会はこれまでの統治体制を廃止し、新たな「共和政」を成立させました。
2-4-1:共和政による国内外の政策
共和政と言うのは、君主による統治ではなく人民によって統治される政体のことです。
イングランドは国王による支配から共和政に転換したため、これが革命と言われたのです。
【残部議会による決定】
- 王政と貴族院の廃止
→17世紀から続いてきた三位一体(国王、貴族院、庶民院)の統治を廃止 - 共和政宣言
→残部議会と国務会議が新たな統治機構となる
さらに、国外に対してはアイルランドとスコットランドの植民地化・合併を進めました。
これは、イングランドで国王が倒されたことから、アイルランドとスコットランドが国王チャールズの長男を「チャールズ2世」として国王として認めようとしたため、その動きをクロムウェルが抑えようとしたためです。
アイルランドは植民地化され、スコットランドはイングランドとの戦争に負け、イングランドに合併されました。
2-4-2:クロムウェルによる護国卿体制
スコットランド合併の後、クロムウェルは「護国卿」になり、国王のような権力を持って国内を統治しました。
このような権力を握ることができたのは、もちろん革命以降のさまざまな実績にもよりましたが、国内の政治的混乱を収めたからでもありました。
簡単に説明します。
クロムウェルがスコットランドに勝利した後、イングランドに帰ると、国内の政治は混乱していました。
【国内の混乱】
- 残部議会…選挙を先延ばしにして議員としての地位を保持
- 軍部…千年王国思想が広がる
そこでクロムウェルは残部議会を軍事力で解散させ、「指名議会」という新たな議会を作り、指名議会と国務会議が国内を統治することにしました。
指名議会は軍事評議会の推薦によるものでしたから、クロムウェルはより大きな影響力を持つことができました。
さらに、クロムウェルは「統治章典」というイングランド初の成典憲法を作り、自らを三国の行政・治安のトップであると憲法で規定しました。
この立場を「護国卿」と言い、クロムウェルが護国卿という立場から行った政治を護国卿体制と言います。
2-4-3:クロムウェルの死
護国卿体制では、初期は定例で議会を行い、200ポンド以上の資産を持つ男子に選挙権が付与されるなどの民主主義的政策が行われましたが、徐々に独裁的になっていきました。
具体的には、
- 全国に軍政官を配置し軍事的な支配を強める
- 議会から王位を提示されるも、権力を縛られることを嫌い拒否
- 議会の権力を抑制するために、「第二院」を作り多くの自分の友人を議員にした
といったことを行ったのです。
しかし、クロムウェルはこうした強い権力を持ったまま他界し、護国卿体制は突然終わりを遂げました。
ここまででいったん、清教徒革命(ピューリタン革命)を終えますが、これと連続して起こった出来事から名誉革命が繋がっていきます。
清教徒革命についてまとめます。
- ジェームズ1世、チャールズ1世の専制政治が、議会や国内の清教徒(ピューリタン)、スコットランドやアイルランドの不満を蓄積させた
- チャールズ1世による遠征費の要求が議会との対立を決定的なものにし、庶民院出身のクロムウェルによってチャールズ1世が処刑される
- クロムウェルは王政ではなく「共和政」を樹立し、護国卿としてイングランドを統治するも、徐々に軍事独裁的になっていった
3章:清教徒革命(ピューリタン革命)の学び方・オススメ書籍
清教徒革命(ピューリタン革命)について理解を深めることができましたか?
清教徒革命(ピューリタン革命)は、イギリス史を理解する上でも、政治史を理解する上でもとても重要な出来事ですが、この記事では大まかな流れしか紹介できていません。
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岩井淳『ピューリタン革命と複合国家』(山川出版社)
清教徒革命の一部のみを理解したいなら、薄くて読みやすいこちらのブックレットをおすすめします。イギリス史をある程度知っている方におすすめです。
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まとめ
この記事の内容をまとめます。
- 清教徒革命(ピューリタン革命)は、ジェームズ1世やチャールズ1世の専制政治によって国内外に反対勢力が生まれたこと、中産階級が台頭していたこと、イングランド国教会とその他の宗派の対立などが原因
- 清教徒革命では、クロムウェルが軍を率いて絶対王政を倒し、共和政を樹立した革命
- クロムウェルは共和政樹立後に「護国卿」になり、軍事独裁的な政治を行った
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