縄文農耕論とは、縄文時代の人々が植物栽培・農耕を行っていたとする議論を指します。
縄文時代については、近年まで歴史の教科書などでも「縄文時代は狩猟・採集の時代、その次の弥生時代は農耕(特に稲作)の時代」とされていました。
たしかに、縄文時代の主な食糧源は野生動物・魚介類・野生植物です。その点から、主食である「米」を栽培する水田稲作が開始された弥生時代と大きく区別されます。したがって、これまでは日本で農業・農耕が始まった時代といえば弥生時代のことでした。
しかしながら、近年新たに科学的な成果を用いた画期的な研究が次々と行われたことで、「縄文時代にも農耕と呼べるほどの高度な植物利用があった」との実態が浮かび上がりつつあります。場合によっては、栽培植物を主食としていた縄文人の存在すら想定されています。
そこで、この記事では、
- 縄文時代観を変えた画期的な研究手法
- 縄文時代の人々による植物利用の具体像
- 弥生時代以降の農耕との違い
について解説します。
好きな箇所から読み進めてください。
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1章:縄文農耕論とは
1章では、「縄文農耕論」について、これまでの定説や歴史用語の意味合いの変化、そして「縄文農耕論」の新たな証拠となった最新の研究動向をみていきます。2章以降でその具体像について解説しますので、用途に沿って読み進めてください。
このサイトでは複数の文献を参照して、記事を執筆しています。参照・引用箇所は注1ここに参照情報を入れますを入れていますので、クリックして参考にしてください。
1-1:そもそも「農耕」とは
まずは、「なぜこれまで農耕の開始期が弥生時代であるとされてきたのか」について、「農耕」「栽培」といった用語が学術の上ではどのように使われてきたかを踏まえて紹介していきます。
そもそも、日本語の辞書では「農耕」「栽培」といった言葉の意味は次のように定義されています2三省堂『大辞林』第三版より引用。
Ⅰ.「農耕」…田畑を耕すこと。
Ⅱ.「栽培」…野菜・樹木などの植物を植え育てること。
一方で、土器や建物跡などの「モノ」から歴史を探る学問である考古学の世界では、「農耕」「栽培」はより厳格な意味で用いられてきました(研究者間で見解は異なる)。
具体的には、「人間の食事の中核を担う植物類を厳格な管理の下で育てること」を指します。つまり、学術的には弥生時代以降の水田稲作のようなシステマティックな農業をもって「農耕」「栽培」とする場合がほとんどだったのです。
日本の農業といえば稲作であり、日本人の主食はお米です。定説としては、日本における農耕の開始期は大陸から稲作が伝わった弥生時代であるとされてきました。
しかし、辞書的な意味に立ち返ってみると、水田稲作のような高度な植物栽培でなくとも植物を人工的な管理の下で育ててそれを食料にする行為は「農耕」「栽培」に当てはまります。
研究者によって評価にはバラつきがあるものの、現在では縄文時代の人々が植物を管理して食料などに利用していたことがわかってきました。この点から、縄文時代の植物利用についても「農耕」「栽培」と呼べるのではないか、といった議論が続けられています。
1-2:縄文時代の農耕にかんする議論
「縄文時代に農耕は存在したのか」との基本的な問いについての議論は、すでに昭和の時代から行われています。当初の段階では、縄文時代の石器の一種である「打製石斧」の存在やその機能に注目が集まっていました。
こうした先学諸氏の研究成果を踏まえ「打製石斧」を農工具とみなすことで、縄文時代後・晩期3縄文時代(約1万6500年前~約3000年前―諸説あり)は「草創期」「早期」「前期」「中期」「後期」「晩期」に区分されます。における農耕の証明を試みた別府大学の考古学者であった故・賀川光夫は、次のように述べています4賀川光夫「縄文晩期農耕論についての覚え書」『別府大学紀要』No.18 別府大学, 15頁。
日本列島における農耕の開始を縄文時代にもとめて,その内容を整理し農耕開始の問題を提起した先学諸氏の見解は,おおむね,縄文文化の中期からはじめられた。…(中略)…そうしたなかで農耕論を考えるとき,生産具としての打製石斧の消長を主とすることだけでは内容を明らかにすることは不司能で,この問題に関する限り,筆者自身も多くの批判をうけた。
縄文時代の「打製石斧」は一般的に土を掘るための道具とされています。そこで、賀川をはじめとする縄文農耕論者は様々な状況証拠から「打製石斧は植物栽培(土を耕す営みや収穫)のため使われた道具である」と考えたのです(図1)。
(打製石斧の使用方法想像図(賀川光夫「縄文中期農耕論」『史学論叢』第29号 別府大学史学研究会 5頁より引用)
しかしながら、賀川自身も指摘しているとおり、打製石斧を農工具とみなす論には決定的な証拠が欠けています。
- 縄文農耕論を肯定する研究者たちは、縄文人が「何を」栽培していたのかについて、具体的な植物の姿を捉えられなかった
- なぜならば、植物は微生物に分解されやすく、縄文時代に栽培されたであろう植物の遺体は遺跡に残らないと考えられていたためである
一方、科学が発展した現代においては、かつては見えなかった縄文時代の栽培植物の姿が明らかになりつつあります。代表的な分析方法としては、土中に残る微細な植物遺存体5(=植物が存在した痕跡。花粉や炭化した種子、稲の葉に含まれるガラス質など)を見つけ出す手法が最も著名です。
たとえば、
- 北海道大学の考古学者であった故・吉崎昌一や東京大学の考古学者・環境学者である辻誠一郎は、縄文時代遺跡の土壌から採取した微細な植物の痕跡を特殊な方法を用いて抽出
- 顕微鏡等でその植物種を同定していく方法で縄文時代の栽培植物の具体像を分析
しました。
また、近年は縄文土器の表面に残る動植物の痕跡=「圧痕」から栽培植物を捉える研究も盛んに行われています。
熊本大学の考古学者・小畑弘己は、縄文土器の表面に植物の種子や昆虫が混入することで形成される小さな穴(=圧痕)にシリコンを流し込む方法で当時の生活の場に存在した植物の種類やその変化を明らかにしました。
「ダイズ」の圧痕が見つかった縄文土器(筆者撮影)
この方法は「圧痕法」と呼ばれ、土壌中から植物遺存体を探る方法と比べて、以下の点にメリットがあります。
- 他の時代の植物遺存体の混入を防ぐことができる点
- 土器を使うような「生活の場」に根差した植物の姿が浮かび上がる点
そのほかにも、意外な研究として、昆虫化石や昆虫の圧痕を用いた研究が挙げられます。
昆虫考古学者の森勇一は、遺跡から出土した昆虫化石を用いて古環境を分析し、当時の土地利用・植物利用の様相を次々に示してきました。また、先ほど紹介した小畑も、縄文土器に残された「コクゾウムシ」と呼ばれる昆虫の圧痕から縄文時代の植物利用の研究をさらに深めています。
このように、縄文農耕論が勃興した当初はわからなかった縄文時代の栽培植物の具体像が、現代では確固たる証拠をもって示されるようになったのです。
「栽培された植物が縄文人の食生活に占める割合は未だわかっていない」といった問題や「そもそも『農耕』『栽培』と呼んで良いのか」といった問題こそ残っているものの、もはや縄文時代における高度な植物栽培の存在は否定できません。
- 縄文農耕論とは、縄文時代の人々が植物栽培・農耕を行っていたとする議論を指す
- 縄文農耕論が勃興した当初はわからなかった縄文時代の栽培植物の具体像が、現代では確固たる証拠をもって示されるようになった
2章:縄文時代の農耕とは
縄文農耕論は、当初「①打製石斧の機能や用途」によって提唱され、現代では「②科学的な分析による具体的な植物像」によって議論が進められてきました。
このうち①については、1章で述べた通り、栽培植物の実像ひいては縄文時代の人々の生活を明らかにするには証拠が不十分であると言わざるを得ません。
その点を踏まえて、本記事では②のような科学的な分析と従来の考古学的な見地を組み合わせて解説していきます。
2-1:縄文人による「クリ」の栽培利用
縄文社会の基盤を狩猟・採集におく従来の考えでも、縄文時代の植物利用について研究が進んだ現在でも、「縄文人が木の実を積極的に利用していた」との見解は大きく変わっていません。
ただし現在では、縄文時代の人々が単に木の実を採集していたわけではなく、「森林をうまくコントロールしつつ効率的に木の実を得ていたのではないか」とする研究成果が続々と挙げられつつあります。
たとえば、縄文人による植物採集の代表例とされてきた「クリ」は、現在では縄文人が管理・栽培を行っていた植物の代表例とされる場合が多くなってきました。
(※フリー素材を使用)
そんな縄文時代のクリ林について、青森県三内丸山遺跡から出土した縄文土器と樹木花粉の年代研究を行った辻誠一郎(考古学者)・中村俊夫(物理学者)は次のように述べています6辻誠一郎・中村俊夫「縄文時代の高精度編年:三内丸山遺跡の年代測定」『第四紀研究』第40巻第6号 日本第四紀学会 482頁。
クリ属やオニグルミ属が急増する年代は, 円筒下層a式土器の年代とほぼ一致し, 三内丸 山に居住を開始したことと並行した出来事であったことがわかる. …(中略)… 少なくともクリ属が優占する植生は円筒下層式土器を通して維持されたことになる.このことから,三内丸山遺跡における人の居住とクリ林の形成と維持が, 密接な関係にあったことがわかる.
また、縄文遺跡から出土した木材の樹種同定研究を行った鈴木三男(考古学者)・能城修一(植物学者)も、縄文時代のクリ林について以下のような見解を提示しました7鈴木三男・能城修一「縄文時代の森林植生の復元と木材資源の利用」『第四紀研究』第36巻第5号 日本第四紀学会 338頁。
縄文時代の遺跡で使用されているクリの木材の量は膨大なものである. …(中略)… 果 たして, 自然林から実の優秀な木を残して,そうでないものを切り出すだけで, 日常の燃料, 竪穴住居の建築材, そして巨大建築あるいはモニュメントなどに利用でき, まかなえるだけのクリ材が供給されるだろうか. …(中略)… 自然状態でクリが継続的に大量に消費されるのを支えるほど, 再生が円滑に行われていたとは考えにくい.
これらの科学的な分析を用いた考古学研究の成果は、縄文時代の人々が「クリ」の林を人工的に形成・維持し、必要に応じて食料・木材として利用してきた可能性を強く示唆するものです。
(筆者作成)
クリの実は栄養価が高く、なおかつ長期保存にも向いていました。こうした性質から、クリが縄文人の主食の一部を担っていたとする研究者も少なくありません。
そんなクリが縄文人の手によって「栽培」されていたのだとすれば、縄文時代の農耕文化は非常に高いレベルにあったと考えられます。
2-2:縄文人による「マメの栽培化」
近年、縄文時代にはクリのような大型樹木の栽培だけでなく、現在の畑作に近い様相の植物栽培が存在した可能性もにわかに浮上してきました。そのなかでも最も注目されているのが、ダイズ・アズキといったマメ類の栽培です。
(※フリー素材を使用)
縄文時代のマメ類については、実物よりもむしろ縄文土器の表面に残された動植物の痕跡=「圧痕」によって研究が進んでいます。上述した小畑弘己(考古学者)は、縄文土器に残されたマメ圧痕のサイズが時期を経るごとに急激な増大をみせる現象を明らかにしました。小畑はこの現象を、「縄文人によるマメ類栽培の証拠」とみています8小畑弘己『タネをまく縄文人 最新科学が覆す農耕の起源』吉川弘文館 26~27頁。
種子の大型化のメカニズムは、人間が大きな種子を選んで畑(畠)の地中深くまくことで、小さな種子は発芽できなくなり、大きな種子の遺伝子だけが淘汰されて生き残っていくことで説明がつく。縄文人たちは、おそらく最初は野生のダイズやアズキを採集していたが、そのうち、その中の大きいものを選び出し、土中にまいて育て始め、そのような行為を1000年以上繰り返すことによって、種子を大きくしていったものと考えられる。
(筆者作成)
加えて、小畑は土器に残された植物圧痕の種類別の割合を分析し、縄文時代中期には中部高地(現在の山梨県・長野県の一部)で、後期・晩期には九州で、マメ類がある程度大量に消費された可能性をも指摘しました。
また、マメ類のほかにもさまざまな栽培植物の圧痕が縄文土器の表面や内部に相次いで見つかっていることから、小畑は「縄文人は時期や用途に応じて多種多様な植物栽培を行っていた」との見解を示しています。
先述の「クリ林の形成・維持」も併せて、縄文人たちの植物利用は「植物採集」というよりもむしろ「植物栽培」と呼ぶべきなのかもしれません。これらのことから、小畑は「縄文人のことを“狩猟・採集民”ではなく“狩猟・栽培民”とすべきである」との案を提唱しました9小畑弘己『タネをまく縄文人 最新科学が覆す農耕の起源』吉川弘文館 60頁。
定義上「農耕」が、栽培植物が生業や食料の中で「支配的」となる段階である以上、縄文時代の栽培植物の事例は増え続けているとはいえ、まだ資料が十分に抽出されているとはいえない現状では、万人を納得させる「農耕」存在の証明は難しい。しかし、マメ類のような一年草に限らず、クリやウルシなどの木本類に至るまで、多様な植物を操る栽培技術の高さと、栽培・管理植物が彼らの生活の中で果たした役割を重視して、縄文人を「狩猟・栽培民」と再定義したい。
2-3:縄文時代の「農耕」と弥生時代の「農耕」の違い
「クリ」「マメ類」に着目して縄文時代の農耕をみていくと、縄文人のなかには高度な植物栽培を行っていた集団も存在していたことがわかってきました。
それに伴って、近年はこうした「縄文農耕論」に対する評価が大きく変わっており、縄文時代の農耕と弥生時代の農耕の本質的な違いについても再び議論が沸き起こっています。
そんな中で、縄文時代から弥生時代への移行を主な研究テーマとしている東京大学の考古学者・設楽博己は、縄文農耕と弥生農耕の違いについて次のように述べました10設楽博己「農耕文化複合と弥生文化」『国立歴史民俗博物館研究報告』第185集 国立歴史民俗博物館 460頁。
弥生文化の農耕は,水田稲作とアワ,キビの雑穀栽培からなる体系的なものであり,それに応じて他の文化要素が農耕文化的な変容をとげている。つまり,弥生文化は様々な文化要素が連鎖的に農耕と関係している「農耕文化複合」といってよい。現象的には,食糧に農作物が多くなる,石器や木器に農具が多くあらわれる,農具をつくるための石器が増える,大型壺を含む各種の壺形土器の比率が増える,灌漑施設を伴う水田や畠がつくられ,それにより狩猟や漁撈の比重が減ったり専業化していく,生産の儀礼が農耕儀礼を基軸に展開するなど,生活のすみずみに農耕文化の影響があらわれてくる。農耕が文化のごく一部をなすにすぎない縄文文化と対照的である。
設楽の論では、縄文文化における農耕の存在を肯定しつつも、生活・文化の様相が農業中心に展開することをもって弥生時代の農耕文化の開始としています。
縄文中期に「農耕」が行われたとされる中部高地の風景(筆者撮影)
「縄文農耕論」が始まった当初は不明瞭だった縄文時代の植物栽培の様相が科学の力で明らかにされるにつれ、「狩猟・採集」のイメージに立脚した縄文時代観は徐々に変化していきました。
さらに、「縄文農耕論」は縄文時代に続く弥生時代に対する考え方・捉え方の対しても変更を迫っています。つまり、少なくとも縄文時代と弥生時代を「狩猟・採集」と「稲作の開始」を二項対立で捉えて区分するような考え方は改められつつあるのです。
- 縄文時代の人々が「クリ」の林を人工的に形成・維持し、必要に応じて食料・木材として利用してきた可能性がある
- 縄文人は時期や用途に応じて多種多様な植物栽培を行っていた可能性がある
- 少なくとも縄文時代と弥生時代を「狩猟・採集」と「稲作の開始」を二項対立で捉えて区分するような考え方は改められつつある
3章:縄文農耕論について学べる本
縄文農耕論に関して理解を深めることはできました?
さらに学びを深めたい方に向けて、おすすめ本を紹介します。ぜひ読んでみてください。
小畑弘己『タネをまく縄文人 最新科学が覆す農耕の起源』(吉川弘文館)
土器の表面・内部に残されたわずかな動植物の痕跡=圧痕から縄文時代の農耕に迫る最新の研究成果をまとめています。多くの研究者に縄文時代観の変更を迫った意欲的な一冊です。
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中山誠二『植物考古学と日本の農耕の原点』(同成社)
植物考古学の手法で縄文時代のマメ類栽培の実態を解き明かしつつ、縄文時代の農耕と弥生時代の農耕、ひいては日本の農耕文化の発展にまで踏み込んだ著作です。
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まとめ
最後にこの記事の内容をまとめます。
- 縄文農耕論とは、縄文時代の人々が植物栽培・農耕を行っていたとする議論を指す
- 縄文農耕論が勃興した当初はわからなかった縄文時代の栽培植物の具体像が、現代では確固たる証拠をもって示されるようになった
- 少なくとも縄文時代と弥生時代を「狩猟・採集」と「稲作の開始」を二項対立で捉えて区分するような考え方は改められつつある
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