出雲の王朝とは、古代の出雲地域(現在の島根県東部・鳥取県西部)を中心に存在した可能性のある勢力を指します。
古代の出雲に独自の勢力があったことは、日本神話(『古事記』『日本書紀』など)における出雲の神々の記録や、現在まで続く出雲大社の存在によって古くから考えられていました。
しかし、出雲の王朝についての学術的な議論は、長い間「神話と神社は残っているけれど、物証がない」といった結論に落ち着いていたのも事実です。
ところが、近年では文献研究や出雲地域における発掘調査例の増加から、古代出雲王朝の具体的な姿が浮かび上がってきています。
そこでこの記事では、
- なぜ古代出雲に王朝が存在したとされるのか
- 出雲に関わる神話や遺跡について
- 出雲の王朝の具体像と神話とのかかわり
について解説します。
お好きな箇所からお読みください。
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1章:古代の出雲とはどういうものか
繰り返しになりますが、古代の出雲地域(現在の島根県東部・鳥取県西部)を中心に存在した可能性のある勢力のことです。
まず1章では、なぜ古代出雲に王朝が存在したといわれるのか、について、その理由や背景をみていきます。
このサイトでは複数の文献を参照して、記事を執筆しています。参照・引用箇所は注1ここに参照情報を入れますを入れていますので、クリックして参考にしてください。
1-2:そもそも日本の古代王朝とは
「日本の古代王朝」といえば、一般的には天皇家のことです。そして、いわゆる日本神話にあたる『古事記』『日本書紀』(以下『記紀』と総称)には、古代の日本で天皇家がどのように統治を進めていったのかが描かれています。
『記紀』では、天皇家が「天の世界=高天原(たかまがはら)に住まう神々から続く一族」とされました。つまり、神話によって「古来より日本の支配を請け負ったのは天皇家である」とのイデオロギーを形成したと考えられるのです。
今回取り上げた「出雲の王朝」は、天皇家に日本の支配権を譲った勢力として『記紀』に登場します。ただし、『記紀』の神話記述の多くはほとんどが架空の物語と言ってよく、本当の日本の王朝の成立過程ではありません。
では、古代王朝の成立過程を研究するにはどうしたら良いのでしょうか?
この問いに答える手段の一つが、文献ではなくモノから歴史を探る考古学の立場からの研究です。考古学の立場からは、日本の王朝の起源を古墳時代の墓制に求めることができます2都出比呂志「前方後円墳体制と民族形成」『待兼山論叢』史学編27(大阪大学大学院文学研究科)p.1。
古墳時代は、日本における古代国家形成期として極めて重要な時期である。筆者は、この時代を律令国家に先行する初期国家段階と把握する。また、前方後円墳を頂点とする政治的身分秩序が、この時代の権力関係を特徴づけることから、この政治秩序を前方後円墳体制と呼ぶことを提唱した。
簡潔に言えば、大王と呼ばれた近畿地方の王が「前方後円墳」を頂点とする墓制を敷き、各地の王がそれに従うかたちで『ヤマト政権』が成立した、というのが一般的な理解なのです。
「ヤマト政権」を成立させた大王は、のちに天皇を名乗り、律令国家を築きました。
では、ヤマト政権の成立以前の日本、つまり弥生時代の日本はどのような状況だったのでしょうか。
実を言うと、発掘調査などの成果からは、出雲をはじめとする近畿以外の地域にもそれなりの勢力があったことがわかっています。現在の状況からすると、「出雲の王朝」の存在も単に神話の創作物とは言えません。
出雲の王朝の存否について議論するためには、まず「神話」と「遺跡」の関係性をみていく必要があります。
1-2:古代出雲に関する神話と遺跡
『記紀』の神話のなかでも、出雲地方で起こった出来事については「出雲神話」と総称されます。現在の天皇家につながる天照大御神系(伊勢神宮系)の神々ではなく、出雲系(出雲大社系)の神々が活躍するためです。
例えば、出雲神話における「スサノオとヤマタノオロチ」「因幡の白兎」「大国主神の国譲り」などのエピソードは、みなさんも絵本や昔話などで見聞きしたことがあるかもしれません。
これらは、古代の出雲に一大勢力があったことを示すもの考えられてきました。また、古代から現在まで続く出雲大社は、こうした出雲の神々をまつる神社です。
加えて、出雲大社以前の遺跡から古代の出雲の祭祀や信仰の形跡が発見されています。
とくに、弥生時代の荒神谷遺跡からは358本の銅剣・6個の銅鐸・16本の銅矛が、同じく加茂岩倉遺跡からは39個の銅鐸が出土しました。出雲で出土した青銅器の総量は他の地域を圧倒しています。
また、出雲に特徴的な四隅突出型墳丘墓も古代出雲の歴史を語る上で欠かせない要素です。
このように、出雲には古い歴史をもつ神話と神社があり、さらにその下層には大規模な祭祀と権力の痕跡がありました。出雲の王朝の存否はこうした状況で議論されています。
- 考古学の発掘調査から、出雲をはじめとする近畿以外の地域にもそれなりの勢力があったことがわかる
- 『記紀』の中では、出雲で起こった出来事が「出雲神話」と総称され、「スサノオとヤマタノオロチ」「因幡の白兎」「大国主神の国譲り」などのエピソードがある
- 出雲大社は、出雲の神々をまつる神社である
2章:出雲の王朝とは
『出雲の王朝』の存在は、主に
- 出雲神話
- 考古学的成果
の両面から議論されてきました。
①の出雲神話については、「全くの創作である」との立場と「ある程度史実を反映している」との立場が争そわれています。
一方で②の考古学的成果については、出雲地方での発掘調査例の増加にともなって「出雲の王朝」の存在が明らかになりつつあります(ただし、「王朝」と呼ぶことに対する可否や規模については議論の余地があります)。
2-1:「国譲り」の神話が示すこと
出雲神話のなかでも、「国譲り」のエピソードは古代出雲の歴史や勢力の大きさを考える上で外せないものです3※出雲神話の意訳。
出雲の地から日本を治めていた大国主神(オオクニヌシノカミ)は、高天原に住まう天照大御神(アマテラスオオミカミ)の使者から地上の支配権を譲るように頼まれる。紆余曲折あって、大国主神は「自分を祀る立派な神殿を築いてもらう」ことを条件に天照大御神の孫である瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に国を譲った。
神話上では、最後に国を譲りうけた瓊瓊杵尊が現在の天皇家の直接の祖先であるとされています。つまり、この『国譲り』の神話は、出雲の王朝から天皇家に日本の支配のバトンが渡された重要なエピソードと言えるのです。
従来、この『国譲り』の神話は根拠に欠けるとされてきました。出雲に巨大な勢力が存在したことを示す考古学的な証拠=物証がなかったからです。
しかし、発掘調査によって「国譲り」の時代―近畿にヤマト政権が成立する以前、弥生時代から古墳時代にかけての出雲に大きな勢力があったことがわかると、その見方は大きく変わります4石橋茂登「山陰地方の青銅器をめぐって」『千葉大学人文社会科学研究』19(千葉大学大学院人文社会科学研究科)215頁。
1984 年、358 口もの銅剣が島根県荒神谷遺跡で発見されたことによって、状況は一変した。翌年には隣地で銅鐸6口と銅矛16 口の一括埋納がみつかり、その後も1996 年に加茂岩倉遺跡で39 口の銅鐸が発見されたのをはじめ、各地での発掘調査の進展によって増加した資料から、出雲が青銅器祭祀の一大中心地だったことが明らかとなってきた。
青銅器が大量に埋納されていた理由については諸説ありますが、出雲で大規模な祭祀が行われていたことや、その祭祀を司る大きな勢力の存在は明白になりました。
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2-2:古代出雲王国と四隅突出型墳丘墓
荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡などにおける青銅器祭祀は、古代出雲に大きな勢力が存在したことを伝えるものと考えられます。しかし、具体的な王の存在、ひいては古代出雲王朝の具体像はわかりません。
では、具体的に出雲王朝の存在を示すものはあるのでしょうか?
国際日本文化研究センターの名誉教授で古代史研究者の村井康彦氏や、島根県教育庁文化財課の池淵俊一氏は、弥生時代の「四隅突出型墳丘墓」から古代出雲王朝の姿がわかるといいます。
四隅突出型墳丘墓は、弥生時代の出雲に特徴的な墳丘墓(盛り土で築かれるお墓)です。当時の出雲の王はこぞって四隅突出型墳丘墓を築き、そこに葬られました。
とくに注目すべきは島根県出雲市の西谷墳墓群です。
西谷墳墓群からは、日本の吉備地方や北陸地方、そして朝鮮半島との交流を示す遺物もみつかっています。加えて、四隅突出型墳丘墓自体が出雲を中心に山陰から北陸の西日本の日本海側に広く分布していることも見過ごせません。
これは、出雲の王たちが多方面で交流を行っていたことを示すものです。
また、西谷墳墓群のなかでも西谷3号墓や同9号墓は同時期の日本で最大級の墳丘墓でした。
規模が大きく、内容・墳形ともに特徴的なお墓が特定の土地に連続して築かれたことは、当時の出雲に巨大な権力を持つ王が代々存在していた証拠と考えられるのです。
これを「王朝」と呼ぶかどうかは意見が分かれるところですが、本記事では四隅突出型墳丘墓の系列の王族を便宜的に『出雲の王朝』とします。
先に述べた青銅器祭祀と四隅突出型墳丘墓の関係性について、奈良文化財研究所の考古学者・石橋茂登氏は下記のように述べています5石橋茂登「山陰地方の青銅器をめぐって」『千葉大学人文社会科学研究』19(千葉大学大学院人文社会科学研究科)226頁。
大量埋納で頂点に達した青銅器祭祀の衰退と、四隅突出型墳丘墓の盛行すなわち権力者階層の発達・価値観の変化は、やはり一連のものとして考えるべき問題である。
青銅器から墳丘墓への転換とはすなわち祭祀から権力への転換であり、出雲の王朝の成立に深く関わっている可能性も否定できません。
その後、ヤマト王権が成立し古墳時代が訪れると、四隅突出型墳丘墓は突如姿を消し、出雲地域も近畿の大型前方後円墳を頂点とする社会体制のなかに組み込まれていきます。
このように、弥生時代からヤマト政権が成立する直前まで、出雲には「王朝」とも呼べる巨大な勢力が存在していました。したがって、考古学の成果からは「古代出雲の王朝の存在」と「その王朝がヤマト王権に取り込まれる形で衰退していく経緯」を少なからず肯定できるのです。
そして、結局のところ「こうした考古学的成果から描くことのできる史実が、どの程度神話に反映されているのか」が問題となります。しかし、この問題については未だ決着がついていません。
2-3:発掘調査が覆した出雲大社の本来の姿
出雲に関わる神話や伝承が考古学的成果などの「物証」を持って実証された例はないのでしょうか。
なんと、古代から現代まで続く出雲大社にて、「単なる伝承」が「真実」へとひっくり返る重大な出来事が起こっています。
そもそも出雲大社は、『国譲り』の神話に登場する「大国主神をまつる立派な神殿」のことです。現在でも高さ約24mの立派な本殿をもつ出雲大社ですが、近年の発掘調査によってかつてはより一層高い建物であった可能性が高まりました6景山真二・石原 聡「島根県大社町 出雲大社境内遺跡の発掘調査の成果」『日本考古学』8巻11号(日本考古学協会)155-157頁。
……平成12年4月に1次調査区の北西隅から巨大柱が出土し,さらに9月には2ヵ所から引き続いて巨大柱が出土した。……(中略)……出土した柱は,出雲国造千家家に巨大本殿の平面図として伝わる『金輪御造営差図』を基にすると,中央南側の宇豆柱(棟持柱)・中央の心御柱(岩根御柱)・南東側柱の3カ所と考えられ,いずれも3本の柱材を束ねたかたちで出土している。……(中略)……出雲大社本殿は,15丈以上の高さがあったと考えられ,出雲大社の社伝では,かつての本殿の高さを16丈(48m)とも32丈(96m)とも伝えており,32丈説はそのあまりの高さゆえに疑わしいものとして採用されていないが,16丈説は建設可能であるとの見解が示されている……
出雲大社の社伝や平安時代の『口遊』の記述から、かつての出雲大社本殿の高さが約48mであった可能性は既に示唆されていました。一方で、「木造で約48mはありえない」との先入観から「48m説は単なる伝承である」というのが一般的な理解でした。
しかし、出土した木柱によって「やっぱり48m説が正しい可能性が高い」と評価が覆ることになります。
この調査で出土した木柱は、科学的な年代測定の結果鎌倉時代の木材であることがわかりました。少なくとも鎌倉時代の出雲大社は「大国主神をまつる立派な神殿」にふさわしい高さの建物であったと言えそうです。
また、同じ出雲大社境内の発掘調査では弥生時代の土器や古墳時代の祭祀遺物も発見されています。したがって、出雲大社のある場所は神話の成立以前から生活や祭祀の場であった可能性が出てきました。
このように、神話や伝承の内容が歴史学や考古学の研究成果によって証明されたり否定されたりすることはよくあります。
『出雲の王朝』は、出雲神話の記述と考古学の成果の両方に登場するものです。その2つが完全なイコールで結ばれるかどうか、つまり「神話が史実の反映であるかどうか」は、今のところハッキリしていません。
しかしながら、今後の調査と研究の発展次第で、『出雲の王朝』の全体像が見えてくる可能性は十分にありえます。
- 出雲神話は「創作である」「史実を反映している」という立場が対立しているが、考古学的には出雲の王朝の存在が明らかになりつつある
- 「国譲り」の神話は根拠に欠けるとされてきたが、荒神谷遺跡から大量の青銅器が発掘され、出雲に大きな勢力が存在したことが分かったことから、見方が変化してきた
- 出雲に王朝と言えるような大規模な勢力が存在したことは、四隅突出型墳丘墓の分布や出土した「心御柱」からも、肯定できる
3章:古代出雲について学べるおすすめ本
古代出雲王朝について理解することはできたでしょうか。
もっと深く学びたい場合は、以下の本を参考にしてみてください。
村井康彦『出雲と大和―古代国家の原像をたずねて』(岩波書店)
フィールドワークと歴史学を使って古代出雲と古代大和の関係性を追った本です。文章は少し堅めですが、「なるほど」と思わせる考察と圧倒的な読みごたえがあります。出雲について知るにはまずこの新書がオススメです。
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阪下圭八『日本神話入門 『古事記』をよむ』(岩波書店)
出雲をはじめ古代のことを知るにはまず日本神話を学ぶ必要があります。本著はまさしく入門に適しており、読みやすい文章で『古事記』の大まかな流れを知ることができます。
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まとめ
最後に今回の内容をまとめます。
- 『記紀』の中では、出雲で起こった出来事が「出雲神話」と総称され、「スサノオとヤマタノオロチ」「因幡の白兎」「大国主神の国譲り」などのエピソードがある
- 出雲神話は「創作である」「史実を反映している」という立場が対立しているが、考古学的には出雲の王朝の存在が明らかになりつつある
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