GATT(General Agreement on Tariffs and Trade/関税及び貿易に関する一般協定)とは、国際貿易において関税や非関税障壁を削減し、自由な取引を進めることを目指して作られた協定のことです。
1947年に署名され、その後WTO(自由貿易機関)の設立によって発展しWTOとは別の条約として存在しています。
GATTとは一言で言えば、第二次世界大戦後の世界で、各国が利益を追求して「ブロック経済」に向かわないように、アメリカ(とイギリス)が中心となって作った協定です。しかし、特に90年代以降になって国際的な貿易ルールは、FTA(自由貿易協定)によって作られるように変化してきました。
そこでこの記事では、
- GATTの理念や組織、条文の意味
- GATT設立の経緯
- 日本のGATT参加の経緯
について詳しく解説します。
関心のある所から読んでみてください。
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1章:GATTとは
もう一度確認しますが、GATT(関税及び貿易に関する一般協定)とは、自由貿易を推進することを目指して戦後に作られた協定のことです。
勘違いされがちですが、GATT自体は国際機関ではなく国際条約であり、いわばルールのカタマリのようなものです。しかし、2章で説明する経緯から暫定的な協定が国際組織としての役割を持つようになり、WTO設立まで機能してきました。
1章では、まずはGATTがどのようなものなのか詳しく説明します。
このサイトでは複数の文献を参照して、記事を執筆しています。参照・引用箇所は注1ここに参照情報を入れますを入れていますので、クリックして参考にしてください。
1-1:GATTの理念・原則
GATTを理解する上でもっとも重要なのは、GATTが掲げる基本原則です。なぜなら、GATTの理念は戦後世界において、世界の貿易が無秩序にならないように重要な役割を果たしてきたからです。
GATTの基本原則は、以下の3つです。
- 貿易の制限の削減
- 貿易の無差別待遇
- ラウンド交渉
1-1-1:貿易制限の削減
そもそも、GATTは第二次世界大戦の原因が、世界恐慌後に各国が「ブロック経済」「保護主義」に走った反省から構想されたものです。
ブロック経済とは、特定の国家同士のみで協定を結びそれ以外の国家との貿易を制限すること。保護主義とは、自国の産業を優遇し他国との貿易を制限すること。
イギリスやアメリカが、他国の輸入品が入ってこないように貿易制限的な措置を取ったことから、資源へのアクセスが絶たれたり、輸出先を失ってしまう国が出てしましました。困窮したそれらの国が周辺国に拡張しようとしたことが、第二次世界大戦の原因の一つだったのです。
こうした経緯への反省からGATTは構想されたため、GATTではまず、貿易の制限をできるだけなくしていくことが目指されました。
貿易の制限には、以下の2つのタイプがあります。
- 関税を引き上げること
たとえばアメリカ産のトウモロコシに関税を30%かけることで、100円の輸入品を国内では130円になるようにすることです。関税分値上がりするため、国内の農家が「アメリカ品は安すぎて俺たちのトウモロコシが売れない」と困ることを防げます。 - 非関税障壁を作ること
非関税障壁とは、関税以外の貿易上障壁になることで、「輸入量の制限や輸入の禁止」「輸出企業への補助金」「輸入品への厳しい安全検査」などがあります。
GATTはこれらの関税・非関税障壁について、できるだけ撤廃していけるようにラウンド交渉(後述)を進めました。
■セーフガード
GATT体制では、関税の引き上げや非関税障壁を作ることは禁止されましたが、特定の製品が大量に輸入され国内産業が大きなダメージを受けるような場合は、一時的に輸入を制限できるとされました。これが「セーフガード」です。
ただし、セーフガードは例外的なルールであるため、利用された回数は多くありません。
1-1-2:貿易の無差別待遇
戦前のようなブロック化、保護主義を再発させないためには、特定の国同士で協定を結んでそれ以外の国を差別しないようにしなければなりません。
そこで、GATTの理念は「無差別」とされました。
「無差別」には「最恵国待遇」と「内国民待遇」の2つの意味があります。
- 最恵国待遇…最恵国待遇とは、ある国に与えた最高の貿易上の条件(待遇)を、他の国にも適用しなければならないとすることです。そのため、ある国との間の関税を大きく引き下げたら、他の国との関税も同じだけ引き下げなければなりません。
- 内国民待遇…内国民待遇とは、輸入品と国内で生産された製品を同じように扱わなければならないということです。たとえば、輸入品が国内品より売れないように税金をかけたりすることを禁止します。
■最恵国待遇の例外
途上国が同じルールで戦わなければならなくなると、途上国が実質的に不利になることから、例外的に途上国と先進国工業国との間では、途上国に有利に関税を設定する「特恵関税」が後に認められました。
また、GATT24条ではNAFTAやEUのような地域統合的なFTA(自由貿易協定)について、条件付きで認めています。つまり、最恵国待遇には例外があります。
1-1-3:ラウンド交渉
さて、ここまで説明した原則のもと、GATT加盟国は加盟しているすべての国家でラウンド交渉という交渉を行い、関税を引き下げ、貿易の自由化を拡大してきました。現在まで8回にわたって行われ、参加する国家の数も増えています。
ラウンド交渉で決められた関税は、「譲許表(Schedules of Concessions)」という表にまとめられ、この表に記載された税率を超える関税は適用することができません。
ラウンド交渉の経緯について、詳しくは4章で説明します。
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1-2:GATTとWTOの違い
GATT体制のもとでは繰り返しラウンド交渉が行われましたが、第8回ラウンド交渉(ウルグアイ・ラウンド/1986年-1994年)で、WTO(世界貿易機関)の設立が決められました。
「GATTはWTOに発展して消えてしまったってこと?」と思われるかもしれませんが、厳密に言えば、GATTの協定は一部が改訂され、WTO協定という新たなルールの体系の中に付属書として含まれました。そのため、GATTのルールは当初の「1947年GATT」と「1994年GATT」に区別されています。
WTOが設立されたのは、加盟国の増加や交渉分野の拡大から、新たなルール・制度が求められたからです。
そこでWTOは正式な国際機関となり、大幅に権限も強化され、以下のようにルール化されました。
- GATTのルールに強制力はなかったが、WTOのルールは加盟国は必ず守らなければならない
- GATTはモノの貿易だけが対象だったが、投資や知的財産、サービス貿易など幅広い分野が対象とされた
- 農産物について、原則的にすべての農産物の輸入制限を廃止し障壁は関税のみとされている
- ダンピング(輸出国が国内価格よりも安く輸出すること)やセーフガード(急激な輸入増に対する輸入制限)のルール化
- 一方的な報復措置(関税の引き上げなど)の禁止
- 紛争解決手段が明確になり機能が強化
特に大きな変化が、紛争解決手段の明確化です。WTOではWTO協定に違反するような行為が起こった場合、以下のプロセスで紛争解決が進められます。
- 当事者である国家による二国間協議
- 紛争処理委員会(パネル)での審理
- 紛争処理委員会によって報告書が採択される
- 紛争処理委員会によって勧告や制裁措置が行われる
二国間協議で解決されない場合は、第三者である紛争処理委員会が介入することで、紛争の解決を図るようになっています。
こうして紛争解決の力はWTOの設立によって高まりましたが、一方でラウンド交渉でのルール作りは、停滞するようになりました。
そのため、貿易・投資などの国際的なルール作りの場は、ラウンド交渉よりもFTA(自由貿易協定)によるものへ変化しています。
1-3:GATTとFTA(自由貿易協定)
繰り返しになりますが、GATTでは一部の国が損するような協定を作ることを制限しました。しかし一方で、例外的にFTA(自由貿易協定)という、二国間で締結する協定も認めました。
FTAとは、二国間以上の国家間で貿易や投資を拡大するために、障壁となる関税や非関税障壁を撤廃することを決める協定のことです。
FTAについて、GATTでは下記のように条件付きで認められています。
- 構成国間の関税・非関税障壁の実質上すべてを撤廃すること
- 締結後に域外国との間での障壁が高くなってはならないこと
(GATT24条5項)
つまり、特定の国家間で関税や非関税障壁を下げることは認めるが、それ以外の国に対して関税を引き上げるようなことは駄目だということです。
しかしこれは、特定の国に対して与えた最高の待遇について、他のすべてのGATT加盟国にも与えなければならないという「最恵国待遇」には反するものです。ですが、ラウンド交渉によるルール作りが停滞したために、90年代以降はFTAによる貿易・投資のルール作りが主流になりました。
詳しくは以下の記事で解説しています。
【自由貿易協定(FTA)とは】EPAとの違いからわかりやすく解説
- GATTとは1947年から開始された国際貿易のルールのカタマリであり、実質的な国際組織
- GATTはWTOに発展した
- WTOでのルール作りは停滞し、FTAが主流になっている
2章:GATT設立の歴史
1章でも触れたように、GATTは第二次世界大戦の反省から構想されたものです。GATTの開始からWTO設立までの歴史を概観します。
2-1:第二次世界大戦後前のブロック経済化
繰り返しになりますが、GATTは第二次世界大戦への反省から、「自由貿易をグローバルに進めよう」という理念から作られたものでした。
第二次世界大戦の原因となったのが、1929年の世界恐慌の影響から各国が取った「ブロック経済」「保護主義」的な政策です2佐々木隆雄『アメリカの通商政策』岩波新書に詳しい。
- 1930年:農産物に高関税を課する「スムート・ホーレー法」を米国議会で通過
- 1932年:イギリス帝国議会において「オタワ協定」を成立
イギリスはイギリス本国とカナダ連邦・オーストラリア連邦・ニュージーランド・南アフリカ連邦・アイルランド自由国・ニューファンドランドらの自治領との間で「オタワ協定」を締結しました。オタワ協定の締結で、イギリスは帝国内の自治領との間で貿易圏を作り、「ブロック経済」化したのです。
アメリカは、スムート・ホーレー法により輸入品に高い関税をかけ、保護主義に傾斜しました。
経済的な強国(持てる国)がブロック経済・保護主義に向かったことで、世界の貿易量は3分の1になってしまいます。
そして、日本、イタリア、ドイツのような「持たざる国」は資源獲得のために帝国主義的侵略を進め、それが第二次世界大戦の原因になりました。
2-2:英米によるGATTとITOの検討
世界恐慌の中で、一部の国家が自国に有利な「ブロック経済」「保護主義」に向かったのは、国家が国益追及に走ることがないようにコントロールする国際機関がなかったからです。
2-2-1:アメリカの通商政策の転換
そこで、アメリカとイギリスが中心となって戦後の秩序を模索し、GATTのアイディアが生まれました。GATTのアイディアが生まれるきっかけになったのは、アメリカの保護主義的な通商政策からの転換です3佐々木、前掲書55-62頁。
- 1934年の互恵通商協定法
互恵通商協定法は保護主義的側面を持つ法律ではあったが、交渉に基づいて関税引き下げを行うことができる法律でもあった。アメリカは1946年までに32の互恵通商協定法を締結し、保護主義から自由貿易へと転換をすすめた。 - コーデル・ハル国務長官を中心とした戦後体制の模索
ハル国務長官を中心に、1941年ごろから戦後国際経済体制に関する検討を始めていた。
1941年8月12日、アメリカとイギリスの間で大西洋憲章が調印されたことをきっかけに、国際貿易に関する協議がはじまりました。大西洋憲章では、その第四項において「閉鎖的な経済ブロック体制からの決別と世界貿易の自由化」が謳われます。
2-1-2:ITO(国際貿易機構)の構想
大西洋憲章をきっかけにアメリカとイギリスの間では国際貿易に関する協議が行われ、その後舞台を国連の国連貿易雇用会議に移し、1947年3月には米国の主導により「ITO憲章(ハバナ憲章)が採択されました。
ITO(国際貿易機構)は国際貿易機構として構想されたものでした。
この国連貿易雇用会議では関税引き下げ交渉に関する提案も含まれており、アメリカの互恵通商協定の交渉方式である、二国間交渉と最恵国待遇に基づいた方式で関税交渉が行われました。
その交渉結果をITO発効前に実施するため、ITO憲章草案の一部の規定から「関税及び貿易に関する一般協定(GATT)」が作られました。
ITOは発効に有効な批准が得られずその後挫折しましたが、暫定的な国際貿易体制として1947年からGATTが運用されるようになります。これがGATT設立の経緯です。
ただし、1947年にスタートしたGATTに日本が参加できるのは1956年であり、日本の復興を経る必要がありました。この点について次の章で説明します。
GATT設立の経緯やその背景にあるアメリカの通商政策の転換について、以下の本に詳しいです。
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整理すると、以下のようになります。
- 第二次世界大戦への反省から、アメリカとイギリスによって戦後の国際経済体制が検討される
- 戦後の貿易体制としてITOが構想され、その内容の実施のためにGATTが作られた
- ITOは批准されなかったため、暫定的措置であったGATTがそのまま貿易体制として運用されるようになった
3章:日本のGATT加盟の歴史
日本は敗戦後アメリカに占領され、まずは国家として独立を回復し、さらに国際社会でも地位を回復することが課題になりました。
そして、経済復興のためにも他国と同じ条件で貿易を行う必要があり、いち早く戦後の国際経済体制に参加することが目指されました。
しかし、すぐにGATTに加盟して平等な条件を得られたわけではありません。日本のGATT加盟について詳しく解説します。
3-1:日本のGATT加盟
日本は1952年のサンフランシスコ講和条約の発効によって、独立することができ、その後、下記の経緯でGATT加盟が実現しました。
- GATT第6回総会にオブザーバー派遣許可を申請し、留保付きで認められた
- 第8回総会の際には日本が正式加盟するまで「仮加入方式」を導入することとされた
- 1954年には、アメリカが日本と関税交渉を行う意思表示をしたことから、日本の正式加盟への道が開け、日本の加盟議定書の賛成を得ることができた
- 1955年にGATT加盟が実現
また、GATT加盟前には国内では「GATTに加盟するべきか否か」をめぐる議論がなされました。
- GATT加盟消極論…GATTへの加盟は日本の産業が国際社会の競争にさらされることになるが、それは時期尚早である、国内開発を重視するべし
- GATT加盟積極論…日本が生きる道は外国貿易の進展である(中山伊知郎、有沢広巳、都留重人ら)
こうした消極論もあったことから、加盟後の1960年、岸内閣は「貿易為替自由化計画大綱」を発表し、競争力をつけた産業から順次自由化を進める計画を示しました。そして60年代以降、徐々に自由化が進められたのです。
3-2:GATT35条適用の撤回
しかし、GATTに加盟したからと言ってすぐに他国とまったく平等なルールのもとで貿易が行えるようになったわけではありません。GATT加盟後も、日本は不平等な立場に置かれてしまったため、その改善のための外交を行うことになったのです。
日本が戦後適用されたのが「GATT35条」というルールです。
GATT35条とは、「最恵国待遇」を与えたくない国に対して適用するルールです。
2章でも触れましたが、最恵国待遇とはGATTの理念の一つで、どのような国よりもその相手を貿易上優遇する待遇のことです。GATTに加盟すると、すべての国が最恵国待遇が与えられることになっていました。
しかし、例外的に最恵国待遇を与えたくない国に対して、35条の適用で差別的な扱いをすることが認められていたわけです。
第二次世界大戦と敗戦によって、日本の国際的な地位は地に落ちていましたし、GATTはアメリカ、イギリスなどの西側先進国によって作られた体制ですので日本は差別的な待遇を受けることになったのです。
そのため、日本はGATT35条を適用している国に対して「取り下げてくださいよ」という外交をしなければならなくなりました。日本は二国間で35条撤回を求めた交渉を行い、
- 1957年:オーストラリアとの間で日豪通商協定を締結
- 1962年:イギリスとの間で日英通商航海条約を締結
といった経緯でGATT35条を撤回させ、自由・多角・互恵・無差別というGATTの掲げる理念とルールの下で貿易を行っていくことが可能になりました。
日本はその後、GATT体制を存分に利用して通商政策を行っていきましたが、GATTの機能の一つであるラウンド交渉は、その後停滞していくことになります。
そこで次に、GATTの現在までの歴史を詳しく説明します。
- 日本は1955年にGATT加盟が実現した
- GATT加盟後も35条の適用で差別的な扱いを受けたが、二国間交渉によって撤回させることができた
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4章:GATTラウンド交渉の内容と歴史
GATTでは国際的な自由貿易を促進するために、ラウンド交渉という場で関税引き下げが議論され、決められてきました。ラウンド交渉はこれまでに8つが行われました。
2001年からはドーハ・ラウンドが交渉中です。
期間 | 参加国 | 関税引き下げ品目 | |
第1回ジュネーヴ | 1947年 | 23か国 | 4万5000品 |
第2回アヌシー | 1949年 | 13か国 | 5000品目 |
第3回トーキー | 1950-1951年 | 38か国 | 8700品目 |
第4回ジュネーヴ | 1956年 | 26か国 | 3000品目 |
第5回ディロン・ラウンド | 1960-1961年 | 26か国 | 4400品目 |
第6回ケネディ・ラウンド | 1964-1967年 | 62か国 | 3万300品目 |
第7回東京ラウンド | 1973-1979年 | 102か国 | 3万3000品目 |
第8回ウルグアイ・ラウンド | 1986-1994年 | 123か国 | 30万5000品目 |
第9回ドーハ・ラウンド(WTO発足後) | 2001年- | 164か国 | 交渉中 |
第1回のジュネーヴから第4回のジュネーヴまでは、GATTが実質的な国際機関として成立するための交渉が行われ、同時に関税引き下げ交渉が行われました。表を見て分かる通り、この時期はまだ参加国も少ないです。
ディロン・ラウンドでは、現在のEU(欧州共同体)のもとになったEEC(欧州経済共同体)が1958年に発足し、地域主義的な貿易自由化を行ったため、それに対してアメリカがグローバルに自由化を進めるべきと主張して行われました。
その後のケネディ・ラウンド、東京・ラウンドでは、下記のような伸展がありました。
ケネディ・ラウンド
- GATTの全加盟国が譲許表を提出しそれを一気に検討し、関税引き下げ品目や引き下げる関税率を決める方法(一括交渉方式)が採択
- すべての工業品の関税を平均35%引き下げることを決定
東京ラウンド
- 関税引き下げだけでなく、非関税障壁(輸入量制限など)の削減について合意
- 参加国が100か国を超え、全加盟国で交渉することが難しくなったため、日本、アメリカ、EC(現EU)、カナダが先に交渉した結果を全加盟国のコンセンサスで承認する方法が取り入られれる
東京ラウンド以降、貿易における非関税障壁を使った保護貿易や、サービス貿易(旅行、保険など)の規模の増大が新たな問題となりました。そこで、次に開かれたウルグアイ・ラウンドでは、以下のことが交渉されました。
- サービス貿易の無差別(最恵国待遇、内国民待遇)
- 知的所有権に関するルール
- 先進国の鉱工業品の関税を平均40%まで引き下げる
- 農産物は原則、すべての非関税障壁を関税に置き換える
- 輸出自主規制は禁止
- WTOを設立することに合意
交渉範囲が拡大され、また日米貿易摩擦問題のように貿易摩擦問題が各国で問題化し、貿易問題が複雑になったのがこの時代です。先にも開設したように、GATTは暫定的な体制だったことから、紛争解決の処理も弱いものでした。
そのため、より強力紛争解決機能を持つWTOという貿易機関が求められ設立(1995年)されたのです。
WTO設立後はドーハ・ラウンドが2001年から開始されました。ドーハ・ラウンドでは、投資や電子商取引などより広い分野の交渉がはじめられました。しかし、加盟国の増大や交渉分野の拡大から交渉が停滞し、現在に至るまで合意されていません。
したがって、前述のようにFTA(自由貿易協定)による一部の国家同士でのルール作りが主流になってしまったのです。
現在の国際経済体制での問題、テーマについて以下の記事も参考にしてください。
5章:GATTに関するおすすめ本
GATTについて理解を深めることはできましたか?
GATT体制を理解することは、その後のWTOを中心とした体制や、現在のFTAが主流の重層的な国際経済体制を理解する上で重要です。そこで、より深く理解する上でおすすめの本を紹介します。
渡邊頼純『GATT・WTO体制と日本―国際貿易の政治的構造』(北樹出版)
GATT・WTO体制や日本との関わりについてまとまっているとてもいい本です。国際経済を学ぶ上で必読です。
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中川淳司『WTO 貿易自由化を超えて』 (岩波新書)
GATTやWTOについてより簡単に学べる入門書としてはこちらがおすすめです。
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最後に、書物を電子版で読むこともオススメします。
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まとめ
この記事の内容をまとめます。
- GATTは国際貿易のルールであり、現在はWTOに発展している
- GATTの機能には、紛争解決、ルール作りがあり、WTOではより強い力を持つようになった
- GATT・WTO体制でのルール作りは停滞し、FTAを中心とした二国間や地域内でのルール作りが主流になっている
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