東洋史

【太平天国の乱とは】時代背景からその後の影響・評価まで簡単に解説

太平天国の乱とは

太平天国の乱とは、清朝統治下で広西省から始まり全国的な規模に発展した大反乱(1850-1864)です。この乱を始めたのは上帝を信仰する拝上帝会という集団で、彼らは国号を「太平天国」としました。

東洋史を学ぶ上で重要な出来事の一つですので、中国人キリスト教徒が起こした反乱とした謝った認識だけではもったいです。

この記事では、

  • 太平天国の乱の時代背景やその後の影響
  • 太平天国の乱の経緯

について解説をしていきます。

興味のある方は、途中からでも読み進めてみてください。

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1章:太平天国の乱とは

1章では太平天国の乱を概観します。2章では太平天国の乱の経緯を詳しく解説しますので、用途に沿って読み進めてください。

このサイトでは複数の文献を参照して、記事を執筆しています。参照・引用箇所は注1ここに参照情報を入れますを入れていますので、クリックして参考にしてください。

1-1:太平天国の乱の時代背景

冒頭の確認となりますが、太平天国の乱とは、

清朝統治下で広西省から始まり全国的な規模に発展した大反乱(1850-1864)

です。

1-1-1:18世紀〜19世紀まで

まずは、清朝において太平天国の乱が起こった19世紀とはどのような時代だったかを振り返ります。少し遡って、18世紀から見ていきましょう。

18世紀の清朝

  • 18世紀の清朝では、活発な移住と土地開発によって人口が急速に増加していた2吉澤誠一郎『清朝と近代世界――19世紀』(岩波書店)21-24頁
  • 良い農地や商売の利権は成功した移住者におさえられており、後から移住した者にとっては、社会的上昇の可能性が閉ざされていきました
  • この社会矛盾の結果として大規模な反乱になったのが白蓮教徒の乱(1796-1804)であり、清朝を揺るがす大反乱になっていった

そして19世紀になると、アヘンの問題も深刻化していきます。アヘン戦争(1840-42)後結ばれた南京条約によって、清朝はイギリスに対し多額の賠償金を支払うことになりました。その軍費や賠償金の負担が農民押し付けられると、19世紀の清朝は不安定な状態になっていました3市古宙三『近代中国の政治と社会(増補版)』(東京大学出版会)3-4頁

では、太平天国の乱がはじめに起こった地方である広西の状況はどうだったのでしょうか?広西でも移住と格差による社会の混乱が起こっていました。特に、客家語という方言を話す漢民族のサブ・グループは厳しい状況に置かれていたといいます4菊池『太平天国にみる異文化受容』32-36頁

総じて、東洋史を専門とする菊池は19世紀の中国社会がかかえていた問題点を3つ指摘しています5菊池『清代中国南部の社会変容と太平天国』337-340頁

  1. 専制体制がもたらす硬直した地方統治
  2. 民族間あるいは同一民族内のサブ・グループ間の対立の激化
  3. 民衆宗教や思想のレベルに現れた社会の閉塞情況

大まかですが、太平天国の乱が起こった時代背景には以上のような社会状況がありました。



1-1-2:1洪秀全とは

では、太平天国の乱を起こした拝上帝会を率いた洪秀全という人はどのような人物だったのでしょうか?洪秀全は1814年広東省花県官祿㘵村で生まれました。彼は前述した客家の出身です。

洪秀全は満14歳となった時から科挙を受験し、受験に失敗し続けていました。1837年再び科挙の受験に失敗した洪秀全は失意の中熱病に倒れ、その熱病の最中、夢を見ることになります。

洪秀全の夢

  • 洪秀全は夢の中の宮殿で出会った老人からこれで悪魔を滅ぼすようにと剣を授けられ、印璽を受け取った
  • そして夢の中で彼が兄と呼ぶ中年の男性に助けられつつ、悪魔と戦った
  • 夢の中で印璽を受け取ったのは天命を受け取ったことを正当化するものであり、挙兵に踏み切った後に付加された「神話」だと考えられている6小島晋治『洪秀全と太平天国』(岩波書店)34-35頁

後世に伝えられる洪秀全の夢はかなりの脚色が加わっていると考えられますが、ともあれ洪秀全は夢から醒めました。

その後、『勧世良言』というプロテスタントのパンフレットを読んだ洪秀全は夢の中で出会った老人がキリスト教の神エホバであり、自分はエホバから偶像崇拝を打ち破る使命を受けたと確信します。そして、自らの洗礼を行って「上帝教」という宗教を興しました7菊池『清代中国南部の社会変容と太平天国』236頁

上帝教とはキリスト教の影響を受けた上帝(ゴッドの訳)を崇拝するもので、洪秀全の儒教的教養と中国の民間宗教が混合したものです。やがて拝上帝会は武装蜂起し、太平天国の乱を起こすことになります。



1-2:太平天国の主張

そして、1850年に金田村で蜂起した洪秀全は1851年に国号を「太平天国」としました。この太平天国の主張とはどのようなものだったのでしょうか?

この時期までに拝上帝会の活動は宗教運動から革命運動に変質しており、革命運動を行う以上、拝上帝会が掲げたのは清朝打倒でした。

また、太平天国は太平天国の改革プランである『天長田畝制度』に見られるように、いにしえの公平で平和な世界である大同ユートピアを社会制度として実現しようとしていました。

しかしながら、すべての男女に耕地を均等に割り当てる公有制を説いた『天長田畝制度』では官と民との関係が平等ではなく、社会の現実ともかけ離れていたため実現はされませんでした8菊池『太平天国にみる異文化受容』26頁

1-3:太平天国の乱の影響や評価

太平天国は数千万の犠牲者を出した反乱で、彼らが起こしたこの大反乱は当時存在した18省のうち17省にまで及ぶ規模になりました。とりわけ江蘇・浙江・安徽・江西といった戦乱の中心となった地域では大きな被害が出ました。

そして、太平天国の乱は1864年に太平天国の本拠地であった天京(南京)が陥落したことをもって一応の終息をみせたとするのが一般的です。

上述の菊池秀明が書いた一般向け概説書に当時の太平天国に対する認識が2つ示されています。1つは1853年頃太平天国の乱に関する最初の情報を日本へ伝えたにっぽん音吉による認識です。

音吉によると、太平天国は満洲人王朝である清朝にたいする漢民族の抵抗運動で、髪形を明代の長髪にもどすなどの改革をおこなっていた。この運動が発生した原因はアヘン戦争をきっかけとする中国の貧困にあり、腐敗した清軍は各地で敗北をかさねていた。また太平天国は財産を均分するなどの政策で庶民の支持を集めており、ヨーロッパ人にたいしても友好的な態度で臨んでいるという9菊池秀明『太平天国にみる異文化受容』(山川出版社)2頁

もう一つは1862年に上海を訪れた高杉晋作らの認識です。文中に出てくる長髪賊とは太平天国側の人々を指します。

長髪賊ははじめ明朝の末裔を名乗っていたが、現在はもっぱらキリスト教を掲げて愚かな民を従わせている。いうことを聞かない者は殺し、匪賊を集めたり、男たちをとらえては兵隊にして、乱暴や狼藉を働いている。にもかかわらず彼らの勢いが盛んなのは、ひとえに清朝が衰えて暴臣が権力を握っているからだ10菊池 前掲書 3頁

このように当時から太平天国の乱に対して当時の日本でも異った認識が示されていました。では、中国ではどうだったのでしょうか?

東洋史学者の宮崎市定は次のように書いています。

太平天国は清朝時代には長髪賊、髪匪、粤匪などとよばれ、単なる一部不平分子の清朝支配に対する反抗にすぎぬと取扱われていた。然るに民国以後、それは辛亥革命の前段階をなすものであり、中国人民全部の希望を代表する革命運動であるとして、いわゆる農民起義の最大なるものと再評価されるようになった11宮崎市定『宮崎市定全集16近代』(岩波書店)75頁

このように、太平天国の乱は中国のみならず日本の研究者のあいだでも革命運動の先駆として高い評価を受けていました。

しかし、そうした見解は日本の学界では1960ー70年代に、宮崎や市古宙三らによって批判されています12宮崎市定、前掲書75-116頁; 市古宙三『近代中国の政治と社会(増補版)』(東京大学出版会)。そのためか、近年では太平天国の乱が持った破壊的側面の批判も多くなされています13菊池秀明『清代中国南部の社会変容と太平天国』(汲古書院)223頁

1章のまとめ
  • 太平天国の乱とは、清朝統治下で広西省から始まり全国的な規模に発展した大反乱(1850-1864)である
  • 洪秀全は「上帝教」という宗教を興し、太平天国の乱を起こすことになる

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2章:太平天国の乱の経緯

さて、2章では洪秀全が上帝教を創った後の経緯から、太平天国の乱を深掘りしていきます。

2-1:郷里での布教失敗と広西での布教

布教のごく初期に入信したのは同郷の客家人である馮雲山と、洪秀全のいとこである洪仁玕でした。

地元での布教活動

  • 偶像崇拝を禁止した洪秀全は廟にまつられた孔子の位牌なども撤去した
  • しかし、洪秀全のこうした行為は地元民からの非難を浴びるものであった
  • 結局、洪秀全の郷里での布教は行き詰まり、馮雲山たちと布教しながら広西省まで行くことになる

洪秀全は同族を頼って貴県という所に行き、客家の間に上帝教を広めていきました。まもなく洪秀全は帰郷し、洪仁玕とともに広州の宣教師ロバーツの教えを受けに行きました。

一方で、馮雲山は隣の桂平県にある紫荊山地区で布教を続け、地元の客家の人々の中に信者を増やしていきました。当時の広西省は上で確認したような状況であり、馮雲山はそうした状況のなか上帝による救いを説きました。そして、客家人を中心に数県の範囲におよぶ二千人の信者を獲得しました14菊池秀明『金田から南京へ―太平天国初期史研究―』44-45頁

そして、洪秀全は再び広西に戻って馮雲山と合流し、偶像破壊運動を起こします。この噂を聞いた下層民が大挙して入会した一方で、地元の有力者とは対立関係に陥りました15菊池『金田から南京へ―太平天国初期史研究―』49頁

そうした中、紫荊山の信徒の中で、楊秀清という青年に上帝が、その友であった蕭朝貴にイエスが乗り移り予言や命令を発するようになりました。この2人が洪秀全が来るべき新王朝の君主であると主張したことによって拝上帝会の活動は宗教運動から革命運動に変質することになりました16菊池『金田から南京へ―太平天国初期史研究―』55頁



2-2:金田村での蜂起から天京陥落まで

1850年に入ると、本格的な武装蜂起の準備が始まり、各地にいた上帝会の集団が紫荊山麓の金田村に結集しました。そして、1950年12月潯州府城の副将李殿元との戦いに勝ち、洪秀全が金田村に到着します17菊池『金田から南京へ―太平天国初期史研究―』67-69頁

1851年3月になると、洪秀全は「天王」に即位し、国号を「太平天国」としました。

  • 太平天国軍が最初に占領した城は永安州であった
  • その後、太平天国軍は馮雲山の戦死など数々の犠牲を払いつつも、勢力を拡大しつつ転戦を続けた
  • 1853年、虐殺を行いながら南京を占領し、天京と改称してここを太平天国のみやことした

天京をみやことした太平天国でしたが、内部分裂などの結果、その勢力は次第に衰えていきます。

一方で、清朝は官軍に加えて、郷紳に団練・郷勇の編成をよびかけました。その中で頭角を現したのが、曽国藩が組織した湘軍と李鴻章が組織した淮軍です。湘軍と淮軍は太平天国軍と激しい戦いを繰り広げることになります。

そして、欧州列強は中立の立場を取っていたものの、1858年に天津条約、1860年に北京条約が結ばれると次第に清朝を支持するようになります。アメリカ人のウォードやイギリス人のゴードンが指揮する常勝軍が組織されると、湘軍と淮軍ともに、天京を包囲します。

その結果、1864年6月洪秀全は天京で死去します。翌月には天京も陥落し、太平天国は滅亡することになります。その後、戦い続けた勢力もありましたが、1868年には鎮圧されました。

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3章:太平天国の乱に関するおすすめ本

太平天国の乱を理解することはできました?少しでも関心をもった方のためにいくつかおすすめ本を紹介します。

おすすめ書籍

菊池秀明『太平天国にみる異文化受容』(山川出版社)

太平天国の専門家による一般向け概説書で、太平天国における異文化受容と異文化間のすれ違いに着目し、太平天国の乱についてコンパクトに解説しています。

吉澤誠一郎『清朝と近代世界――19世紀』(岩波書店)

19世紀の清朝を扱った概説書で、第2章で太平天国の乱に触れています。初学者にとって手に取りやすい1冊で、19世紀の大きな流れの中から太平天国について知りたい人におすすめです。

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まとめ

最後にこの記事の内容をまとめます。

この記事のまとめ
  • 太平天国の乱とは、清朝統治下で広西省から始まり全国的な規模に発展した大反乱(1850-1864)である
  • 洪秀全は「上帝教」という宗教を興し、太平天国の乱を起こすことになる
  • 1864年6月に洪秀全は天京で死去し、1868年に太平天国の乱は鎮圧された

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